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聖徳太子って事実上蘇我氏の傀儡だった訳ですが、

蘇我氏が悪人となり聖徳太子がヒーローのような扱いになってるのはなぜでしょうか。

そもそも仏経信者なのに名前に「聖」が入ってるのはなぜでしょう?
何かキリスト教っぽい感じもするのですが。

A 回答 (10件)

聖徳の意味を辞書で調べてください。


キリスト教とは無関係です。

蘇我氏を悪、聖徳太子をヒーローと扱っているのは『日本書紀』であり、聖徳太子が傀儡と評価するのは後世の歴史像です。
前者には記述関係者の作為の可能性があり、後者はそのような『日本書紀』の記事を史料批判した結果導き出された推測によるものです。
どちらも絶対的な真実ではありません。
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>一体、歴史学としていつの時代の研究成果を指してこのような珍回答を寄せているのでしょう。



虚構説は江戸時代からありますよ?
しかしなぜか東大教授が、新しい資料を発見したわけでもないのに結論ありきの虚構論を展開すれば何故かそれにいっせいに右へ倣え。

>古事記や日本書紀に記載されているからといって、それらの書物が事実を伝えているとは限りません。これは歴史学を専門とする者からみれば常識の範疇です。

あたりまえです。
だからといって、全てが嘘っぱちだと全否定する事もできません。
不都合な資料は、真実を伝えているとは限らないとして否定するのは浅はかな行為であるといわざるを得ません。


>歴史学は「先ずその史料を疑うこと」から始まります。史料を鵜呑みにすることだけは許容されません。史料に書かれていたからといって、それが「意図的に改竄されいた」「意図的に書き加えられていた」などの可能性を視野に入れない限り(そのために他の史料との整合性を検討する)その史料の価値を認めることにはつながらない

存在を否定するために、その証拠となる資料を否定する事はどうなのでしょうか?
 『書紀』の記事の評価についても『憲法十七条』への批判は、もっぱら津田左右吉氏の旧説そのまんま、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘について、福山敏男氏の説を持ち出して信憑性を否定していますが、通説では推古三十一年(六二三)の撰文ですよね。

まずその資料を疑う事。といいますが、まずはその虚構説を疑う事、またその虚構が何故、存在そのものの否定につながるのかを考えるべきではないでしょうか。
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 >厩戸聡耳皇子=聖徳太子の事で、日本書紀、古事記に出ていますね。


播磨国風土記に聖徳王との記載が、聖徳太子の呼称は天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』からですよ。と言う訳で、平安以前から聖徳太子という呼ばれている事が現在確認されています。

 古事記や日本書紀に記載されているからといって、それらの書物が事実を伝えているとは限りません。これは歴史学を専門とする者からみれば常識の範疇です。
 また『播磨国風土記』に聖徳王の記事が見られるからといって、それが必ずしも「聖徳太子なる人物」を指すとの根拠は何一つとしてありません。
 少なくとも『古事記』が王家の成立に関する伝承を集めたものではあってもそれが史実を語っているとは今現在の古代史の水準からみれば誰も考えてはおりません。『記紀』に至っては律令体制を構築した藤原氏が政権にあることを正当化する目的で編纂されたこともあって、全てを信頼できるとは限らないことも常識です。
 一体、歴史学としていつの時代の研究成果を指してこのような珍回答を寄せているのでしょう。歴史学は「先ずその史料を疑うこと」から始まります。史料を鵜呑みにすることだけは許容されません。史料に書かれていたからといって、それが「意図的に改竄されいた」「意図的に書き加えられていた」などの可能性を視野に入れない限り(そのために他の史料との整合性を検討する)その史料の価値を認めることにはつながらない。
 因みに「聖徳太子」に関する事跡?や伝承を記した書物として)『聖徳太子伝暦』(10世紀)『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安末)『上宮聖徳法王帝説』(12世紀)『太子伝玉林抄』(15世紀室町時代)がありますが、仮に『懐風藻』にその名が見られるからといって、ではその典拠が何処にあるのかを問われた時、どのようにお答えになるのでしょうね。まさか『日本書紀』にあるからなどとはお答えにならないでしょうね。
 ましてや現存する「伝本」がいつ筆写されたかとの問題を棚上げになどしていないでしょうね?。『日本書紀』が編纂されたのは確かに奈良時代ですが、そのオリジナルがそのままで現在に伝わっているなどとは誰も考えておりません。他の史料に見られる箇所をつなぎ合わせて『日本書紀』を復原するならば意味はありますが。
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この回答へのお礼

