プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

今 私は自分が価値のない人間だと感じています。

基本的には価値のない人間はいないと思っていて
このサイトでもそういう質問をよくみかけますが
人間は価値があるなしで論議するものではないと思っています。

それでも 今 自分の感じている自分の価値がない心理が理解できません。

張り付け方がわからないのですが…
夫婦カテで「私はダメ人間」という質問をさせて頂いたのですが…
今 置かれている状況が関係していることは理解できます。

…が価値がないと思えてしまって打開策が見つかりません。

夫婦カテでの質問に対して
みなさんとても優しい回答ばかりで
嬉しくもあり励まされて涙が止まりませんでした。

しかし私の気持ちは
そんな優しいことを言ってもらえるほど頑張ってないし
そんな価値のない人間なんだ…と。

家族もいて守るものもあるのに
生きる価値さえ見失いつつあります。

こんな気持ちになることは
回答頂いた方々にも申し訳ないし
自分自身をも更に苦しめることはわかっています。

…がそう感じてしまったが最後 抜け出せません。

自分を否定していては良くないのですが
いくら考えても気持ちが切り替わらないので
何かキッカケがほしいです。

納得したいです。

価値がない…と思えてしまう心理について
何か教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願い致します。

A 回答 (12件中1~10件)

貴方の悩みが分る者です、貴方は『心の矛盾』に悩んでいます。



誰でも常に心の中で対話しています、その相手を書いてみます。

貴方が自分自身と認識しているのは『顕在意識です。』いわゆる、意識する自分です。是とは対照的なものがあります。それ『意識していな自分です。』違う表現をするなら『無意識の自分』です。

心の中の対話で説明するなら、『一念』は無意識の声です。二念は『自我意識』の声です。一念は全てを肯定する声です。二念は全てを否定する声です。

気持ちが切り替わらない事は、自我意識が勝っているからです。

脳卒中の為に右脳と左脳の人格が其々単独で、或いは交互に出ている動画がありますので参考にして下さい、尚質問があるなら答えたいと思っていますので、具体的に質問をして下さい。


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この回答へのお礼

心の矛盾…

その通りだと思います。

頭では理解出来ても感情がついていきません。

メンタルヘルスカテで別質問をたてました。
もしよかったら目を通して下さると嬉しく思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 09:59

価値無いでえーやん

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/05 10:26

価値が無い訳ではありません。



人とは生まれながらにして持っているものと持っていないものがあります。
そして持っているものには自分が認識できているものと認識できていないものがあります。

試しにやってみましょう。
5cm×10cmの長方形の紙を20枚(サイズや枚数はまあ適当でいいです)を用意して
10枚ずつの束二つに分けます。
初めの10枚は自分が持ち、残りの10枚は親しい人に持ってもらいます。
そこでその紙1枚につき一つずつyutanpopoさん本人の特徴や特技を書いてもらいます。
(まあこれも何でもいいです。アウトドア派だとか、編み物できるとか、シチューが得意だとか)
この20枚の全ての紙に書かなくてもいいのですが、書ききった時に、それが自分と他人の両方から見るyutanpopoさんの特徴になります。

yutanpopoさんと親しい人が書いている、「yutanpopoさんの特徴」で一致するものと一致しないものがあります。
(1)一致するものは、自他ともに認める特徴
(2)yutanpopoさんが書いていて、親しい人が書いていなかったのは、yutanpopoさんが隠している特徴
(3)yutanpopoさんが書いていなくて、親しい人が書いているのは、「自分で認識していないけれども、他人が認識している特徴」
になります。この(3)が自分で見えてない特徴です。大概この(3)は記入者ができなくて対象者に記入者が依存している部分です。つまりyutanpopoさんの自分で見えなかった価値になります。

最初の繰り返しになりますが、人とは生まれながらにして持っているものと持っていないものがあります。世の中、持っている人が持っていない人を助けて成り立っています。yutanpopoさんの価値で持っていない人を助けるのが、世の中におけるyutanpopoさんの価値なんじゃないでしょうか。あまり悲観しなくて大丈夫ですよ。
「希望的観測は人が生きていくための必需品」とは、とある作品登場人物のセリフです。

さあ Let's try!
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この回答へのお礼

持っているものと持っていないものの認識…

できていないのですよね。

理想で動くからついていけてないのでしょうね。

とても参考になりました。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:25

支援学校教員です。



回答になるかどうかわかりませんが、

「自分の今の生活は、自分の力でない」と考えることを「インポスター現象」と言います。

それは「一過性の現象」で、多くの人が(特に女性が)経験するものだそうです。

対処の仕方などは、書籍も出ています。

参考URLは、その本を読んだ方のブログです。

ご参考までに。

参考URL:http://ameblo.jp/therapyroommoa/entry-1137756367 …
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この回答へのお礼

インポスター現象…

そうなのかもしれません。
一過性…過ぎるのを待つしかできないのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:22

