実は、本日(8月3日)『国語』カテゴリで「一点を見つめたまま視線が動かない状態」を「目が据わる」と表現するのはニュアンス的に間違いであり、「目を据える」「凝視する」と表現するのが正しいと言う回答を得たのです。
僕は、一点を見つめたまま視線が動かない状態だった時、お酒に酔ったり怒ったりしていた訳ではなかったのです。
自分の中では、★印の内容の出来事があったのです。
★テレビ画面を少し見る→目をはなす→目をはなすのは束の間で再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまう
★意思に反してテレビ画面から視線をそらすことができなかった時は、テレビ画面をじっと見ていたことがあって、一点を見つめたまま視線が動かない状態となったこともあった。
:
★印に関して受身表現では、《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というふうに表現するだろうと思うのです。
《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というのは自由を失った感じだと言うことです。
また「一点を見つめたまま視線が動かない状態」というのは、ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思うのです。
ここで質問です。
《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》は受動的な感覚の表現です。
この表現を客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現に書き換え、回答下さい。
客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現を1つだけでなく、いくつか知ってたらそれを教えて下さい。
最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。
※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。
A 回答 (15件中1~10件)
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No.15
- 回答日時:
#14です。
客観的表現や、受動的な表現という言葉も、最初は誰かが造ったんですよね?
造語でもその語を見て、どういうことを言おうとしているのかが伝われば、私は構わないと思いますし、造語でも意味が通じる言葉が比較的簡単に造れるのが日本語の良さの一つだと考えています。
新たな質問内容ですが、とりあえず他の回答者さんに「自我侵入」という言葉で何を言おうとしているのかが伝わるかどうかを聞いてみてはいかがでしょうか。
多くの回答者さんが「理解できる」と回答されれば、遠慮なく使えばいいですし、博識な回答者さんがいれば、すでに存在している、もっといい表現を教えてもらえるかもしれません。
ご回答を拝見して
そうですね、客観的表現や受動的な表現という言葉は最初は誰かが造ったものですね。
なるほど、そうですか。この質問締め切って新たに質問立ててみます。
No.14
- 回答日時:
#13です。
自我侵入ですか。そんな表現があったんですね。初めて知りました。
確かに、自我侵入は「自発」や「無意識的」よりも[A][B]ともにしっくりくる表現だと思います。
こちらも勉強になりました。教えていただき、ありがとうございましたm(__)m
ご回答読んで思いました。
『(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた』、『視線をそらす動きを止められた』、『眼球の動きを止められた』、『頭の中で言わされた感じがした』、『頭の中で発せられた感じがした』、『自分が何かに操られているような感じ』を自我侵入的な感じを表す表現、させられ体験を表す表現、受動的な感覚の主体的表現。受動的な感覚の自我喪失的表現、受動的な感覚の自我侵入的表現というのいずれも造語だし、しっくり来ないと思うのでこの質問を締め切り、新たに質問を立てようと思うのですが、どこのカテゴリに立てたほうが良いと思いますか?
