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削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。

それで、改めて質問します。

神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。
あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。
よければ、その理論をお教えください。

そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。

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神の存在を証明できるか?

   「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。

   (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。
   (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。

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(1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。

   例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。

   同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。

     このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。

   では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。

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(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)

   上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?

   私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。

   もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。

   では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。

   まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。

   また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。

   では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。

   あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。

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(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)


   人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。

   例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。

   重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。

   にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。

   では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。

   それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。

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結論

   被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、
   (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、

   さらに、(1)に基づいて、
   (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、

   ということが推理できる、または証明できるのです。

   しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。

   ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。

A 回答 (57件中11~20件)

ここ数日間、大変楽しませて頂きました。


ありがとうございました。

こうやって素直になれるのは、あなたの冷静で、慈愛にあふれた誠実な態度のお陰だと思います。
私は、かなり強烈にあなたを批判したつもりですが、それに対して、真摯な態度でご返答頂いた事に対し、非常な感銘を受けました。(元々、私が、素直な性格なのもありますが。^^)

但し、あなたの神の証明には、かなり穴があると、直観しているのは撤回しません。
証明そのものには穴がありますが、その目指すところは正しいと、もう一方では直観しています。

悪魔に取り込まれるのは、傲慢と独善に支配されている人です。
どんな宗教でも、本当の悟りを得る人は、悪魔の誘惑に遭遇し、それをはねのけた人だけです。

やれ、おまえは、キリストの生まれ変わりである、仏陀の生まれ変わりである、世界の王である、そんな嘘をあなたの言う悪魔はささやきかけます。
それは、悪魔であるとあなたは考えて居るようですが、私は、自分自身の内に存在する、欲望であると考えて居ます。

それを撥ねつけるには、論理もありますが、謙虚な心と、自分自身の欲望を見抜く直観力が必要だと思います。
その欲望に負けてしまった宗教者が、半端な超常能力を利用して、盲信者達を食い物にしているのだと思います。
そんな宗教者は、、悪魔そのものです。

私は宗教者などを目指しているわけではありませんし、なりたいとも思いません。
ただ、自分が幸せになりたいと思っているだけです。
その幸せとは、金や名誉では無く、幸せを感じる心そのものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

本当に何度もご回答頂きありがとうございました。こちらの方こそ、大変参考になりました。

それでも、私の論理には穴があるとの率直なご意見でしたが、それがどうして正しいと言えるのかを説明できるようになるなら、nungさんはさらにバージョンアップできることでしょう。

以前にも述べたように、この説明するという能力は家庭内でも職場内でもあらゆる人間関係で必要とされるからです。これはコミュニケーション力ということですね。きっと役立ちますから、是非訓練してみてください。



左脳派の私として、そのコツはこうであると考えています。つまり、何事も「なぜ? どのようにして?」と考えるくせをつけるということです。お仕事の関係上、いろんな機械類を扱うのだと思いますが、この機械はなぜこういう作業ができるのだろう、どういう仕組みになっているのだろうなどと考えたことはないでしょうか。関心の高い人の場合、マニュアルを読むだけに留まらず、実際にその機械を分解してみるかもしれません。

この「分解」というのは、他の物事にも通じるものがあり、つまり物事を「分析」するということです。特に、人間関係において、例えばある人が会ったとたんに怒ってきたとします。すると、「この人はなぜ今こういうことを言うのだろう」と考えるでしょう。そして、表情を観察したり、声の調子やしぐさなどを分析します。そして、きっと、その人は自分と会う前に何か腹の立つ出来事があったのだろうと結論するかもしれません。

そうすれば、「何か嫌なことでもあったのかい? いつもの君とは違うじゃないか」とやさしく声をかけることができるでしょう。何も分析も考えもせずに、その怒りを単なる自分に対する攻撃とみなすなら、そのような対応はできず、かえって火に油を注ぐような言葉を発することになるかもしれません。

まとめると、何事も「なぜ? どのように? 分析、分析」ということです。そして、その答えを得る時、つまり新しい発見がある時、それは思いがけない喜びとなるのです。きっと、左脳派の人たちはその味をしめているのでしょう。nungさんもその味を味わってみるのはいかがですか。もしまだでしたら。



