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千人斬るというのは大変なことだと思うのですが、達成した侍は歴史上存在したのでしょうか?百人斬りは?歴史に詳しい方、お願いします。

A 回答 (8件)

歴史上あったとすれば、影流(新當流)初代愛洲移香斎久忠様、影流(新當流)二代目宗家の兵法家上泉伊勢守信綱様、同影流(新當流)二代免許皆伝疋田文五郎様、同二代影流(新當流)免許皆伝神後伊勢守宗治様、同影流(新當流)二代免許皆伝丸目蔵人様ですね。



◎愛洲移香斎久忠とは?
千人斬り筆頭。
兵法家であり、剣術家でもあり、水軍(貿易を営む)の頭でもありましたので、支那との貿易でもめた時に船上で千人は斬っているでしょう。

○上泉伊勢守信綱様とは?
千人斬り横綱。
戦国時代でしたので千人斬りはしています。

○疋田文五郎景兼様とは?
千人斬り横綱。
戦国時代でしたので千人斬りはしています。
新當流=影流の稽古をつけるのも疋田文五郎景兼様の御役目でしたので、最低でも千人は斬っているでしょう。撓(しない)での剣術稽古附けでも。

○神後伊勢守宗治様とは?
千人斬り大関。
戦国時代でしたので千人斬りはしています。

○丸目蔵人佐長恵様とは?
千人斬り横綱。
戦国時代でしたので千人斬りはしています。
肥後国熊本で相良氏に武将として雇われてからも
自軍大軍全滅の憂き目に遭いながらも、
丸目蔵人様は「影流がかついだら逃げよ。」の
新當流(影流)の「かつぎわざ」という秘太刀で
「かつえるまで、斬り続けられる、かつぎわざ、万を相手に、斬り抜けるすべ。」影流術歌
「飢え死ぬまで斬り続けられる」「かつぎわざ」で斬って斬って斬りまくって斬り抜け、
一人生き延びました。
少なく見積もってもこの時で千人は斬ったでしょう。

その後、相良氏から
〒869-3471熊本県宇城市不知火町永尾(えいのお)1618の「古屋敷(ふるやしき)」
に蟄居を命じられました。
現在は、丸目蔵人先生のご子孫の方々である「丸目姓」と「青木姓」(丸目蔵人先生の旧姓は「青木」です。)の方々が、港でとれた魚を刺身などにして残ったあらを肥料にして、ヤンマーの糖度研究員もびっくりするぐらい甘い「蔵人デコポン」と「蔵人米」を作っています。
直接お問い合わせいただければ、産地直送でデコポンとお米を送っていただけると思います。

その里は、土地は港町なのだけれどそこをえ?こんな道という細い道を山に登るとどーんと一箇所だけ開けた里があります。

その隠れ里に「われこそは」という剣豪・剣術家・武術家がどんどん挑んできたのでどんどん斬って捨てていますので、返り討ちだけでも千人を超えています。

ですから、肥後の国永尾の古屋式には、返り討ちにあった無念であったであろう
剣術家の方々の御霊(みたま)を鎮(しづ)める石碑があり、
毎年四月下旬には返り討ちにあった剣術家の方々の慰霊と丸目蔵人先生の顕彰を兼ね
「剣豪丸目蔵人先生顕彰奉納演武」が
〒869-3471熊本県宇城市不知火町永尾(えいのお)1618の「古屋敷(ふるやしき)」
にて行われます。

以上です。。
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どちらかというと悪い意味の方ですが…あくまで噂としてですが、秀吉が台頭してきた時代に京で辻斬りが横行し犯人が不明とされている中で秀吉の小姓である大谷紀之介(のちの大谷吉継)が犯人であるとする立板が掲げられたそうです。


というのも紀之介が病に罹っていたので「千人の血を舐めればどんな病も治る」という言い伝えにより紀之介が辻斬りを行ったと言われました。
しかしこの噂は紀之介が秀吉に重用されているのが気に入らない連中の仕業と思われており、秀吉自身もこの噂を一笑に付して、更にその噂が立った事に関して代官の役目不足と断じて代官を更迭したそうです。
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NO3さんに賛成。



水戸黄門、暴れん坊将軍みたいな時代劇ヒーローは完全なフィクション。

忠臣蔵だって、切られた吉良側は少数みたい。

千人は、沢山のと言う意味では・・・

斬るは、女を・・・

と言う意味だと思います。
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英雄談やら誇張に満ちた似非記録になら幾らでもいるでしょうが、現実的ではないですね。


