これからの季節に親子でハイキング! >>

昔、私が真面目に仏教の勉強をしていたころ
仏教は仏教で問題が多いことがわかりました。
とにかく批判が多いのです。
特に原始仏教をめぐってです。
大乗仏教の勉強をすると、それは釈迦の本当の教えではない
などいわれて相手にされません。
かといって、パーリ語をやって文献学をさかのぼって
と思っても、なかなか難しいものがありました。
そもそも、パーリ語の文法書がなぜ日本では
水野弘元さんの古いものしかないんですか?
パーリ語を一般人はやるなってことですか?

結局、サンスクリットもパーリ語も漢文もわかりませんよ。
偏った知識で文句を言うわけですよ。

しかし原始仏教にこだわるならさっさと
出家しろよという話になります。

日本では乞食は法律で禁止されています。
乞食行なんて違法なわけです。
原始仏教をそのまま現代の日本で再現したらカルトでしょう。
それなのに釈迦の本当の教えがどうとか
うんざりで。

せっかくなのでなにか魅力を教えてください。

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A 回答 (26件中1~10件)

NO.6ですよっと



少し付け加えを・・いやいや、しつこくて申し訳ない

kazamidoriさんが、上げられた方たちの事は
有名な方なので、知ってはいますが

これは、現にある問題なので
いくら、思想があろうが、無かろうが、誰が言おうと
あまり問題ではない・・そこが苦しいのですけどね(-Д-)はっはっは~参った

この回答への補足

いやむしろ、解決しないのかもしれない。
ずっと悩むのかもしれない。
それが生き方なのかもしれない…。

なんだか久しぶりにはっとさせられました。
どうもありがとうございます。

補足日時:2012/09/08 02:09
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この回答へのお礼

>これは、現にある問題なので
>いくら、思想があろうが、無かろうが、誰が言おうと
>あまり問題ではない・・そこが苦しいのですけどね

なるほど…。
なんだか凄く納得しました。
こういうのってどうしたら解決するんでしょうね。

お礼日時:2012/09/08 02:03

ど~もです。

こんにちはです。

☆☆☆
~~~~~
>「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。
家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。
おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・第11章 153-154)
家にたとえると、
建築がキリスト教
解体が仏教
そして、
空というバラバラの世界を結び合わせるものは、力(チカラ)
なんじゃないかなあ、なんて思ったことがありました。
トンでもでしたらすみません。
~~~~~~
個人的には、「その解釈でも、いいんじゃないのかな」です。
ゴータマ・ブッダは、ここでは、縁起の理法をつかって「個体(肉体)の生成」を説明しているんだし、縁起の理法は何も《渇愛(タンハー)》と《肉体》にだけ限ったものではないので。「《縁起の理法》の応用例として、これはこれでありだ」と思うのよ、個人的には。

で、
 家の梁:キリスト教の教義
 家の屋根:教会
なんてね。
(クリスチャンの方、とくにカトリックの方、ごめんなさい。キリスト教やその信仰を否定するつもりは、毛頭、ございません。)


=======
中村元は、ここでの《タンハー》を《妄執》(《愛執》)と訳しているね。「さすが中村先生、文意に即した適確な日本語の訳語をあてていらっしゃる!!」とあらためて敬服。
《渇愛》ってのは、「喉が乾いたときなどに激しく水を求める。そして、どれだけ飲んでもその喉の渇きが癒されず、さらに激しく水を求めて……」ってイメージ。だから、法句経(ダンマパダ)のここでは、《渇愛》って日本語の訳語は少しピンと外れ。
ちなみに、中村元は
  家を作る者:タンハー
  家:個体
としています。

しか~し、わたくし《ねむりねこ》は、もっとダイレクトに、
  家を作る者:タンハー
  家:肉体
と考えた方が分かりやすいと思います。
第十一章は《老いること》と題してある。このタイトルが示す通り、ここのテーマは《肉体とその老い》。《家(屋)》は《肉体》と考えた方が分かりやすい。しかも、文章の対応関係が明瞭になる。
中村元訳『真理の言葉・ダンマパダ』(岩波文庫)には
  150 骨で城はつくられ、それに血と肉とが塗ってあり、…
とある。さらに
  154 家屋の作り手よ! 汝の正体は見破られた。 …汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった…
つまり、
  汝の(「作った」or「家の」の)梁:骨
  家の屋根:血と肉
という対応関係がありありと浮かび上がるんだね。