それから、悪魔は現実の存在だと言い得る根拠の一つとして、実際に人間の力を超えた力を発揮する霊能力者や超常現象が観察されていることを挙げておきます。もし悪魔が単なる人間の内面的なものであるなら、そのような超人間的な力の源を説明できません。

また、悪魔の傾向として誘惑したり、だましたりするだけでなく、圧力をもかけてきます。例えば、正義の道を貫いて苦しい目を見るか、それとも妥協して身の安全を守るかという究極の選択を強いるかもしれません。つまり、悪魔は人を苦しみに遭わせ(つまり拷問ですね)、妥協させて正義の道から脱落、堕落させようと試みます。ですから、悪魔に勝利するには、たとえ自分に不都合な場合でも、苦しみを受けるとしても、正義の道を貫き通すという覚悟と実際の行動が求められます。私は神からの力と支えなしにこの超人間的な敵に勝利することはできないと考えています。


ところで、おもしろい質問があったので、http://okwave.jp/qa/q7550122.htmlのNo.13で回答しました。よかったら、見てみてください。

お礼日時:2012/06/24 12:07

 No.46をもって 投稿を終えます。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/22 17:35

 ひとこと お答えします。



 ★(No.45お礼欄) ~~~
   >根拠は? ありません。 神は 無根拠なのです。

 うーん、根拠はないのに、なぜ神を定義できるのでしょうか??
 ・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《かみ》という言葉があるからです。
 じんるいのどの言語でも 持たれています。
 
 この言葉をどう扱うか。そこから来ています。
 《想定》による定義をしないとすれば あとは《この神という言葉は 死語である》という解をあたえることくらいしかないでしょう。


 それに 《無根拠》という根拠は じつは あるのですよ。どうでしょう? (話を引き延ばすようですが)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

うーん、そうですか。多分、bragelonneさんもNo.30のnungさんと同じタイプの方なのでしょうね、多分。

それで、よければ、私のnungさんとのやりとりを見ていただきたいのですが、もし思うところがあれば参考にしてください。

No.30、32、(37、38)、39、42です。特に39ろ42のお礼の部分は是非参照してみてください。多分、bragelonneさんにも当てはまるかと思います。

お礼日時:2012/06/22 16:36

 ★(No.43お礼欄) ~~~


 ところで、先回私が示した以下の質問はどうなりましたか。

 「しかし、bragelonneさんは「神」という存在は経験世界、現実世界とは別物というふうに考えているわけですね。しかし、その根拠とは?? なぜ神だけが特別で、経験世界、現実世界とは全く関係のないものとみなされるのでしょうか。その根拠とは??」

 そこが根本的な部分だと考えますが。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すでにじゅうぶん答えていますので もし理解出来ないということでしたら 次のおぎないを添えて これまでとします。






 ★ 根拠とは?
 ☆ 《想定する》という定義の仕方であるゆえ 言うならば《無根拠》ですよ。

 非経験の場として想定した神は 概念として捉えるならば 《絶対》であり《無限》です。
 無限は その半分や三分の一が やはり無限であるというしろものです。そういう想定による定義です。
 根拠は? ありません。
 神は 無根拠なのです。




 そう定義した上では その神は おそらくこの経験世界に自由自在に関係しているでしょう。ただしその関係の仕方は あくまで一人ひとりの心の内においてです。すべて主観の問題になります。

 主観の中の神について 互いにその〔仮りの〕表現を得て話し合うことは あり得ます。《いわしのあたま》という名をもって呼ぶことも自由です。

 良心・信教の自由において おのれの神を伝えることまでは 表現の自由の範囲に入ると見なされているようです。



 《仮りの表現》とは たとえば神を《愛》と呼んだり あるいはまさにここでの《創造主》と呼ぶような場合です。
 ところが――もうお分かりだと思いますが―― この《愛》や《慈悲》やあるいは《物質》やさらにあるいは《創造主》 こういった概念ないし〔じつは経験事象を超えた場を経験の言葉で表わしたものであるゆえただの〕観念を 神だとすることは ゆるされません。
 まして この《観念の神》をかかげて 組織を 信仰にもとづくものとして 形成することは これも ゆるされません。宗教は 人間の自由にもとります。
 《信仰における・つまり主観の内の神》が 外に出てしまって《死んだ神》となるからです。

