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古今東西、本当に学説は多方面から様々で、感情に対する定義も違いますが、
例えば怒りについて、かねがね思ってきたことがあります。

怒りのコントロールの方法は、心理、脳、哲学から宗教まで、様々な考え方や方法論がありますが、そのどれが(私にとって)ベストなのか、悩むのです。

それはスピリチュアル的なことで、自分を律すれば、心理的な方面でその分抑圧されないか?ということです。

怒ることがおきます。頭では例えば「相手を許すこと」「他人の怒りに乗れば同じ土俵」「暴言は自分に返ってくる」などのスタンダードで、かつ高尚な考え方を頭にのぼられせます。
しかし、一方では(心理学を学んでいることもあり)、「心の病は怒りが根源である」「怒りは言語化しないとならない」というかつて聞いたことが頭にのぼってきます。そうなると、一方的な他者の不条理な怒りを、単に受け止めているだけでは、抑圧され、心身にとってよくありません。

絶対に聖人にはなれませんが、それでもやはり、自分にも、相手にとってもよりよい方法で自他の怒りをコントロールできないか?と思うのです。
このような葛藤もまたよくないのですが…

いろいろな意見をおきかせください。

A 回答 (18件中1~10件)

>そうなると、一方的な他者の不条理な怒りを、単に受け止めているだけでは、抑圧され、心身にとってよくありません。



まあそうでしょうな。

>自分にも、相手にとってもよりよい方法で自他の怒りをコントロールできないか?

 それは100%は無理です。「自他共に不条理でない欲とはなにか」と聞かれたことありますが相手の心情などに左右される事がしばしばですので相手の心情がどのような心情か?前後関係は?その人の性格は?遺伝的な性質は?等々すべて理解しないかぎり100%は無理です。あえて答えを出すならその怒りの元になる情報、怒りの元になる脳もしくはシステム&脳内分泌物質をすべて取り除く。これが解決になります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それは100%は無理です。

確かにそうですので、「よりよい」と付記しましたが…。

お礼日時:2012/07/16 08:03

どうすればいいのかと迷った時は、本当は何をどうしたいのかと自分自身に尋ねてみると良いですよ。

スピリチュアル的な言い方をすると、感情とか思考などを極力客体化し、観照者に徹する事でベストの答えを導き出す、みたいな感じになるのかな。

本来、問題解決の方法に高尚も低俗も無く、その方法で上手く行くか、いかないかという、それだけの話の筈なんです。だって、愛し、許し、受け入れるのがベストの選択である場合もあれば、心底から憎悪し、我が身を顧みず吠え狂うのがベストの場合だってあるんですから。

その場、その場で出てくるものが、本来はベストの選択である筈なんです。だけど、それを狂わせるものがある。そしてそれは外から来るものではなく、内に潜むものであるからこそ、自己に打ち勝つ事が真の勝利であると言われているんです。

人は小手先の技術で生きるにあらず。感情の波に翻弄される事なく、コントロールなどと言うケチ臭い手法にもとらわれず、自分という「軸」を信頼して、超然と事にあたってみて下さい。
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この回答へのお礼

>問題解決の方法に高尚も低俗も無く

なるほどです。ひとつ学びました。

観照とは「主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めること。静かな心で対象に向かい、その本質をとらえること。」とありますが、怒ってるときは静観することはできませんし、「本当は何をどうしたいのか」と自分に訊くのも本当の自分を探すのと同じくらい難しいことですが、客観視は、冷静な感情を伴うのは、日ごろから感じてますが、ただ気持ちを抑えることなく、なぜこの刺激で怒りの感情が刺激されるのかを考えないと、抑圧になってしまうと思われるのです。

外の現象は自分の心の中を反映したもの…とはまったく同感ですし、実感もしていますが、相対的なものに惑わされることない絶対的にブレない自分、になるのは、なかなか難しいものですが、感情におぼれて地獄をみるよりは、悟りを開いた気持ちにでもなった方がどれだけ心身によいか…

分かってるのですが、なかなか具体的な方法が分かりません。

お礼日時:2012/07/16 09:02

 園子温監督の映画 「ヒミズ」は設定はひどいですが、あの主人公の男の子の態度、強い相手、暴力的な相手にも「うるせえ、死ね、ボケ」といえる強さは、参考になるような気がしました。

いじめが大問題になっていますが、対処法としていわれる「強くなれ」とは、腕力をつけろというより、芯を持てということだとすると、芯を持つとはどういうことなのか?