《個体》だと《肉体》だけなのか、《心》まで含んでいるか分かりづらいしさ。で、たぶん、中村先生の《個体》は《心》と《肉体》の意味。《個体》のもう一つの構成要素の《心》に関しては、
  154 …心は形成作用を離れて、妄執は滅ぼし尽くされた。
と続く。
でも、ねむりねこは、《肉体》と《心》を分離して考え、《肉体》に対する《タンハー》は滅びて、
  154 …心は形成作用を離れて、妄執は滅ぼし尽くされた。
となる。これだと、十二支縁起(無明→行→識→…→有→生→老死)とその逆観(無明←行←識…←有←生←老死)との関わり合いの線も出てくるんで。

まっ、これくらいの解釈の自由度はあっていいじゃないのかと思うのよ。

この解釈の自由度が仏教の魅力の一つということで。
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この回答へのお礼

>まっ、これくらいの解釈の自由度はあっていいじゃないのかと思うのよ。

>この解釈の自由度が仏教の魅力の一つということで。

わざわざ、ありがとうございます。

お礼日時:2012/09/09 15:37

追伸まで



>「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。
家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。
おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・第11章 153-154)
家にたとえると、
建築がキリスト教
解体が仏教
そして、
空というバラバラの世界を結び合わせるものは、力(チカラ)
なんじゃないかなあ、なんて思ったことがありました。
トンでもでしたらすみません。

○本当にトンでもですね。何語で読んでもこれではまるでダメですね。

(法句経・第11章 153-154)の「家を作る者(の正体)」とは「カルマー」のことですね。「業」といいますね。良き業であれ悪しき業であれ心に引っ掛かりがあるから苦の転生を繰り返すという見解ですね。
業という家は渇愛(タンハー)の梁、屋根からできているという意味ですね。

「ゴータマが沙羅双樹の下で悟りをお開きになったとき、最後まで心に残ったのが家族のことだと言われています。悪魔、パピラスマーラはそこを突いてきたのですね。ゴータマは自身の心に残っている引っかかりに気がつき,これが己心の魔になることがわかり反省し、悪魔を退け完全なる解脱をするのですね。」

イエスもこれと同じようなこと言っていると思いますよ。
イエスは息子に説教しようとする母マリアに向かって、「あなたは私の肉体の母ではあるが魂の母ではない。」といってますね。
つまりね、釈尊の教えもイエスの教えも、業により存在する自分ではなく真なる自我を求めているのですね。
だから、世界宗教の教えは一乗なんですよ。違って見えるのは過去の業や現在の渇愛(無明)を通して見ているからで、それが個々の修行課題なのですよ。ありのままに物事を見ること(正見)がいかに難しいかですね。なんにもなくなることじゃないんですよ。なんにもなくなることが悟りや救いなら仏教もキリスト教も意味ないし、必要ないものね。無明の愚かさが蔓延しているのですね。

参考にね
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この回答へのお礼

はい。あくまでその仏典の箇所は仏教の文脈であって、
他と結びつけて解釈するものではないとは、思います。

普遍と、差異ということを考えます。
宗教は同一であると考えるのか、差異を強調するのか。

日本だと、神仏習合か、神仏分離か。

これはその人の立場によっても変わってくるのかもしれません

お礼日時:2012/09/09 09:45

仏教を学んだとしても、お釈迦様の教えは汲み取る事が出来難いと感じています。

その理由は『解説書を書いた人の理屈が入り込んでいるからです。』

人間は、如何しても『自分の思惑』を交えて物事を感じて、考えて、書いているからです。

大乗仏教、小乗仏教、或いは他力本願、自力本願と、その中にも各派が成立しています。どの流宗派であっても、その極意は一生掛かっても理解すら出来ない場合も多いと感じます。

長い歴史も、理解する事を拒んでいる理由です、その訳は、言葉による伝達方式に拠っています、他国の言葉を翻訳して、又解説している事です。

自国の言葉でさえ1,00年前の言葉を理解する事は不可能に近いと思います。

従がって書物からの理解は、参考程度かも知れません。

と言う事で、お釈迦の教えとは、『悟る事』の中に存在すると思います。その悟りの内容を、事細かく説明しているものが、仏典になっていると思います。

ですがその仏典の内容そのものも、『悟った後でないと理解出来ない内容になっている筈ですので、』悟りに付いて説明したいと思います。

悟りの内容そのものが、『仏教の魅力になっています。』ので、かいつまんで説明します。

お釈迦の教えは『一切皆苦』=『人生苦』=人生における悩みや苦しみ=人生における挫折や失望や深刻な苦しみなどからの解放を意味します。

人生に於ける全ての苦しみからの解放が『悟る事によって』成就出来ると言う意味です。是が仏教にまで発展した理由です。宗教が生まれる理由になっています。

お釈迦の教えは、人間の『心の矛盾』の解消が全ての苦しみを解くカギになっている事を発見した事を意味します。

『心の矛盾』と言う意味は『自分の心同士が争っていて、その事が原因で正常な生活が出来難くなっている。』=『生き難い想いで生きている事』或いは『意識している時全てが苦痛になっている。』と言う意味です。

