出産前後の痔にはご注意!

太平洋戦争時、赤紙で戦地に行かれた方たちの
出征(入営)時および戦地の服装について、教えてください。

1.
出征時の服装は決まっていたのでしょうか?

2.
ドラマなどで、出征する方が家族に見送られるときに着ている服が国民服に似ているのですが、これは国民服なのでしょうか? 

2.
戦地では何を着て戦っていたのでしょうか。戦闘用の服が支給されてそれを着ていたのでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

回答者 No.3 再びです。

補足の質問にお答えしつつ、さらにもうちょい書こうと思います。

> 戦地で戦っている方たちは全員(在郷軍人も学徒兵も)
> 国から支給された共通の軍服を着ていた

将校と准士官は軍服も軍靴も何もかも自分で金を出して(最初だけ軍からいくらか補助金が出るケースがありますが)用意します。ですから「国から支給された」というのは違いますね。下士官と兵隊は軍(=国)から軍服を貸与されました。支給っていうともらえるような誤解を受けますから、貸与と表現するほうが好ましいと個人的には思います。 以下は下士官と兵隊について書きます。

「在郷軍人」ってのはシャバにいる時の呼び名ですから、いったん「赤紙」などの召集令状を受けて「召集」され軍隊に入れば、そんな呼ばれ方は過去のもので“普通の兵隊(または下士官など)”です。「学徒兵」というのも、シャバの世界では当時のエリートだった高学歴者をシャバの世界がおだてた呼び名であり、軍隊の中での“公式的な扱い”は他の人と変わらない“普通の兵隊”です。徴兵により初めて軍隊に入った人と同じです(ただし、高学歴の頭の良い人材を下っ端の兵隊にしておくのは軍隊としてモッタイナイので、何ヶ月か兵隊をやらせたあとに「幹部候補生」といって将校になる特別コースに進ませることもありましたが、これは今回の服制とは別の話)。

初めて入営した「現役」の兵隊も、「召集」されて、二度目(人によっては三度目という場合も)の軍隊生活をする「予備役」「後備役」の兵隊も、初めて入営するが、やや低く見られがちな「補充役」の兵隊も、原則的にはみんな同じ“普通の兵隊”です。ですから原則として貸与された共通の軍服を着ていたということになります。軍服は一着きりということはなく、国内にいるときは軍衣と呼ばれる上着、軍袴(ぐんこ)と呼ばれるズボンの上下セットが3つぐらいは貸与され、手元で兵隊個人が管理します。だいたい状態がやや良いもの1セット、劣化しているもの2セットぐらいで普段の生活や演習では劣化しているものを交互に洗濯しながら使い、状態がやや良いものは外出や特別なときに使う「よそ行き」です。冬服と夏服の違いもあります(季節が違うときの服は部隊の倉庫にでも保管したと思います)。これが戦地へ行くとなるといちばん良い状態の軍服を着て出征し、他にいろいろ持って行けないのでそれ一着きりです。ただし戦地といっても常にドンパチやってる最前線ばかりではないですから、すこし安全な後方に駐屯しているときは輜重兵など補給部隊が持ってきた着替え用の軍服を手にいれて、交換して使っていた場合もあるでしょう。

以上が総論です。しかし、物事というものは総論があれば各論もある。各論として、「共通の軍服」といいますが、細かいことをいえば戦地によって気候が違いますから、寒い満州では防寒がしっかりした外套や防寒帽も含めた軍服一式だし、暑い南洋であれば防暑タイプの軍服です。厳密に日本の陸軍(あるいは海軍)すべてが「共通」というわけにはいかない、という答えになります。ま、同じ場所にいる同じ部隊の中なら「基本的には共通」です。

