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私の質問に興味をお持ち頂きありがとうございます。
私は先日インド旅行に行って参りまして、多くの物乞いがいる事に驚きました。
そこでふと疑問に思ったのが、「お金を渡そうかなあ。どうしようかな」という事です。

皆さんならどうしますか?答えと、答えの理由を知りたいです。

A 回答 (13件中1~10件)

中国に住んでいます。


中国の乞食は職業で、定時が過ぎたらポケットからiPhoneを取り出して友達を飲みに誘う、なんてホントの話なんですよ。
月収3000元(最低賃金の2倍)あると聞いたことがあります。

地元の人なら、そんなこと百も承知なんですが、あげる人が多いですよ。

わたしが仔細に観察したところ
(1)彼女の前で慈悲深い事をアピールしている。子供の乞食とかに対してね。 メンツを自慢したい男性に多い。
(2)臭いのがかなわないから、小銭で追い払う。電車の中が多いですね。本当に、小銭を捨てるように投げます。特にアッパークラスの女性。
(3)願掛け。 この行いがめぐりめぐって自分に幸福となり戻ってくる。そう信じている人がいます。農民工のような低収入の素朴な女の子など。

わたし?
いい男だったら上げますね。募金もそうしてるし。
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この回答へのお礼

人間観察が好きな方なんですね!
そんな職業を真面目にやる人がいるなんて驚きです。
私はインドに行った後上海にも行きましたが、さすがに上海には乞食はいませんでした…

お礼日時:2012/08/08 23:52

 24歳、学生です。



 縁あってネパール等に旅をした事があります。

 ネパールには母と二人で行きました。当時私の所持金が規制されており、入国後数日間は文無しでした。観光地を強行軍でめぐり、時にはゆったりとお茶を飲んだりと、そんなバケーションの旅行です。
 観光地で、片足の無い障碍者が近づいて「お金をくれ」と言います。しかしそれは出来ません。そこで私はすっからかんの財布を見せました。するとすぐに、周りにいる群集と共に声高々に笑われたのを覚えています。
 恐らく観光地で稼ぐ見てくれだけの職業物乞いだったと思います。悲しいよりも怒りとか釈然としない気持ちが大きく、それはやはり恵んであげる立場、上に立った一方的な偽善によるものだったからでしょう。
 こづかいを貰ってからはちょいちょいとお金を渡していましたが、頭を下げる人、金額を見て鼻で笑う人、様々でした。正しいかはわかりませんが、本当に苦労なさっていそうな方、汚くて臭かったり、女性や老人を見つけてはお金を渡していました。

 はぐれた時の為に四・五万円のお金を持っていましたが、私はそれを換金しませんでした。帰国してゲームや漫画を買う事を考えて、換金すれば数倍の価値を持つそれに、物乞いが持てば更に何倍も価値を持つであろうアルバイトで数日で稼げるお金に固執してしまいました。
 過去を顧みても浅ましいとは思えど、後悔はあまりありません。知らぬ土地で知らぬ間にのたれ死ぬ、私には関与していないことで後悔はあまり生まれないのでしょう。冷たいと思われるかもしれませんが、これが隠さない本音です。

 その数ヶ月後、大阪にふらりと友人と言った際、物乞いをみました。故郷や育った地域ではいなかったので、高校生の終わり、日本で初めての出会いだったと思います。
 都会の喧騒の中、立派な歩道橋の上でただ地面を見詰め掲げるように大きな缶を差し出す老人した。私は友人といくらか話し、百円だか二百円だかの小銭をじゃらりと入れました。すると、それまで微動だにしていなかった老人が、地面を向いたまま深々とお辞儀をしました。二回りも三回りも若輩な、人生経験もほとんど全て私のほうが下です。生まれた環境、お金のあるなしくらいで、老人はまるで神に祈るかのように頭を下げたのです。
 それが無性に情けなく、自分を大いに恥じたのを覚えています。
 気まぐれに通った道で、気まぐれな偽善で、気まぐれな金額を渡す。まるで立派な人間ですよね。笑。


 私の今現在の考えは、施しはします。
 出来るだけ手渡しで、出来るだけ目線の高さを同じにして、子供には玩具かお菓子を添えて。言葉の通じない国で感謝を感じられるのは表情だけです。相手が嫌な気をしないように。
 その本質は、恩を感じられたい優位に立ちたい虚栄心と、良い事をしたいという偽善と、お金を有意義に使いたい満足感。代償は自己中心的な感情ばかりですが。

 仏陀の説いた生き方もキリストの兄弟愛も尊敬しますが、やはり今の私には出来ません。人を選び、自分を愛して、それでも余裕があるときだけ、施し・募金をするようにしています。
 緑化募金よりは震災支援を、震災支援よりはユニセフを。中年男性よりは中年女性を、中年女性よりは老人を、老人よりは子供を。なんて善意の施しとは言えませんが、これが欲にまみれた私の精いっぱいのラインです。