心の矛盾とは『自我意識』VS『自分の内部の命を働かせている意識』が矛盾を起していて、相争っている、と言う意味です。漠然とした不安と戦っているという意味です。『意識地獄に入ってしまって、抜けられなくなっている状態』を意味します。この意識地獄が『一切皆苦』と言う意味です。

人間の脳内に『意識が二つ存在する』証拠を二つ程載せてみます。

一つはウイキペデアからですが、その研究成果によって、ノーベル賞まで授与された研究です。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”



もう一つは、脳科学者が、脳卒中のために、右脳の意識と左脳の自我意識の違いを説明している動画です、



URL:


この動画から読み解くとするなら、自我意識は『右脳の意識からの情報を元にして』全ての生活が成り立っている事です。ついでに説明して置きますが、右脳の意識は『無意識の時の、自分の身体と心を支配している意識です。』

『心の中が騒がしくなって、すっきりしない時は、二つの意識が脳梁の中で、言い争いをしている時です。』

一人の人間の脳内に、意識が二つ存在するという事実を納得出来ないと思いますので、簡単に説明して置きます。『我を忘れていた場合の、自分の身体と心を支配している意識です。』

或いはメンタル面が強いと言う場合の、『自我意識が出難い状態が維持出来た時』です。自我意識が引っ込んでいた場合に『自分の身体と心を支配している意識』が、無意識の中に、封印された形で存在している意識です。

人間の自我意識は、短い?一人の人間の一生を学びながら言葉で感じて表現している意識です。有限の身の上です。永遠と言う概念でさえ理解する事が出来ない機能で出来ています。その理由は言葉で全てを把握する機能で成り立っている事です。

物事を『言葉』で理解する、その機能で成り立っている事がその証拠です。言葉は『有限=限定されている事=割り切れる事』を意味するからです。

理論や理屈で、人間が全てを、納得する事が出来たなら『人間には悩みはないと思います。』此処に哲学の存在理由があります。

理屈や理論だけでは、納得出来ない何かが、心の中に内在している事から『人間の悩みは始まっています。』左脳の自我意識にはない何かを『希求させる、者の存在』を自分の中に感じている予感です。

此処に悩みが始まっているという意味は、理屈や理論的な『有限』に対して『永遠』を希求させている者の存在です。この二つの『相容れないものの葛藤が』人間の悩みです。

この『絶対的な矛盾』の解消方法を見付けた、初めての人が、お釈迦様だった事です。

有限の命を持った人間の苦しみとは、永遠の命を希求する苦しみを内在しているという意味です。この問題の解決が『魂の救い』として、各種の宗教の原点となっています。

この事を理解するためには『右脳の意識=命そのものの働き=無意識の中に封印された形で存在している無意識の意識』を説明しておく必要があります。

長ったらしい書き方をしている『右脳の意識』と、脳梁(意識の根底)の中で出会う体験が『見性』体験です。禅宗などでの記述を読むと出ています。『今更お前は誰かと聞く必要などなかった。』と言う体験です。

この体験は、各自で体験して頂く他に方法は有りません。その体験後は禅の過去の言葉で表現するなら『生死の問題が解決する。』です。

キリスト教での表現方法をするなら(内在する)『神と和解する。』事によって『神の僕となる』と言う表現方法です。

禅の表現方法と同じ体験です。『生死の問題が解決する』=『自我意識は、命の働きの前にでしゃばらなくなる。』命そのものの働きに従がう、と言う意味です。

命の働き(右脳)の機能は『身体の機能全てを取り仕切っている事です。』心臓の速さや呼吸の数も、発汗作用等も、ホルモンの分泌や、神経系統などや、消化機能等や、その他諸々です。こういった身体機能を『自我意識が握っている』と勘違いして、『自分の心の中で相争う場合』=『心の矛盾』と表現します。『自律神経失調症や難治性の腸症候群や心身症』と言う呼び名をしています。