もう一つの各論があります。いま「基本的には共通」と書きました。なぜかというと年代によって軍服のデザインや品質が違うからです。陸軍の場合ですが、まず大きな違いとして昭和13年(1938)にデザインの変更がありました。上着がそれまでは立襟(学生服みたいな感じ)だったのが折襟(国民服と似た感じ)になりました。そして階級章は肩についていたものが襟につけるようになりました。また、パッと見ではなかなかわからないことですが、軍服の品質も年を追うごとにどんどん変わっていって、質が悪くなります(布地やボタンの材質や縫製の確かさ)。兵隊の数が増えたことと、何よりも物資が不足したことが原因ですね。襟の形や階級章の位置などデザインが同じでも年代が終戦の昭和20年(1945)に近づけば近づくほど品質は劣化していきます。そこで兵隊たちは年代の古い軍服を好んだという著述がよく見られます。ひとつには良い品質のほうが、やはり着ていて快適であるということ。もうひとつは古いデザインの軍服を着ていたほうが、いかにも歴戦のベテランのように見えてかっこいい。ですから下士官は当然、兵隊でも階級が上の者や軍隊の在籍年数が長い(部隊の中で立場が強くなる)者ほど、いろんな手段を駆使して「古い軍服」を自分に回してもらって着ていたようです。昭和14年~17年ぐらいの写真を見ていると、下士官の班長さんや上等兵が立襟の軍服を着ていて、階級章の星1つの新兵は折襟でペナペナな生地の軍服なんていうのもときどき目にすることがあります。襟のデザイン変更は太平洋戦争が始まる3年前ですから、戦争後半にはもう立襟の軍服は(戦地では特に)ほとんど手に入らなかったでしょうが、品質に関しては終戦まで良質の軍服を求める傾向はあったといえます。


最後に蛇足ですが、前の回答にも書いた「兵隊になっても軍服は“貸与”されるだけであって、もらえるわけではない」傍証の資料をリンクしておきます。昭和12年春に帝国議会の衆議院が「兵隊が除隊する際に、かわいそうだから一着ぐらいあげたらどうだ」と出した建議書の写しです。それはつまり昭和12年春までは、兵隊になっても軍服はもらえなかったことを意味します。その後どうなったという資料はすぐに見つかりませんでしたが、この建議書が出された直後の7月に日中戦争が始まり、日本は泥沼に入っていくわけで、国も軍隊も軍服をくれてやるほど財政の余裕はなかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C010015396 …
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こちらの回答をベストアンサーとさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/25 11:43

たびたびすいません、回答者 No.3 & No.5 です。

No.5の回答において

> 軍服の品質も年を追うごとにどんどん変わっていって、質が悪くなります
> 終戦の昭和20年(1945)に近づけば近づくほど品質は劣化

などと書きました。誤解の無いように補足すると製造年が新しい物のほうが品質が悪いという意味です。「古い軍服を何年も着ていて擦り切れたり破れたりで劣化する」ということではもちろんありません。 製造年が古くても、何らかの事情で使用されずに保管されたまま(いわゆるデッドストック)とか、あまり頻繁に使用されておらず状態が良い、という軍服を下士官や古参兵は欲しがったと補足させてください。皆さんわかっていたとは思いますが、念のため。

ついでに

> 戦後、戦地から帰ってこられた方は軍服のまま戻られた
> 方が多いのでしょうか? これもドラマ等では国民服に
> ゲートルを撒いたような服装の方が多いように思うのですが

戦地では軍服以外にないでしょう。敗戦のあとの戦地の日本軍は捕虜として米英中などの軍隊の監視下にありましたから、民間の服など手に入れる余裕はほぼありません。 そして日本行きの船が手配されたらそのまま詰め込まれて帰ってくる、その際に僅かな私物なども没収された人が多かったようです。No.3で私が書いた要領の良い人は軍の毛布をウンヌンという話も内地(国内)の部隊だろう、と修正させてください。