 幼稚な経験則からの考えになりますが、少しでも思考の足しにしていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
様々な考え方の変遷があったのですね。
どこまで行っても偽善という事実、わかります。
しかし私も、偽善も善と考えています。偽善を糾弾する人はつまるところただのケチであって、それを隠すために理論武装しているだけでしょう。

お礼日時:2012/08/07 23:11

たびたびの回答、すみません。



お金とういのは、天下の周りものと言います。
自分が働く、親、家賃収入等、何らかの
形で生きるための衣食住を得る為の
世の中から回ってきたお金を持ちます。

お金は、総和ですので、自分が持っている
ということは、誰かの分のお金を合法的に、
奪っているだけです。

例えば、世の中に1億円しかなく、人口も
1億だとします。
一人1円持つことで、平等になります。
もし、私が、誰かから合法的に、1円奪う
とします。
そうすると、誰か、一人持たない人が
でてきます。
この究極が、貧困の差になり、ピラミッド
の形が成立して、一部の人だけが沢山の
お金を持つ、ということになります。

働いたから、不動産を貸しているから、
税金を収めているから、もらえて当たり前、
ではありません。
払ってくれる人がいる、もらえる窓口(会社)が、
正常に機能して、初めて成立しているのです。

平和ボケしてしまって、これらのことを、
日常の当たり前の流れと、感謝を忘れ
て高慢に思ってしまう。悲しいことです。

私は、それを忘れないために、渡します。
そして、このことも…

東北大震災で、自分の生活もやっとなのに、
チェルノブイリで被害に遭われた、多くの
方達が、義援金をしてくださった。
その方たちだけでは、ありません。
多くの、日本にゆかりの無い方達が、
がんばれ!と、差し出してくださって
います。
感動して、涙が止まりませんでした。
で、日本人の私が、他国で困った人を
見て、何もしない?
おかしくないですか?
義援金をもらったから、その国に、返す?
それも違います。
自分ができる時に、できることをすれば
いいだけです。
政治の問題かもしれません、ですが、その国
の政治家になることはできませんし、例え、
なったとしても、国を変える確証はありません。

それよりも、目の前の一人に、一食?一日?の
食事という、幸せを贈ることができる。
それで、十分ではありませんか?
一日分のお金を、一人の人に、毎日誰か
100人が渡したとしたら、その一人の
人は、100日生きることができる。
その間に、職にありつけるかもしれない、
そして、自立できるようになるかもしれない。
逆に、一生物乞いかもしれない。
でも、生きていないと、チャンスを得ることも、
チャンスを生かすこともできない。

我々も、回って来たお金を、一時的に預かって
いる立場なだけで、そういう形で、回すことも
大事だと思います。

そして、外国に行く時は、一人一人が外交官、
という意識で、日本人として誇り高い振る舞いを
すればいいと思います。

もちろん、外国に限らず、国内でも、助け合い、
支え合いの気持ちを忘れないで居たいです。

長文になり、すみません。
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結婚してインドに住んでいますが、普段から、なるべく上げる様にしています(特に、お年寄りや、障害者)。

上げる時、彼らは、私にではなく、『あ~神様有り難うございました。』っと、神に対して感謝の言葉を述べます(私の居住地はイスラム圏)。
彼等の為に寝泊まり出来る施設を作ってあげたり、一緒に仕事を探してあげたり、私の家に住まわせてあげたりなんて、私の力量では、とても出来ませんから、小銭を与えるだけで、彼等が神に感謝してくれるなら(それだけ嬉しかったという事ですよね?)大した犠牲には感じません。
因みに、彼等は、お釣りもくれるので、小銭を切らしていても大丈夫です。
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この回答へのお礼

神様に感謝するんですか!
そうですよね、ささいな助けになればこちらも嬉しいし向こうも嬉しいです。
お釣りをくれる物乞いは初めて聞きました
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/07 13:24

海外では乞食もいろいろで、



涙ながらにただひたすら困窮を訴えるのは未亡人だ。
亭主を戦争で亡くしただの、子供が不治の病だのと
人間一般の義理人情に訴えかける、割には肉付きが良く血色も良好だ。

めくらや足なえ、不具奇形は道端に敷物をして器を前に座っている。
中には補償が不十分な戦役帰還者もこれに混じる。
たいていは夕方になると敷物を丸め自分の足でスタスタと歩いて帰る。

労働の対価を得ているので乞食とは言えないが
占断とか祈祷とか霊験あらたかなガラクタを売り物にする輩もいる。
頼みもしないのに靴磨きや車のウィンドウを拭いてくれる奴もいる。
前よりも汚れるのは気のせいだろうか。

一番厄介なのはくそガキどもだ。
雪のちらつく路傍で悲しそうな眼をして震える小さな手を差し出す。
俺は小便たれが大嫌いなので小銭を渡したが最後、
どこからともなくワラワラとガキの群れがたかりに来る。
中には「お前、さっき上げたよな?」みたいなのまでいる。



