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 1. 因果律とは 別です。

 2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。

 3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。

 4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?

 ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。
 
 なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。

 5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~
  わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み
  〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。

 ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。
 ですよね?

 7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?
 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

A 回答 (48件中1~10件)

「カントは自然本性について規範のかたちで命題を出します。

そこはいただけないと思います」
具体的にどこですか? 引用してください。

「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」
つまりどっちでもかまわないわけですか? 生きることはそれ自体で善く、投票の強要に従うことにやましさを感じるなら、投票しないのが「普通」なのでは? 各自とかではなくあなたはどうするんですか?

「人間の言葉を語ったならそれはすべて人間が言ったことである」
オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか?

「基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです」
逸脱
平均的な基準からの偏向の総称のこと。
一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。
基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか?

「《信仰》にかんしてはその定義を提出し、それに合っていなければ批判します」
なら教会に出向いて説法してくればよいです。定義は本質を表そうとする命題なわけですから、「あなた方の信仰は非本質的であり、私が独りでキチンと考えて限定した定義に従って信仰てみてはどうでしょう?」と提案してみては? 

「《私》という言葉で自称していることです」
証明と言ったのですが。
あなたからすれば「私という言葉を書いていること」は経験的事実でしょう。私という語を使う者が、私という語を記憶していたり入力されているということまでは言えるでしょう。あなたが言っているのは、「xが私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか?
違うならば、なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか? チューリングマシンやオランウータンにも「私」があり、私という語を覚えた瞬間にオランウータンには「私」が存在するようになるわけですか?
あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか? あるいは、xが「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、xには「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか?

「やましさ反応はそのように観察された事実です」
あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。
観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか? 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?
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この回答へのお礼

 § 78 カント
 規範としての命題は 例の格率の文でもいいわけでしょう。
 ▲(ヰキぺ:イマヌエル・カント) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E% …
 § 2.3.2 倫理学

 道徳法則は

  「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ
  (Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich
   als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」

 という定言命法として定式化される。
 ~~~~~~~

 それにしても 次の考え方は どうなんでしょう?
 ▲ (Immanuel Kant:Kritik der reinenVernunft)Ich mußte also das Wissen aufheben, um zum Glauben Platz zu bekommen, 
 ● 私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった(篠田英雄訳)

 ☆ なぜ《知識を除く(否定する?)》必要があるか? 《神》を《非経験の場》として仮りにそのまま想定するだけなのではないか?


 § 79 脅しにあったときの自由意志
 ★ ~~~~~
   「そうである場合もそうでない場合も自由意志にゆだねられています」

 つまりどっちでもかまわないわけですか?
 ~~~~~~~ 
 ☆ 投票しろと脅される場合です。その脅しの度合いや その結果どこまで社会生活に支障をきたすか いろんなばあいがあると思うのですが?

 いのちの危険がある場合 これは相手の要求に屈したとしても 自由意志の怠慢でもへそ曲がりでもないでしょう。死をちらつかせるのは すでに無効の行為です。生き延びましょう。
 あとは 場合によって どこまで基本主観をたもつか。もしくは譲歩するか。いくつかの場合に分かれると考えます。

 § 80 動物のしゃべる言葉
 ★ オランウータンやヨウムやチューリングマシンは人間ですか?
 ☆ 人間の言葉を――あるいは人間の言葉に聞き間違えることばを――しゃべる動物や機械です。

 § 81 基本主観からの逸脱 
 ★ ~~~~~~~~
 逸脱
 平均的な基準からの偏向の総称のこと。
 一般には、単に統計的な意味で出現頻度のごく少ないという意味にとどまらず、その上にルールから外れた望ましくないという道徳的裁定が込められる。
 基本主観という「正道」からの逸脱は「望ましくない」のですか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《偏向 / ルールまたはそれから外れること / その偏向やハヅレを望ましくないと見ること》 これらをそのまま受け留めて考えるにしても すべては本人の主観内での判断によります。やはり《やましくないことと そこからの逸脱》とです。

 § 82 同じく《信仰》からのへそ曲がり
 ★ なら教会に出向いて説法してくればよいです。
 ☆ ですから 《集団としての宗教》はすべて《個人の信仰が 自殺行為をおこなってその跡に出来た〈信仰の抜け殻〉をオシエとして立てこれをあがめるムレたがり》であると言っています。

 ローマ教会を初めとして宗教は すべからく自己解体すべしと言っています。

 もっと強烈にまたは実際に教会にまでおもむいて話をせよと言われれば まだまだであるかも知れません。ときを俟ちます。
 (まぁ もっとも《ときを得ても得なくても〔一歩一歩すすめていく〕》という考え方もあるにはあるのですが)。


 § 83 わたし
 ★ あなたが言っているのは、「 x が私という一人称代名詞を使うならば、xは私という一人称代名詞を使える」ということを述べたのでしょうか?
 ☆ 必ずしもそうではありません。というのは 《わたし》を自称したということは 自称して何らかの意志を表明したはずであって そこには主観の航跡がうかがわれると言ってよいでしょう。

 ゆえにそのような精神の軌跡をたどって行くならば
 ★ なぜある者が私という語を使うことがその使用者に「私」が存在することを証明するのですか?
 ☆ という問いに答えることができましょう。

 ★  あなたの論法をとるなら、私は自分のことを意識や「あたし」と自称したりしないので、私には意識やあたしが存在しないわけですか?
 ☆ そこのところは 柔軟に文脈や情況を考慮して その人に意志があるのかどうか 自己表現しているのかどうかを捉えようとしてみれば だいたい分かるようになるでしょう。
 たとえば あいさつをしてみるとよいでしょう。こんにちは! と声をかけて どう答え返して来るかです。あいさつを返したならば 《わたし》の動態が見て取れましょう。また そのかぎりで 主観が生きていると受け取ってよいでしょう。そうして 問答をつづけます。

 ★ あるいは、x が「あたし」や「ウチ」や「私」という語で自分を称するなら、x には「私」と「あたし」と「うち」が存在するのですか?
 ☆ 自称には その人の生きるたましいが存在し動いていることでしょう。