その際、どのように質問したほうがいいかも詳しく教えて下さい。
No.13
- 回答日時:
#12です。
[A][A-1][A-2]
その解釈で合っていると思います。
[B]この二つの文は、正直何に分類できるのか、かなり迷いました。
消去法(?)みたいな感じで回答を書いたようにおもいます。
つまり、主観か客観かでいうと主観
能動か受動かでいうと能動
感覚か認識かでいうと感覚
以上から主観的な能動の感覚表現と書きました。
今から考えると、それよりも主観的な感覚の自発表現の方がよかったかもしれません。
すみません。前に回答したときは、自発という選択肢が頭から抜けていました。
また、別の回答で「感覚の能動表現は存在しない」と書いていたのを今思い出しました。惑わせてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
[C]「イタズラされた」→「イタズラしている」に書き変わったことで、たしかに受動ではなくなったような気がします。しかし、能動でも自発でもないような気もします。
もちろん、「ように」が入っている時点で客観的表現でないのは明白ですので、主観的表現であるのは間違いないと思います。
ただ、文の形が変わっても、「イタズラしているように感じた」は、意味上では「イタズラされているようだった」と同じですので、あえていうならば、どちらも主観的な受動の表現ということになると思います。(あくまでも「あえて」ですが…)
その医者が言ったことから推察すると、「無意識的に」何か行動を起こした場合、作為体験に当て嵌まるのでしょうか。
確かに医者に症状を言うときに受動形でない形で伝えることもできますが、「無意識的」になにか行動をした場合は、私は受動的表現で伝えたほうがいいかと思います。その方が「無意識」に起こったということがよく伝わると思います。
先程、「あえて」を強調しましたが、日本語には受動なのか能動なのかはっきりしない表現は沢山あります。
主観と客観も、人によって受け取り方が違うものも沢山あります(「目が離せなくなった」は自分の意識の中のことであり、主観的表現だという人もいるでしょう)
なので、逃げている訳ではありませんが、同じ言葉を見ても感じ方が違う人がいるのも確かですので、私一人の意見だけで判断するのではなく、お知り合いの方々にも同じことを質問して意見を集めたほうがよろしいかと思います。
回答ありがとうございます。
【A】昨日気付いたことがあります。(思い立ったという感じだと思うのですが・・・)
『(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた』、『視線をそらす動きを止められた』、『眼球の動きを止められた』、『頭の中で言わされた感じがした』、『頭の中で発せられた感じがした』、『自分が何かに操られているような感じ』などは受動的な感覚の主体的表現ではなく、「受動的で自我侵入的な感じを表す表現」だという解釈に思えたのです。
okwaveの『国語』カテゴリで得た回答である「受動的な感覚の自我喪失的表現」というのは造語だと『心理学』カテゴリで回答を得ました。
造語なので「自我侵入的な感覚の表現」としたほうが『 』内の状態を表しているのではないだろうか、という質問を受けました。
※『 』内の状態・・・『(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた』、『視線をそらす動きを止められた』、『眼球の動きを止められた』、『頭の中で言わされた感じがした』、『頭の中で発せられた感じがした』、『自分が何かに操られているような感じ』
回答者さんは以上のことについて妥当かどうかなどが知りたいです。
「受動的で自我侵入的な感じを表す表現」だということについて、同意見か、反対かどうかです。【ここまでA】
>「イタズラされた」→「イタズラしている」に書き変わったことで、たしかに受動ではなくなったような気がします。しかし、能動でも自発でもないような気もします。
もちろん、「ように」が入っている時点で客観的表現でないのは明白ですので、主観的表現であるのは間違いないと思います。
ただ、文の形が変わっても、「イタズラしているように感じた」は、意味上では「イタズラされているようだった」と同じですので、あえていうならば、どちらも主観的な受動の表現ということになると思います。(あくまでも「あえて」ですが…)
:
【B】これも、主観的表現ですが、「イタズラされた」→「イタズラしている」ということから、自我侵入的な感じを表す表現で合っているかどうかが知りたいです。