しつこく書きますが、兵隊と下士官の軍服は基本的に軍隊に返すものです。昭和ヒトケタの頃なら除隊のときも羽織袴とか背広とか、ちょっと良い服を除隊直前に送ってもらったり休日外出のときに持ち込んだりするのが許されたようで、それを着て除隊します。人によっては在郷軍人服を準備して、それを着て除隊したんでしょう。また日中戦争や太平洋戦争中も2年ぐらいでは簡単にシャバに戻してくれませんが、長年いれば除隊できる人はいました。そういう人は戦地にいても一度内地の留守部隊などに戻ってその後で除隊するので、内地の部隊でシャバの服を準備すればいいのです(戦争中は晴れ着なんか着る余裕はなかったでしょう)。敗戦後は軍隊が機能しなくなったので、軍服を返す相手がいないも同然ですから、軍服から階級章や徽章の類をはずして(そうするとちょっと国民服のように見えます)その格好で帰還するのが普通。終戦直後はそういう服のまま生活している人も珍しくなかったようですね、何しろモノのない時でしたから。そういう服を「兵隊服」とも呼んだそうです。

ドラマなんて、すべてテキトーなんで真面目に見るもんじゃありません。白黒時代の映画ならまだ多少は参考になりますが、カラーになって、まして平成以降なんてすべて“イメージ映像”でしかないでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
No.3, 5も含め、ご回答くださった文章もわかりやすく、大変勉強になりました。
リンク先の資料も興味深く拝見いたしました。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/25 11:39

元軍国少年です。


日中戦争の初期徴兵(応召)で入営する青年の見送りに
行ったことがあります。」
町会で駆り出されたものです。

「祝出征○○君」と書かれた幟を先頭に20人位いました。
駅のすぐそばの線路脇の空き地で激励会、軍歌を歌い
万歳三唱です。
そこで解散し駅まで行ったのは家族だけのよう。
激励会は他に何組もありました。
入営する人は平服です。
国民服が決まってからは衣料の配給制で制限され、それしか
作れないので普通は入営は勿論国民服でしょう。

激励会の参加は一回きりでその後はありませんでした。
大勢の見送りは控えるようにと通達があったと聞きました。
当時はあの時の軍歌にかなしさのあるものもあったので
そのせいかと思いましたが、スパイを警戒してのことでした。

戦場では兵は支給された軍服、軍帽、軍靴、ゲートル、鉄兜
を付けて戦います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/08/25 11:40

服装の前にまず、ハッキリとしておかなければならないことがあります。



シャバの世界から陸軍に入る場合、みんなが「赤紙」をもらったわけじゃないです。二十歳の時に徴兵検査を受けて甲種や乙種で合格し、数ヶ月後に予定どおり指定された部隊に入って(これが「入営」)兵隊になる人は「現役」の兵隊で、「赤紙」をもらわないはずです。そこで原則2年間、兵隊として努め除隊すると「予備役」となり、またシャバで生活するわけです。「予備役」の人は年をとると「後備役」という扱いになります。これら「予備役」や「後備役」でシャバで暮らしているひとを「在郷軍人」とも呼びます。それから徴兵検査のときに体が弱くて不合格だったり、合格でも兵隊の数が余っていて(大正から昭和ヒトケタの頃はそういうこともあった)結果的に「入営」しなかった人は「補充役」とされてシャバで暮らします。

昭和の始めごろなら、「入営」する人はシャバの服装で出かけますが、軍隊生活というのは人生の一大イベントですから、多少は気合を入れた服装として紋付の羽織袴であったり、背広にネクタイという格好の人が少なくなかったようです。このシャバの服は貸与される軍服に着替えたあとは荷物としてまとめ、「入営」に付き添って来てくれた人に手渡したり郵送したりでシャバに戻します。

昭和12年(1937)、日中戦争が始まると兵隊の数が多く必要となったので「予備役」や「後備役」の人をまた陸軍に呼び戻すために「召集」します。このときの「召集令状」のひとつが俗にいう「赤紙」。この召集はその後もずっと続き、昭和16年(1941)太平洋戦争の時代に突入していきます。初めはまだ年齢が若めの「予備役」から、そのうち戦争が激しくなって人員が消耗してくるとオッサンの「後備役」や、今まで「入営」経験がない「補充役」も「召集」されるようになりました。なお、「赤紙」ではなく「現役」として「入営」する人も戦争が終わるまで変わらずにいました。