もっともっと働け。

大活躍しろ。社長になれ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/05 10:16

貴方の対外的な価値を決めるのは貴方ではなく周りの人間です。


貴方にとっては貴方は世界全てですから、これ以上価値を持つ物は無いでしょう。
全ての人はそれだけです。

逆に言えば貴方自身に価値がないと感じても貴方に価値を感じている人もいるかも知れません。
これはいくら考えて始まりません。

誰かに何かを与えればその人は貴方に価値を見出すでしょう。
何もしなければ他人は何も与えてはくれません。
まずは貴方から与えて下さい。
絶対とは言えないですが、いつか必ず帰ってきます。

必要なのは考える事ではなく、行動する事です。
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この回答へのお礼

考えるのではなく行動…

今の私は考えてばかりで動けなくなってます。

これでは何も与えられませんよね。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:16

解説したところで意味ないからとりあえず働きにでろ

この回答への補足

フルタイムで働いています。

補足日時:2012/11/17 12:35
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/05 10:14

私たちは普段から「私」という一人称を使いますが、


「私」というコアは本当にあるでしょうか。

例えば
私の家は私でしょうか
私の車は私でしょうか
私の家族は私でしょうか
私の体は私でしょうか
私の命は私でしょうか、

すべて「の」がつくものは私の管理物または所有権を表しているに過ぎず、私本体ではありません。
すべては私を構成する一部であるという考え方もできますが、車検が来るごとに交換する私のパーツなど想定したところで意味はないでしょう。
だとすれば私というコアはどこにあるでしょうか。
本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。
しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか。

価値を問うている対象は私ではなく、私に付随した何かの価値ではないでしょうか。
私の車と私を一体化しているから車の価値が私の価値になってしまうのです。
本来は「私」を価値という物差しで測るということ自体ができないのです。

一度、意識から「私の」を切り離してみたらどうでしょう。
そうすれば付属品のない本当の「私」が見えると思いますよ。
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この回答へのお礼

付属品のない本当の私…

私の…ではないのですよね。

おっしゃることはとても良く解ります。

私の…を切り離す。

簡単な様でなかなか難しいですね…。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:13

私は(現在ということには意味がないと思います)脊髄小脳変性症を患っています。

私の父は同様の病で59歳の時に、そして父の長兄二人は62歳の時に他界しています。私は現在53歳で、父が他界する2~3年前にはまともに話すことができなくなっていたのを見ていますから、私が3年後にはどのような状態になっているかは予測できます。現時点の世界人口は70億だと言われていますが、世界人口が10億未満であったこともあることはご存じですよね。人間はそれぞれ、自分が自分であることを認識できる「心」を持っていることには誰も反論できないと思いますが、この「心」が肉体の中で起こる化学物質や電気信号の反応の結果と考えている方もいらっしゃるかもしれませんが、私は「心」は「魂」もしくは「霊/精神体」だと信じています。
肉体は生まれてくるし、死によって破壊されてしまいますが、「魂」は作ったり破壊したりはできません。それではどのようにして存在するのかというと私は「魂」は始めも終わりもない「永遠」の存在だと信じています。つまり宇宙が「ビッグ・バン」によって膨張を始めた時にはその中に全ての魂は存在していたのだと思います。もちろん魂が人間の魂となるまでには数十億年時間を必要としましたが、魂が意識する「霊的環境」の中には時間は存在しません。時間は認識によって存在するだけです。それでは質問者様が疑問に考えていらっしゃる「自分の価値」に関して私なりの考えをお話しします。私は現在53歳で、今まで結婚したことも子供を作ったこともありません。これまでにいろいろなことを試みましたが、未だに成功したことはありません。残りの人生も数年しかないし、脊髄小脳変性症なので、これから何かできるとも思いません。それでは私が自己を無価値だと思っているかというとそうではありません。私は私として生まれてきて人生を経験してきたことに価値があります。お金持ちになる人も、有名になる人も、犯罪者になる人もいますが、70億人の人々それぞれが、生まれ出て人生を経験している、または人によってはじんせいが数年、もしくは数日しかった人たちもいると思いますが、全ての人、魂には人生を経験するつまり「教育期間」としての価値があります。最後に申し上げますと、私にはあと何年残されているかということや、どのように最後を迎えるかも大体分かっていますが、「死」に関しての心配や、恐怖は全く感じていません。また同時に食欲、金銭欲、名声欲、性欲、生存欲の何も持たなくなりました。質問者様が、自分を無価値だと感じていらっしゃるのはご自分の持つ欲望に縛り付けられているからではありませんか?自分の価値を自分の欲と結び付けていらっしゃるからだとお考えになりませんか。切り離してください。以上は私の個人的な考え方です。
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この回答へのお礼

自分の価値を自分の欲に…

そうだと思います。

頭で理解しても気持ちがついていかないのは
もうどうすることもでしないのでしょうか?

