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盧溝橋事件が発生したときの中国大陸の日本軍の状況を教えてください。
日本軍が中国に軍隊を駐屯していたのはどの条約や協定によるのでしょうか?

はじめて日本が軍隊を中国に駐屯させたのは、義和団事件ですよね?ですから、盧溝橋事件発生時に北京に日本軍がいたのは分かります。盧溝橋事件が発生したときには、中国のどこにどれぐらいの軍隊を日本は派遣し駐屯していたのでしょうか?またそれはいかなる条約や協定により決まったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

日本企業やその従業員、日本人居留民を護るため。



普通なら中国側の警察が護るのでしょうが当時の中国は国家として体を成しておらず、国内における他国の企業や居留民に対する安全保障が得られなかったから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/09 12:18

蛇足


・回答ありがとうございます。
第一次世界大戦で得た権利は日本軍の駐屯と関係ないのでしょうか?
ドイツ権益を譲りうけましたよね? 山東省と青島には日本軍は駐屯していたのでしょうか・

事件発生当時
青島など山東方面には、一万以上の邦人がいましたが、
対支二十四箇条要求が大不評だったこともあり、
結局、大正11年に山東還付条約を締結、ベルサイユ条約の精神に基づき、
ドイツ租借地は中国に返還、
「ご苦労さん」代に、ドイツ資本の鉱山鉄道の利権をもらい、日本軍は撤退していました。
 有事には山東の邦人保護は、天津の支那派遣軍や、関東軍で対応できるという
見込みで(事実、昭和初期の北伐には、そうした。山東出兵)
平時は駐屯していなかった。
 青島に再び、日本軍が入ったのは、
日華事変が激化し、北平・上海・南京占領がすんだ後の
1938年1月10日でした。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございます。よく分かりました。

ということは、日本が軍を大陸に駐屯させる取り決めが交わされたのはこの四つの条約が締結されたときと理解してよろしいでしょうか。他に何かありますか?

日清戦争(下関条約)、義和団事件(北京議定書)、日清通商航海条約、南京条約

お礼日時:2012/09/01 13:44

当事の帝国陸軍支那駐屯軍は、兵力5,774 名。

一個旅団相当
軍司令部は天津にあり,支那駐屯軍司令官は田代皖一郎中将、参謀長は橋本群少将。
天津には,支那駐屯歩兵第1連隊第2大隊・歩兵第2連隊を配備,
北京(北平)には、支那駐屯歩兵旅団司令部(河辺少将),支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊510 名を配備。
(第一連隊長は、後にインパール作戦を指揮する牟田口廉也大佐で、
大隊長は後にガダルカナル島戦で戦死する一木清直少佐。)
歩兵を支援する騎兵・砲兵・工兵・戦車隊もいた。
その他、通州、豊台、塘沽、秦皇島、山海関に小部隊を配備。
各地に情報収集のための特務機関を置いていた。
(義和団事件処理の北京議定書で、清は派兵した諸国に
港湾地区(天津)から北京の各国公使館のある外人居留地までの警備駐兵権を
認めざるを得なかった。事件当時、日米英仏伊の陸軍と海兵隊
が、これに基づき、駐兵していた。
※日本が軍事的に支配していた満州帝国には二十万を超える関東軍が駐屯していた。

 これとは別に、アヘン戦争処理の南京条約に基づき、成立した上海共同租界の運営に
日本も参画するようになり、上海周辺の邦人保護特殊権益擁護のため、
帝国海軍は、河用砲艦数隻の艦隊を上海に置き、揚子江流域を巡回警備させ、
帝国海軍唯一の、陸上に常設駐屯する陸戦隊として
上海特別陸戦隊約二千名を上海に置いていた。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
第一次世界大戦で得た権利は日本軍の駐屯と関係ないのでしょうか?
ドイツ権益を譲りうけましたよね? 山東省と青島には日本軍は駐屯していたのでしょうか・

お礼日時:2012/09/01 12:05

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