 こんな時代、おとなしいだけの優等生では、やはり学校でも社会でも、一人で生きていく上でとても生きづらくなっているような気がします。自我が育つときに、社会性を全く保ったまま自我が育つことがありうるのか?だとすると、ある時期の怒りのような反社会性は、逆に生きる上で必要なのではないか?そして芯の弱い子というのは、この反社会性を、がんじがらめに縛られていて出せない子のことのように思います。誰に縛られているかを考えると、あまり学校、学校ばかりは言えない気もしますが、逆に社会的学校でそれを育てられないかどうか?生きる上での何らかの武器は確かに必要な気がしますが、怒りは重要な鉄砲玉じゃあないですか?
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この回答へのお礼

異議があります。

>おとなしいだけの優等生では

おとなしいというのは個性です。人と違う目立つ個性があるからといって、暴力の対象になるのは不条理です。

あの子は殺されたわけです。「いじめ」という言い方ではなく立派な犯罪です。それを隠ぺいするのも犯罪教唆で、同じことです。隠ぺいをおかしいと言っている他の子供たちの方が「まとも」です。こんな社会だったら生きているのが嫌になると思う方が「健全」です。

>芯の弱い子というのは、この反社会性を、がんじがらめに縛られていて出せない子のことのように思います。

弱さが、反社会性の犠牲になるいわれはありません。
犯罪から身を守ることすらかなわない女性や子供、年寄りはどうすればよいのでしょう?
また復讐という悪循環になれば、それは犯罪者と同じレベルに陥るわけです。
回答者様の考え方は少々危険なものを感じさせられます。



>怒りのような反社会性は、逆に生きる上で必要なのではないか?

反社会性は、犯罪的なので、反骨精神といった方が適切かと思われます。
これは本当に必要なことでこのような腐敗した政治や社会、原発や災害、教育などの世界の不条理に疑義を持ち続けることは必須なはずなのに、この日本はあまりにも無関心、自分以外のことへの興味がなさすぎます。(デモに参加した自分への満足で足りてるだけなら本当は何も変わらないです)

怒りはエネルギーにもなることは、私も分かっていますが、負のエネルギーは確かに自分を消耗させるんですよ。

お礼日時:2012/07/16 09:40

 こんにちは。



 何故怒っているか。これを見究めることではないですか。
 怒りをどうしようかは まったく問うことはありません。

 もしそうなら なぜ怒りが起こるのか。これについて考えることがよいでしょう。

 なぜ怒っているのかが分かれば おのづから解き方が見出されましょう。問題が分かったのですから。




 ぎゃくに言えば なぜ怒りをコントロールするのでしょう? なぜ しなければなりませんか?

 なぜ 道徳や宗教の倫理規範に従わねばならないのでしょう? 公憤というものがいっさいないとでも思っていましょうか。
 なぜ心理学にせよ哲学にせよ その心的現象についての認識を得たただそれだけで 何か問題が解決すると思うのでしょう? 認識したままに行動すれば 問題のしかるべき解き方に成るとお思いでしょうか?
 
 問題は 何なのでしょう?
 それも明らかにしないで いったい何を人は求めて行動しましょうや。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>何故怒っているか。これを見究めることではないですか。

私もそれがベストではないかなと思ってます。

感情というのは結果論であると思いました。
過去に怒り、傷ついた気持ちがそのまま解消されないで古傷となっていたものが、当時と同じ場面や状況で刺激され、怒りの渦中にいてさえ、そのようにふと、気が付きました。

>なぜ 道徳や宗教の倫理規範に従わねばならないのでしょう?

従わねばならないという気持ちはありません。先人のだした答えに納得するからです。
科学的な怒りの対処の仕方で、どうしてもどうしても答えがでない場合に、より強い精神論の方がすとんとくるものがあります。
また、宗教という領域内で、誰それが言ったかということは関係ありません。名も知られてない誰かの言葉でも、それ自体が光っていれば、それはブッダの言葉よりもありがたいものです。

>問題は 何なのでしょう?

問題が何であるかわかってます。
しかし怒りという結果論だけをみて、原因と向き合ってません。なぜならば古い感情や書き換えが不可能な過去と向き合うのが怖いからです。

しかし、どのフィールドで言われていることも、素晴らしいので、どれを選ぶか、選択し実行したところで正しいのか、もし正しくなければそれに費やした時間とエネルギーがもったいないとすら考えてしまいます。

お礼日時:2012/07/16 10:00

「相手を許す」事からスタートしようとするから、無理が生じるのです。


腹が立つのは、相手が自分の思い通りにならない事による=相手への甘えが先入しています。
石につまずいてコケた時に、石に怒る人がいるでしょうか?
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この回答へのお礼