 § 84 やましさ反応
 ★ ~~~~
    「やましさ反応はそのように観察された事実です」
  
 あなたが観察したのは赤面であり、これは酔っているときやら恥ずかしいときや怒っているときでも生じます。あなたの言う観察は解釈です。
 ~~~~~~
 ☆ そうですが その《解釈》はあくまで本人の主観の動態から来るものだということです。本人がどう思っているかです。
 ただただ恥づかしいときと心にやましさが反応しているときとを ひとはだいたい見分けることができます。
 《観察》というのは そのようにその人の主観がどのように自分の内なる現象を捉えているかをめぐってです。そのときに《解釈》が入ると言えば 入るでしょうね。他人が観察しているのですから。

 ★ 観察だと言うなら、つまり経験的事実だと言うなら、あなたは他人の身体に生じている感覚内容を感じることができるんですか?
 ☆ 観察と解釈の結果内容について その本人に対して まちがっているかどうかを問い質せばよいわけです。

 ★ 他人が赤面しているとき、他人の恥ずかしさでも悔しさでも焦りでもなく「やましさ」という身体的な感覚を感じたのですか?
 ☆ 本人は だいたい無理なく見分けることができましょうし 他人でもその観察において 《やましさ》かどうかをそれほど間違えることもないでしょう。不確かなら 尋ねればよいのですから。

お礼日時:2013/02/10 19:57

ひとりの人間がその主観を自己表現した場合の文に準じて、文と認められる場合があります」


xが主述形式をもっていたり、句点や疑問符などの符号をもっていれば、xは文として見なされるのだから、そういう基準はいりません。クジラのソングやカラスの鳴き声に見られる差異、こういうときはこう鳴いてこういうときはこう鳴かない、それによってその時々の鳴き声に異なる意味があるとわかるのであり、このとき人間の言語を基準になどしていない。
なんにせよマシンによる文は意味をもつということですね。文が意味をもつために意図は必要ではないとなりました。

「受け容れられません。たとえを盾にしてレッテルを貼っただけです」
「去勢されている」という喩えでレッテルを貼ったのはあなたですし、あなたは木や飾りという喩えが好きなようですが、これらがレッテルでなく診断だとするならそれはなぜですか? 人格はゴミだとしながら人格を前提にしてさらに「去勢」「歪み」などとその人格にレッテルを貼り付けるのは飾り付けなのでは?

「述定predicateという用語では主題を承けて話し手が何と答えるかという議論といった中身が消えるように思います」
議論の場合なら議題やテーマやトピックでよいです。

「ならどうしてそれを書いたのですか?」
説明するための例として使いました。「私は学生である」という文に「説明するための例」なんてSinnもBedeutungもありません。

「それだけですがそのそれだけだということをも《私の意図を内容としてもっていません》と言って否定しています」
当たり前です。記述された文の内容と、記述者の意図や動機は異なります。
「主観としての自己表現」とはなんですか? 主観と自己の違いは?

「《ひとりの人のいのち》はそれがどの人のいのちにもひとしいと見るとき、総和にあたかも匹敵する。その総和はどの時点をとってもそのときの総和である」
そのときの総和ならやはり十年前より私の命の尊さとやらは増してますね。
どのときですか? 私はいまの人類の総和なんて知りませんし、こう書いている最中にも総和は変動しています。私の意識と無関係に変動しつづける人類の総和は決定不可能であり、認識不可能であり、それを1人の人間に見るというのは意味付与にほかならないし、なんら基本ではなくたんなる主観の域を出ない。
普通は命は一つとされますが、1人の命が人類に総和に相当するなら、誰かを約七十億回ほど殺してもその人は死なないんですか? 違いますよね。1人の命が人類の総和に匹敵するという価値付与でしょう。

「前項の内容が普遍性を持ち変わらざる真理のごとくあります。いちど共同主観を持ち得たと主観したならば、手続きはもう要りません」
「真理のように」なら実際はどうあるわけですか?

「ワタシの自同律のごとく共同主観を持ち得た基本主観を同語反復して自覚すること。ここに有効性があります」
何に対する、どのような、と聞いています。どこかは聞いてません。
共同主観って誰もがもってるから共同なんじゃないんですか? 共同主観とはあなたが拵えた「基礎理論」であり、いわば「みんなが私と同じように考えたらみんな私の意見に賛成する」という誇大妄想の域を出ないでしょう。
私は私であるでしたか。ならあらためて聞きますが、「私」とは何であり、「私」はどこに存在しますか? 命としての存在が本性なら主観と基本主観はゴミですか?

「主観が基礎理論に立った。その基本主観には共同主観がそなわった」
証明の意味をちゃんと調べましょう。

「そのとおりです」
ニーチェの「事実は存在せず、解釈だけが存在する」には賛成のようですね。ならばあなたは認識も証明も分析もしていない。基礎理論とやらは「すでにそこにあったもの」ではなく、そこへあなたが投影したものにすぎません。

「そういう主観には呼びかけないでしょうね。いちどきちんと呼びかけたあとは」
きちんととはなんですか? あなたは死刑囚や精神病者や神経症者に実際に「きちんと」呼びかけたんですか? 無住処涅槃とか言うなら彼らこそ慈悲を向けるべき相手でしょう。


「このような基本主観のあり方を《無住処涅槃》と言ったり」
本来清浄涅槃より低レベルなところであなたは自足しているわけですね。
仏教を持ち出すなら、言語は人間に生得的なものだとか母親への聖なる甘えだとか、人間に固有の性質だの個人的な母子関係だの瑣末なことを気にしないで、一切衆生有情の観点から動物も仏になる「可能性」を重視し、自分が死んだら川に放って魚に遺体を食わせてほしいとした親鸞などを参考にしたらよいでしょう。
唯識をとるならあなたの言う基本主観は上部構造の末那識とさらなる下部構造の阿頼耶識に分かれるわけですが、この阿頼耶識はむしろ精神分析における無意識に近いところがある。経験が蓄積されるわけですから。さらに菩薩定姓・独覚定姓・声聞定姓・三乗不定・無性有情姓によれば、あらゆる人間は素質的な違いをもつ。無性有情の人はまさに「可能性」がないとなる。異常性癖や知的障害者を考慮に入れると現実的な見方でしょう。
そしてあなたによればあなたの言う意味での「えぽけー」で一発らしいですが修行の重要性をまるでわかっていないし、クリューバー・ビューシー症候群や薬物依存など身体的および器質的要因が絡む現実的な問題をあまりに軽んじている。PTSDなどさえ「えぽけー」で一発とか言っているなら現実を見ろとしか言えません。一発というだけの治療効果があるならやさぐれた不良や麻薬中毒者らを治療してきたらいい。結局は「主観の問題」だから治療なんてできないわけでしょう? だったら精神に病はないとか「一発」とかほら吹かないほうがいいです。
無住処涅槃もあなたの言う「広義の」「無住処涅槃」ですか?

この回答への補足

 § 76 言語(つづき)
 ★ なんにせよマシンによる文は意味をもつということですね。文が意味をもつために意図は必要ではないとなりました。
 ☆ 《意図》が誰のものであるか分からないかたちで文が表現される場合がある。マシンによって表わされた文である。これだけのことが 明らかになりました。
 《意図は必要ではない》かどうかは 別でしょう。

 ★ 「去勢されている」という喩えでレッテルを貼ったのはあなたですし
 ☆ 《たましいが》と言っています。

 ★ 人格はゴミだとしながら人格を前提にしてさらに「去勢」「歪み」などとその人格にレッテルを貼り付けるのは飾り付けなのでは?
 ☆ 《人格》にかんしては 前回つぎのように規定しました。
 ☆☆(No.46補足欄) ~~~~~
 かなしいかな 人間の自己表現はすべて その人の主観が表明されるのみです。
 もし信憑性が問われるのなら 事実認識の妥当性を別にすれば(=妥当性がさだまらない場合ならば) 例によって飾りやゴミとしてのシガラミが ややもすると人びとの判定眼に拡大鏡(縮小鏡)をつけ与えるということになるのが せいぜいでしょう。
 ゆえに 問題は 文体の整合性・その妥当性の保持がものを言うことでしょう。もし言うとすれば これが人格です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この文体の動態における妥当性とその保持だと言ったのですが 同じくかなしいかな この人格も シガラミなる応用部門に属していて 飾りであったりゴミであったりします。と言っています 基礎理論は。

 ★ 「私は学生である」という文に「説明するための例」なんてSinnもBedeutungもありません。
 ☆☆(No.39お礼欄) 《説明に用いる》文を書いたという《動機》があります。言いかえると その説明のための例文を含む全体が 主観としての自己表現です。
 ☆ さらに説明するならば 《「説明するための例」なんてSinnもBedeutungもありません》ところの《「私は学生である」という文》を書いたという意味があります。

 ★ 記述された文の内容と、記述者の意図や動機は異なります。
 ☆ ゆえに 自己表現と言って《自己》をつけ添えていますし 《主観としての》だとも示しています。


 § 77 いのちについての基礎理論
 ★ ~~~~~~~~~
   「《ひとりの人のいのち》はそれがどの人のいのちにもひとしいと見るとき、総和にあたかも匹敵する。その総和はどの時点をとってもそのときの総和である」

 そのときの総和ならやはり十年前より私の命の尊さとやらは増してますね。
 ~~~~
 ☆ わたしも総数を出したことがありましたが この場合 《一》なる主観(いのち)が互いにひとしいゆえ総和にあたかも匹敵するというとき けっきょく《総和》は《総数》のことを言うよりも 《全体としての一》のことと取ってください。
 ですから 数としては つねにどこまでも《一》です。そのように理論を書き直します。

