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子供を亡くして嘆き悲しむ母親に対して、お釈迦様が「あなたが、死人を出したことのない家を見つけることができたなら、子供を生き返らせてあげよう。」と言ったので、母親はそのような家をさがすが見つけられなかったので、子供の死を受け入れられるようになった。というような説話があったと思うのですが、私はこの説話があまり納得できません。これが、子供ではなく靴だったら理解できます。でも、靴とは違い子供には心があります。心あるものを亡くしたとき、人は「痛かったろう。つらかったろう。」とその者の立場や身になって悲しみます。また、早く医者に連れていってやれば死なずに済んだろう、と考え自責の念にも苦しみます。そのような悲しみ、苦しみに対して、この説話では何も答えていません。高価な靴に対する所有欲を断つのと同じように、子供の死に対する悲しみも断つことができるように説いているように感じます。このように考えた私は、「もしかしたら、さとりを開いた人は、心ある者の存在も、靴のような心のない物質の存在も同列にとらえるようになるのか。」という思考に至りました。しかし、そうだとすると次のようになってしまいます。、漫画では、悪の帝王が世界征服のために、自分の部下を捨石、捨て駒として使い、その部下がレンジャー部隊に倒されても、武器が一つなくなったぐらいにしか思っていないのですが、そんな悪の帝王は悟りの境地に近いということになってしまいます。悟りを開くと、心ある者の存在も、靴のような心のない物質の存在も同列に見えるようになるのでしょうか?

A 回答 (10件)

 こんにちは。

俗にボーさんと呼ばれているものです。たくさんの方が回答されていますが、思うことがありますので、少しご相談させていただきます。

 この説話は比較的古い時代に成立成立したパーリ経典の中の「ダンマパタアッタカター」や漢訳経典では「雑譬喩経」などに見られる説話です。パーリ経典ではキサー・ゴサミーという特定の名前を使っていますが、漢訳では年老いた母親とあるだけで特定の名前が使われていないなどのいくつかの違いがありますがおおむね同じ内容です。
 さて、説話に入る前に仏教のそもそもの目的は何かというと、誤解を恐れずに単純に申すならば「苦からの解放」ということになります。この仏教でいうところの「苦」とは直訳すると「圧迫して悩ます」ということになりますが、これを意訳しますと先に回答されている方もおっしゃっているように「思い通りにならない」ということになるようです。
 では、「苦からの解放」とはどのようなことを指すのかといえば、「苦しまなくなる」「すべては思い通りになる」ということではないようです。お釈迦様は『ダンマパタ(漢訳・法句経)』というお経様の中でこんなお言葉をおしゃっておいででございます。

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思うものこそ、「愚者」だと言われる。

と説いておられます。お釈迦様は自分の中にある愚かさをすべてなくした賢者になれとはおっしゃってはいません。愚かさを抱えながらも、その愚かさを顧みるこのとできる愚か者でありなさいと説かれているのです。つまり、苦しまないのではなく「苦しみながら」、悲しまないのではなく「悲しみながら」も、その苦しみから目をそむけない姿を説かれるのです。
 またそれは、清水寺の貫主であった今は亡き大西良慶師(確かそうだったと思うのですが、ちょっと記憶は曖昧です。ちなみに昔話題になった五つ子ちゃんの名づけの親が大西良慶師です。)も

仏教は死ぬのが怖くなる教えではない。仏教は死ぬのが怖くても平気で生きていけるようになる教えや。

とおっしゃられたそうですが、まさにこれも苦しまない姿ではなく、苦しみながらもそれから目をそむけない姿が説かれています。

 長い前置きで恐れ入りますが、ここからが本題の説話の部分です。

>>子供を亡くして嘆き悲しむ母親に対して、お釈迦様が「あなたが、死人を出したことのない家を見つけることができたなら、子供を生き返らせてあげよう。」と言ったので、母親はそのような家をさがすが見つけられなかったので、子供の死を受け入れられるようになった。というような説話があったと思うのですが、私はこの説話があまり納得できません。

説話に納得ができないということですが、なぜこの母親は子供の死を受け入れられるようになったのでしょうか?先に述べた解釈と私の解釈を加えながらこの説話をもう一度見ていきましょう。