>その医者が言ったことから推察すると、「無意識的に」何か行動を起こした場合、作為体験に当て嵌まるのでしょうか。
:
無意識的に起こしたのではなく、自我侵入的な感じを表す表現が作為体験と言えるのでは、と思います。
No.12
- 回答日時:
#11です。
[A]こちらの書き方が悪かったです。すみませんm(__)m
私が言いたかったのは、「もし私がこの文を見せられて表現方法を聞かれたときには、個人的な解釈に基づいてそのような答え方をするだろう」ということです。
[B]その通りです。以前の回答で、「自分の中で起こっていることなので、外見からは分からず、客観的表現は存在しない」と書いたつもりです。(すみませんが、これ以上詳しい回答は書けません)
[C](1)~(4)は自分の中で起こっていることなので、客観的表現は存在しないということで、主体的表現であると判断しました。
さらに、「~された」から「~なった」と能動的な表現に変わっていることから、主体的な能動表現であると判断しました。
また、「~な感じがした」という文から認識ではなく、感覚表現だと解釈しました。
以上より、(1)~(4)は主体的な能動の感覚表現だと回答しました。
(5)は、「動作が停止した」という表現から、これは動作が停止した人を第三者が見て、「何かに気を取られ」たのだ、と推理している文だと解釈しました。
よってそれは客観的表現になり、さらに客観的表現には感覚表現は存在しないので、「客観的な認識表現」と回答しました。
ただし、この回答はあくまでも個人的な解釈によるものであるため、人によっては例えば「(5)は主体的表現だ」等と考えると思います。
そこのところは、ご理解をお願いしますm(__)m
毎回、ご回答ありがとうございます。
今回もご質問がいくつかあります。
【A】まず最初に、“「自分の中で起きた体験(症状など)」は客観的な表現とは言わないということを普段顔を合わせている人から聞いたことについて”
――これは自分自身の中で起きた主観的事実という解釈で合っているかどうか知りたいです。
【A-1】『(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた』のと『(何らかのきっかけで)飲む・食べる動作が制止した、停止した』ということについて、自分自身の中で起きた主観的事実という解釈で合っているかどうかも知りたいのです。
【A-2】A-1の質問に関して、前者から後者の表現に書き換えるのは、自分自身の主観的事実を客観的に書いたものだと思いました。
合っているかどうかが知りたいです。
【B】それと、『頭の中で言わされた感じがした』『頭の中で発せられた感じがした』の受身の表現(自分自身の中で起きたのなら、主観的事実?)を『頭の中で○○という言葉が浮かんだようだった』『頭の中で○○という言葉を発したようだった』と書き換えたものが「主体的な能動の感覚表現」だと言えることについて、
『頭の中で言わされた感じがした』→能動態にすると『頭の中で言った感じがした』
『頭の中で発せられた感じがした』→能動態にすると『頭の中で発した感じがした』
となるのに、どうして主体的な能動の感覚表現だと言うことが言えると思うかどうかが知りたいです。
そもそも「主体的な受身の感覚表現」と「主体的な能動の感覚表現」の意味の違いが知りたくなりました。
【C】それと以下の文章はどういう表現をどういう表現に書き換えたかどうかが知りたいです。
受身を受身以外の文章に書き換えたものだと思うのです。
★故意にテレビから目をそらすと、脳裏に「テレビのキャスター」という言葉が勝手に浮かび、自分が何かに操られているような感じもあった。その感じは何かにイタズラされたような感じだった。
→故意にテレビから目をそらすと、脳裏に「テレビのキャスター」という言葉が勝手に浮かび、何かが自分を操っているような感じもあった。それは何かが僕にイタズラしているような感じだった。
それと、医者から「体などを動かされたような感じがあった」のも「意に反して体が勝手に動いてしまった」のも両方とも作為体験だと言うことを聞きました。
最後に僕は、医者に受身の形の文章で自分の中だけで起きた出来事を書いて伝えたことがありますが、受身でない形の文章で伝えたこともあります。
全部の出来事を受身でない形の文章でも伝えたい気持ちがありました。
今回は【A】~【C】の質問以外の内容で思うことも回答してほしいです。
No.11
- 回答日時:
#9です。
[A]自分の中ではその解釈で合っていると思います。
[B]主体は、多くの場合自分のことをさしますが、そうとも限りません。
小説などで、物語の主人公のことを第三者の視点から書いているものを読んだことがありますか?