「召集」されて軍隊に入るのは「応召」と表現する場合が多いようです。「出征」とは本来は兵隊が日本を離れて戦地に行くことを意味するはずでが、戦争が盛んになると、兵隊になることは近い将来に戦地に行くこととほぼイコールになってきたので、シャバから軍隊に入ることも「出征」と呼ぶことになったようです。

このときの服装は、すでに過去に厳しい軍隊経験がある「予備役」や「後備役」の「在郷軍人」の中にはプライドを込めて「在郷軍人服」という、階級章も付いた軍服そっくりの服を作って持っている場合があり、それを着て家を出ていった人がいるので、それが軍服と誤解されることが多いのではないでしょうか。兵隊や下士官の軍服は軍隊(=国)のものであり、軍隊にいるあいだだけ貸し与えられているものですから、シャバから軍隊に行く時に軍服を着ているのは(将校を除いて)話の辻褄が合いません。当時の日本は間違いなく貧乏国であり、兵隊になったからとしていちいち軍服をあげていては財政負担がとんでもないことになるということを考えてみてください。

また初めて軍隊に入る人を含め「在郷軍人服」を持っていない人の中にも、ちょっと見ると軍服っぽい「青年団服」や「消防団服」などを着ていく場合があるようで紛らわしいです。さらに昭和15年(1940)には「国民服」という、これまた陸軍の軍服に似ているものが定められた(奨励はされたが義務ではない)ので、それ以降、つまり太平洋戦争の期間中は今の目から見ると軍服と見間違えやすい服装が多かったと思います。大学・専門学校からの学徒兵は学生服でしょう。こういった服装はそれぞれの自由意志だと思います。

しかしながら、太平洋戦争も進んでいくと防諜(スパイに情報が漏れないようにすること)として、どれだけ兵員を増やしたか知られないためにあまり大っぴらに入営や応召を行わないように軍部からお達しがあり、言われるままに酒瓶を片手に浴衣がけで夕方に兵営の門をくぐって兵隊になったという著述を読んだことがあります。真偽の程は知りませんが。

最後に、戦地では軍人はもちろん軍服が基本ですが、憲兵の中には任務のために民間の服(背広や防暑服、時には支那服)を着て、頭髪も軍人丸出しの坊主頭ではなく、少し伸ばして七三にしている者も少なくなかったようです。また、軍服でも将校はふつうテーラーメイドの良い軍服を自分で誂えますが、質が良いために目立ち、狙撃されることが多いので安全のために兵隊と同じような安物をわざわざ着たと『ある陸軍予備士官の手記』(中村八朗著)で読みました。当時の日本陸軍は今の自衛隊や米軍と違い、戦闘の時もデスクワークの時も同じデザインの軍服だけです。飛行機に乗るような職種はもちろん例外ですね。

敗戦後はもう軍隊に気兼ねすることもないですから、階級章などを取り去った程度の軍服をそのまま着て復員したでしょう。そのぐらいは退職金がわり(涙)ですね、要領の良い人は軍の毛布などをいただいて帰ってきたようです。

参考URL:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/ …

この回答への補足

ありがとうございます。大変参考になります。
ご回答くださった文章を引用させていただきながら、再度質問させていただきたく、以下お願い申し上げます。

>最後に、戦地では軍人はもちろん軍服が基本ですが、

戦地で戦っている方たちは全員(在郷軍人も学徒兵も)、国から支給された共通の軍服を着ていた、というふうに理解してよろしいでしょうか?

補足日時:2012/08/24 11:29
    • good
    • 0

応召でしょうか?入営でしょうか?