 インドというところは当時厳しい身分制度があり、日本のものとは違いますがその家に生まれた子はその家を継いでいくということがあったようです。ここに、夫婦になって何年も子供ができないという母親がおりました。この当時きっとこの母親は子供ができないということで肩身がせまかっとことと思います。
 しかし、そんなあるときやっとの思いで、一人の玉のような男の子を授かります。家族はやっと跡取りができたということで大変喜びますが、この男の赤ん坊はふとした病によりお亡くなりになられます。
 するとこの母親はこの赤ん坊を治すことのできるお医者様がいるのではないかとあちこち回りますが、死んだものを生き返られることのできるお医者様など見つかるはずもありません。けれどもお母さん、腐り始めた我が子を胸にあちこちのお医者さんを回ります。すると、一人のお医者さんが不憫に思ったのか、
「私にはその子を治す力はありませんが、お釈迦様という方だったらその子を治すことができるかもしれませんよ。」
と話して聞かせます。

 これを聞きました母親は藁をもすがる思いで、お釈迦様の前に飛び出して、
「どうかこの子を治してください。」
と涙ながらにお願いをしますと、お釈迦様はその母親の顔を見ると、
「わかりました。その子を生き返らせてあげましょう。」
とおっしゃられた。母親は笑みを浮かべて、
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
という。するとお釈迦様は、
「いやいや、待ちなさい。しかし、その子を生き返らせるためには薬がいります。その薬の材料を切らしていて作ることができません。どうかその薬の材料であるケシの実を一粒持ってきてください。」
とおっしゃられた。

(ちょっと解説。ケシの実と聞きますとアヘンの元みたいなイメージがありますが、今でもアンパンに乗っている、胡麻を小っちゃくしたようなのがケシの実です。当時のインドでは、どのお宅にもあるような大変ポピュラーな調味料のようなもので、日本でいえば「隣からお醤油借りてきて」というぐらいのものだったようです。)

すると、母親はすぐにと飛び出そうとしますが、お釈迦様はこれを止めて、
「しかもそのケシの実は、死人を一度も出したことのない家からもらってくるんだぞ。」
とおっっしゃられます。

 まず、一件目のお宅母親が「ケシの実はありませんか?」と尋ねますと、「ケシくらいどうぞ持って行ってください。」渡してくれる。その時母親は、
「ああ、そうだ。この家はお葬式を出したことはありませんか?」
こう聞くと、そこの家主は、
「そういえば、うちは一昨年ジサマ亡くなったな。」
という。すると母親は「では結構」と、次のお宅。次のお宅へ行けば「うちではバサマ」、うちでは、父が母が、娘が息子がと葬式を出したことのないお宅なんて見つかりません。このそうしているうちに母親いろんな人と話をしました、中にはバカにする人もあれば、励ましてくれる人もあったとおもいます。気が付けば、もう真夜中近くになっております。やはり人間は興奮状態にあるときは物事を考えられませんが、真夜中近くにもなりますとずいぶん気温も下がりますが、お母さんのあたまも冷静になってくる。
 その時ふと気が付いたのが、
「私はこの子を、生きているこの子は大切で、死んでいたら必要ないと思っていたのではないか。確かに、我が子が死んでしまったことは悲しい、けれども死んでいたってこの子はかわいいわが子のままだったじゃないか。そうか、死んだこの子に『必要ない』と言い続けこの子を殺していたのは、母親である私だったのではないか・・・」

 それからこの母親はお釈迦様の元へ行き、
「あなたは我が子を生き返らせてくださいました。この子はこのままでかわいいわが子でございました。ありがとうございます。」
と、深々頭を下げられた。

ということでございます。

>>心あるものを亡くしたとき、人は「痛かったろう。つらかったろう。」とその者の立場や身になって悲しみます。また、早く医者に連れていってやれば死なずに済んだろう、と考え自責の念にも苦しみます。そのような悲しみ、苦しみに対して、この説話では何も答えていません。

 そんなことはありません。これは浄土真宗八代目蓮如上人という方の言葉として御一代記の中で語られることがる言葉で、史実かどうかでいえばたぶん違うのでしょうが、こんな言葉がります。「悲しみは悲しみのままで終わらせてはいけない。」というんですね。これは悲しみを消し去ってしまいなさいといっているのではありません。悲しみがあるということは、ちゃんとその人が支えていてくれたということを知っているからです。だれか大切な人を亡くした時、胸の中にぽっかり穴が開いたような気持ち、そのぽっかりと空いた穴こそが亡くなった人の支えていてくれた部分にほかなりません。その、支えてくださっていた方への思いは、悲しみは悲しみのままで終わらせてはいけないのです。その悲しみは、感謝に変えていくことができる悲しみであり、またその悲しみ・痛みこそが亡くなった人のいてくださった証しなのです。

 ですから

>>悟りを開くと、心ある者の存在も、靴のような心のない物質の存在も同列に見えるようになるのでしょうか?