 観念の神は その初めから死んでいますが わざわざあとで《神は死んだ》と言わねばならないほど 人びとのあたまの中は その外に出てひからびた神〔の幽霊〕が巣食っていたということのようです。

 じつは もちろん 《神》という言葉も 仮りに《かみ》を表わす表現であり その文字も発音も むろん《かみ》のことではありません。それと同じように 《創造主》も 神ではありません。
 神は愛なりとか 慈悲なりとか あるいは 創造主であると表現して説明することまでは 自由です。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>根拠は? ありません。 神は 無根拠なのです。

うーん、根拠はないのに、なぜ神を定義できるのでしょうか?? そうなるともう、「神は想定(想像上のもの?)である」というふうにbragelonneさんがただ思っているだけ、というふうにみなされると思います。もちろん、bragelonneさんがそのように考え、信じることに反対はしませんが。

お礼日時:2012/06/22 15:28

#41の続きです。



実は、私の見解もが#40の方からの回答と同一のベクトルを志向しております。

『絶対無』との関係性を考えてみましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。 

是非、「絶対無」についての詳しい解説を知りたいです。調べましたが、いまいちぴんとこなかったので。

お礼日時:2012/06/22 09:21

 ★(No.40お礼欄) それに、私の証明はその証明過程に「神」が出てくるわけではなく、最終的な結論として神、つまり高い知性の存在を示唆したに過ぎません。


 ☆ その《示唆》によって《証明》されたのは その推理が いちおう妥当であるということであり それだけです。

 ★ ですから、私が質問欄で示した証明には何ら宗教的な要素はありません。
 ☆ 集団にとっての――そして個人にとってはただの心理としての――《宗教的な要素》は関係ありません。個人的な《信仰》の問題はからんでいるとは言っています。それが 神の問題なのですから。

 ★ それで、まずはその証明に不備がないかどうかを検証すべきだと思います。(他の回答者さんがすでにしていますが。)
 ☆ 最初に触れた《示唆》による《証明》ということです。


 ★ そして、それに不備がなければ、その結論を新たな事実としてまた現実の物事としてとらえることが可能であると考えます。 
 ☆ この最後の一文の妥当性を問うています。それが 《神》にかんする話であるからです。
 すなわち 推理によって導かれた存在を――つまり その言葉ないし概念として頭の中にある《高度な知性》を―― 神と呼ぶ。こう言っているということまでなのですから それに不備がなければ その認識としての事実までは 妥当だいうことになります。

 しかも そこからどうして《神》の存在にかかわる《現実の物事として捉え得る》のでしょう?


 ★ それに不備がなければ、その結論を新たな事実としてまた〔神の存在にかんする〕現実の物事としてとらえることが可能であると考えます。 
 ☆ この判断が妥当でありうるのは 経験事物である場合に限られます。
 たとえば雷(つまり神鳴り)だとか狼(大神)だとかあるいは女将(お神)というような神であれば それらは経験事物ですから 検証が出来ますし 妥当だとなります。つまりそういう場合に限られます。(高度な知性かどうかは 別としなければならないでしょうが)。
 
 ピラミッドを設計し造ったのは 人間であると捉えてマチガイではないでしょうから そういう場合にはあなたの《推理》ないし《証明》が出来ていると言ってよいのでしょう。

 神という設計者かつ創造者については 話がまるで違いますよと言っています。

 《示唆》ではなく 《論理の飛躍》ですよという意味です。
 
 
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

ところで、先回私が示した以下の質問はどうなりましたか。

「しかし、bragelonneさんは「神」という存在は経験世界、現実世界とは別物というふうに考えているわけですね。しかし、その根拠とは?? なぜ神だけが特別で、経験世界、現実世界とは全く関係のないものとみなされるのでしょうか。その根拠とは??」