ご自身の貴重なお話とても感謝致します。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:08

>今 私は自分が価値のない人間だと感じています。



 別表現がいろいろある気持ちですね。「私は駄目だ」等々。何について無価値なのかはいろいろですし、いろいろな原因がありますよ。

 個々人の個別のケースに踏み込むことは、こういう場所では、情報の不足もあって、難しいので、概観的に。

 基本的には、自己同一性に齟齬を来していると考えてよいでしょう。自己同一性とは、肯定的に「私はこういう人間である」と思う自己イメージと、現実の自分への客観的評価が一致しているということです。

 思春期前期から発生し、思春期後期で試行錯誤、悪戦苦闘し、思春期終了の頃に、一応の完成を見ます。しかしそれはプロトタイプのようなものであり、その後もずっと模索が続きます。一生かかって完成させようとするものだと言ってもいいでしょうね。

 自己イメージといっても、何か完成された静的なものではありません。方向性を持って運動してます。理想的なイメージがあって、そこへ向かって近づいて行くようなダイナミックなイメージですね。

 客観的評価と言っても、本当に客観的なものではありません。他人の言葉や態度から、自分が推し量っての自己イメージです。自分の主観で外から見た自分を評価して作るイメージですね。こちらは、現状の自分を静的に評価している場合もあります。たとえば、方向性は合っているけど、あまりにも到達度が低いといったことです。もちろん、進歩が遅いとか、間違った方向に進んでいるとか、ダイナミックなイメージのこともあります。

 そうした、肯定的な自己イメージと、自己評価した自己イメージとの差が大きいと、多かれ少なかれ苦痛になります。そういうことは、実は非常に多いのです。その苦痛を自分に向ければ、悩みとなって現れることもあるし、自分を悪く評価した(と自分が思う)他者に怒りとなって向けられることもあります。

 他者に怒りとなって向かってしまうのは、よく見受けられます。自分の意見に対する反論を、自分の人格に対する否定と感じて言い返しているようなことは、ネット上を含めて、あちことで見かけます。他者が発言を引用して評言するだけで怒り出す人もいます。はなはだしきは、メモを取る程度のことで怒る人すらいます。

 怒るというのは、かなり気力を消耗します。それくらい強い力なんですが、その力を自分に向けて悩みとなってしまうと、もちろん並大抵の苦痛ではありません。誰かを力いっぱい殴り続けると、すぐに疲れ果ててしまいますが、殴りつけているのが自分自身となると、さらに激痛が加わるわけです。苦しくないはずがない。

 そうした悩みにせよ怒りにせよ、しばしば表現として出て来るのは「~でなければいけない」「~しなければいけない」といった「ねばならぬ」系の言葉ですね。言葉にせず思うだけのものも多いので、心理と言い換えてもいいです。

 質問者様の具体的なことは知りませんし、質問者様がご自分のことを事細かに語ることはよくありませんので(たとえば、ストーカ被害につながることも多い)、私自身を例にしてみましょうか。

 私もそういう悩みを持つことはあります。そうなったら、自問自答します。ちなみに、悩みに限りません。何か意見を言ったり、見解を述べる前には、かなりの量で、辛辣な自問自答をします。そういう癖が付いています。

 自問自答すると、たいてい「私が他人の評価や要望通りである必要はない」という結論が出てきます。古の名言で言うと、「鼓腹撃壌」でしょうか。「帝力何ぞ我に有らんや」、つまり「偉い人が何を四の五の言おうが、私には関係ない」ということです。

 結論と言っても、複数ある他の考え方、対立するものや類似するもの全てですが、そういう候補の中から頭一つだけ出ているだけのものです。決して、絶対的なものではないです。

 とりあえず、団栗の背比べでも背比べ、ちょっと高いものを暫定的なことを承知の上で結論としています。まあ、そのため、何かあるとすぐに変わったりします。

 自分は価値が無い、より厄介なのは、自分は迷惑を掛けている、といったものですね。無価値なら路傍の石でもいいんですが、他人が躓く石だとすると、やはり何とかしないわけにはいかない気持ちになります。しかし、何とかできるなら、何とかしています。できないから悩むわけですね。

 これは「仕方がない」が、とりあえずの結論となることが多いですね。聖書で言うと、「富める者が天の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」との言葉に、弟子が「では、いったい誰が天の国に入れるのですか?」と反語的に問うと、「神にはなんでもできる」と返されたようなものです。欠点のない人はいない。それでもいい。そういうことです。

 東洋にも同じ趣旨の名言があります。「人事を尽くして天命を待つ」ですね。これは、できることを全てやったら、後は待て、ということだけではないです。そんな事態は、非常に簡単なことか、余程に運がいいときだけです。そして運って天命の一種です。人間が何かをやり尽くせるわけがないんですね。あれもこれもやらねば、と足掻いているうちに、結果が来ます。

 やれることは無限にあるわけで、だからやり続けて、手が回らないこと、手が届かないことは「運を天に任せる」わけです。

 悩むこと自体は大事ですね。悩まなくなると進歩は止まります。ただ、悩むこと自体を悩むのも必要なのでしょう。そうでないと、悩みとうまく付き合えるようにならないような気がします。
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この回答へのお礼

本当に…本当にそうだと思います。

とても勉強になり納得できましたが
なぜか感情がついていきません。

この質問をしてから皆様のご回答で頭では理解できても
気持ちの上で悪化してしまいました。

もうどうしたらいいのか…

とても素晴らしいご回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/05 10:04

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