応召(再召集)の場合は軍服です
入営(新兵)の場合は私服です…軍服の支給を受けていないので
服装に決まりはありません

ドラマにもよりますが、昭和18年頃までは国民服は普及しませんでした。ドラマではイメージ先行で国民服を着用させています。(げげげの女房の姉の結婚式は凄かったですが…結婚式だというのに誰も国民服の儀礼章を着けていませんでした。つまり女房の実家は村八分扱いな状態…もっと考証して欲しいものです)

戦地では無論、軍服です。但し、沖縄で防衛召集された住民は国民服その他を着用していました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>応召でしょうか?入営でしょうか?
はい、入営の時の服装についての質問です。

ドラマではイメージ先行で国民服を着て出征シーンを撮影したのですね。

昭和18年頃まで国民服は普及しなかったということは、逆に言うと、それ以降は国民服で出征した方も多いということでよいのでしょうか? 国民服の普及(着用?)率を調べたほうがよいのかもしれませんね。

また、戦後、戦地から帰ってこられた方は軍服のまま戻られた方が多いのでしょうか? これもドラマ等では国民服にゲートルを撒いたような服装の方が多いように思うのですが、どうなのでしょう???

お礼日時:2012/08/23 17:46

>戦地では何を着て戦っていたのでしょうか



当然戦闘用の服というか軍服。種類は色々ありましたが。
    • good
    • 2

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q日本兵の戦争中の服装

よく映画や漫画などで、迷彩服を着た兵隊が出てきますが、
日本兵も迷彩服を着て、ジャングルの中で戦っていたのでしょうか?
どうしても「迷彩服」と聞くと外人の兵隊が着ているイメージがあるのですが、
それは僕のただの思い込みでしょうか。

「迷彩服を来た日本兵がジャングルで戦っている」という表現(設定)は
無理はないでしょうか?

Aベストアンサー

日本では、「視認性を低くする」という意識は無かったみたいです。
なんせ、「無敵皇軍」ですら。
それに、「5銭の葉書で集められる兵隊」という言葉が残っている位ですので、「擬装」をしたという話も寡聞にして知りません。
「バンザイ突撃」が物語るように、余り気にしなかったのでしょう。
いずれにせよ、日本軍が迷彩戦闘服を使用していたという記録は知りません。旧軍の戦争資料館でも見たことがありません。

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q太平洋戦争中に街で見かける男性たち

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われます。

考えれば、あの戦争中でも男性が必要となる職場が多くあったように思います。 たとえば鉄道関係者、警察官、消防士、医師、自治体の公務員、電気・ガス会社の社員、あるいは建設関係 ・・・ などなど、女性だけでは運営出来ないと思うのですが、これらの男性たちには徴兵義務が免除されていたのでしょうか? 

それとも、形だけ一旦徴兵に取られてどこかの軍部に属し、その後に 「派遣」 という形でまた元の職場で以前同様の仕事を続ける、そして家から通う ・・・ こんな制度だったのでしょうか? たしか軍艦を建造する造船所の技師や職工はそんな身分になっていたと、どこかで聞いた覚えがあるのですが、ハッキリしません。

もしそうなら、そんなラッキーな職業には具体的にどんなものがあったのでしょうか?

健康上の問題で徴兵が免除された人は除くとします。

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われま...続きを読む

Aベストアンサー

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えなどということもあったでしょうが、45年には徴兵検査を受けた者の9割が実際に動員されたということですから、それほど多い事例ではなかったと思います。
むしろ、金持ちの子弟は、高学歴ですし、働く場所も親の力などで選べますから、軍属名目の勤務先に勤めたり軍関係の仕事に従事したり、満州国政府に勤めるとか、ということで結果的に徴兵逃れが出来たケースが多かったのではないでしょうか。

アメリカではこれが結構多くて、大統領選挙の時の経歴で問題になったりしますよね。徴兵逃れのため州兵の、しかも空軍(一番戦場に行かないポジション)に親の力で入隊するとか、カナダに移住しちゃうとか。

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えな...続きを読む

Q太平洋戦争時の軍服って支給? それとも手縫い?

太平洋戦争の話題で、軍人の価値は○○銭(赤紙の葉書代)というのがありますよね?
でも、よくドラマの出征シーンでは軍服を着て家を出て行ったり
駅から見送られるシーンがありますね。

それで思ったのですが、軍服はどうなっているのでしょうか?
昔の人は服を自分で作ったりしていたでしょうから女性が縫ってたりしてたのでしょうか?
それとも赤紙の後に実は軍服が郵送されたり
役場とかで受け取ったりしているのでしょうか?