そこが根本的な部分だと考えますが。

お礼日時:2012/06/22 09:14

No.39です。

丁寧なお礼ありがとうございます。

>何事かを正しいか間違っているかを検証するにはどうしてもそのような論理的な過程が必要であり、それを言葉にして説明するということが必要なのです。是非、「効き脳」ではない左脳の方も使って論理的な思考を訓練してみるのはいかがですか。


なるほどです。
確かに、言語による論理展開は、私は苦手のようです。
口べたで、議論には負けるのです。

本題から離れてしまったので、この点は、これで結構です。
自分の欠点を改めて思い出しました。
言語による論理展開を避けて、逃げていたようですね。

教えて頂き、ありがとうございました。

しかし、悔しいので、少しだけ。
私は職業は、エンジニアで、機械設計、電気設計、シーケンスプログラミング、機械の修理、等を行っています。
また、趣味は、囲碁七段格、コンピュータプログラミング等です。
どちらかと言えば、論理的な内容だと思います。但し、ビジュアル系に強いようですが。

そして、機械の修理には、不具合の原因を短時間で見つけ出す直感力と洞察力が必要です。
私はその直感に、自信と実績を持っています。
それは、スポーツにおける反射とは、また別の分野であり、潜在意識で行われる、高速な論理回路だと考えて居ます。
ところが、その直感や洞察の内容には、言語によるシーケンスは介在していません。
言葉ではなく、イメージによる論理展開なのだと思います。
だから私は、言葉による議論には負けるのです。
(これはまさに、あなたがおっしゃるとおり、右脳が働いていますね。)

私は、神の存在を証明したいとはあまり思いませんが、神の存在を自分自身で感知したいとは思います。
仮に言葉で神の存在を証明したとしても、神を感知できるとは全く思えません。
それよりも、心をクリアにして直観を磨く方が、神の存在に近づけると思います。
逆に、神の存在を証明した結果、可能になるのは、布教活動を円滑化し、盲信者を増やすくらいではないですか?

「人間は何の為に生きるのか」という命題に対して、神の証明よりも、神を感知する事の方が、より答えに近づけると、私は考えます。
また、神の証明より、神の感知の方が、実現の可能性が高いと私は考えます。(また直観ですが。)
万一、大多数の人間が、神を感知できるようになれば、それこそ、神の存在の証明になりませんか?
そうなれば、そもそも証明など必要無いのです。
逆に、神の感知無くして、神の存在証明はできないのではないでしょうか。

だから、言葉と理論で証明をするのは、「めんどくさい」し、やりたくないのです。(「その能力が無い」を追加します。)

こうやって書いてみると、あなたと私は、目的は同じだが、アプローチの方法が違うだけのような気がしてきました。

以上、言い訳でした。
本題と関係無い話ばかりで、済みません。
皆さんの中で、論旨を外れているのは、私だけですね。ごめんなさい。

お礼の内容は、面白かったです。勉強になりました。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

「>囲碁七段格」とのこと。なるほど、やっぱり、という感じですね。囲碁ではありませんが、将棋の名人はイメージ力がすごいと思ったことがありました。目隠しをして、同時に4人を相手に将棋ができるんです。彼らの頭のイメージの中には将棋板があってそれを使っているわけですね。彼らの右脳力はすごいと思います。

一方、私はそのイメージ力がいまいちありません。ぱっと見て目を閉じてその残像が頭の中に残らないのです。ずいぶん、訓練したのですけど。また、電話番号などの数字を覚える時、どのように覚えますか。私は「いち、に、の、さん、さん、ろく、ろく」みたいに発音にして覚えるタイプです。でも、イメージ力の強い人は「12-3366」というそのままの形を写真で撮ったのと同じように頭に焼き付けることができるみたいです。

このように、発音を「聞く」方が得意な人と、イメージを「見る」方が得意な人がいるようですね。ですから、人は自分とは違う思考パターンを持ち得るということに気づいた時に、相手の気持ちや考えを少しは理解できるようになれたと思っています。まだまだ途上ですけど。