 ★ 普通は命は一つとされますが、1人の命が人類に総和に相当するなら、誰かを約七十億回ほど殺してもその人は死なないんですか? 違いますよね。1人の命が人類の総和に匹敵するという価値付与でしょう。
 ☆ まことにおっしゃるとおりです。


 ★ 「真理のように」なら実際はどうあるわけですか?
 ☆ 《うつろいゆくことのない》内容だという意味です。ただし そのような基礎理論の内容であっても 人間が捉えて表わしたものに過ぎないのですから 《真理の〈ごとく〉》と表現しています。

 ★ ~~~~
   「ワタシの自同律のごとく共同主観を持ち得た基本主観を同語反復して自覚すること。ここに有効性があります」
 
 何に対する、どのような、と聞いています。どこかは聞いてません。
 ~~~~~~~
 ☆ すべてにおいて有効です。あたかも真理のごとく変わらざる内容ですよという意味です。


 ★ 共同主観って誰もがもってるから共同なんじゃないんですか?
 ☆ それは 結果です。実証・論証しえたならですが。
 ですから 歴史がこれから実証するかたちだというのが この基礎理論に言う《共同主観》のことです。


 ★ 私は私であるでしたか。ならあらためて聞きますが、「私」とは何であり、「私」はどこに存在しますか? 命としての存在が本性なら主観と基本主観はゴミですか?
 ☆ 言わなければならないことは またまたかなしいことには この《いのち》さえもが じつは移ろいゆくものであるかも分からないということです。何と言おうと 経験存在であるということでしょう。
 絶対なる真理からみれば すべてがゴミです。

 ぎゃくに言うと この真理にわづかにでもつながるなら そのわたしは 《存在》ということが成るとも言えましょう。そう出来るかどうか そんなことは誰も知りません。(また 成らないと確実に言える人間も ひとりもいません)。

 ★ ~~~~
   「主観が基礎理論に立った。その基本主観には共同主観がそなわった」

 証明の意味をちゃんと調べましょう。
 ~~~~~ 
 ☆ ですから ひとつに《同語反復すること》は 主観の保持に寄与します。ひとつに 実証は――すでに触れたように―― これからの歴史の過程において得ることになるという理論です。特殊ですが これがいまの場合の《証明の意味ないし そのあり方》です。

 いえ。歴史という総体を言うだけではなく 《§ 52-3 証明は じっさいのワタシの歴史にある》とも言って その検証につとめることが肝心です。

 ★ ~~~~
   ★ ~~~~~~~~~~~~
   「まるで異なった主観どうしのあいだにも共通性をいのちなる存在として見い出した」

   として解釈した。それだけです。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
   ☆ 「そのとおりです」

 ニーチェの「事実は存在せず、解釈だけが存在する」には賛成のようですね。
 ~~~~~~~
 ☆ いいえ。なぜなら《解釈》によるいまの理論には この場合 実証が――事後にですが――つくであろうと言っています。
 《やましさ反応》は 規範ないしその認識としては 後天的な学習によりますが 身とそして心に起こる現象としては おしえられて出来るものではなく 自分が意志してそれが起こるものでもない。――このようにして 基礎理論は 自然本性にもとづくと見るものであるからには 大きくワタシとしても歴史としてもその自然史過程のうちに出現して来ることでしょう。それが 実証です。

 ★ ~~~~
   「そういう主観には呼びかけないでしょうね。いちどきちんと呼びかけたあとは」

 きちんととはなんですか?
 ~~~~~~ 
 ☆ もういやだ 聞きたくないと意志表明するまでという意味です。