命の働き(右脳)の機能は『行動する場合にも係わっている機能です。』この機能と、主導権争いしている事が『心の矛盾』となって、全ての神経症の原因を作っています。

命の働き(右脳)の機能は『心』に対しても機能しています。『湧き上がる感情や、湧き上がる考え』に付いても、多大な影響を与えています。自我意識が主導権争いをしている姿が『心を病む事』の原因なっています。

この三つの障害は『全て自我意識たる、心に圧迫感』を伴っています。おまけに『身体の検査や脳の検査を如何に精密にしたところで』異常は殆ど見付かる事は有りません。もしホルモンなどの異常が見付かった場合でも『自分で作り出した恐怖感の為に自分がホルモンを作り出しているだけです。』

こういった『心の矛盾』の原因が、自分の心の中に存在している事を発見した人がお釈迦様と云う事になります。そうしてその解決をお釈迦の教えとしていると感じます。

結論を言うなら、お釈迦の教えは『魂の救い』です。その教えとは『究極的な心の癒しの心理学』と言う一面です。

自律神経失調症も、神経症も、心を病む事も全てお釈迦の教えに従がうならば、悟る事によって『完治』が保障されている事を意味します。『心の矛盾の解消』によって全ての障害は完治する。』と言う意味があります。
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仏教を学んだとしても、お釈迦様の教えは汲み取る事が出来難いと感じています。

その理由は『解説書を書いた人の理屈が入り込んでいるからです。』

人間は、如何しても『自分の思惑』を交えて物事を感じて、考えて、書いているからです。

大乗仏教、小乗仏教、或いは他力本願、自力本願と、その中にも各派が成立しています。どの流宗派であっても、その極意は一生掛かっても理解すら出来ない場合も多いと感じます。

長い歴史も、理解する事を拒んでいる理由です、その訳は、言葉による伝達方式に拠っています、他国の言葉を翻訳して、又解説している事です。

自国の言葉でさえ1,00年前の言葉を理解する事は不可能に近いと思います。

従がって書物からの理解は、参考程度かも知れません。

と言う事で、お釈迦の教えとは、『悟る事』の中に存在すると思います。その悟りの内容を、事細かく説明しているものが、仏典になっていると思います。

ですがその仏典の内容そのものも、『悟った後でないと理解出来ない内容になっている筈ですので、』悟りに付いて説明したいと思います。

悟りの内容そのものが、『仏教の魅力になっています。』ので、かいつまんで説明します。

お釈迦の教えは『一切皆苦』=『人生苦』=人生における悩みや苦しみ=人生における挫折や失望や深刻な苦しみなどからの解放を意味します。

人生に於ける全ての苦しみからの解放が『悟る事によって』成就出来ると言う意味です。是が仏教にまで発展した理由です。宗教が生まれる理由になっています。

お釈迦の教えは、人間の『心の矛盾』の解消が全ての苦しみを解くカギになっている事を発見した事を意味します。

『心の矛盾』と言う意味は『自分の心同士が争っていて、その事が原因で正常な生活が出来難くなっている。』=『生き難い想いで生きている事』或いは『意識している時全てが苦痛になっている。』と言う意味です。

心の矛盾とは『自我意識』VS『自分の内部の命を働かせている意識』が矛盾を起していて、相争っている、と言う意味です。漠然とした不安と戦っているという意味です。『意識地獄に入ってしまって、抜けられなくなっている状態』を意味します。この意識地獄が『一切皆苦』と言う意味です。

人間の脳内に『意識が二つ存在する』証拠を二つ程載せてみます。

一つはウイキペデアからですが、その研究成果によって、ノーベル賞まで授与された研究です。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”



もう一つは、脳科学者が、脳卒中のために、右脳の意識と左脳の自我意識の違いを説明している動画です、



URL:


この動画から読み解くとするなら、自我意識は『右脳の意識からの情報を元にして』全ての生活が成り立っている事です。ついでに説明して置きますが、右脳の意識は『無意識の時の、自分の身体と心を支配している意識です。』

『心の中が騒がしくなって、すっきりしない時は、二つの意識が脳梁の中で、言い争いをしている時です。』

一人の人間の脳内に、意識が二つ存在するという事実を納得出来ないと思いますので、簡単に説明して置きます。『我を忘れていた場合の、自分の身体と心を支配している意識です。』

或いはメンタル面が強いと言う場合の、『自我意識が出難い状態が維持出来た時』です。自我意識が引っ込んでいた場合に『自分の身体と心を支配している意識』が、無意識の中に、封印された形で存在している意識です。

