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大乗仏教(あまり推奨されない呼び名であることは承知しております)における、特質について論じよという課題が出たのですが、主なことは利他、菩薩、誓願、空の思想になるかと思い準備をしています。
ただ、三昧についていまいち理解ができません。
三昧とはどういうものなのか、分かりやすく教えていただけませんでしょうか。

A 回答 (5件)

#1です。

御礼いただき、有り難うございました。

 逆質問みたいな感じになりすみませんでした。状況のご説明をいただき、よりよく状況が把握でき、助かります。と言っても、自分自身は真正面からご質問者さんの疑問に応じられる訳ではないのですが・・・

 「仏教全体を見て日本の流れの中で大乗仏教の部分を取り上げ、特徴を述べる」という課題とのことですが、基本的な歴史的経緯では、日本に入ってきた仏教は大乗仏教が主流で、上座部仏教が注目されるようになったのは、近代になってからと言って良いのだと認識しているのですけど・・・「日本の流れの中で大乗仏教の部分」というのが、どう解釈すればよいのだろう??と思いました。
 課題は日本での仏教に限定して、ということですかね?(←この点も有用なご回答を得るためには重要なことだと思います。)

 「三昧の中で、仏にまみえ、仏の教えを聞く」という語句ですが、自分の知識では出典はわからないのですが、この場合の「三昧」は禅定(座禅・瞑想)と同義だと考えて良いように思いました。

 いささか、文字通り「釈迦に説法」かと恐れるのですが・・・
 インド限定で、ごく大雑把に言うと、上座部系(大乗仏教徒の言うところの「小乗仏教」)では、仏教というものを「お釈迦様の教え」として捉え、仏教は「お釈迦様の説いた教え」であり、「お釈迦様だから悟り、説くことのできた教えだ」と考える傾向が強かった、と言えると思います。お釈迦様が悟った事柄(=真理)はお釈迦様のいわば専売特許で、何人もお釈迦様の境地には近づいたり研究したりすることはできても、同じ境地にはなれないのだと考えられていました。

 それに対して大乗仏教では、お釈迦様の悟った事柄(真理)は、宇宙万物の真理であり、お釈迦様が悟ろうが悟るまいが既にある一切万物に適用可能な普遍の真理というものがあって、お釈迦様は現世の人間でいちばん最初にそれに気づいた(=悟った)のだ、と考えられ、(手段方法・悟りに至る期間の長短の違いはあれ)本来は誰でもお釈迦様と同じ境地になれる、と考えたのだと思っています。
 
 上座部仏教では仏教は「仏(=お釈迦様)の教え」であり「お釈迦様に少しでも近づくための教え」ということになりますが、大乗仏教では、一歩ながら大きく進んで、仏教は「仏(=お釈迦様)の教え」であると同時に「仏になる(お釈迦様と同じ境地に至る)ための教え」なのだと解釈したという感じになるのだと理解しています。
 お釈迦様と同じ境地に至ることができる(大乗仏教的に言うならば、「普遍真理を悟ることは万人に可能である」)ということは、いかなる人も「仏となる素質を有している」ということであり、自覚するかしないかに関わらず「人は本来、仏と対等・平等である(=仏と平等である)」という図式が成り立つことになるわけです。この場合の「仏」は、「普遍真理を悟った人(=お釈迦様)」と「普遍真理そのもの(=仏法)」とを限りなく同一のものとして捉えたものとなります。(←インド人的感性)

 ですので(本当に「釈迦に説法」ですが)、大乗仏教の特質として、御礼に記していただいた「仏に成れる、というような考えかた」というのは、大乗仏教のいわば看板として、極めて重要な事柄になります。

 「三昧の中で、仏にまみえ、仏の教えを聞く」というのは、通仏教的な言葉に見えながら、極めて「大乗」的な語句だとも解釈できます。
 自分が#1の投稿で触れた「真理の位置づけ」「普遍性」というものが顕われているとも考えられますし、大乗(とくに後期大乗や密教。日本の仏教にも極めて大きな影響がある)に見られるある種の神秘主義的傾向を読み取ることも可能です。
 「座禅を組み瞑想する中で、真理(=仏法)とその在り方に触れる」と言い換えることも可能ではないかと思いました。

 個人的見解ですので、参考になるかわかりませんが・・・では。
 
 

 
 
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この回答へのお礼

私もまた質問してしまい申し訳ありませんでした。
回答していただいてありがとうございます。
御礼が遅れてしまい申し訳ありません。

菩薩という考え方の中にその普遍性、誰にでも成仏できる、という考え方が含まれているようですね。
参考になりました。

#2の回答者さんもそのように考えられたようです。
座禅を組み瞑想する中で、真理(=仏法)とその在り方に触れる
私もそうなのだろうなと思うことが出来ました。

ほんとうにいろいろと回答していただき助かりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/11 20:19

これじゃないでしょうか。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A7

サンスクリット語のSamādhiを漢字に音写すると三昧。
(上はおそらく文字化けしているので、英字で書き直すとsamadh)


samadhとは、定、正受、調直定、正心行処、息慮凝心のこと。

それぞれの意味はリンク先に書いてあります。
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この回答へのお礼

私も事前にウィキペディアは調べたのですが、表面的にしかわからずどういうことなんだろうなと考え、質問させていただきました。
書いておけばよかったです。すいません。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/11 20:21