 ★ ~~~~
   「このような基本主観のあり方を《無住処涅槃》と言ったり」

 本来清浄涅槃より低レベルなところであなたは自足しているわけですね。
 ~~~~~~~
 ☆ そのとおりです。しかも その《低レベル》のほうが あの真理はよろこびましょう。ゆえにです。(むろん 主観におけることを吐き出しただけです この説明は)。(強いて言えば 本来のニルワーナなどは 《純粋論理》でしかないと見るという意味です)。


 ★ 一切衆生有情の観点から動物も仏になる「可能性」を重視し、自分が死んだら川に放って魚に遺体を食わせてほしいとした親鸞などを参考にしたらよいでしょう。
 ☆ イザヤ書での《動物との共存》をすでに引きましたよ。つまりそれは 未来社会でのことですが 《基本主観》があまねく(とりあえず三分の一)成ったならば 動物たちもよろこぶことでしょう。


 
 ★ 唯識をとるならあなたの言う基本主観は上部構造の末那識とさらなる下部構造の阿頼耶識に分かれるわけですが、この阿頼耶識はむしろ精神分析における無意識に近いところがある。
 ☆ 基本主観は ほとんど《いのちの存在》という次元に絞られます。それをアーラヤ識等々と言うまでには到りません。つまりそれらは 飾りの理論だと見ます。無意識も同じです。
 つまり
 ★ 経験が蓄積されるわけですから。
 ☆ シガラミ部門のことです。

 ★ あらゆる人間は素質的な違いをもつ。無性有情の人はまさに「可能性」がないとなる。
 ☆ 応用部門での議論は ご自由にどうぞ。

 ★ 修行の重要性をまるでわかっていないし、
 ☆ それは 文体の地道で着実な動態つまりそれとしての人格の問題です。それも ゴミ・飾りの領域です。

 ★ クリューバー・ビューシー症候群や薬物依存など身体的および器質的要因が絡む現実的な問題をあまりに軽んじている。
 ☆ 社会現象から来て DNA にまで影響がおよぶまさにシガラミの処理としての《精神の休息》の問題だと見ます。器質的要因もが 社会的な人間関係におけるアース役の習慣化およびそれの遺伝子化によると見ています。

 ★ PTSDなどさえ「えぽけー」で一発とか言っているなら現実を見ろとしか言えません。
 ☆ あまりにも現実を見ていない人が多いので 現実を見ている人たちのあいだに精神の休息を必要とする場合も出て来る。と言っています。

 (つづく)

補足日時:2013/02/10 14:33
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この回答へのお礼

 (つづき)
 (§ 77 いのちについての基礎理論 のつづき)

 ★ 一発というだけの治療効果があるならやさぐれた不良や麻薬中毒者らを治療してきたらいい。
 ☆ 《本人》の主観がすべてです。
 人と人との交通は まづは信頼関係を築くのが 先決問題です。
 《宗教》ではないのです。

 社会政策に採り入れればよいでしょう。でもその前に ワタシが基本主観の確立につとめなければなりません。むろんそれが発展途上でもよいわけですが 要は ワタシたちの水かさが増して行くこと これにつとめることが 筋道でしょう。


 ★ 結局は「主観の問題」だから治療なんてできないわけでしょう? だったら精神に病はないとか「一発」とかほら吹かないほうがいいです。
 ☆ 《治療》も 本人の主観のもんだいです。聖なる甘えに立ちもどれば一発で回復します。理論はそうなっています。

 ★ 無住処涅槃もあなたの言う「広義の」「無住処涅槃」ですか?
 ☆ 先行者がいれば――それもまだまだわたしの知らないところに知らない人たちがいることでしょうが―― できるだけその理論に触れるようにしています。
 このスレッドでは わたしがアウグスティヌスにすべてを負っていることに触れていなかったですね。あなたのほうからすでに出て来ていますが。

 無住処涅槃をどう捉えるか その詳しい話は 保留しましょう。(《低レベル》うんぬんがすでに出ています。というより この保留は もったいぶった話なのではなく それほど知らないし それほど深く知ろうとも思わないという意味にとってください)。先達についてその名を挙げておくという意味合いで出したものですから。

お礼日時:2013/02/10 14:51

まずだれが「同じ〈社会〉の成員として生きている」と言いましたか? あなたが人間と動物を区別しようとして挙げた言語や個人史などがすべて人間以外の動物で観察されていると私は言っています。

これまでのそうした試みは言語生得説を含めて崩壊しています。チューリングマシンについても、被験者らがマシンをマシンだと気づかなかったことは、「xは言葉を使う」「xは私という一人称代名詞を使う」という経験的事実から「xには「私」や意識がある」という判断は導けないことを示している。それを「機械や動物が同じ社会の成員として生きているという主張」だと見なすなんて誤読もいいところです。
あと私は社会契約説を重視しない。私は社会という抽象的な契約したことがないし契約説は便宜上のものでしかない。ただし、ロックやホッブズが説いた社会契約論に含まれるアーギュメントをすべて軽視するわけではないし、社会契約論を更新したロールズにも評価すべきところはそれなりにある。
しかし動物が私と同等ではないから動物を下等に見なしてよいとか、動物が自分と同等にならなければ動物を同等扱いしないとか、ある者が自分と同等でなければ自分と同等扱いしなくてよいとか、そういう排他主義はとらない。共同体のレベルを民族や文化ではなく人類に拡大したところで、それは人類というカテゴリーに属さない者を他者とし、「同類/異類」の二項対立図式において、前者を上位とし後者を下位とする裁断を免れることはできない。さらに、あなたはアウグスティヌス的な善悪、すなわち悪を善の欠如(非-存在)とする見方を踏襲している。善とは「人命一般を尊ぶ」とか「人命の保存に努める」とかそんな感じのものでした。そしてあなたによれば動物はそれをもたない。動物に「人命一般を尊ぶ」性質はないし、ありえないらしい。それは事実として認めても、私が認めないのは、その理屈では動物は存在論からして絶対的に悪だとなること。なぜならあなたの言う善(人命を尊ぶとか)を有さないのだから。たしかに比較するまでもない。
あなたによれば胎芽や「去勢」された人間は善をもつ「可能性」を所有するが、動物はその「可能性」を所有しない。動物をどのように扱ってもよいとはしないとあなたは言うが、しかしいざ動物に話が及ぶと倫理の問題を社会の問題であなたは捉える。あげく鳥が教師になればだのオランウータンが学校に通えばだの下らない詭弁を用いる始末。それはあなたが社会契約論に固執しているからでしょう。
存在論および本質論と善悪の協力、悪を非-存在として善を存在と結びつけるこの戦略は、ユダヤ人や女から動物に変わっただけであなたに踏襲されている。いくら本質論ではないと否認しようが、動物は「善」を有さない、その可能性がないと述べる時点で、動物(水棲動物、脊椎動物、無脊椎動物などを引っくるめてしまっているが)と人間の本質的な違いを述べている。
話が前後するが、自分と同等ではない者を自分と同等である者と同じ扱いをすることはできないという前提からは、同等ではない者だからこそ私により大きな責任があるという結論もまた導かれる。それは動物を人間より上位に置くことや賛美することではなく、責任の問題。
動物と人間は相対的だがたしかに差がある。そして鳶から鷹は産まれないというようにオランウータンから人間は産まれないのは明らか。しかし人間と動物を社会的に同等にするために、動物の遺伝子を弄ったりして動物の能力を人間が自分たちと同等扱いできるレベルまで「上げる」なら、それは他者を自同化することであり、いわば他者を「殺して」同者にすること。これは私には好ましくない。