このような物語の場合、主体は物語の主人公であり、それを客観的な視点から書いたものです。
[B]前の回答でこちらが書いていたら申し訳ありませんが、能動の感覚表現は存在しません。感覚は外から刺激を受けて発生するものなので、受動の表現しかありません。
客観的な認識の表現は、読んで字の如くです。主体がしていることを外から見て、何をしているか(笑ってる、転んでる等)を認識したときに使う表現です。なお、外から見ている人に主体の感覚は分かりませんので、客観的な感覚の表現はありません。
再度ご回答ありがとうございます。
【A】まず‘自分の中ではその解釈で合っていると思います。’という概念に関して具体的に教えて下さい。
回答者さんがそういうふうに解釈するということか、僕自身の中で起きた体験を主体的な受身の(感覚/認識)表現と解釈するということのどっちになるか、疑問に思いました。
それとも違うのか。
>主体は、多くの場合自分のことをさしますが、そうとも限りません。
小説などで、物語の主人公のことを第三者の視点から書いているものを読んだことがありますか?
:
物語の主人公というのは登場人物のことに思いました。
例えば「国語」の教科書で出てきたことのある「宮沢賢治」の「銀河鉄道の夜?」などがそれに当たると思いました。
要するに筆者が「銀河鉄道の夜?」に出てくる登場人物のことを書いている=客観的な視点から書いたものに思いました。
>このような物語の場合、主体は物語の主人公であり、それを客観的な視点から書いたものです。
:
これは#10の回答者さんが‘「客観的に」→第三者からの視点。’ということを言っているのと同様のことだと思いました。
【B】実は僕は「自分の中で起きた体験(症状など)」は客観的な表現とは言わないということを普段顔を合わせている人から聞きました。
#9のお礼に書いた
◎頭の中にあった「全部なおす」「ギフト」という言葉・文字が暴かれたように感じた
――はつまり“自分の中で、頭の中にあった「全部なおす」「ギフト」という言葉・文字が暴かれたように感じた”ということで、自分の中で起きた体験です。
このことについてどう思うか、具体的に教えて下さい。
【C】では、以下の感覚は僕自身の中だけで起きた体験なのにどうして客観的な認識の表現だとか、主体的な能動の感覚表現だと述べたのかが知りたいです。
(1)(何らかのきっかけで)唾液を飲み込む動きを止められた感じがした
→(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった、主体を保てなかった
(2)脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ
→脳機能のすべてがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ
(3)頭の中で言わされた感じがした
→頭の中で○○という言葉が浮かんだようだった
(4)頭の中で発せられた感じがした
→頭の中で○○という言葉を発したようだった
(5)(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた
→(何らかのきっかけで)飲む・食べる動作が制止した、停止した
――こういう体験です。
No.10
- 回答日時:
端的に話します。
I.「客観的に」→第三者からの視点。第三者からみた場合を示す。
II.「主体的」→当事者(この質問No.7625640の場合は質問者様ご自身)が自らの意思による行為を示す。
III.従って「客観的に」と「主体的に」は概念として両立せず、矛盾を来す(第三者と質問者は別人物である)。
IV.以上のことから「《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》は受動的な感覚の表現です」との認識を的確な表現として記述し直すならば「視線をそらす動きを止められた様に感じられる」「眼球の動きを止められた様に感じられた」となる。そして「感じられた」は質問者が感じた、もしくは感じることができたのであり、それを第三者に理解してくれと依頼することは不可能である。
V.「一点を見つめたまま視線が動かない状態というのは、ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思う」→これは「何から自由を束縛されていた」と言えるのだろうか。少なくともテレビ画面を凝視していたのは、質問者が自らの意思によって「そのテレビ番組を観ていたから」であり、このことからは「他の誰かによって仕向けられて自らの意思が奪われていた」とは言えないことになる。
「主体的」とは、その行為を行うものが「自らの意思」に基づいて行うことであり、それゆえに「意図的に」と換言することも可能である。これに対し「受動的」とは他者から強制されて心ならずも行うとのニュアンスを示す。
英語ならば、「動詞」には自動詞と他動詞の区別があり、受動態構文を作るのは他動詞に限定されるとの基本的なルールがある。なぜなら他動詞は常に「目的語」を必要とするからである。
だが、日本語には目的語および補語に相当する概念は文法上に存在しない。代わりにあるものは「修飾語」である。では「日本語にはなぜ目的語がないのか」との疑問が生ずることになる。
これは英語を含めての外国語には「文型と語順」に関する明確なルールがあることによる。