人間の自我意識は、短い?一人の人間の一生を学びながら言葉で感じて表現している意識です。有限の身の上です。永遠と言う概念でさえ理解する事が出来ない機能で出来ています。その理由は言葉で全てを把握する機能で成り立っている事です。

物事を『言葉』で理解する、その機能で成り立っている事がその証拠です。言葉は『有限=限定されている事=割り切れる事』を意味するからです。

理論や理屈で、人間が全てを、納得する事が出来たなら『人間には悩みはないと思います。』此処に哲学の存在理由があります。

理屈や理論だけでは、納得出来ない何かが、心の中に内在している事から『人間の悩みは始まっています。』左脳の自我意識にはない何かを『希求させる、者の存在』を自分の中に感じている予感です。

此処に悩みが始まっているという意味は、理屈や理論的な『有限』に対して『永遠』を希求させている者の存在です。この二つの『相容れないものの葛藤が』人間の悩みです。

この『絶対的な矛盾』の解消方法を見付けた、初めての人が、お釈迦様だった事です。

有限の命を持った人間の苦しみとは、永遠の命を希求する苦しみを内在しているという意味です。この問題の解決が『魂の救い』として、各種の宗教の原点となっています。

この事を理解するためには『右脳の意識=命そのものの働き=無意識の中に封印された形で存在している無意識の意識』を説明しておく必要があります。

長ったらしい書き方をしている『右脳の意識』と、脳梁(意識の根底)の中で出会う体験が『見性』体験です。禅宗などでの記述を読むと出ています。『今更お前は誰かと聞く必要などなかった。』と言う体験です。

この体験は、各自で体験して頂く他に方法は有りません。その体験後は禅の過去の言葉で表現するなら『生死の問題が解決する。』です。

キリスト教での表現方法をするなら(内在する)『神と和解する。』事によって『神の僕となる』と言う表現方法です。

禅の表現方法と同じ体験です。『生死の問題が解決する』=『自我意識は、命の働きの前にでしゃばらなくなる。』命そのものの働きに従がう、と言う意味です。

命の働き(右脳)の機能は『身体の機能全てを取り仕切っている事です。』心臓の速さや呼吸の数も、発汗作用等も、ホルモンの分泌や、神経系統などや、消化機能等や、その他諸々です。こういった身体機能を『自我意識が握っている』と勘違いして、『自分の心の中で相争う場合』=『心の矛盾』と表現します。『自律神経失調症や難治性の腸症候群や心身症』と言う呼び名をしています。

命の働き(右脳)の機能は『行動する場合にも係わっている機能です。』この機能と、主導権争いしている事が『心の矛盾』となって、全ての神経症の原因を作っています。

命の働き(右脳)の機能は『心』に対しても機能しています。『湧き上がる感情や、湧き上がる考え』に付いても、多大な影響を与えています。自我意識が主導権争いをしている姿が『心を病む事』の原因なっています。

この三つの障害は『全て自我意識たる、心に圧迫感』を伴っています。おまけに『身体の検査や脳の検査を如何に精密にしたところで』異常は殆ど見付かる事は有りません。もしホルモンなどの異常が見付かった場合でも『自分で作り出した恐怖感の為に自分がホルモンを作り出しているだけです。』

こういった『心の矛盾』の原因が、自分の心の中に存在している事を発見した人がお釈迦様と云う事になります。そうしてその解決をお釈迦の教えとしていると感じます。

結論を言うなら、お釈迦の教えは『魂の救い』です。その教えとは『究極的な心の癒しの心理学』と言う一面です。

自律神経失調症も、神経症も、心を病む事も全てお釈迦の教えに従がうならば、悟る事によって『完治』が保障されている事を意味します。『心の矛盾の解消』によって全ての障害は完治する。』と言う意味があります。


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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
禅に関心がある人は脳科学に興味を持つ人も多いのか
そういう本がよくありますよね。

お礼日時:2012/09/09 08:56

仏教において釈迦は結局、我々に何を教えたかったかと言えば、我々の誰にもすばらしい能力というか、その胸中に内在する卓越した力の存在とその開発方途を説きたかったのであり、それを発揮さえさせれば誰であっても幸福な境涯になること間違いないというもので、釈迦の本意はこの一点に尽きると言ってもよいでしょう。

それで『衣裏珠の譬え』や『長者窮子の譬え』があるのですが、当時も今も、相も変わらず自身の本来持つ宝の存在に気付かずに『宝の持ち腐れ』状態で、他力本願に走る人たちが多いのも現状かと思われます。