質問には、スタートしようとは書かれてません。相手を許すということも選択肢のひとつだと述べてます。

許すということはある意味、最高の方法だと思いますが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/16 19:42

>確かにそうですので、「よりよい」と付記しましたが…。



だから条件が薄いんですよ。条件が不十分過ぎて、回答不能なんですよ。
例えばね、『利権争いによる紛争について』とか『もし些細な事で自分が怒りが沸いた場合その自分の怒りを静める為には』とか多少なりとも条件を書くものですが書かれていないので答えを書いたところで条件によってパラドックスが発生する可能性がありますよ。
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この回答へのお礼

具体的な問いについて、答えを得たいのではありません。
具体的な方法は世にいくつもあり、取捨選択で迷っているのが質問の趣旨ですが、具体的な悩み相談でしたら、それこそ、質問自体がパラドックスに陥ってしまいます。

ここは哲学カテゴリですので、抽象論でお願いしたいと思います。

お礼日時:2012/07/16 19:44

当為と現実の差が怒りになるんではないですか。



あいつは、俺のモノを盗るべきではなかったのに
盗りやがった。
だから怒りが湧く。
こういう図式ではないですか。

怒りをコントロールする方法ですが、あいつはおれのモノを
盗りやがった、と俺は思っている。
この「俺は思っている」を付加すると、感情が客観化され、沈静化の方向に
向かいます。
女性だったら「私は思っている」ですね。

”自分にも、相手にとってもよりよい方法で自他の怒りをコントロールできないか”
    ↑
ボコボコにしてやれば、自分はすっきりするし、相手は
二度とやらない、と反省するから、双方にとってよい解決方法。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主語をつけることで、感情が客観化されるということですね。
しかし、暴力は、目には目の世界は地獄です。なんの解決にもなりません。私などは自己嫌悪に陥りますし、虚しいというのは、若い頃、ケンカに明け暮れてきた人も言ってました。

お礼日時:2012/07/17 09:56

あなたにどの方法がベストなのかは、他の人には分からないと思います。



なぜならば、知らない人にいきなり「わたしに合う仕事はなんでしょうか?」と
聞かれることと同じだからです。

ご自分でとことん追求して探してみて、出逢えるものではないでしょうか。


心理学を学んでおられるということで、怒りですが、心理学では第二感情だという話しは有名ですよね。
自分の第一感情を知り、それに対して適切なやり方(対処)をすれば
怒りになる前OR怒りが出ても、速攻で無くすことができます。

私も様々なやり方を探して、とことん深めましたが
マズローのいう生理的欲求までたどり着いて対処できるようになったのは心理学でした。

真の自律は、抑圧ではなく解放から来ます。
自分への理解と、自分の過去との和解ですね。

勿論、理論が入りますので哲学も必要ではありましたが。


いづれを選ばれるにせよ、広く学び深く掘り下げることが必要かと思います。
いろいろ試されるといいと思います。
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この回答へのお礼

>私も様々なやり方を探して、とことん深めましたが

そうなのですか…

>真の自律は、抑圧ではなく解放から来ます。

納得です!!

やはり案ずるより実行・・かもしれません。
参考になりました。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/17 10:06

心理学などの難しいことは分かりませんが、一つ言えることは、怒りの原因はダメージだと言うことです。



ダメージがない限り、怒りもありません。
肉体の物理的なダメージは避けることができませんが、心理的なダメージは、自分が自分の心にダメージを許すことによって、初めてダメージが実現します。
心理的なダメージを受け入れるかどうかは、自分で選べると言うことです。

梅干しをイメージしてみてください。
種が自我で、果肉が体面やメンツです。
もし、ダイヤモンドの種を持てれば、自我は絶対に傷つきません。
果肉が傷ついても、種さえ傷つかなければ自分はOKだと確信できれば、やたらと怒る必要はなくなると思います。
仮に体面やメンツが傷ついても、コアとなる自我が傷つくのを絶対に許さないのが、真のプライドだと思います。
そもそも、体面やメンツは、自分の心が作り上げた虚栄であり、そんな物は最初から必要無いのです。
人によっては、嘘をついてまで虚栄の自分を守り通そうとしますが、そんな人はすぐにプライドが傷ついたの何のと騒ぎます。
最初から必要無い物が、どんなに傷ついたとしても、どうでも良いではありませんか。

上記の理屈を考えたあと、親しい友人にダイヤモンドの種を持つ人が、一人いる事に気付きました。
飄々としていますが、とても尊敬できる方です。
そんな風に、自分もなりたいと思います。

但し、自分の愛する人が傷つけられたなら、絶対に怒りを感じるべきです。
そんな怒りは、抑える必要はさらさらありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>怒りの原因はダメージだと言うことです。