私は、人間社会の中で、そのような様々なタイプの人がいてよいと考えます。いや、むしろ、その方が世の中は豊かになるでしょう。適材適所があってそれぞれが花を咲かせることのできる持ち場を見つけることができれば幸せなことです。

それから、「神を感知する」という点ですが、人間を越えた超人間的存在が神以外にもいると私は考えています。それは、天使とか悪魔という存在です。特に悪魔、また悪霊についてはそれを示唆する事例がかなりあり、超常現象の何割かはおそらくそのような存在が原因なのかもしれません。

聖書も悪魔について述べていますが、彼らの性質はまず、うそをつきます。しかも、彼らは知能が高く、容易に人間を欺きます。あのエデンの園で蛇が女をだまして禁断の実を食べさせたことを知っていると思いますが、あの蛇を影で動かしていたのは悪魔サタンであると言われています。

聖書はそのような悪霊による「霊感の表現」があることを示しており、ある時には「光の使いに変容して」現われます。また、時として悪霊は人間に取り付くことがあり、取り付かれた人は狂人になる場合もありますが、また神通力のような特別な能力を発揮するようになることもあります。

ですから、霊感もまがいものが多くあり、神を感知しようとする際、間違いなく悪霊による攻撃や誘惑があるのです。彼らの企みを見抜くためには、何が善で何が悪かを見極めるための識別力が必要です。その識別力には今までも述べたように、どうしてそれが正しいと言えるのか、その理由は何かなどといった論理的な思考が必要なのです。

以上、後半の方は聖書の内容を簡単に述べたようなもので、それに関する何の証明も示しませんでしたが、具体的な事例を経験されているとのことでしたので、思い当たることがありましたら、是非参考にしてください。

お礼日時:2012/06/22 09:08

#27の続きです。



創造主が単一化されていないと社会が構成され得ない、
と考えさせ得る根拠が見付かり得ないだろう、
と申し上げております。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

なるほど、神による創造があり得るとしても、創造者は一人とは限らないというご見解ですね。ということは、人間を含む生物が高い知性(単一か複数かはまた別として)によって設計・制作されたという私の見解にはとりあえずご納得いただいたということでしょうか。

今回は神はいるかいないかという単に存在についての証明でしたが、その神が具体的にどのような方(単数か複数かも含めて)で、どのような考えを持っているかということはまた別に考えるべき必要がありますね。聖書は確かに神の性格や目的について記した本であると私は考えていますが。

お礼日時:2012/06/21 15:28

 ★(No.31お礼欄) 要約すると、「事実に基づいて推理して達した結論は現実のものとみなせる」ということでした。


 ☆ ピラミッドや神殿を設計し造った人びととその文明生活があったと推測することは たやすいことです。現代での身の周りの社会生活から類推し得ます。
 
 ただし その推理が示す現実はすべて 経験世界のものごとです。

 ですから 神は 経験世界に属しているのですか? と問うています。

 現代では さすがに身を現わすことはないが その昔 人間や世界を造ったときには 設計士として制作者としてその現(うつ)つの身において神も現われたのだということでしょうか?


 その身において現われたのでなかったならば すべては 頭のなかの――そう言いたければ――現実です。
 あたまの中の現実を推理し証明したということです。
 その頭の現実には 《神という言葉ないし概念》も入っていますが 《神》が入っているわけではないでしょう。
 ほんとうに あなたの頭の中に《神》が入っているとしたら 古代文明のように現実に見えるかたちが推理されるということですから その場合は神は 或る程度真剣に検証し考えてみなければならないでしょう。



 


 ですから この経験世界とそして〔想定としての〕非経験の場との違いを どう捉えていましょうか? という問いにもなります。






 ★ ある事柄を正しいと主張するからにはその根拠を示す必要があるということです。
 ☆ ですから 神は 《想定としての問題》であると言っています。ちゃんと読んで反論しましょう。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>ですから この経験世界とそして〔想定としての〕非経験の場との違いを どう捉えていましょうか? という問いにもなります。・・・ですから 神は 《想定としての問題》であると言っています。

まさに、このあたりが見解の分かれる根本原因と言えるでしょう。もちろん、互いにそれぞれの見解を持っていることはそれでよいと私は考えていますが。

しかし、bragelonneさんは「神」という存在は経験世界、現実世界とは別物というふうに考えているわけですね。しかし、その根拠とは?? なぜ神だけが特別で、経験世界、現実世界とは全く関係のないものとみなされるのでしょうか。その根拠とは??