以上、何だかんだで全部恵んでまいりました、今晩はtaco8chです。
何、大したことじゃありません。
まさか全財産寄付しようってわけじゃあるまいし、
もともと海外で大金持って外出したりはしませんから。
ホテルまでの帰りのタクシー代とたばこ代さえ財布に残るなら。
幸い大けがもなしで生きて帰って来れました。
たぶん乞食の祈祷のおかげでしょう。

どうしても気が向かないときは、
ポケットを裏返して口をヘの字にして見せれば、
大人しく諦めて消えてくれます。
彼らは無一文には興味がないからです。

マハラジャでもない俺が小銭を恵んだからと言って、
俺の懐具合や乞食の希望のない人生に
わずかばかりも変化を与えるものではありません。
いわんやその国の経済状況をや。
彼らにしてみれば自尊心を削っての乞食なのでしょうから、
あなた乞う人、俺恵む人、
ここはひとつお互いビジネスライクにいきましょうじゃあ~りませんか。

劣弱者への同情と哀憐を演じるさもしい利己的満足と、
昨今は中国にその座を譲ったとはいえ
元祖アジアの成金の日本人の虚栄心を
こちょこちょとくすぐるその快感が、俺はこの上なく好きです。
いっひっひ。



インド製のお金を少しばかりインド人に返してやっても
お釈迦様の罰は当たらないんじゃないか?
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渡しません。



なんで苦労して稼いだ金を、他人に
渡さねばならないのですか。
渡す理由がありません。

かわいそうだというなら、それは
その国の責任であって、私の責任
ではありません。

まして、インドなどは、世界有数の
金持ちがひしめいている国です。
なんで外国人が渡さねばならないの
でしょうか。
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この回答へのお礼

貧乏な国は富める国に搾取されます
政治の常識です
全てがインド政府の責任ではないと私は考えますが…

お礼日時:2012/08/06 23:44

 


ここに回答寄せてる皆さん誰も分かっておらんよーなのでゆーておきます。

インドで物乞いに金を渡すとき感謝すべきはどちらの側になるか。

インドで物乞いに金を渡すとき感謝すべきは金をもらう物乞いのほーではなく、

金を渡す側のほーが物乞いに感謝せねばならんゆー理屈になっとるのである。

従って物乞いのほーは金をもらっても感謝などせず、金を渡したほーに対し金をもらってやったから感謝せーとこーゆー理屈なんである。

そんな事も知らんで「お金を渡そうかなあ。どうしようかな」などと見当違いのことを訊いて、これに答える皆も同じであるがアホらしくて開いた口がふさがらんわ。


 
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この回答へのお礼

開いた口が塞がらないとおっしゃりますが、恐らくあなたの言う善悪論、どっからか引っ張ってきたものですよね
自分の頭で考えず思考停止している人間に呆れられても、私は痛くも痒くもありません
あしからず

お礼日時:2012/08/06 23:47

タイでの経験です。



タイでは、乞食を職業にしているそうです。
朝、大勢でバスに乗ってバンコクにやってきて、物乞い行為をや
る。
なるだけ、可哀そうな風景を演出するため、赤子を連れて行く。
赤子のいない人のために赤子の貸出も行う。
その日の上がりの何分の1かは、バスを運行した親分に渡す。

こんな按配だったと記憶しております。
もっと酷い話も聞きましたが、書かないでおきます。

要は、物乞いは可哀そうさを演出し、旅行者はその演技に代金を
支払う、ということですね。

背景には、貧困ゆえの何でもありの世界観があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
そんなのもあるんですね…
気をつけます。

お礼日時:2012/08/06 23:48

「慈善は、相手のため(物質的な損得)ではなく、自分のため


(精神的な充足=愛他心)である」である、というのが資本主義的
生産性優先へのアンチテーゼです。
西欧は物質主義だと思われがちですが、実際はお金持ちは慈善
事業に普通にお金を出します(宗教的モチベーションですが)。
それは、貨幣制&即物主義の欠陥への補正であり、決して不自然
な事ではないでしょう(人類は全体で1つの生命体=助け合い)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

お礼日時:2012/08/06 23:41

日本でなら、渡しません。


私が中学、つまり昭和20年代、上野でもたくさんの傷痍軍人の物乞いが居りました。
でも当時は被扶養者のみぶんでしたから、渡しません。
今、大人になっていますが、私の収入は一定の目的のものであり、その範囲をこえるものではありません。
私は自分が、人様にそういうお恵みをするほどのものではないことを痛感しております。
で、相当に困っているひとがあれば、役所に連絡相談します。
友人が借用に来たとしたら、明確にお付き合いを絶ちます。考え違いも甚だしいので。
友人ではないが知人が借用にきたことがありましたが、断りました。
そして彼女は地域の古い区議さんの奥さんに数百万円借りました。
奥さんは誰にも言いませんでしたが、機会があって話題となりました(会議ですね)。
返ってこないことを知って、貸しましたということでした。

インドは物乞いが多いそうです。
私は、対応しません。
真の聖者、行者さんには、むしろもらってもらいます。
物乞いにきた場合は対応しません。
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この回答へのお礼

なるほど。
一つの考え方として、大変参考になりました!
ありがとうございました

お礼日時:2012/08/06 23:50

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