これは大きな間違いです。お釈迦様は心あるものだからこそ、「生き返らせる」おっしゃたのです。その心まで殺してはならない。その子の思いまで、殺さないための御説法の姿です。
 最初に申しあげたとおり、悲しまないのではなく「悲しみながら」、苦しまないのではなく「苦しみながら」、私たちはそれでもそのことを背負って生きていくことができる。赤ちゃんを生き返らせて自分の思い通りにするのではなく、亡くなった赤ちゃんに生まれてきてくれてありがとうとそのままがかわいいわが子であった抱きしめるて生きていくことができるようになる。いわば、そういった心の方向転換を、あらわしたのが先の説話となるわけです。

 答えになっているかわかりませんが私の思うところです。急ごしらえのため、誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南无阿弥陀佛
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この回答へのお礼

とても、ありがたいご説法をいただき感謝しています。きっと、とても徳の高いお坊さまであらせられるとお見受けいたしました。自分も身近なものたちの死を悲しみながらも、感謝に変えて力とし、生きていこうという気持ちになりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/26 19:20

日本のすべての佛教宗派が取り入れていると言われる。

ケシの実の喩え、のことでしょうが?
話しがずいぶん違っているようですね。

ケシのみ喩えという話しは。
医者にも見放された、瀕死の我が子、諦め切れない、何とか助けようとす母親の半狂乱の様を見かねた人が。最後の方法として。
ブッタ、なら、何とかしてくれるかも知れません。と教えます。
母親は瀕死の子供を抱え、ブッダ元に出向き、自分はどうなってもいい。何とかこの子だけは助けてやって下さい。と懇願します。
嘘も方便という言葉の起源なのか?
ブッダは、
麓の村を回り、ケシノ実をもらってくるなら、何とかなるかも知れません。子供は私が預かっておきしょう。と言います。そして出かけようとする母親に、ただし、死人を出した事のある家からのものは駄目ですよ。と付け加えるのです。
ケシの実を保管している家はあっても、先祖から住んでいる家々に、死人を出した事のない家はありません。精も根も尽き果てた母親がブッダの元に戻った時、子供はブッダの腕の中で死んでいました。

それを見た母親は、うなだれ、ひざまずき。解りました。と言った。

そんな話しですよ。

解脱、知る事、知恵によりて見る事よって、脱する。の話しだと思いますが。

どこから、死んだ子を生き返らせるような話しになるんでしょうかね。
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この回答へのお礼

けしの実の喩え、というものでしたか。勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/26 19:26

> 心あるものを亡くしたとき、人は「痛かったろう。

つらかったろう。」とその者の立場や身になって悲しみます。また、早く医者に連れていってやれば死なずに済んだろう、と考え自責の念にも苦しみます。そのような悲しみ、苦しみに対して、この説話では何も答えていません。

そう思います。
お釈迦様は「生き返らせる」というまやかしを眼前にぶらさげて説法を組み立てています。

しかし、「苦しまずにあっけなく、ピンピンコロリ、と死なせてやれたらよかったのに。。。」
という気持ちには、この説話から答えが導けません。

女子高生コンクリ詰め事件の残された母親などとうてい正気ではいられません。
生きていてくれないからと正気を失うのではありません。
その拷問における、代われるものなら代わってやりたいとさえも思いたくないほどの凄惨な苦痛を思い知り、
苦痛と恐怖と絶望が生きた身体を蝕むのを、自分も引き受けなければ、しかし引き受けられそうにないという思いが、あらゆる陰惨な事件の被害者たちの母親の正気を奪います。
死ねばもう苦しまずに済む、死ぬことが出来てよかった、安らかに、、、と願うしか道はないでしょう。

しかし「生き返りを願う母を諭す」説話でないものを見れば、
「共感と無力感」についての説話も仏教にはきっとあるんじゃないでしょうか?
原始宗教から中世にいたるまで説話ひとつにテーマはひとつだと思いますよ。

近世近代の小説のように現実を反映するプリズムのごとき説得力をあれこれ考えても、しかたありません。
宗教は豊かな物語文化だと思います。
言語文化であり美術や音楽などの芸術にもなりますが、そのように現れる性質とは、つまり象徴機能の世界に息づくものであるということです。
多数の人々の観念や想起の向きをつけ、世界の事物のあいだに、認識のすばやい結びつきをもたらす力強いはたらきであるといえます。

