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明治時代都会などには西洋の文化が入ってきて江戸時代と比べて生活が急変したと思いますが田舎などでは江戸時代と比べてどれぐらい生活状況が変化したのですか?

A 回答 (4件)

田舎の百姓のせがれです。


現代の人から見たら、ほとんど暮らしぶりは変わっていないでしょう。
大きく変わったのは、戦後の高度成長時代に入って、兼業農家が増えたころからです。
それ以前は、茅葺き屋根の大きな家で玄関の土間で馬を飼っていましたし、居間に囲炉裏があって、そこで煮炊きもしていました。
祖父、祖母、父、母、子供達に小姑という大家族が普通ですし、明治20年代生まれの祖父、祖母は江戸時代のころと変わらない和服で通していました。
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ほとんど変わってません 西洋文化の影響はほぼ都市部のみでした

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農村部には西洋の文化は入ってきません。

地租改正によって年貢が地租に変わり、納税が厳しくなっただけです。江戸時代は村単位に年貢が課されていたので村の成員が農作業を助け合っていました。脱落者を出すと他の村民の年貢が重くなってしまうからです。自分だけが米が収穫できても、他の村民がそうでなければ年貢を納められない。それが地租改正で納税が個人単位になると誰もが自分だけが収穫できれば良いと考えるようになってしまった。弱肉強食の争いになりました。また米の価格変動リスクも農民が負ったので豊作で米の価格が下がると、より多くの収穫量を納税に充てる必要が生まれました。個人の能力の違いによって貧富の格差が増大することになったのです。自立能力の足りない農民は、納税資金に不足し土地を担保に高利貸しから借金するようになり、果ては土地を借金の方に奪われ小作人に転落してしまいました。明治時代は都市部と農村部の格差が広がり、個人の格差が拡大した時代でもありました。一握りの地主が土地を増やして、何千人もの小作人を使う大地主になり、土地を失った農民は小作人になった。都市部でも個人の格差が広がり、成功者は鉄道成金、政商、銀行家、高級官僚にのし上がったが、下は帝都三大貧民窟で蠢く細民となった。文明開化・殖産興業・富国強兵というのは一部だけの話です。教科書が教えているのは大嘘です。農村部は実際には「おしん」だったのです。

一つ例を挙げましょう。都市部では明治の初めから街灯がともり、電線が引かれた。東京電力の前身が東京電燈であったように当時の電力はもっぱら電燈に使われた。しかし電化したのは都市部だけです。人口密度の小さい農村部では電力会社が進出しなくて何も江戸時代と変わらなかったのです。農村部が電化したのは昭和になってからです。電力会社が電線を引いてくれないなら自分たちで引こうと村人たちが組合を作って電柱を建てたのです。

明治になって都会では道路が拡張されて、舗装されることになった。しかし農村ではせいぜい砂利道になっただけ。

公共インフラではなはだしい地域格差があったのです。
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 明治時代は変化の激しい時代なので、大まかにひとくくりすることは難しいと思います。



 しかし、農村生活に関する限り、基本的には江戸時代の延長だといえそうです。たとえば、明治初期と末期における全就業人口に占める農業の割合は72%から65%に、GDPの割合は44%から37%へと低下しましたが、急激な変化というほどのことでもなさそうです。

 なによりも、農家戸数が550万戸のままほとんど動いていないことが、安定した農村生活の何よりの証拠だと思われます。変わらなかった第一の理由は、日本固有の「家」制度にあると考えられます。近代的な均等相続制度では、農地の細分化、流動化は避けられず、小農経営の持続性は失われがちです。

 日本の場合、経営耕地面積は小規模ですが、長男が農地を相続する制度のため、土地だけでなく、親世代まで蓄積された資本や技術、あるいは経営知識までそっくりそのまま次世代に継承されることになります。その代り、二三男はそれなりの教育を受け、都市に産業労働者として流出する仕組みです。

 これに対し東アジア、さらにヨーロッパでは一般に分割相続が普通で、世代交代ごとに土地財産は分割され、経営ノウハウも分散、断絶することになります。

 第2に、名望家や在地地主を頂点とするムラ共同体の役割があります。農家の間に強い信頼と互助の関係が結ばれ、生産や生活の基盤を形成していました。この関係は、良好な地主小作関係の維持発展にも役立ったようです。小作人というと、強欲な地主のもとで搾取されるというイメージがありますが、実は自作農と小作農のあいだに平均耕地面積や収穫量の違いはなく、小作だから貧しい、収奪されているというイメージは統計的には裏付けがありません。

 しかし、明治後期(日露戦争以後)になると、事態は大きく変わります。まず』産業革命が進行して、都市農村格差が拡大します。さらに巨額の軍事費を賄うために大増税が行われました。このため、農村の窮乏化が顕著になり、小作争議も頻発するおうになります。

 明治45年に刊行された長塚節の長編小説『土』の序文で、夏目漱石は「土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活」の「最も獣類に接近した部分を精細に直叙したもの」を一度は胸の底の抱きしめるよう勧めています。しかし、これが明治時代の農民生活のすべてだと受け取ることは間違いではないでしょうか。
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