英語では“This is a pen.”の様に主語の後に動詞および助動詞があることで 、その文章が肯定文か疑問文か否定文かの判断が着きやすいが、日本語では主語の直後に動詞があるとは限らず、文末まで読まないとその文章が肯定か疑問か否定かを理解ができないとの違いがある。“This is a pen.”と“Is this a pen?”そして“This is not a pen.”は単語の並びを換えることで意味を変えているが、「これはペンです」と「これはペンですか?」「これはペンではありません」では、そこに使われている言葉は英語のそれと比べて異なる。並び替えだけの違いとは異なる。
もしこれを英語の語順に従って日本語に置き換えたなら意味の通じない文章となる。「これは である ペン」「である これは ペン ?」「これは である ない ペン」。
ここまで日本語と英語を含む外国語との違いを例として話をしてきたが、この意味が質問者にはわかるだろうか?。このような方法を用いた背景には「主体的認識」と「客観的認識」の本質的な違いを理解して欲しいからである。
この回答への補足
お礼の訂正です。
×
これはタヌハチさん以外の回答者さんから例えば“牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした”というのは「させられ体験」なので「自分自身が主体的に行っているという意識がない」能動的ではなく、受動的方向に意識が傾いているということで、「受動的な感覚の自我喪失的表現」という回答を得たのです。
これと同様に、「視線をそらす動きを止められた」「眼球の動きを止められた」のも「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思うのですが、タヌハチさんはこれについてどう思うかが知りたいです。
○
これはタヌハチさん以外の回答者さんから例えば“牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした”というのは「させられ体験」なので「自分自身が主体的に行っているという意識がない」能動的ではなく、受動的方向に意識が傾いているということで、“「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思います”という回答を得たのです。
これと同様に、「視線をそらす動きを止められた」「眼球の動きを止められた」のも「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思うのですが、タヌハチさんはこれについてどう思うかが知りたいです。
タヌハチさんから回答を頂いてから今日までの間、タヌハチさん以外の方から回答を頂いて思いました。
>「一点を見つめたまま視線が動かない状態というのは、ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思う」→これは「何から自由を束縛されていた」と言えるのだろうか。少なくともテレビ画面を凝視していたのは、質問者が自らの意思によって「そのテレビ番組を観ていたから」であり、このことからは「他の誰かによって仕向けられて自らの意思が奪われていた」とは言えないことになる。
:
――ということですが、「凝視」というのは興味のある番組に視線を集中させるということだと家族から聞きました。
僕は家族がドラマやバラエティ番組を見ていて自分も家族の見ている番組の興味はなかったですけど、視線がテレビ画面に行ってしまって、テレビから目をはなせなかったこと、一点を見つめた状態になってしまったことを「視線をそらす動きを止められたように感じた」「眼球の動きを止められたように感じた」と言う解釈に思えたのです。
これはタヌハチさん以外の回答者さんから例えば“牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした”というのは「させられ体験」なので「自分自身が主体的に行っているという意識がない」能動的ではなく、受動的方向に意識が傾いているということで、「受動的な感覚の自我喪失的表現」という回答を得たのです。
これと同様に、「視線をそらす動きを止められた」「眼球の動きを止められた」のも「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思うのですが、タヌハチさんはこれについてどう思うかが知りたいです。
また「視線をそらす動きを止められたように感じた」「眼球の動きを止められたように感じた」「牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした」というのは自分の中で起きた出来事で主観的事実という解釈だと家族とかタヌハチさん以外の方から聞いたのです。
主観的事実ということは主観的表現とも言うかと言う解釈は合っているかどうか疑問に思ったので、回答してください。
何から自由を束縛していたかについてですが、統合失調症を患った方はテレビ画面に視線が行っていて、テレビに出ていた人が「視線や眼球の動きを止めていた」という感覚はあるかもと思ったのです。
No.9
- 回答日時:
#8です。
[A]はい、その通りです。
[B]何度も同じことを書きますが、構いませんか?