しかし、個別の人間の経験には、統合的な縫合的な世界からこぼれるものもあるでしょう。
あなたの経験に、お釈迦様の説話のどれをとっても納得できないことはきっとあり、それが当然だと思います。
人間の精神ないし身体からは、宗教だろうと哲学だろうと答えを出さない世界が溢れ出てしまうのだとわたしは思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。回答者さまは、きっと、文学などいろんな本をたくさん読んでおられるのでしょうね。参考にしたいと思います。

お礼日時:2012/12/26 19:24

仏教で言う「苦」とは、思うようにならないと言う意味です。

基本的に、人生は思うようにならない、エゴの欲する通りにはならない。ならば現実を受け入れて、欲を少なくして生きる方が正しい。

楽な人生、恵まれた人生もあれば、悪い事ばかりが続く人生や、運に見放された人生もある。しかし、しんどい人生にも価値を見出す人が居れば、他人より恵まれている筈なのに不満ばかり垂れて終わる人も居る。

エゴの無い悟りの境地から見れば、人生の形に違いはあっても、不公平はありません。もし不平等・不公平があるとするなら、それは心が、欲が、エゴが、その様に受け止めているという事なのです。

難しい事ではありますが、これを本当に理解すれば「苦」からは開放されます。仏教は、その事実に気づかせる為に説かれた教えです。まあ、人種差別や貧富の格差などの、無くす為に努力をするべき苦しみもありますけどね。
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この回答へのお礼

たしかに難しいことです。自分は悟りの境地には、なれそうにありません。ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/25 22:13

この話は、死んだ我が子を生き返らせたいという母親(キサーゴータミー)のエゴが、死は誰の身にも平等に訪れるという当たり前の現実を受け入れる事を拒んでいる、という所がポイントなんですよ。



受け入れるしかない悲しみは、ただ悲しみとして受け入れれば、時と共に癒えてゆく。でも、エゴはそれに納得せず、きっと生き返らせる方法がある筈だとか、他にもやり方があった筈だとか、誰々の所為でこうなったのだからソイツに責任を取らせるべきだという様な歪んだ思考を生んで余計に苦しみを大きくしたり、未練という形でいつまでも引きずらせてしまったりする訳です。

つまり釈迦世尊は、彼女の悲しみそのものを断とうとしたのではなく、その醜く不自然なエゴを断つ事で、彼女を救ったという話なのです。
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この回答へのお礼

ためになる見解をいただきありがとうございました。死は誰にでも訪れるという意味では平等ですが、長生きできる人もいれば、若くして死んでしまう人もいます。楽な死に方、苦しい死に方というのもあるような気がします。そういう意味では平等ではなく、この説話の母親もその不公平に苦しんでいるように感じたのですが、その苦しみはどうやって乗り越えたらいいのでしょうか。

お礼日時:2012/12/25 19:52

無用の苦痛と必然の苦痛があります。


腕を動かすと疲れるからといって、腕を動かさなければ
食事もできず餓死してしまいます。
その延長に人は、より大きな喜びのために過程の苦痛を
乗り越える事が必要になるのです。

子供だから問題がややこしくなりますが、人の遺伝子には
細胞分裂回数に制限を加え、決まった回数細胞分裂する
と新陳代謝しなくなり、老化して死ぬようになっています。
生むだけ生んで死ななければ、人口爆発で皆んな餓死
してしまうからです。
ひるがえって、なぜそうまでして世代交代するかといえば、
それ(遺伝子の交配による多様性の創出とその生育に
おける自然淘汰)によって、単なる分裂生殖と突然変異
による自然淘汰よりも高速の進化や適応を可能にしたの
です。

もちろん、それに反対する事は可能ですが、それは淘汰
される事につながります。
同様に、不可避の死を過剰に悲しんで、生にマイナスの
作用を与える感情は、やがて淘汰されるのです。
そうした無駄な淘汰を避けるためにも、死の悲しみを迂回
できる宗教は生まれたのです(それ以外にも自己中心性を
補完する社会性の付与(モラル)も)。
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この回答へのお礼

科学と宗教というのは、なにかつながっているところがあるのでしょうね。ためになるお話ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/25 19:45