合戦における実戦部隊はよほど大きなものでも千単位です。
例えば長篠の戦における山県昌景が率いていたのは300~400程度と言われる。
つまり、一人で千人も切れるようなツワモノがいたら、独りで一部隊を壊滅させられる事になる。
1万石で動員できる兵員が大体250だから、千人だと4万石の大名を丸ごと相手にしているようなもの。
更に、40キロもある鎧を着て鋼鉄製の人切り包丁を千人分も振り回すのを想像してみよう。
それが戦場なら?
まあ、過労で死ぬだろうね。
なので一つの戦で千人も切ったなどと言うものを持ち出す事自体、そもそもバカ臭い。
では数回にわたってならできるかと言うことになるが、先の方の回答にもある様に「笹の才蔵」で首17だから、もし30も仕留めたらどえらい戦果と言うことになろう。
それでも千人に行き着くまでには33回もそのどえらい戦果を上げねばならないのだから、命がいくつあっても足らないと思われる。
だいたい、そんなに手柄を上げたら出世しちまうので自分で敵を切るなんて事は無くなる。
逆に狙われる立場になるので、敵を切るより防ぐのに忙しくなりそう。
ドラマの様に一振りごとに切られてくれる雑兵なんておりません。
よって戦では無理と断定。
剣豪小説のように一人ひとりではどうだろう。
剣豪を10人も切ったら名が上がってしまうのでザコは寄ってこない。名のある剣豪が相手となると、一日に一回以上の果し合いなどありえないので、毎日やっても三年間切りっぱなしということになる。
アリエナイ。
最後の頃は相手が試合の前に逃げ出すだろう。マチガイナイ。
結論・・・無茶言うな。

なお、塚原朴伝は生涯に200人位切ったと言われますが、このあたりなら何とかありえるかも。でも、話半分にしておくのがいいかもしれない。
そもそも千人切りの千人は数多くを意味する言葉です。
そして数多くとは3人以上を指す言葉でもある。

なお、第二次大戦なら兵器の質が上がったせいか、存在する。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%8F%E3%83 …
この人についてはウィキよりもアンサイの方が信憑性が高いというトンデモ野郎です。
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常陸鹿島家の家臣、松本備前守政信は、鹿島家の


内紛で起こった大永4年の高天原の合戦で、武士首
25、雑兵首76を取ったという。
一度の合戦で計 101人を倒したことになる。
ただし刀でなく槍である。
この話の信憑性は?

確かとしても刀で一度の合戦で百人を倒すのは無理
と考えられる。

一生のうちでも難しいだろう。
槍でも千人は考えられない。

槍の才蔵といわれた、可児才蔵が関ヶ原の合戦で
取った首は 17という確かな話があり、この辺が妥当
ではないか。
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現実的な話ですが日本刀を含め刃物というのは人間を数人切ると人の脂できれなくなり、


また、相手も刀を持っていますので刀同士がぶつかるとそこで刃こぼれをおこし
はっきりいって一つの刀で十人もきれないでしょう。
そういう意味で仮に千人切るとすれば、1回の戦場で10人きれば100回戦場にでれば
1000人切ったことになります。
ただ、有名武将であればはっきりいって初陣から数回は一般兵と同じように歩兵扱いであれば切れますがその後そんなに人をきって敵の首を持っていけば必ず出世します。
出世すれば敵と戦うのは家臣となりますので、(侍大将自ら死地に飛び込むようなことをすれば家臣は見限るでしょうね・・・)
実際にはありえないのではないでしょうか?
一回の戦闘で100人も切ろうとするならば、刀を数十本持っていかなければならず現実的にありえません。
また、戦場では刀をつかうより槍を使う戦いが多いのではないでしょうか?
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土屋昌恒




天目山の戦いのとき主君武田勝頼を守るため 寄せ手の織田軍の武将河尻秀隆と交戦
河尻軍約4000に大損害を与えるも 窮鳥敵せず討ち死に
その勇姿は「片手千人斬り」と呼ばれた

長野業盛

上野の豪族 長野業正の子
武田信玄が厩橋城を攻めたとき
徹底抗戦を挑み 1ヵ月半の篭城の末 信玄方に戦死者約4000という損害を与えて討ち死に
業盛自身も約1000の武田兵を斬ったと言われる


何故か千人斬りの伝承は武田関連が多い
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「千人切り」は「千人の女性と寝る」の隠語ですね。



槍や刀で千人も斬ることは不可能です。百人でも…。
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