お答え頂いて申し訳けありませんが、
文章が長い上に難しすぎます。
学者レベルではなく庶民的なレベルのお話でお願いします。

お礼日時:2012/07/22 21:40

>歴史上には聖徳太子なる人物は実在しません。

俗に聖徳太子と呼ばれる人物は厩戸聡耳皇子であり、聖徳太子として信仰の対象となり始めるのは平安後期から鎌倉時代のことです。


厩戸聡耳皇子=聖徳太子の事で、日本書紀、古事記に出ていますね。

播磨国風土記に聖徳王との記載が、聖徳太子の呼称は天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』からですよ。
と言う訳で、平安以前から聖徳太子という呼ばれている事が現在確認されています。




そもそもね、推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないのに、死後に呼ばれるようになった「聖徳太子」を峻別して、史実とそこから派生した伝説との連続性を否定するとかありえません。
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この回答へのお礼

>>歴史上には聖徳太子なる人物は実在しません。俗に聖徳太子と呼ばれる人物は厩戸聡耳皇子であり、聖徳太子として信仰の対象となり始めるのは平安後期から鎌倉時代のことです。


>厩戸聡耳皇子=聖徳太子の事で、日本書紀、古事記に出ていますね。

>播磨国風土記に聖徳王との記載が、聖徳太子の呼称は天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』からですよ。
と言う訳で、平安以前から聖徳太子という呼ばれている事が現在確認されています。


ということは、大化の改新以降、蘇我氏の功績がねじ曲げられた可能性はありますよね。

そもそも天皇の皇子が馬小屋で生まれたというエピソードも何か怪しいですね。
聖徳太子の話はどこまでが作り話なのか分かりません。

お礼日時:2012/07/22 21:44

 【追記ならびに補足】



 中世の「聖」は身分制としての「卑賤観念」に由来します。この卑賤とは身分的な階層を指します。しかしながらその彼らは世俗の法から見ての「」ではあるものの、聖域として隔たれた空間つまり寺社の山門から向こう側ではそのような扱いを受けてはいません。
 彼らが職掌として携わっていたのは死者を葬る、牛馬を扱うなどの仕事ではあっても「それが寺社の仕事だから認められていた」との論理が作用しています。
 この「聖」と「俗」を隔てるものが「坂(=境界)」です。坂で隔てられた向こう側には幕府や朝廷などの如何なる権力も介入することが適わなかった。それほど敷居の高い場所です。身分的にはであってもそこにいる限り、彼らも「聖なる者」となってしまう不思議な論理があるとのことで研究対象となっています。
 「聖徳太子伝説」の一つに「片岡飢者説話」がありますので、お調べになってみてください(飯田瑞穂氏の詳細な研究論文もあります)。
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 歴史上には聖徳太子なる人物は実在しません。