(1)~(4)能動的な表現というのは、主体が周りから何かをされたのではなく、自分の意思で何かをしたときに使う表現方法です。
「すべてなおす」などの言葉が自分の意思で暴いたりすると思われますか?(言葉は常に考え等を受けてから存在するものですよね?)
よって、能動的な表現は存在しません。
さらに、この四つの文の場合は行動には何も表れていないと思われるので、客観的な表現も存在しません。
(5)この文も能動的な表現は存在しません。なぜなら、能動的な表現にするには、主語を「文章を目でたどるのをとめ」た何かになります。その主語になるべきものが明記されていないので、書き換えることは不可能です。
客観的な表現は「感じがした」を抜いて、「文章を目でたどるのをとめた」となります。
再度ご回答ありがとうございます。
#8のお礼に関して
(1)頭の中にあった「全部なおす」という言葉が暴かれたように感じた
(2)頭の中にあった「全部なおす」という言葉が発見されたように感じた
(3)頭の中にあった「ギフト」という文字が暴かれたように感じた
(4)頭の中にあった「ギフト」という文字が発見されたように感じた
(5)文章を目でたどるのを止められた感じがした
⇒【A】まず、(1)~(5)の表現に関して次の内容の表現の解釈で合ってるかどうかが知りたいです。
※主体的な受身の感覚表現
※主体的な受身の認識表現
※主体的な受身の表現
>能動的な表現というのは、主体が周りから何かをされたのではなく、自分の意思で何かをしたときに使う表現方法です。
:
【B】主体というのは“自分”のことを指すかと思いました。
合っているかどうかが知りたいです。
>「すべてなおす」などの言葉が自分の意思で暴いたりすると思われますか?(言葉は常に考え等を受けてから存在するものですよね?)
:
思いません。
「全部なおす」という言葉、「ギフト」という文字が無意識に浮かび上がった、意識レベルの段階へと上昇したということだと思うのです。
何らかのきっかけ(怖い夢を見て叫んだ後、家族が部屋に来て僕の様子を見に来た時、家族に声をかけられた時)で文字や言葉が浮かび上がり、それはまるで発見された、暴かれたような感覚だったと言うことなのです。
(5)に関しては「テレビの中の何かが文章を目でたどるのを止めた」という解釈だということを言えばいいかと思いました。
【C】しかし僕は自分で言ったくせに「客観的な認識の表現」「主体的な能動の感覚表現」という言葉の意味が理解できません。
回答者が意味がわかるなら、具体的に教えて欲しいです。
No.8
- 回答日時:
#7です。
[A]自発は「自然と~する」という使い方しかしません。
[B](1)(2)は主体的な受け身の感覚表現→主体的な能動の感覚表現
(3)は主体的な受け身の認識表現→客観的な認識表現
(4)は自発の表現→客観的な認識表現
(5)は主体的な受け身の表現→客観的な認識の表現
でしょうか。
再度ご回答ありがとうございます。
>(1)(2)は主体的な受け身の感覚表現→主体的な能動の感覚表現
(3)は主体的な受け身の認識表現→客観的な認識表現
(4)は自発の表現→客観的な認識表現
(5)は主体的な受け身の表現→客観的な認識の表現
:
【A】全体的に言えば、受動態表現や自発の表現を能動的表現あるいは客観的表現に置き換えたという解釈ですよね?