>>大乗の三昧の強調の仕方が、「三昧の中で、仏にまみえ、仏の教えを聞く」



うーん、再度考えてみたのですが、ちょとわかりませんね。そもそも大乗運動って釈尊の死後5~600年後に、経典研究・論理・哲学ばかりの形式主義になって「人々の救済力」の失われた「上座部」に失望し宗教改革的?に袂を分かったのが「大衆部」であり、それが「大乗仏教」に発展したようですね。(もちろん、釈尊が布教活動をやらなかったわけではありませんが・・・)

ですので、釈尊の教えの中に、「大乗と三昧の関係」を求めるのは無理なのかも?釈尊の教えではなく、仏教の流れをくむ分派というか仏教系の新興宗教の教えが不純物として混ざっていることもあるようですし、逆に、大乗運動=大衆迎合の過程で、教えの中心的・重要なものさえ捨て去られていますからね。

本当は、菩薩をめざすものとしては「上求菩提・下化衆生(じょうぶぼだい・げけしゅじょう)」ってことで、個人の悟り探求と大衆救済の両方が必要なんですけどね。

あと、大乗ってことで、大衆の救済を続けていると、夫婦間の問題とか経済問題、就職問題など、なかなか難しいテーマの解答を迫られますので、No1.さんの回答の中にある「禅定」で「仏にまみえ、仏に教えを聞く(答えのヒントをもらう)」ってことで結びつけるのはどうでしょう?勝手に私がこじつけたのですが(笑)
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この回答へのお礼

御礼が遅くなり申しわけありません。
とても参考になりました。
確かに大乗の流れははっきりとはしないものの、出家することが出来るのは限られた人間になり、だんだん一部の人間だけのためのものになってしまい、そこから生まれてきたのではという考えのようです。

大乗仏教は新しく釈尊の教えに付け加えアレンジすることでそのとき仏教を求める人に合わせていった感じを受けます。

たしかに一切衆生救済をもってして自利とするというのは大きなかんがえですよね…

禅定で仏に見え仏に教えを聞く、というのはかなり好きです。そしてそいういうことなのだろうなと思いました。

いろいろと考えていただいて、うれしく思っています。
とても助かりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/11 20:12

「三昧」についてネットで検索してみたり、手持ちの書籍を見たりしましたが、どうもぴったりな解説が見つかりませんでしたので、以下は推測です。



釈尊は菩提樹の下で悟ったとき、悟ったその悦びに樹の下で21日間(35日間という説もあり)動かないでいたといわれています。なので「自受法楽」といわれる「法を悟った悦び」「悟りを開いた悦び」「恍惚感に近い悦び」がこれに相当するのでは無いでしょうか?

また、一般的に「つり三昧」とか「美食三昧」なんて用法で使われていますので、利他や菩薩という「教え」に絡むものでなく、純粋に悟りの先に得られる「悦び」をさすではないでしょうか。ただ、こういう感覚を目的にすると、ヘロインやLSDなどを利用するほうが手軽ですので、あまり仏教の書籍では強調しないのかもしれません。

私も昔、祈りをしている時、胸に光りが差し込んできたような感じがして、暖かくなったことがあるのですが、そのときすばらしい恍惚感がありました。たぶん、本当に悟ると、これよりも数十倍から数百倍の悦びが得られるのだと思います。(「宇宙即我」の悟りが得られれば、体験できるのでしょうね。まあ、数百~数千転生くらい先の話かもしれませんけど・・)
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

悦びそのものですか… 難しいですね。
大乗の三昧の強調の仕方が、「三昧の中で、仏にまみえ、仏の教えを聞く」
というものでして、(書いておらず申し訳なかったです)それと併せ考えたのですが、三昧はその仏の悟り、悦びであり、一心に求める行動と考えても大丈夫でしょうか…
重ねて質問してしまい申し訳ないです。
よろしければご意見お聞かせください。

お礼日時:2007/01/07 22:25

こんばんは。



 三昧というと禅定とほぼ同義としか認識していないので、ご質問にお答えできるほどの教養はありませんが・・・いくつか、気になったので失礼します。

 すでにお調べのご様子ですので、どこまで調べて「いまいち理解できない」のかをもう少しお記しいただくと、ご質問をご覧になっている他の方々もご回答し易くなると思いますが、いかがでしょう?

 それと、大乗仏教の特質として挙げられている項目は良いセンを突いておられると思いますが、上座部仏教に対する「真理の位置づけ」とその「普遍性」に対する考え方の違いを取り上げると、より特質が明確になるのではないかと思いました。(既に教わっておられるのかな、とも思いましたが・・・)
 どういう経緯でご質問のような課題が出たのかももう少し記していただくと、ご回答される方々に状況がわかって良いかな、と思いました。

 素人の横槍ですみません。では。
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この回答へのお礼

内容の欠けた質問文で申し訳ありませんでした。

このような課題が出されたのは、私の大学は仏教系大学でして、その授業の一環ということで仏教を習っております。

仏教全体を見て日本の流れの中で大乗仏教の部分を取り上げ、特徴を述べる課題が出たのですが、三昧についてはあまり詳しいものが見つからず、あまり大きな点ではないのかとも思ったのですが、参考プリントに、
「三昧の中で、仏にまみえ、仏の教えを聞く」
という記述だけがありまして、気になっております。

特質なのかどうなのかという点で(大乗のみの考えということではないので…)いまいち分からないと言う書き方をしてしまいました。
すいませんでした。

「真理の位置づけ」というのは、仏に成れる、というような考えかた、ということでしょうか…

実際私も授業で、仏教の流れというような概説でしか受けておらず、素人そのものでして…
もしよろしければ教えていただきたいです。

お礼日時:2007/01/07 22:18

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