ですから、この点について解き明かしている法華経について、もっと調べられればよいかと思われます。ともかく、釈迦の本意は法華経にあって、他の教経は法華経に至らせるための手段であって、いわゆる枝葉末節で、根幹たる法華経こそが出世の本懐で、ここにこそ我々の持つ宝蔵を解き開く術が説かれているのです。

確かに仏法上のいろいろな討議、論争も結構ですが、以上の肝心を忘れては『隔靴掻痒(かっかそうよう:靴の上から足を掻く)』な感じで、いつまでも平行線上かと思われます。

いずれにしろ、枝葉末節に捉われずに根幹を見極めて、勉強されればよいかと思われます。
『あらゆるものには輝くダイヤが隠されている。だから磨けば光る』というエジソンの言葉がありますが、おそらく釈迦にも同じような思いがあったのでないかと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>ですから、この点について解き明かしている法華経について、もっと調べられればよいかと思われます。

はい。法華経の話題が多く出てきましたので
とりあえず法華経を読み直してみることにします。

お礼日時:2012/09/09 00:49

どーも、#No.2です。

お礼、感謝です。

☆☆☆
> ”新訳の《放蕩息子のたとえ》は法華経の《長者窮子のたとえ》のパクリ”疑惑が持ち上がった

とはいえ法華経が成立したのはもっと時代が経過してからではありませんか?
~~~~~
はい、法華経が成立したのは、西暦50~150年ごろ。共観福音書が70~100年。可能性としては、法華経の方がパクった可能性がある(笑い)。
でも、当時のヨーロッパでの仏教学はまだ進んでいなくて、仏教のお経は全部、お釈迦様が説いたと考えられていた。
で、そんなことを言う人が出た。


☆☆☆
釈尊が悟りを得る前に悪魔が邪魔をしにやってきた話があるでしょう(降魔成道)。
これにほとんどそっくりな話が、ゾロアスターにもある。
で、イエスは荒れ野で悪魔に誘惑話を持ちかけられる(荒れ野の試し)。

この三つはまったく無関係、独立して成立した?
どうなんでげしょ。



☆☆☆
 ☆仏教といいますか、原始仏教は、ある意味近代になって
 欧米から入ってきた外国の新しい宗教といえるかもしれません。
~~~~~
そうですね、仏教学はヨーロッパから輸入した学問ですね。

江戸時代に、日本でも「漢訳ではなく、サンスクリット語からお経を理解、研究しなければならない」なんて考えも起きた。真言宗の慈雲尊者飲光(おんこう)って大変に高徳なお坊さんなんですがね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E9%9B%B2
ヨーロッパのサンスクリット語研究が始まるころとほぼ同時並行的に。

同じく江戸時代、富永仲基は《大乗非仏説》を唱えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8% …
日本でも、欧州の仏教学のようなものが独自に発展する気運はあった。でも、その後に続く人がいなかった。それほど、日本では漢訳経典の権威と宗派の教学・宗学は絶大!!ってことです。

今でもそうでげしょ、僧籍を持った仏教学の研究者は、僧籍剥奪の怖れがあるので、属する宗派の教学を表立っては批判できない。祖師の考えは間違っていると声高に叫べないでげしょ。
たとえば、○○宗で、『祖師▲▲の教義は、誤解と迷妄の産物だ』なんてことを言ったら、エラいことになる。大きな矛盾を抱えているださぁ~、
真言宗は比較的自由にものが言えるらしいけれど。。。
だいぶ前に読んだ本だけれど、
「空海は、漢訳経典や漢訳典籍の曖昧さと間違いを利用し、そのことを知った上で、時に強引な読みかえを行ない、真言宗の教義確立と自身の哲学を構築した」
みたいなことを言っていた。「自身の属する真言宗の教義と空海の哲学はまったく揺るがない」って自信があるんだろうね、きっと。