【B】では、以下の表現に関して主体的な受身の(感覚/認識)表現および自発の表現だと思うのですが、これを主体的な能動の感覚表現あるいは客観的な認識の表現に置き換えた表現が知りたいです。
(1)頭の中にあった「全部なおす」という言葉が暴かれたように感じた
(2)頭の中にあった「全部なおす」という言葉が発見されたように感じた
(3)頭の中にあった「ギフト」という文字が暴かれたように感じた
(4)頭の中にあった「ギフト」という文字が発見されたように感じた
(5)文章を目でたどるのを止められた感じがした
No.7
- 回答日時:
#5です。
あれから考えてみたのですが、「頭の中で発せられた感じがした」の「られた」は、受動的な表現ではなく、「自然と~した」というニュアンスを持つ「自発」の表現ではないでしょうか。
よって、自分の中だけで起こっているため、客観的表現は存在しないように思います。
客観的表現は、ある動作をしている人(主体)を傍で見ている人が思ったことを表現する表現方法です。それには、主体の考え自体は無関係です。
「眼球の動きを止められた」という例文で考えると、主体は「何かに眼球の動きを止められた」と感じるでしょうが、それは主体の頭の中での考えであり、傍で見ている人には解りません。
よって傍で見ている人の判断基準は、主体の行動(眼球の動きを止めたこと)のみであるため、「眼球の動きを止められた」の客観的な表現は、やはり「眼球の動きを止めた」しか有り得ないと思います。
再度ご回答ありがとうございます。
>「頭の中で発せられた感じがした」の「られた」は、受動的な表現ではなく、「自然と~した」というニュアンスを持つ「自発」の表現ではないでしょうか。
よって、自分の中だけで起こっているため、客観的表現は存在しないように思います。
:
回答者さんのおっしゃるように‘自分の中だけで起こっている’内容の体験です。
【A】「自然と~した」というニュアンスを持たなくても「自発」かどうかが知りたいです。
では、以下の表現は○○の表現を○○の表現に変えたか、についておたずねします。
【B】
(1)(何らかのきっかけで)唾液を飲み込む動きを止められた感じがした
→(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった、主体を保てなかった
(2)脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ
→脳機能のすべてがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ
(3)頭の中で言わされた感じがした
→頭の中で○○という言葉が浮かんだようだった
(4)頭の中で発せられた感じがした
→頭の中で○○という言葉を発したようだった
(5)(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた
→(何らかのきっかけで)飲む・食べる動作が制止した、停止した
以上の表現は○○表現を○○表現に変換したものである。
○○に入る言葉を分かるなら、教えて下さい。【ここまでB】
【B】に関して、僕は国語カテゴリで受動的な感覚の表現から客観的な認識の表現に置き換えたものだと思うと言う回答を得て、このように解釈していたということです。
No.6
- 回答日時:
なるほどね、質問者様がお尋ねになっている「受動」と「主体」に関する混乱の中身がようやく判りかけてきました。
質問者様が「主体的に」と言っている部分の問題ですが、人間を生物としてとらえた場合、生物の構造として「骨格」と「筋肉」によって構成されていることもお判りと存じます。
そして人間が意識的に動かすことのできるものは「筋肉組織」と「関節」です。この「筋肉」には「随意筋」と「不随意筋」があります。「随意筋」に分類されるモノとしては外側から見える部分、つまり腕や脚などの運動を司る部分です。逆に内臓は意識して動かすことの出来ない「不随意筋」となります。心臓などを意識して動かすことはできません。このあたりは高校の生物の授業で学ばれたことでしょう。
>以下の★印は「受動的な感覚の主体的表現」を「客観的な認識の主体的表現または客観的な認識の表現」に置き換えた解釈で合っているかどうか疑問に思ったのです。
(1)(何らかのきっかけで)唾液を飲み込む動きを止められた感じがした
→(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった、主体を保てなかった