一つ一つの台詞の揚げ足取りをするつもりはないのですが
実情はどうなっていたのかお教えください。

Aベストアンサー

兵隊の制服は支給です
将校は準備金が出るのでテーラーで注文(準備金だけでは賄えないんだけどね)します

出征は普通軍服で家から出ます
何故なら出征は現役兵又は予備役兵が動員されて前線に行く場合の事だからです
予備役の方は普通在郷軍人なので、在郷服を持っています。
この場合ののぼり旗は「祝出征」

軍隊に入る場合は入営と言います
こちらは制服の支給がされていないので私服です
この場合ののぼり旗は「祝入営」

一部の方が書かれている国民服ですが強制されてはいません
国民が着るべき服として推奨された服です
男子は甲乙の制服型
女子は甲乙のワンピースないしツーピースのドレスと作業用モンペ
デザインが悪く、モダンボーイ・モダンガールだった人には耐えられない代物でした
田舎では着物から解放されると受けたようです

昭和18年3月、あまりにも普及しないので、国民服普及協会は「陸軍記念日は国民服で祝おう」というキャンペーンを行ったのですが、会場のほとんどがモーニングか紋付き袴だったそうです

空襲が始まると国民服が普及し始めますが、これが下手な服より手が込んだトンでもない服です
裏地が真っ赤だったり、オレンジの糸で芯を縫い固めていたり…
表に金がかけられない代わりに裏に金をかける状態

兵隊の制服は支給です
将校は準備金が出るのでテーラーで注文(準備金だけでは賄えないんだけどね)します

出征は普通軍服で家から出ます
何故なら出征は現役兵又は予備役兵が動員されて前線に行く場合の事だからです
予備役の方は普通在郷軍人なので、在郷服を持っています。
この場合ののぼり旗は「祝出征」

軍隊に入る場合は入営と言います
こちらは制服の支給がされていないので私服です
この場合ののぼり旗は「祝入営」

一部の方が書かれている国民服ですが強制されてはいません
国民が着るべき服として推...続きを読む

Q戦争が起きた原因

1・一番始めに戦争が起こった原因は何なのでしょうか

2・なぜ日本が戦争をしなければならなくなったのか
  またその引きがねとなった理由は

3・日本はどこと戦争していたのか

4・戦争中の日本を誰が指揮していたのか

5・なぜ周辺アジアと未だに仲が悪いのか

いまだに全く知らない自分が恥ずかしいです・・・。
よかったら教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北部中国へと、軍をすすめてゆきます。

当時の中国は、欧米列強による半植民地状態で、中国で、欧米との利害関係での対立を引き起こした事に起因します。

2.日本軍が、中国に深入りしすぎて、撤退も妥協もできなくなったため、国際間での調整がつかなくなったためです。

3.同盟関係は、とても複雑で、基本的には世界の2/3の国を相手に戦いました。
同盟国は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、フィンランド、ブルガリア、ルーマニアです。

中立国は、スエーデン、スイス、スペイン、トルコ、タイなどです。

主な敵国は、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、中華民国、中国共産党、自由フランス、などと、その植民地のオーストラリア、ニュージーランド、インド、カナダ、などです。

4.一応大本営は有りますが、各組織が勝手に作戦をたてて動いていました。

5.アジア周辺と仲が悪いと言っても、問題になるのは、中国および華僑圏と、韓国・北朝鮮です。

東南アジアの華僑は、大戦前は、シギリス・オランダ・フランスなどの植民地支配の手先として、現地人を支配する立場にいましたが、日本軍の進撃により、植民地軍が撤退すると、その利権を奪われてしまいました。
その後、日本の支援で独立国となったため、当時の利権を永久に失ってしまった事によります。

中国(中華人民共和国)は、戦勝国といっても、自分達では、全く無力で、何もできませんでした。
実際、中共軍と日本軍は、ほとんど戦っていません。
戦勝国といってみても、実質が全く伴っていませんでした。
そのため、日本に対し、強いコンプレックスを持ってしまい、やたらに正当性を主張するようになりました。
最近では、中国の国力がアップしてきましたので、コンプレックスは、より大きくなっているようです。