☆☆☆
 ☆漢訳仏典のほかに、外国語に訳された仏典が日本に出回ればおもしろいかもしれません。
~~~~~~
『解深密経』(げじんみつきょう)の全英文訳をたまたまネットで見つけ読んだことがあるんですが、これがかえって、漢訳より分かりづらい(笑い)。
繰り返しが多くて冗漫。すぐに飽きて読むのやめちゃいました。ポリポリ。
「やっぱ、漢訳は簡潔に書かれていて、すごいわ。しかも、格調が高い。さすが中国は文章の国!!」
とNo.2の「漢訳は、結構、危ない」に矛盾する結果に。。。。

欧米で英語やフランス語に訳された経典を日本語に翻訳するってことはないでしょうね。
だったら、原文のサンスクリットやパーリから直接、訳すでしょう。その方が正確で安全。
そして、サンスクリットの原文がなければ、チベット語から。
チベット語訳は、逐語訳で正確って話でさぁ~。意外でしょ。
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この回答へのお礼

ネムリネコニャさん博識で凄いです。

>この三つはまったく無関係、独立して成立した?
>どうなんでげしょ。

どうなんでしょうね。
ただ、インド・ヨーロッパ語族という共通点がありますから
発想が似るとか?まさかね。

インド・ヨーロッパ祖語で宗教の経典書いたら
とんでもないことになるかもしれませんね。

それこそ、アーリア人仮説とか、ナチスとか危険な世界。

>真言宗は比較的自由にものが言えるらしいけれど。。。

そうなんですか。
密教も勉強したかったんですが、当時は時間がなくて
うやむやに。いったん学習環境がなくなると難しいです。

チベット語もやってません。
チベットかあ…。

やっぱり密教なのかなあ。
密教って一番仏教ではないといわれつつも、密教としてやってますよね。

まあ、なんにせよ私は基本的に日本語から勉強しなければなりませんが…。

お礼日時:2012/09/08 15:49

このままでは、いかん!!


あまりにもkazamidoriさんに、失礼だ!!


・・と、思って、私の、仏教で好きな事を一つ
よく、お寺なんかに、色々と、お像がありますよね~
そのお像の下の所に、あまのじゃくが、踏みつぶされている
だが、よく見ると、あまのじゃくは、良いお顔・・

実は、仏教の天部、神様ですね
その方達の位の高い方は、蓮の花に立っておられます
ですが、位の低い方は、蓮に立ってはいけない!
そこで、あまのじゃくは

【せめて、私の、体にお乗りくださり、柔らかい台座として、お使いください】

・・と、体を明け渡している・・
僕は、そのあまのじゃくの心に感動したのを覚えています

耳触りのいい、優しい話も、大切ですよ!
私も、キリスト教に、疲れ果てた時期があります
kazamidoriさんも、こんな所で、苦しむより
仏様の悲愛だけを信じていればいいよ←なぜかため口
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この回答へのお礼

いえいえかまいませんよ。
okwaveの削除基準はよくわかりません。
削除されるときはバッサリですけど、
問題ない?ときはなぜかずっと残ります。

>そこで、あまのじゃくは
>【せめて、私の、体にお乗りくださり、柔らかい台座として、お使いください】

そういう話もあるのですか。

そういえば、キリスト教の「愛」は、いかん、仏教の「慈悲」のほうが上だ
という意見というか批判があってよく思うのは、

アガペーというギリシャ語とタンハー(渇愛)というパーリ語を
日本語の訳で考えてどうのこうのいってもしかたないのではと
毎回つっこみたくなるのですよ。

お礼日時:2012/09/08 12:21

ご先祖が曹洞宗の坊さんです。



防人僧の○代目 (一応、代目は伏せます)で、それなりに曹洞宗は・・・。

えっと、No.1さんがいいこと書かれてあると思うのですが。


ニーチェ はご存知でしょう?

「神は死んだ」の人。

宗教って、誰かの教えだと思ってしまっていると、間違う可能性あるよ?

釈迦の生まれ変わりを名乗る、カルト教主なんかもいるわけでね・・・。


文献がきちんと残っていないからこそ、考え方や経典などを

必死に伝えようとしてきたんだけど、時間の流れには勝てない^^;


わるいところは徐々に薄れて、都合のいい風習や、考え方だけ残るのね~~。

大乗も捨てたものではないし、小乗も捨てたものではない。


「釈尊」の教えそのものが大事ではなくて(いやもちろん大事ではあるんだけど)、

そこから生まれた、「佛教」という考え方自身が大事なんだと思うよ。

ご先祖を大事に敬おう、人様にもできることをできるだけしよう。

これだけで充分なんじゃないかな?


般若心経なんて厳密な意味なんてさ、そうそう分かるもんじゃない^^;

「空」だって言うのはなんとなく分かるけど、

じゃぁ「空」って何 ? わかんないや ヾ(@⌒ー⌒@)ノ


分からないから勉強もするし、ありがたいんじゃないかな?