それに、私の証明はその証明過程に「神」が出てくるわけではなく、最終的な結論として神、つまり高い知性の存在を示唆したに過ぎません。ですから、私が質問欄で示した証明には何ら宗教的な要素はありません。それで、まずはその証明に不備がないかどうかを検証すべきだと思います。(他の回答者さんがすでにしていますが。)そして、それに不備がなければ、その結論を新たな事実としてまた現実の物事としてとらえることが可能であると考えます。

お礼日時:2012/06/21 15:18

No.38です。



宗教を盲信するほど、直観による悟りが阻害される。

何とも皮肉な事です。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。まとめてお礼させていただきます。

直感というのは、繰り返しある事柄を行なっているうちにそれを思考するプロセスを介せずに結論を引き出せるようになることというふうに以前聞いたことがありました。例えば、野球のバッティングなどがそうです。バットを振って、「これは違う、これも違う・・・」と繰り返しているうちに、時々「あっ、これだ!」という場面に出くわすものです。そして、そういう過程を繰り返しているうちに、体が「これだ!」というふうに分かっくるようです。野球のバッティングやあるいはテニスなどのように瞬発的に反応しなければならないものの場合、反応するのにいちいち「あっ、あっちからボールが来たけど、どうしよう」と思考していると時間のロスになってしまい、球が通り過ぎてしまうので、即座に条件反射的につまり「直感」によって反応する必要があるのだそうです。

その直感には右脳が関係しているとのこと。右脳は芸術や音楽などを司り、左脳は計算や思考を司っています。プロのテニスプレーヤーなどは試合中は右脳モードになっていているのだそうです。私も視野を広くする訓練をしたことがあったのですが、その際、右脳モードというのがどういうものがか大体分かったような気がしました。お陰で音ゲームが少しうまくなりました。

それで、直感というのも確かにあるのだと思います。どちらかと言えば右脳人間と呼ばれる人々がそういう考えのようですね。例えば、ジャイアンツの長嶋選手(元監督)みたいな人でしょうか。一方、左脳人間もいて、それらの人々は理論で物事をとらえるのが得意です。女子バレーの柳本監督などは分析が徹底していたようですね。しかし、右脳派の人々がある道を極めた場合、その人々は繰り返された訓練によって体でそれを条件反射的に体得したのであり、それを言葉として説明することは困難なようです。

つまり、昔、剣術などの師範が「とにかくやれ!」としか言わない場合、多分その師範は繰り返し練習しているうちにコツを体得していった右脳派だったのでしょう。彼らは言葉にしてそのコツを説明することができません。しかし、柔道の創始者である加納治五郎などのような論理派は、分析した結果、古武術のコツには人体力学が関係しており、これこれこういう理屈で相手を制することができる、と言葉にして説明することができました。加納治五郎の場合、彼は左脳派だったのでしょう。

以上の点は脳神経学とかスポーツ科学などの分野の話でしたが、私は専門家ではないので全部正確ではないかもしれません。その真偽はご自分で確認してください。しかし、一つ言えるのは、確かに右脳派、左脳派で考えに違いがあり、右脳派は感じ取る人、左脳派は考え取る人ということでした。それで、私の評価ではnungさんは右脳派の方かと。しかし、人間は右脳だけとか左脳だけを使って生活しているわけではなく、ただそのどちらが「効き脳」なのかというだけのことです。ですから、やはり両脳とも使うことが必要です。

それで、右脳派のnungさんとしては、私が求めたような論理的な考え方には馴染みが持てないという意味も分かるような気がします。しかし、何事かを正しいか間違っているかを検証するにはどうしてもそのような論理的な過程が必要であり、それを言葉にして説明するということが必要なのです。是非、「効き脳」ではない左脳の方も使って論理的な思考を訓練してみるのはいかがですか。

お礼日時:2012/06/21 12:36

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