そして可能性どうこうを言うなら、無脳症を「与えられた」胎児は生後二・三日から数週間、レアなケースでは数年で死ぬ。つまり無脳症児は「人命一般は尊い」などの基本主観をもつ「可能性」はないのだから、そうした胎児は中絶してよいはずである。また、両親の疾患が胎児の障害の原因でないならば、その子は中絶してあらためて健常な子、つまり「社会」の一員として学校に通ったり労働したりできる子を作るほうがよい。脳幹しかないタイプの無脳症児に「人命一般は尊い」と判断する能力が「潜在」していると思えるなら、基礎理論は現実問題の外部であり現実離れしています。

「《本気で思った》ことが世にとおるのなら」
「世に通る」とかの話はしてません。被験者がマシンを人間だと思ったことは、対話者が人間であろうとなかろうと対話者が人間であるという確信が形成されることを意味する。

「人間の話し合いというのはディアレクティークです」
対話は対話だと言っているに等しいですが、なんにせよ対話は続けることができますよ。むしろ対話している事例を紹介したわけです。

「《床に落ちた血痕》を読むとすればその落ち方を読むそうですが、どうしてその血の持ち主が誰かは読まないのですか?」
血痕からは読めないし読みたいと思ったこともない。私は駐輪場の床にある血痕を見たことがあります。乾いている様子により、落ちてから時間が経っていることや、点々と続く複数の血痕から血を流している誰かがどちらへ歩いていったかがわかる。しかしそれが誰の血なのかは私には読みとれない。
もちろん成分分析などをすることによって血液型などは判明するでしょう。事件捜査では被害者の爪に付着した皮膚から、その皮膚が誰の皮膚であるのか、どのような人物(男か、白人か、何歳かなど)なのかを特定する必要があるので、彼らはそうします。

「自己表現としての意志はあるか?あるいは聞き手がいるか? もしくは聞き手がいると想定して表現しているか?もしくはその発言を誰かに伝えようとしているか?」
実際のところ吐息は発言ですらないわけですが。イビキと同じように。このあたりは書き言葉に句点をつければなんでも文であるように読めるというエクリチュールとパロールの違いが厄介です。口頭でなされる話し言葉に「。」や「、」や「!」はないですからね。
息が口から外へex出るからといって息が表現expressionであるわけではない。走っていて息が荒い人はたしかに疲れてはいるが、「疲れを表現しよう」という意図intentionがあるわけではない。イビキに「私は寝ています」という意図はないし、イビキをしようという意図もない。しかし「zzz」や「んごぉ」は寝ている様子を意味している。その読み取りに必要なのはコードという慣例であり、寝ている人はしばしばイビキをするという経験則を要するのであり、寝ている人の意図が「ぐ~」というイビキに意味を与えるのではない。
ある文を自分が書いたらその文は自分の表現になる、なんてことはない。剽窃や盗作は表現ではなく、他人の表現あるいは考えをパクっただけ。なんでもかんでも表現の一言で済ませようとするのは分析ではなくゴリ押しにすぎない。それにしても神のときとは打って変わりあなたは表現に関して志向性・意図を過剰に扱っていますね。

「或る殺人犯いわく:私は人を殺していない。こういう自己表現であり、そういう主観です」
人を殺した本人が主観(自分は人を殺した)に反することを述べているわけですから自己表現ではありません。自己弁護、容疑否認と見なせばよいわけです。
「人を殺した」と言っても主観として表現した。「人を殺してない」と言っても主観として表現した。なにを言っても「主観として表現した」で済ませる。こういうのは分析ではない。また「広義の」「分析」ですか?
 「主観として表現した」が「発話者が発話した」を意味するならわざわざ言うまでもない。「主観を自己表現する」というのも冗長です。
殺人者が主観「を」述べるなら、殺人者は自分が人を知っているのだから「私は人を殺した」と発言するわけであり、それは起訴事実を認めるという言語行為です。容疑を事実だと認める発話主体たる殺人者は、「私は殺人者である」を客観的事実として、いわば主観(自分1人の考え)ではなく自分以外の人に肯定してもらってよい事実として、自供したわけです。
殺人者の主観は「私は人を殺した」です。その殺人者が「私は人を殺していない」と供述すれば、「私は人を殺した」が事実に反すると宣言しているのであり、人を殺していないというのを客観的事実として述べているわけです。たんなる主観(自分1人の考え)として述べていない。有罪か無罪かの瀬戸際なんですから、無罪判決を得るためにたんなる主観ではなく事実としてアピールしなければならない。
「自分がそう思っただけで世に通るなら」とあなたも言っていましたが、これはただの主観(自分1人の考え)に社会的な影響力はないと言っているわけでしょう。この点に限って言えばその通り。被験者らは文のやり取りの相手を人間だと思ったが、実は人間ではなくマシンだった。「自分がやり取りしている相手は人間だ」という事実認識すなわち主観は、「その相手は人間ではなくマシンだ」という事実の観察および命題によって反証されます。その反証命題に対応する事実は、マシンを人間だと思った複数の人々も観察できるため、たんなる主観(自分の考え)にはとどまりません。しかし被験者らがマシンを人間だと思ったのも事実であり、この事実は文の書き手および話し手に意識があろうがなかろうが、人は文に内容があると認めることを実証しています。私はあなたが意図をもたない人工無能でもかまわないし、それは文に内容があるかないかには関わらない。
あなたもプロフからするに先は短いのですから、主観をネットで開陳するだけでなく街頭で演説したり文書化して配布したりしないと。いちいち即レスしてる場合じゃないでしょう?

この回答への補足

 § 75 動物・機械 
 ★ あなたが人間と動物を区別しようとして挙げた言語や個人史などがすべて人間以外の動物で観察されていると私は言っています。これまでのそうした試みは言語生得説を含めて崩壊しています。
 ☆ なら オランウータンがこの質疑応答の場に参加するのを見たいものです。じっさいにではなくとも その可能性がなるほどありうると納得が行ったなら 考え直します。

 ★ あと私は社会契約説を重視しない。私は社会という抽象的な契約したことがないし契約説は便宜上のものでしかない。ただし、ロックやホッブズが説いた社会契約論に含まれるアーギュメントをすべて軽視するわけではないし、社会契約論を更新したロールズにも評価すべきところはそれなりにある。
 ☆ 西欧は 競争型( Homo homini lupus. Bellum omnium contra omnes. )であり 日本は 対話型。アフリカは 暴力型。といった図式を考えたことがあります。

 【Q:日本社会は 対話型か? なら話し合いを!】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6927237.html

 ★ しかし動物が私と同等ではないから動物を下等に見なしてよいとか、動物が自分と同等にならなければ動物を同等扱いしないとか、ある者が自分と同等でなければ自分と同等扱いしなくてよいとか、そういう排他主義はとらない。
 ☆ チンパンジーを教室に招き カンガルーと運動場であそんでもいいでしょう。 
 ただし 人がオランウータンと結婚するとは思わない。
 これで わかってください。動物を人一倍あたかも人と同等にあつかうというあなたも 動物が ヒトとは異類であるとみとめたのではないですか。

 ★ 善とは「人命一般を尊ぶ」とか「人命の保存に努める」とかそんな感じのものでした。そしてあなたによれば動物はそれをもたない。
 ☆ 動物は 動物なりのいのちの保持をおこなっていましょう。本能によるものであり 身分けと言っていました。この知覚を認識することをもおこなうとしたら そうだとしても その認識を日常化して社会生活をいとなむまでには到らない。この事実は 種差だということが 差別になるのですか?

 ★ それは事実として認めても、私が認めないのは、その理屈では動物は存在論からして絶対的に悪だとなること。なぜならあなたの言う善(人命を尊ぶとか)を有さないのだから。たしかに比較するまでもない。