(2)脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ
→脳機能のすべてがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ
(3)頭の中で言わされた感じがした
→頭の中で○○という言葉が無意識に浮かんだようだった
(4)頭の中で発せられた感じがした
→頭の中で○○という言葉を無意識に発したかもしれない
(5)まるで操られたような感じがした
→無意識に体が動いた・無意識に行動していた・無意識に言葉が出た
以上の理解ですが、(1)は先ず誤りです。唾液を飲み込む時は緊張感を伴うなどの場合であり、無意識のうちに行う行為ですので、他者から押しとどめられるとの表現にはあたりません。
(2)恐らくは質問者様の精神状態が不安定であることによる状態。
(3)言葉が思い浮かぶならば誰しもあることですので、不自然ではありません。
(4)(3)と同じです。
(5)「操られた」とのことですが、それと「無意識」とは必ずしも同一ではありません。自らがとっさの判断で無意識に身体が動いたことはあります。それは「もしこうした状況ならば自分はどうするだろうか、あるいはどうすべきか」との判断基準があってのことです。また「判断基準」は社会との関わりの中で形成される部分ですので、この意味ならば「動かされた」との理解もある程度は成り立ち得ます。しかしながら一般的にはこうした細かな部分にことさらにとらわれる必要もありません。判断は瞬間的に行われるケースもあります。こうした行動様式を「本能的」などと呼ぶ学者もいます。
この回答への補足
>(1)は先ず誤りです。唾液を飲み込む時は緊張感を伴うなどの場合であり、無意識のうちに行う行為ですので、他者から押しとどめられるとの表現にはあたりません。
(2)恐らくは質問者様の精神状態が不安定であることによる状態。
(3)言葉が思い浮かぶならば誰しもあることですので、不自然ではありません。
(4)(3)と同じです。
(5)「操られた」とのことですが、それと「無意識」とは必ずしも同一ではありません。自らがとっさの判断で無意識に身体が動いたことはあります。それは「もしこうした状況ならば自分はどうするだろうか、あるいはどうすべきか」との判断基準があってのことです。また「判断基準」は社会との関わりの中で形成される部分ですので、この意味ならば「動かされた」との理解もある程度は成り立ち得ます。しかしながら一般的にはこうした細かな部分にことさらにとらわれる必要もありません。判断は瞬間的に行われるケースもあります。こうした行動様式を「本能的」などと呼ぶ学者もいます。
:
――のことから、自分は「受身表現」を「客観的表現」に置き換えたという解釈が間違っているだろうと思ったのです。
意味を教えて欲しいです。
「受身表現から○○表現に置き換えた」の○○に入る言葉は何かとか。
回答ありがとうございます。
そうですか、質問の意図がわかってきたのですね。
まず“★印は「受動的な感覚の主体的表現」を「客観的な認識の主体的表現または客観的な認識の表現」に置き換えた解釈で合っているかどうか疑問に思った”ことに対して。
【A】(1)はまず誤りだということに関して
これは確認ですが、「受動的な感覚の主体的表現」を「客観的な認識の主体的表現または客観的な認識の表現」に置き換えた解釈が誤りということだと思いました。そうなのかどうか知りたいです。【ここまでA】
【A-1】 【A】の質問でもし誤りだとするのなら、どういう解釈が正しいのか、回答下さい。【ここまでA-1】
【B】それと、(1)~(5)は「受動的な感覚の主体的表現」を「客観的な認識の主体的表現または表現」に置き換えた解釈だと言えないだろうと思いました。
正しい解釈はどういう解釈か、教えて下さい。
僕にはどういう解釈かがわかりません。
何らかのきっかけがあると(=これに関しては例えば床屋さんで髪を切っていた時、自分がベッドで寝ていてヘルパーさんが自分の部屋の近くに来て電話しているのを耳にした時、不快な幻聴と耳鳴りがしている時など)唾液を飲み込みたくても唾液が飲み込めなかったことがあったという訳です。
「唾液を飲み込むのを止められた」「眼球の動きを止められた」はタヌハチさんがおっしゃるように、精神状態が不安定であることによる状態だと言えるでしょう。
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