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実は、本日(8月3日)『国語』カテゴリで「一点を見つめたまま視線が動かない状態」を「目が据わる」と表現するのはニュアンス的に間違いであり、「目を据える」「凝視する」と表現するのが正しいと言う回答を得たのです。

僕は、一点を見つめたまま視線が動かない状態だった時、お酒に酔ったり怒ったりしていた訳ではなかったのです。

自分の中では、★印の内容の出来事があったのです。
 ★テレビ画面を少し見る→目をはなす→目をはなすのは束の間で再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまう
 ★意思に反してテレビ画面から視線をそらすことができなかった時は、テレビ画面をじっと見ていたことがあって、一点を見つめたまま視線が動かない状態となったこともあった。

★印に関して受身表現では、《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というふうに表現するだろうと思うのです。
《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》というのは自由を失った感じだと言うことです。

また「一点を見つめたまま視線が動かない状態」というのは、ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思うのです。

ここで質問です。
《『視線をそらす動きを止められた』『眼球の動きを止められた』》は受動的な感覚の表現です。
この表現を客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現に書き換え、回答下さい。
客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現を1つだけでなく、いくつか知ってたらそれを教えて下さい。

最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。

※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。

A 回答 (15件中11~15件)

#4です


そうですね。その解釈で合っていると思います。

ただ、「頭の中で発せられた感じがした」は、「頭の中で〇〇という言葉を無意識に発したかもしれない」よりも、「頭の中で〇〇という言葉を無意識に発したようだ」の方が、自分はしっくり来るように思います。
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この回答へのお礼

再度ご回答ありがとうございます。

頭の中で発せられた感じがした=受動的な感覚の主体的表現
頭の中で○○という言葉を無意識に発したようだ=能動的で客観的な認識の主体的表現になるという解釈でも合っていると思ったのですが、そうなのかどうか知りたいです。

#3で受動的な感覚の表現である「眼球の動きを止められた」を客観的な認識の主体的表現に言い換えると「眼球の動きを止めた」となるのですが、自分の意思で眼球の動きを止めたのではないのです。

 眼球の動きを止められた →(       )

上の表現では、左辺が受動的な感覚の表現で右辺が能動的で客観的な認識の表現だと思うのです。
(    )は、何らかのきっかけで(テレビに気を取られて)主体性を保てなかったとか、まばたきができなかったということだと思うのです。

以上を踏まえて(    )内に入る表現を教えて下さい。
(  )内の表現が能動的で客観的な認識の表現ではないのなら、どういう解釈の表現になるかも回答下さい。

お礼日時:2012/08/06 17:51

#3です


あなたのおっしゃっていることは理解できました。
さらに、何か質問が続きますか?(かなり突っ込んだことを聞かれているので、満足のいく回答は出来ないかもしれませんが)
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この回答へのお礼

再度ご回答ありがとうございます。

理解できたことは幸いです。
受動的な感覚の主体的表現はわかりやすく例をあげると「何かに追いかけられているように感じた」です。
「何かに追いかけられている」が「受身」だと僕は解釈しました。
一方、客観的な認識の主体的表現はわかりやすく例をあげると「その花が美しいと私は感じた」です。
「ように感じた」「感じた」は「主体的」表現と僕は解釈しました。(主体的な認識が伴っているため)


>さらに、何か質問が続きますか?

はい。
#3と#4を読み返してみて僕も疑問に思ったことがあります。

以下の★印は「受動的な感覚の主体的表現」を「客観的な認識の主体的表現または客観的な認識の表現」に置き換えた解釈で合っているかどうか疑問に思ったのです。

★(何らかのきっかけで)唾液を飲み込む動きを止められた感じがした
 →(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった、主体を保てなかった
★脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ
 →脳機能のすべてがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ
★頭の中で言わされた感じがした
 →頭の中で○○という言葉が無意識に浮かんだようだった
★頭の中で発せられた感じがした
 →頭の中で○○という言葉を無意識に発したかもしれない
★まるで操られたような感じがした
 →無意識に体が動いた・無意識に行動していた・無意識に言葉が出た

★印について。「受動的な感覚の主体的表現」から「客観的な認識の主体的表現または客観的な認識の表現」に書き換えた解釈で合っているかどうかを回答下さい。
もし違っていたら正しい解釈を具体的に詳しく教えて下さい。

「視線をそらすのを止められた」は、客観的な認識の表現では「何らかに気を取られ、視線をそらすことができなくなった」と言う表現になると思うのです。

お礼日時:2012/08/04 17:13

「られた」を「た」に変えれば、客観的な表現になります。


質問文でいうならば、「眼球の動きを止められた」→「眼球の動きを止めた」となります。

また「視線をそらす動きを止められた」は、少し文の形は変わりますが、「視線をそらすことが出来なくなった」とも言い換えられます。

このような回答でよろしいでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「られた」を「た」に変えれば、客観的な表現になります。
質問文でいうならば、「眼球の動きを止められた」→「眼球の動きを止めた」となります。

自分が眼球の動きを止めたのではなく、テレビなどのせいで、眼球の動きも停止したということだと思うのです。

>「視線をそらす動きを止められた」は、少し文の形は変わりますが、「視線をそらすことが出来なくなった」とも言い換えられます。

まさに、自分自身が体験した内容と矛盾はしてません。

>このような回答でよろしいでしょうか?