なるほど。
感じなければ、怒りの根源にならないということですね。
それは記憶ともいえますね。怒りは記憶と結びついている。

>自分が自分の心にダメージを許す

というのがキーだと思います。
心が繊細で柔軟だと受け入れやすいのか…

魂は傷つかないといわれます。
梅干しの例は自我のことですが、大変納得しました。

ダメージを選べるというのは、斬新な発想だと思います。
やはり私は何によって傷ついてきたのか、刺激因子となるのか、それをじっくり考えるべきだと思いました。

お礼日時:2012/07/17 16:00

 N0.3です。



 >おとなしいというのは個性です。暴力の対象になるのは不条理です。

 おとなしいは無個性です。おとなしいを個性だと思っている本人はいないと思います。不条理でも、いじめ、暴力の対象になりえます。

 >あの子は殺されたわけです。

 あの子は自分の足で14階に上がりました。自分で踏みとどまる機会はありました。

 >こんな社会だったら生きているのが嫌になると思う方が「健全」です。

 じゃあどうやって生きていこうと思っているのか?

 >弱さが反社会の犠牲になるいわれはありません。

 だからいじめが充分反社会的なので、反社会的反撃をしても許されるのでは?

 >反社会性は犯罪的なので、反骨精神といった方が適切

 反骨精神は精神というくらい抽象論的なもので、反社会性は怒りの現実性だと思います。

 いろいろな面で、現実が突きつけてきます。お礼といいながら、異論、怒りを書くのは全然いいのですが、それがやや反社会的だという自覚をもてるかどうかは、まさにこの質問の核心です。

この回答への補足

すみませんが、私にとってここでのお礼というのは、賛成できないすべきではない意見すべて受け入れるものとして扱っておりません。下手に出てお礼をいう欄ではありません。

>自分で踏みとどまる機会はありました。

絶望は死に至る病だという言葉をご存知ですか?
あなた様は絶望をしたことはないのでしょうか?
確かに死を選択したのは、彼ですが、同級生、社会、肉体的精神的・・見えない力が14階まで彼の足を向かわせたと思うことはできないですか?

自己責任という言葉は、非常に冷たさが響きますが、本人の勝手さという考えだとしたら、ちょっと恐ろしいです。

>反社会的反撃をしても許されるのでは?

やられたらやる、やられる前にやるという考え方なのですね。
法に触れることになるとしたら、自分も同じでつかまりますよ。

いじめとケンカは違います。この違いわかりますか?

補足日時:2012/07/17 10:04
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この回答へのお礼

>反骨精神は精神というくらい抽象論的なもので、反社会性は怒りの現実性だと思います。

反骨精神「世の中の不正や、因習などに、果敢に立ち向かって行こうとする気概や心持のこと。」

>反社会性は怒りの現実性だと思います。

怒りが現実味や具体性を帯びるのだとしたら、それは短絡的な方法であって、目先の犯罪に加担し、自他を傷つけるのではなく、長期的、昇華的という意味ですので、怒りの処し方をどうするか、では反骨精神の方が

>精神というくらい抽象論的

といえるかどうかは疑問です。

>おとなしいは無個性です。おとなしいを個性だと思っている本人はいないと思います。

では、人は何か主張をしたり、しゃべらなくては個性といえないというお考えでしょうか。

一方の何かが強くて、いずれが弱くても、強い方が個性であり、個性がないために、いじめの対象になるのでしたら、それこそが不条理です。


>不条理でも、いじめ、暴力の対象になりえます。

いじめはそもそも不条理なことですが、なるほど、(あなた様のような考え方の人が)いじめが発生する要因、または自分も加害者、または傍観者として参加する際に好都合な理屈となりえるのだなあと感じました。

傍観者が増えるといじめはさらにエスカレートするといいます。
加害者が少数でも、見て見ぬふりする中に、このような考えの人がいれば、もう社会は絶望的ですね。
もっともそういう人間の方が多いのが現実ですが。
つまり、あなた様のフィルターを通してみる「現実」なのでいじめが存在するのも仕方ないということでしょうか?

私はあらゆるいじめ、排除は、自分の弱さの投影だと思ってます。傍観者は被害者と同じものをみたくない。現実的に、かばえば、自分もやられる。
加害者に投影して、自分の弱さがやりこめられるのをみて、コンプレックスや不平不満を晴らしたいのだと思います。
まあ、他人と自分との個性の違い、いや、それ以前に、自分以外の人間が存在することすら許せないと思えるのであろうあまりにも反社会的加害者が最も「弱い」のですけれど。

お礼日時:2012/07/17 16:47

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