 ☆ 動物のように本能のみによって生きることが理想だと言った人間がいたような いなかったような。
 動物はそれなりにいのちをとうとんでいますよ。種がちがうと殺し合い――食糧の奪い合い――をしますが。


 ★ 動物をどのように扱ってもよいとはしないとあなたは言うが、しかしいざ動物に話が及ぶと倫理の問題を社会の問題であなたは捉える。あげく鳥が教師になればだのオランウータンが学校に通えばだの下らない詭弁を用いる始末。それはあなたが社会契約論に固執しているからでしょう。
 ☆ 《詭弁》ではありません。現実問題です。社会契約論は そういう競争型の思惟=かつ行動の形式をおもに思想(=生活態度)とする民族がいるということを示しますが そこまでです。
 対話型の日本人であるわたしは もし《鳥が教師になれば》 人びとはみんなでその鳥の処遇をどうするか 考えてみましょうと言っています。

 ★ 存在論および本質論と善悪の協力、悪を非-存在として善を存在と結びつけるこの戦略は、ユダヤ人や女から動物に変わっただけであなたに踏襲されている。
 ☆ 動物も ヒトと同じく生命存在です。ただしそこには 種差がある。
 悪は 負の善であり それは 善を損傷することです。善が存在に対応するゆえ 負の善たる悪を 非存在とすることにそれほど問題はないとも言えますが 善の損傷行為として現実に現象してはいます。

 動物は いのちの保持としての善を本能によっておこない生きます。ただし種がちがう生物に対しては そのいのちの略奪をさえ 本能にもとづき おこないます。

 この事実としての違いを見ること。これだけです。

 ★ いくら本質論ではないと否認しようが、動物は「善」を有さない、その可能性がないと述べる時点で、動物(水棲動物、脊椎動物、無脊椎動物などを引っくるめてしまっているが)と人間の本質的な違いを述べている。
 ☆ それは あなたがです。かの地の人びとは 《森のひと》として親しく接しているのではないですか?



 ★ 自分と同等ではない者を自分と同等である者と同じ扱いをすることはできないという前提からは、同等ではない者だからこそ私により大きな責任があるという結論もまた導かれる。それは動物を人間より上位に置くことや賛美することではなく、責任の問題。
 ☆ 初めからそう言っています。環境保全も動物保護も 人間の物差しを基準にしている。そうなのだが 生命存在やそうでない環境自然についても 共生・共存であると。



 ★ そして可能性どうこうを言うなら、無脳症を「与えられた」胎児は生後二・三日から数週間、レアなケースでは数年で死ぬ。つまり無脳症児は「人命一般は尊い」などの基本主観をもつ「可能性」はないのだから、そうした胎児は中絶してよいはずである。
 ☆ そのことについて ひとつの課題として――われわれは対話型の日本人類型であるので―― みなで話しあて決めようと言っています。学術的な知見をも得ながら。


 ★ 両親の疾患が胎児の障害の原因でないならば、その子は中絶してあらためて健常な子、つまり「社会」の一員として学校に通ったり労働したりできる子を作るほうがよい。脳幹しかないタイプの無脳症児に「人命一般は尊い」と判断する能力が「潜在」していると思えるなら、基礎理論は現実問題の外部であり現実離れしています。
 ☆ たとえば その障害胎児を じんるいのために研究するという道もあるのではないですか? 《潜在性》すら否定するのなら つまりそこまで否定するにしても 研究をおよぼしてもよいのでは?



 ★ 被験者がマシンを人間だと思ったことは、対話者が人間であろうとなかろうと対話者が人間であるという確信が形成されることを意味する。
 ☆ そしてその《確信》が 誤信であったと分かります。つねに実際に相手を それは何であるか誰であるか たしかめましょう。


 § 76 言語
 ★ 息が口から外へex出るからといって息が表現expressionであるわけではない。
 ☆ 《吐息》だけでも 文脈によっては 意味を持ち得て 息の吐き手の意志をさえ読み取ることがあり得ましょう。特に信頼関係のある人間どうしの場合です。

 ★ ある文を自分が書いたらその文は自分の表現になる、なんてことはない。
 ☆ なぜ? 夢遊のうちにでも文を書いたということは 主観の表明になります。その場合は 意味がなかったという中身です。

 ★ 剽窃や盗作は表現ではなく、他人の表現あるいは考えをパクっただけ。
 ☆ 《パクッた》という意志行為です。主観としての自己表現の一端です。
 そういう文体の――意識の流れに応じてのような連続する過程をたどる――動態 これは 一人ひとりの主観がおこなうものです。(ちなみに 動物は いまのところ これが無理です)。

 ★ それにしても神のときとは打って変わりあなたは表現に関して志向性・意図を過剰に扱っていますね。
 ☆ ぢゃあ 《剽窃や盗作》は 自動筆記のごとく幽霊のごとく 行動したとのみ捉えるのですか?
 いいえ。その意図も意志もあって そうしたのです。
 (そう言うと あなたは 誰かに生命の危険を感じるまでに脅されて 書かざるを得なかった場合などは どう考えるかと問い返して来ましょう)。


 ★ 人を殺した本人が主観(自分は人を殺した)に反することを述べているわけですから自己表現ではありません。自己弁護、容疑否認と見なせばよいわけです。
 ☆ 自己弁護や容疑否認の発言が どうして主観による自己表現でないのでしょう? ウソをつくのは 主観ではなく自己表現でもないとでも?

 ★ 「人を殺した」と言っても主観として表現した。「人を殺してない」と言っても主観として表現した。なにを言っても「主観として表現した」で済ませる。こういうのは分析ではない。また「広義の」「分析」ですか?
☆ 答責性の問題です。文章責任のもんだいを言っています 主観を出すのは。

 ★ 有罪か無罪かの瀬戸際なんですから、無罪判決を得るためにたんなる主観ではなく事実としてアピールしなければならない。
 ☆ かなしいかな 人間の自己表現はすべて その人の主観が表明されるのみです。
 もし信憑性が問われるのなら 事実認識の妥当性を別にすれば(=妥当性がさだまらない場合ならば) 例によって飾りやゴミとしてのシガラミが ややもすると人びとの判定眼に拡大鏡(縮小鏡)をつけ与えるということになるのが せいぜいでしょう。
 ゆえに 問題は 文体の整合性・その妥当性の保持がものを言うことでしょう。もし言うとすれば これが人格です。

 あっ そのとおりに次に書いてありました。
 ★ 「自分がそう思っただけで世に通るなら」とあなたも言っていましたが、これはただの主観(自分1人の考え)に社会的な影響力はないと言っているわけでしょう。この点に限って言えばその通り。

 

補足日時:2013/02/10 13:18
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この回答へのお礼

 (補足欄からつづきます)
 ★ あなたもプロフからするに先は短いのですから、主観をネットで開陳するだけでなく街頭で演説したり文書化して配布したりしないと。いちいち即レスしてる場合じゃないでしょう?
 ☆ 本文(主節)については 《とき》がある・その熟成のもんだいがあると答えました。
 条件文のほうは あと百年でも 二百年から見れば 《短い》。

お礼日時:2013/02/10 13:21

「赤子の《聖なる甘え》にも潜在意識ないし自然本性のハタラキだけでじゅうぶんです」


哺乳瓶でミルクを摂取していた人間が「母親の乳房に吸い付く」という「聖なる甘え」を「思い出した」なら勘違いもいいところですね。
母親の乳首を刺激して性的快楽を与えることは赤子の意志行為であり、それが「聖なる」甘えということですか? なぜ「聖」なんですか? 潜在意識どうこうではなくたんなる本能あるいは生得的モジュールでよいでしょう。赤子の手に触れるとその指を握るのは、特定の物理的刺激に対する生得的な反射であり、自然本性とか潜在意識とかは要りません。

「ただしこのアース役の常習化などなどにより――暴論を吐きますが――DNAにも影響をあたえるであろうし、家庭において配偶者や子どもたちに向けてもアース役の反動が出てしまうこともある」