 #σ(・・*)数学屋(o`・ω・)ゞデシ!! 代数学の元非常勤講師ね。

よく言ってました、分からないから勉強するんだって。


誰がなんと言おうと、自分の身になっていればそれでいい。

毎日般若心経の1つ、墓の方角向いて唱える。

感謝されなくても、エレベータのドア、開けて待って差し上げるとか?

こんなんでも立派な他行だよ~。

間違ってさえいなければ、宗教は自己満足でいいんだと思うよ ヾ(@⌒ー⌒@)ノ


人にとやかく言われるものじゃないよ。

学者さんならいざ知らずね。文句がある人には「永平寺に行って、禅でも組んで来い!」

これでいいと思うよ。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

Ps.お釈迦様の言葉かどうか確認する。そういうことにこだわりすぎると、

 新興宗教やカルトに落っこちちゃう人が多いから、気をつけた方がいいよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教でも原理主義は危険ですね。

>ご先祖を大事に敬おう、人様にもできることをできるだけしよう。
>これだけで充分なんじゃないかな?

そうですね。

お礼日時:2012/09/08 12:03

せっかくなのでなにか魅力を教えてください。



○釈迦仏教の魅力を表現しているのがお寺の山門ですね。山門の入口に二体の仁王像が立っていますね。
あの二体の仁王像の名前は「あ」と「ん」なんですね。
ギリシャ語でいえば、「アルファ」と「オメガ」ですね。この名前が出てくるのは聖書でも「黙示録」だけですね。つまりね、「最初」と「最後」の門の先に釈迦如来が座っているのですね。
最初と最後を見届けられる仏は、西洋風に言えば「全知全能の神」のことでしょう。
釈尊は30歳から80歳までの約50年間法を説いていますので、残存の断片的な経典から全体を把握することは無理だと思いますが、要は、「最初」から「最後」までの一部を説いたのですね。
初期の教えは小乗分類、後半の教えが大乗分類ですが、小学生から大学、大学院と段階的に教えただけですね。教えは一乗ですが、深淵度は段階的に深いのですね。それが「あ」と「ん」とも言えますね。
宗教の学びには、一つの絶対的条件があってね。
この条件が「仰光の徳」ですね。「仰光」の光とは「仏陀あるいは救世主」のことですね。つまり、2500年前あるいはそれ以前の転生の中で一度は、仏陀から直接法話を聞いたことがあるという徳のことなのですね。
この「仰光の徳」を持っている人は、どのような文章であっても仏陀の真の言葉に「琴の音色」を感じることができるのですね。「琴線に触れる。」といいますね。逆に、この「仰光の徳」がなければ理解は困難で、大抵迷ってしまうのですね。後代の弟子の弟子の方は転生しても本物にはたどり着けないということなのですね。ナザレのイエスも同じですよ。聖書を何度読んでも本当の意味が理解できないのですね。あの時代に生き、山上で垂訓を聞いた者は、現代でも理解できるのですね。
さて、少し本題からずれましたが、釈迦仏教の魅力は「アルファ、オメガ」の教えなのですね。
人類最高、いや宇宙最高の教えなのですよ。だから、「この身、千貫の岩に砕かれようとも・・ブッダの時代に生まれたい。」と願った者は多いのですね。それほどの教えなのですよ。
法華経の内容は釈迦仏教での大学院以上の教えですので理解はできないでしょうが、宇宙の誕生に始まり地球霊系団の誕生から現代までを映像として見れば容易に理解できるのですね。
釈尊の教えが分からなければイエスの教えもわからないでしょう。本当に教えを知りたいのなら、経典を捨て、教会を捨て、まずは現代の「光」を探すことですね。「仏陀」を見つけて教えを学び、「仰光の徳」を身に付けることですね。
まあ、それもしたくないのなら、このカテで質問すればよいでしょう。「仰光の徳」あるものが答えていますからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教とキリスト教を比較して思うのは、

キリスト教は創造論で(それがプラトンのデミウルゴスが混ざっていたとしても)

仏教にはこういう箇所もあって

「わたしは、家を作る者(の正体)を探し求めながら、はたすことなく、数多くの生(死)輪廻をめぐってきた。生(死)をくり返すのは苦しいことだ。
家を作る者よ。(ついに)おまえは見破られたのだ。おまえは、ふたたび家を作ることはないであろう。
おまえの梁はすべて折られ、家の屋根は壊れてしまった。こころは(自己を)形成するはたらきを離れ、渇愛は滅ぼしつくされた。」(法句経・第11章 153-154)

家にたとえると、

建築がキリスト教
解体が仏教

そして、
空というバラバラの世界を結び合わせるものは、力(チカラ)

なんじゃないかなあ、なんて思ったことがありました。
トンでもでしたらすみません。

お礼日時:2012/09/08 11:57

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