韓国ですが、本来韓国は、敗戦国なのですが、戦勝国としての地位を求め、他国からソデにされています。
ここでも日本に対して強いコンプレックスから、反日になっています。

ただ、韓国の場合でも中国の場合でも、日本に対して、真に反日の人は、それほど多くなく、パホーマンスの域を出ていないようです。

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北...続きを読む

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q太平洋戦争時の衣食住について

小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q現役と補充兵

こんにちは。
大岡昇平さんの本を読んでいますと、普通に当時の言葉が出てきて、事情に疎い私にはなかなか大変です。
(ニッパハウスとかニッパ小屋とか、ネットで調べました・・・)

陸軍で、士官ではなく、一般人が入隊する場合、

現役→徴兵検査を受けて、すぐ召集されて軍に入った人(若い人)

補充兵→徴兵検査を受けてはいるが召集されていなかった人が、後から召集、戦地に送られた

かな?? と思ったのですが、今ひとつよく分かりません。
概要を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦前の日本人男性は、原則として全員が20歳になると徴兵検査を受けました。その結果として、No1さんが言われるように
甲種、乙種、丙種、丁種、戊種
と区分されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB

なお、甲種であっても全員が現役に服するわけではありません。甲種の中からさらに抽籤された人が現役兵として陸軍は2年、海軍は3年の現役に服しました。甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人は、戦争などが起きなければ一生軍隊とは無縁に過ごすことになります。

注意して頂きたいのは、甲種合格、さらに現役兵として徴兵されると、2年の兵役を終えて予備役となる際には、たいていは陸軍上等兵、成績の良い人は陸軍伍長の階級を得ることです。このような人が戦争の勃発などで召集された場合、上等兵または伍長として再スタートすることになります。

ところが、支那事変、大東亜戦争と戦争が激しくなるにつれ、過去に徴兵検査を受けたが現役兵として入営しなかった
「甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人」
が、「臨時召集令状」(いわゆる赤紙)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E9%9B%86%E4%BB%A4%E7%8A%B6
を受けて、例えば30代で入営することになりました。
この場合、年齢や社会での地位にかかわらず、「二等兵」から始まります。そして、例えば21歳の上等兵から奴隷のように酷使されることになりました。これについては、こういう哀れな境遇の二等兵のことを「補充兵」と呼びました。大岡昇平氏の本はそういう視点で読んで下さい。

「アーロン収容所」という本がありますが、この本を書いた会田雄次氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%94%B0%E9%9B%84%E6%AC%A1
は、1916年生まれで1936年(昭和11年)に徴兵検査を受け、入営せずにそのまま大学生活を送り、1943年に27歳で臨時召集令状を受けて陸軍に二等兵として入営し、典型的な「補充兵」としてビルマに送られ、インパール作戦に動員されて餓死するような悲運は逃れたものの、イギリス軍の攻勢に曝されて戦死か餓死する寸前で日本が降伏し、イギリス軍の捕虜となりました。

自らが補充兵であった会田氏によりますと、食事も休息も全てが最後で、全ての雑用をこなさねばならない補充兵は、年齢による体力の衰えもあり、補給が途絶えた戦争末期には、敵弾に倒れる前に真っ先に栄養失調で死んで行ったそうです。もちろん、爆雷を抱いて敵戦車への体当たりを命じられるのも、最下級の補充兵が一番最初です。

「ビルマから生きて帰った補充兵はほとんどいないはず」
と会田氏の本に書いてあると記憶します。

戦前の日本人男性は、原則として全員が20歳になると徴兵検査を受けました。その結果として、No1さんが言われるように
甲種、乙種、丙種、丁種、戊種
と区分されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB

なお、甲種であっても全員が現役に服するわけではありません。甲種の中からさらに抽籤された人が現役兵として陸軍は2年、海軍は3年の現役に服しました。甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人は、戦争などが起きなければ一生軍隊とは無縁に過ごすことに...続きを読む

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報