DNAは紫外線や放射能で絶えず傷ついていますし、ハエの実験からしても後天的な影響が次世代に受け継がれるのは実証されていますから、この点に関してはあながち暴論とも言い難いです。ただしDNAに影響を与えるというのは不適切であり、遺伝子の発現に影響を与えるというのが適切です。
そしてある個体への後天的な影響が次世代に受け継がれるとするなら、もはやコンゴやインドで「人間本性」はありえないでしょうね。

「独立した《無意識》領域でなければよろしいが」
なぜ独立していてはよろしくないんですか? 無意識が独立していようがいまいが言語などで十分に共同体は成立しますが。

「この基礎理論はむろん普遍性をもったものとして提出していますが、現実問題として目指すのは人びとの三分の一の同感を得ることです」
なぜ3分の1、すなわち約20億人なんですか? その目標のために「基礎理論」を英文書にして大々的に配布したりしていますか? 約20億人から賛同を得るその目標のためにあなたはなにをしていますか? なぜこんなところで一介の暇人に過ぎない私に基礎理論を紹介する一方で、レイプが日常茶飯事となっているコンゴや、友人が目の前で肉片になったのを目の当たりにして夜も眠れないアメリカの数万人の帰還兵たちや、法律や警察が保護しない不可触民の売春宿や人身売買問題が蔓延るインドへ行って来ないのですか?
そんな目標があるならこんなとこでQandAなんかしてる暇などないでしょう。

「《サンタクロース》を親たちとは別の人間だとウソをついたところで傷つくことはない」
親が嘘をついているとわかっていないときには傷つきようもないでしょう。

「その拷問を見せられたあとその家族の仇に仕返しをしようと思った。そのときのやましさ反応をさらに突破したことによりへそが曲がった。ゆえに基本主観もゆがんだ」
心を痛めると傷つくの違いはなんですか?
コンゴの実話です。復讐だの仕返しなどはできないし、ただ妻子を蹂躙されて終わり。「ヘソが曲がった」? 目の前で妻や娘の膣に木の枝やハサミや銃を突っ込まれていたのに自分がなにもできなかったことを苦しんでいる人間が偏屈で素直ではないと?
精神は傷つかないというのは精神病はないということですか? 虐待による統合失調や戦争によるPTSDなどを知っていてそう言うなら、また、あなたの言う「えぽけー」で本当に一発なら、精神病とされる人に一人でも多く「えぽけー」を教えてあげてください。合成麻薬クロコダイルの依存者をはじめ、様々な薬物依存者に「えぽけー」を教えてあげてください。
イジメられている子が頼っていた人間が、実はイジメっ子と陰口を言っていたのを知っても、そうした嘘でいじめられっ子が傷つかないとするなら、身体的な暴行などで「精神が傷つく」ことはあるわけですか?

「理性は単独分立してしまう場合があるのではないか? と問うています」
感情や情動や記憶には側頭葉の扁桃体が重要であり、理性的な思考には前頭葉だけでなく側頭葉や後頭葉も関わります。「理性」が単独で働くというのは、前頭葉が単独で働くと言っているに等しいわけですが、思考や行動は脳の全体的な働きによる。「理性」というものが実在するわけではない。ましてやそれが単独で働くなどありえない。

「ぢゃあこの理性の暴走をそうだと認識するのも理性であると言っときます」
言い捨ては要らないので論証をお願いします。いかなる欲求もなく理性が単独で活動するというのは麻薬中毒者の例からしてもありえません。麻薬の乱用は理性によるのではなく、身体的な欲求ゆえです。

「大丈夫なように実験の全体が仕組まれていると確信していたのでしょう」
なぜ? どうしてそう言えますか? あなたは被験者にインタビューでもしたんですか?

「《左右される》のと《影響をうける》のとは別です。左右されなかったから実験をつづけました」
どう別なんですか? あきらかに動揺しており、しかし「一切の責任を負わせない」と言われたから続けたわけですが。つまり「責任を負わせない」という他人からの発言が結果を左右したわけです。

「特定されていた主観の内容から派生しうることがらが自動翻訳で現われましょう。でもこれをプログラマーの主観に入れてもよいと考えます」
なぜですか? あなたの言う「主観」とはなんですか?


「では機械や動物が人間と同じ次元で=同じ社会の成員として生きているという主張にかんしては どうか? それは受け容れられません。どうして受け容れねばならないのでしょう? どうして《お遊び》だと言えないのでしょう?」
それは科学者を含むあらゆる人間が動物と接するときの態度が「お遊び」か否かという話とは別です。人工知能を研究している人間やチューリングマシンを人間だと思った被験者らの話ともズレています。話を逸らすのはいただけませんが、とりあえず。

この回答への補足

 § 66 聖なる甘え
 について
 ★ なぜ「聖」なんですか?
 ☆ ふつうのアマエとは違うという意味を持たせるためです。ものごころがついてから甘える場合には 飾りかゴミとしてのシガラミの中での・半ば寄り憑くアニミズムのような意志行為です。
 
 赤ん坊の態度も ほとんどそのようですが たとえ本能のごとくに行動したとしても それは 動物における本能による行為一般とも違う。つまりまづ キノコが毒かどうかを動物は 身〔の感覚〕で見分けると言いますが――丸山圭三郎はこれを《身分け》と言っていますが(ただし 丸山によるソシュール理論補強説には従いませんが)―― この身分けのようなハタラキを赤子は示すようです。しかも赤子は ヒトとしてこの本能行動のみによって生きているかと言えば おそらくそうではなくすでに〔丸山の言う〕《言分け》をも学習している段階にある。
 感性による知覚を言葉で認識するようになる準備段階にある。つまり ヒトとして生きることがすでに始まっている。やましさ反応についても そのハタラキを得つつある。しかも 赤子は 弱い。何を取ってもどう見ても 弱い。
 これら全体を捉えて 赤子の行動を聖なる甘えと呼ぶ。このようです。

 § 67 いわゆる精神疾患
 これは アース役と呼ぶ社会的人間関係における役割分担において ガミガミ役からのガミガミ電波を受けてその処理に戸惑うことから来る遠く DNA への影響が 原因だという説について:
 ★ DNAは紫外線や放射能で絶えず傷ついていますし、ハエの実験からしても後天的な影響が次世代に受け継がれるのは実証されていますから、この点に関してはあながち暴論とも言い難いです。
 ☆ そうですか。それは知りませんでした。

 ★ ただしDNAに影響を与えるというのは不適切であり、遺伝子の発現に影響を与えるというのが適切です。
 ☆ つまり――単なる社会現象の一環であると言いたいのですが ゆづって病気という呼び方をするにしても―― 社会源病だと言いたいわけです。世代をつなげるかたちで起きる公共の問題としての現象であろうと。

 ★ そしてある個体への後天的な影響が次世代に受け継がれるとするなら、もはやコンゴやインドで「人間本性」はありえないでしょうね。
 ☆ それは あなたが《自由意志》の自由度をあまく見ているからではないでしょうか? 行き着くところまでは行き着く〔ことはなくても それが想像や発想において起こりうるとまでは見るかたちで 行き着く〕と考えられます。まづは それだけのことだと捉えるとよいでしょう。

 § 68 無意識
 ★ ~~~~~~
   「独立した《無意識》領域でなければよろしいが」

 なぜ独立していてはよろしくないんですか?
 ~~~~~~~
 ☆ ヒトという相対的な経験存在の《身と心》において 意志と同じ経験的な有限の能力として ほかのものから独立したチカラ――つまり無意識という独立した独自の領域――があるとするなら どうなるか?
 すべての好ましくない思惟や行動は みなこの無意識の所為にすれば何ごとも咎められず通って行ってしまう。からです。
 むろん それはそう考えただけで自己矛盾を来たしています。それなのに この無意識を説く人の気が知れないわけです。
 