俗に聖徳太子と呼ばれる人物は厩戸聡耳皇子であり、聖徳太子として信仰の対象となり始めるのは平安後期から鎌倉時代のことです。
 この時代に聖徳太子なるスーパーヒーローが求められた背景には、それまでの貴族社会から武家へと社会の中心が移行したことがあります。武家は本来「律令」に規定されている郡司の流れを汲む受領階級などが中心です。言ってみれば、荘園を実質的に管理する職掌にある者です。その彼らが自らの存在を社会に知らしめるためには実力としての軍事力や警察力を手にした訳ですが、その彼らに唯一なかったモノがあります。
 公家には官位があり三位以上を公卿と呼び、彼らは国家の政策を決定するなどの権限を法的に有しますが、武家にはそうした序列に対する位置付けがありません。そのため彼らは「公的な位置付け」を求めた。これが征夷大将軍(略して将軍)と呼ばれる武家の棟梁です。
 この武家と聖徳太子の関係ですが、武家が台頭する平安末から鎌倉期にかけて聖徳太子に関連する伝説を具体的な形で表す書物が編纂されるとの経緯がありました。天皇に代わり摂政の形で政治を取り仕切った(この時代での認識)との「形」を武家が利用した。後ろ盾としての「権威」を身に纏う形で彼らは社会の中でその地位を明確なモノとしていった、との見解があります。
 蘇我氏が悪人であり、聖徳太子がそれに対するヒーローであるとは今では誰も考えてはいません。相手が蘇我氏でなくともヤマト王権にあっては豪族と王家の相克の中で政治運営が行われたのであり、それが誰であっても良かったのです。
 また「そもそも仏経信者なのに」との質問ですが、この人物が元から仏教徒だったとの裏付けはありません。彼が著したとされる「三教義疎」をはじめ彼が策定したされる「十七条憲法」も後世の奈良時代に作られたり、輸入品であるとの見解もあります。そもそも彼が生きていた時代の主要な信仰であり思想文化は神道です。そこにチョー新しいものが中国から朝鮮半島を経て輸入された、これが仏教です。別にそれだけを輸入しようとしたのではなく新しいシステムを導入しようとしてそれに伴い入ってきた。これが実情です。
 「聖」はもともと「日知り」から派生したと言われ、天体の運行やそれによって農作物の植え付けから収穫などを決めるなどの実務的な機能も司っていたとされています。そこに「聖」の文字があてられたのは太陽を聖なるものとする古代的な信仰(世界共通)が反映されているとされています。エジプトのラーをはじめ中国の聖人君子など様々な用例があります。キリストと聖徳太子が関係あるなどとはトンデモ本が宣伝するインチキにしかすぎません。
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この回答へのお礼

お答え頂いて申し訳けありませんが、
文章が長い上に難しすぎます。
学者レベルではなく庶民的なレベルのお話でお願いします。

お礼日時:2012/07/22 21:40

>そもそも仏経信者なのに名前に「聖」が入ってるのはなぜでしょう?


>何かキリスト教っぽい感じもするのですが。
別に「聖」という字はキリスト教にだけ使われるものではありません。「聖(ひじり)」とは仏教で、学徳の高い僧のことです。「俗聖(俗界にありながら、聖のような人)」などという表現が、源氏物語にも出てきます。
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>聖徳太子がヒーローのような扱いになってるのはなぜでしょうか


>そもそも仏経信者なのに名前に「聖」が入ってるのはなぜでしょう?

日本でも聖なる人は聖なる人です。
高野聖(ひじり)とか。

井沢元彦説の「暗殺され非業の最期を遂げたために、
なんとも素晴らしい諡号をつけられ、
超人のような能力の持ち主であったという
説をでっちあげられた」という説は
説得力があると思います。
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蘇我一族の繁栄に対する革命的行為としての大化の改新(まあこの改新自体にも疑問が提示されているが)を正当化するためには、蘇我一族が悪逆であったというストーリーを作るのが良さそう



かといって、遣隋使などを無かったことには出来ないので、蘇我氏による事績を太子という人物によるモノという風に置き換えた。


「聖」に関しては、国語辞典で確認すれば、キリスト教的な意味はホンの一部分であることはあきらか。
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この回答へのお礼

そう言えばイスラム教でも「聖戦」とか言いましたね。
しかし神=「聖」というのは分かるのですが、
仏経界で「聖」という言葉はそんな普通に使用してるのでしょうか。

お礼日時:2012/07/22 21:36

聖徳太子は後世に作り出されたヒーロー的存在です



厩戸皇子は実在しましたが彼が聖徳太子だった記述はどこにもない

蘇我氏は悪政を働いて滅ぼされたので 彼の功績を後世に残すため 聖徳太子という人物を作る必要があったのです

ちなみに誕生の話はキリストとほぼ一緒です
 厩の前で産気づき 生まれた

7人の話を同時に聞いて回答できたなど 普通はありえません

官位12階や 17条憲法も おそらく蘇我馬子が作ったものでしょう
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この回答へのお礼

実は推古天皇の摂政なる人物は蘇我氏の人間で、
聖徳太子は大化の改新以降、蘇我氏の功績を抹消する為に作られた
架空の人物、と空想するのも面白いですね。

そういやキリストも馬小屋で生まれたのでしたね。
厩戸王子と一緒なのは単なる偶然のでしょうか?
それともキリストにダブらせて仏経のカリスマにしようとして作った
作り話なのでしょうか?

お礼日時:2012/07/22 21:32

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