回答者さんは「られた」を「た」に変えれば、客観的な表現になります。
実は以前、僕は『国語』カテゴリで質問投稿したことがあって遣り取りが1ヶ月以上続いたのです。
その時に例えば以下の表現は、受動的な感覚の主体的表現から客観的な認識の主体的表現に言い換えたものといったところですかね という回答をもらいました。


(何らかのきっかけで)唾液を飲み込む動きを止められた感じがした
 →(何らかのきっかけで)唾液が飲み込めなくなった、主体を保てなかった
脳の中身すべてが(人の不快な声によって)動かされている感じ
 →脳機能のすべてがまるで自由にならず、意図しない状態へと勝手に変わる感じ

ほかにも、「昼ごはんを食べることが禁止された感じ」から「昼ごはんを食べる意欲や動作に不調をきたし」は受動的な感覚の主体的表現から客観的な認識の主体的表現に置き換えたものと自分は理解したのです。

相手の方に以下の受動的な感覚の主体的表現を提示したのです。
・頭の中で言わされた感じがした
・頭の中で発せられた感じがした
・まるで操られたような感じがした

――の表現は相手の方は以下の客観的な認識の主体的表現に書き換えて回答くれたのです。
・頭の中で○○という言葉が無意識に浮かんだようだった
・頭の中で○○という言葉を無意識に発したかもしれない
・無意識に体が動いた・無意識に行動していた・無意識に言葉が出た

眼球の動きを止められたというのは、主体性を保てなったおよび眼球の動きが停止したということだと思うのです。

ここまで理解できましたか?

お礼日時:2012/08/04 14:14

 こんばんは。

先ず質問者からの質問として理解しづらい部分がありましたので、それにお答えしていただきたいと存じます。
(1)「客観的な認識の表現」「客観的な認識の主体的表現」この概念を述べよ。
(2)「僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので」とあるならば、なぜ(1)の様にこねくり回す表現を出来るのか、その理由を述べよ。
 以上ですが、要するに質問者は理解能力に欠点があるだけです。国語辞典に記されている「言葉の意味」と比較照応させるだけでは意味などありません。
 簡単にいえば「視線をそらす動きを止められた」「眼球の動きを止められた」を能動態として表現するならばどの様な表現が考えられるか、との質問でしょ。
 答は簡単です。その場に質問者以外の人間がいなかったなら「テレビの画面に釘付けになった」だけで済みます。それほど「テレビ番組の内容に夢中になっていた」「それほど番組の内容に興味があった」との言い換えです。 日本語の「れる・られる」は受動の他に可能・使役などの用法があります。これは英語での助動詞の“can”や使役動詞の“make”に相当します。
 英語の受動態ならば、主語と目的語を入れ替えて訳すだけで表現を変えることも可能です。また物主構文でも同様です。“The drama is written by W.Shakespeare”を受動態的に「その戯曲はW.シェークスピアによって書かれた」でも能動態的表現で「W.シェークスピアがその戯曲を書いた」でも訳文としては認められます。
 物主構文(=無生物主語構文)で“This street will take you to the station. ”の場合に「この道があなたを駅へと連れて行くでしょう」と「この道を行けば駅に出ます」とでは、どちらが日本語として自然な感じがするでしょうか。道は人が歩く場所であり、道は「モノ」です。道それ自体には意思はありません。ですから訳文としては「この道を行けば駅に出ます」が正解となります。
 そして質問者の「ドラマやバラエティに自分も目を向けた時に、テレビ画面を凝視していた状態となり、自由を失っていたということだと思うのです」との一文で「何が」「何の」自由を束縛していたのかとの疑問も残ります。
 辞書を引かず自らの言葉でお答えになってください。
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主体的な意志の働きによる凝視と感じるか、または、自由を奪われた形での受身的立場を強いられての凝視と感じるかは、個々の資質(精神)に依存する。

良好な精神状態であれば、主体性の発露しての凝視ということ。注目に値する対象、興味を喚起する対象に出会った時、人は、目を反らすことをしない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

しかし、
>・・・個々の資質(精神)に依存する
>注目に値する対象、興味を喚起する対象に出会った時、人は、目を反らすことをしない。

――の意味がわかりませんでした。

お礼日時:2012/08/04 13:59

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