仏教の説話と言われるものは数え上げれば限がありません


このたとえ話もそのうちのものでしょう
ある男が一本の矢で射抜かれて苦しんでいる様を
釈迦と悪魔が見ていてこの様な会話をしています
悪魔
「お前はこの今にも死にそうな男にも説教をして ああすれば良いこうすれば良い と言うつもりなのか」
釈迦
「私は 今はそうはしない 何故と言うにはのこの男の苦しみはそれでは解放出来ないからである
それよりも 今のこの苦しみから解放される方法を見出すであろう」
と言っています
説話は説話でしかありません
家宅の人 の説話にも 釈迦はあえて嘘を話して 猛火に包まれた家の中から子供を解放したと言う
くだりがあります
この事から方便と言う言葉は広く使用されるようになったのでしょう
嘘もまた方便ならば 一切の事柄を一本につなぐことなど元々無意味です
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この回答へのお礼

とてもためになるお話を教えていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/12/25 19:43

>そのような悲しみ、苦しみに対して、この説話では何も答えていません。



○釈尊は、人生は苦であることを教えたのですよ。誰しもそれから逃げられない。それが生老病死、四苦八苦ですね。あなただけではない、地に生まれきたものは全てそうであることを教えたのですね。
それは、生命が不死で転生輪廻している存在であることを知っていたからなんですよ。
この世を去ったものはまた生まれ変わってくる、それは一時期の修行でしかない。だから人生は苦難ですよ。個人のみならず世界全体がそういうものであるということをお悟りになり、それを説いたのがが釈尊の教えなんですよ。
一方、聖書では、イエスが死後何日かたった死体を蘇らせたという逸話があります。釈尊は同じこともできたのですよ。でもあえてそのようなことはされなかった。それは奇跡を起こすと人は奇跡にすがり、自己を失うことが多いからなのですよ。知恵の釈尊、感性のイエスという個性の差ですね。感性では長生きできないんですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。長生きできるものもあれば、若くして死んでしまうものもいますが、このような不公平も世界はそういうものだと受け入れよということでしょうか。

お礼日時:2012/12/25 19:38

仏教を勉強したことはありません、ただの印象です。



この話は仏教とは何かを示しているように思います。人間を含め生命をもっているものは全て死ぬのです。個は死ぬが種としては生き延びあるいは他の生命として生き延びます。あるいは無機質な自然も永遠の形は保てなく変化していきます。森羅万象を貫いているのは無常の因果の法則ということだと思うのです。この法則を子供の死に適用したとき 時間が多少はかかるが無常を受け入れざるを得ない とブッダは説いた と思います。これが仏教の慈悲と思います。

ブッダ以後大乗仏教が起こり 仏教の慈悲の理解のために阿弥陀経の西方浄土思想が生まれ、その後 日本に伝わり 古来より日本人に共有されてきた情の文化に仏教慈悲文化が重なってきたように思うのです。他人の死に直面すると 当事者の気持ちになって悲しむという情文化です。それが
あたかも仏教の慈悲と同じと理解されるかもしれない と思った次第です。

以上参考までに、失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。無常を受け入れるというのは難しいです。自分も子供をなくしたら、悲しいです。人並みの寿命まで生きられれば無常を受け入れられるけど、早すぎる死という不公平もやむをえないこととして受け入れよ、ということでしょうか。

お礼日時:2012/12/25 19:33

説話の是非はさておき、説話や例え話の類いでは、ポイントがあったりします。

そのポイントを言うために、別のことは切り捨てられたりします。この説話にしても、自責の念などについては言及していませんが、そこがポイントではないからでしょう。

私がこの説話を読んで思ったのは、どんな人でも死ぬのだ→そしてその亡くなった方々を人々は悲しんでいるのだということを、実際に見てきなさいということです。おそらく、いろいろな家を訪ねていくうちに、悲しみが共有されてくる筈です。ああ、だれもが悲しんでいるんだ、もしかしたら自責の念を持っている人もたくさんいるんだーーそして、自分とおなじように子供を失った人たちとも出会うでしょうーーこういう出会いを通じて学ぶことーーそこにポイントがあるのだろうと思いました。

従って、私の読み方は
「高価な靴に対する所有欲を断つのと同じように、子供の死に対する悲しみも断つことができるように説いているように感じます。」
とはちがいます。

例え話や説話は、人によって人生経験が違い、考え方が違いますから、違った受け止め方が出て来て当然です。

有名な聖書の100匹の羊の例えにしても、何で99匹を放置するんだ、それで1匹を助けるなんてナンセンスと思う人もいると思います。例えや説話にはそういう性質があると思います。

以上、ご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

さっそくのご回答ありがとうございます。考えるヒントにしたいと思います。

お礼日時:2012/12/25 11:07

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