 ★ 無意識が独立していようがいまいが言語などで十分に共同体は成立しますが。
 ☆ となりますか? (独立した領域は見つからないという科学的知見が出されているという段階です)。


 § 69 基礎理論のあまねわり
 ★ ~~~~~
   「この基礎理論はむろん普遍性をもったものとして提出していますが、現実問題として目指すのは人びとの三分の一の同感を得ることです」

 なぜ3分の1、・・・ですか?
 ~~~~~~~~
 ☆ 一定の目標を定量的にさだめた。これだけのことです。応用領域でのことですから。

 ★ 賛同を得るその目標のためにあなたはなにをしていますか? なぜこんなところで一介の暇人に過ぎない私に基礎理論を紹介する一方で、レイプが日常茶飯事となっているコンゴや、友人が目の前で肉片になったのを目の当たりにして夜も眠れないアメリカの数万人の帰還兵たちや、法律や警察が保護しない不可触民の売春宿や人身売買問題が蔓延るインドへ行って来ないのですか?
 ☆ すべてには ときがあります。その人たちの主観内面にしても《とき》があります。主観が熟すことです。これだけ熱心に科学するあなたでさえ ここまでのように説明しても 世界の知性たちはそんな程度ではないという言葉で撥ねつけようとしています。《とき》があるようです。
 ときにかなえば みなうつくしい。

 ★ そんな目標があるならこんなとこでQandAなんかしてる暇などないでしょう。
 ☆ いのちの問題と同じように 《ひとり》が 《みんな》なのです。ひとりへの説得が すべてです。

 § 70 ウソ
 ★ ~~~~~
   「《サンタクロース》を親たちとは別の人間だとウソをついたところで傷つくことはない」

 親が嘘をついているとわかっていないときには傷つきようもないでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 素通りしようと思いましたが これは とうぜん《ウソが子どもに分かってしまったとき》のことを言っています。そういう前提を共有していたことは あたりまえでしょう。これからはこの種の愚論は 無用にしましょう。という意味で わざわざ取り上げました。

 § 71 自分の――他人のではなく自分の――ウソ・イツワリにより心が傷つくこと
 ★ 心を痛めると傷つくの違いはなんですか?
 ☆ 《傷つく》は 基本主観がゆがむことです。世界が見えなくなることです。気持ちが晴れ晴れとせず からだも元気がないなどなどの副作用は 措いておきます。
 《心を痛める》は ほかの人の苦しみや悩みを――ということは 傷がついて心が曇り《ものの見えたる》その目がかすむ状態から来るいろんな苦悩を―― あたかも自分のことのごとく思いやることです。(だから その結果がどうなるということは まだその段階では さだまりません。ちなみに このように他人の苦悩で自分の心を痛めるというのは――例のアース役の場合にもそうなのですが―― けっきょくあなたの指摘するミラー・ニューロンのはたらきを介するものと思われます)。

 ★ 精神は傷つかないというのは精神病はないということですか?
 ☆ 世に言う《病気》はいっさいありません。カテゴリがないという見方です。それは――世に言う病気は―― 精神の休息のことです。身も心も休みます。それだけのことだという見方です。

 世の中のシガラミを背負ってと言いますか じっさいに精神の胃袋にまでシガラミを受け容れて これらの飾りやゴミの中から光り輝く清浄心を見い出しそのチカラを発揮させるようにすること。このアース役が 精神の休息を取っても いっこうに社会は おどろきません。むしろありがとうという気持ちをもつことでしょう。社会という生命現象の一環であるとさえ考えられます。

 精神は傷つきません。ついても元にもどります。
 問題は 元にもどろうともしない精神です。それが ひとつに 理性の単独分立によるすっとび人間の場合でしょう。これこそが ビョーキだと言いたい。わけです。
 自分が自分の主観内面においてそのへその曲がり具合いに気がつくのでなければ 聖なる甘えに立ち帰る《とき》は いつまで経っても来ない。

 ★ 虐待による統合失調や戦争によるPTSDなどを知っていてそう言うなら、また、あなたの言う「えぽけー」で本当に一発なら、精神病とされる人に一人でも多く「えぽけー」を教えてあげてください。
 ☆ あなたにここまで言わせたことをまづは よしとしましょう。

 (つづく)

補足日時:2013/02/10 11:07
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この回答へのお礼

 (つづき)
 (§ 71のつづき)
 ★ イジメられている子が頼っていた人間が、実はイジメっ子と陰口を言っていたのを知っても、そうした嘘でいじめられっ子が傷つかないとするなら、身体的な暴行などで「精神が傷つく」ことはあるわけですか?
 ☆ まづひとつに 《あざむかれるなら 我れあり( Si fallor, sum. )》と肝に命じましょう。《あやまつなら 我れあり》なる人間なのですから。

 ★ 身体的な暴行などで「精神が傷つく」ことはあるわけですか?
 ☆ 同じ理論です。《自分の――他人のではなく自分の――ウソ・イツワリにより心が傷つく》です。その《暴行》を あろうことか 自分も望んだといった場合です。

 【Q:ザビーヌ事件について】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html

 自分にやましさ反応の踏み越しがなければ その身体の暴行は 蚊が刺しただけのことだからです。文字どおり蚊が刺したという意味です。たとえではなく。
 理論として それは人間の思惟や行動ではないという意味です。(応用部門では この場合の理論による見方としての全か無かという判断には拠りがたいという場合があるかも知れません。それも 本人の主観いかんによります。暴行によってはらんだ子を出産するかのたぐいの問題です)。

 § 72 理性の単独犯はありうるか
 ★ 「理性」が単独で働くというのは、前頭葉が単独で働くと言っているに等しいわけですが、思考や行動は脳の全体的な働きによる。「理性」というものが実在するわけではない。ましてやそれが単独で働くなどありえない。
 ☆ それは 感性も意志も理性の言うとおりにしたがうという場合でしょうね。《単独分立》というのは イニシアチヴを取るという意味でしょうね。

 ★ ~~~~
   「ぢゃあこの理性の暴走をそうだと認識するのも理性であると言っときます」

 言い捨ては要らないので論証をお願いします。
 ~~~~~~
 ☆ これは 言い訳などではなく 事実として添えたものです。《認識する》前に 感性やおそらく意志も それが暴走であることは うすうすにしろ 捉えていたでしょうけれど。
 認識の作業は 重要だと考えます。記憶は 司法。知解は 立法。意志は 行政です。《立法府》の取り決めは 重要です。

 ★ 麻薬の乱用は理性によるのではなく、身体的な欲求ゆえです。
 ☆ 理性によるのではない。のでしょう。身体的な欲求だけではない場合がありましょう。

 それを始めたときがあります。二つの場合に分かれましょうか。つまり 麻薬を打っていると分かったときには すでに中毒になりかけていた。つまり 自分の知らないところで他人により強制的に打たれ続けていた場合が ひとつ。もうひとつは 初めから自分が悩んだ末にそうしようと――理性の止めるのも聞かずに意志が――決めた場合です。
 結果が出て来た段階では 身体的な欲求によるのでしょう。

 § 73 アイヒマン実験
 ★ ~~~~
   「大丈夫なように実験の全体が仕組まれていると確信していたのでしょう」

 なぜ? どうしてそう言えますか? あなたは被験者にインタビューでもしたんですか?
 ~~~~~
 ☆ 被験者が その自由意志を発揮して 実験の主催者のとめるのを振り切って 物理的にその場を去ることも出来た・・・かも知れません。実験をやめるようにという要請は出しているようですが。

 実験を遂行するイニシアチヴは 実験の実行者にあると――それは むろん絶対的なものではないでしょうのに――思ったということでしょう。

 そしてそのように続けることの結果についても考えたことでしょう。
 ★ 「一切の責任を負わせない」と言われたから続けたわけですが。つまり「責任を負わせない」という他人からの発言が結果を左右したわけです。
 ☆ いづれにしても 《〈生徒〉の上げる悲鳴》に 心をかよわし思いやるというように影響は受けたけれども その影響の内容をすべてとし実験をおこなうということを打っ棄るという意志を持つまでには左右されなかった。


 § 74 機械
 ★ ~~~~~
    「特定されていた主観の内容から派生しうることがらが自動翻訳で現われましょう。でもこれをプログラマーの主観に入れてもよいと考えます」

 なぜですか? あなたの言う「主観」とはなんですか?
 ~~~~~~~~
 ☆ そこまでの因果関係が見て取れるということではありませんか?
 この場合の主観とは 思惟とその内容の実行でしょう。

お礼日時:2013/02/10 11:57

そしてここでこそあなたの言う主題に「文は」が該当し、その主題たる「文は」に対して「人が語る」という節が「文」というものに述語的属性を与えているとすればよかった。

主題titleと主語subjectや主格nominativeをごたまぜにしてしまうからあなたは誤るんです。
つぎに構文的な違い。「文を人が語る」はSVOに再配列が可能ですが、「文は人が語る」はできません。「人が文は語る」は意味がわからない。しかしなぜ「文は人が語る」なら意味が通るのか。それが問題なわけでしょう。この問題は「文を人が語る」へと構造を変えなくても説明できる。
「語る」はVであり、このVに対応するSは「人が」です。だとすると「文は」はどうなるのか。それは、「もしxが文であるならば」「あらゆる文に関して言えば」のような副詞節です。あなたは分析と称して「文を人が語る」というように文構造を変えてしまっています。さらに言えば「文を人は語る」と「文を人が語る」という助詞の違いの意味作用を扱っていない。
「文ハ( T1 )人‐ガ( T2 ) 語る( T3=P )」
あなたは「文は」も「人が」も主題titleとしていますね。主語廃止論者の意見を誤読でもしたのですか? 主題titleを言うならば「文は」です。「人が」は主語subject、それが嫌なら主格nominativeです。ラディカルな主語廃止論者でさえ「文は」と「人が」の両方を主題titleだなんて見なしませんし、T1とT2のように同列扱いはしない。

「何でやねん?」
馴れ馴れしいですね。非常に不愉快です。そういうのやめてもらえますか?
内容Sinnについてわからないならかまいません。

「ゆえに応用領域では――そしてきびしく言えば基礎領域においても――絶対に守らねばならないものはないという見方も出て来ます」
結局あなたはどちらを選好するんですか? 長いものに巻かれて投票することよりも投票しないで日雇い派遣をするなりして生きることを好むのか。それとも投票することを好むのか。

「生きることが好ましいならそれを大事にしたいと思います。とうとぶのであり、そのものはとうとい」
ある人が生きることを大事にしたいと思わないなら生きることは好ましくないのであり、その人は命を尊いとは思わないし、命は尊くないわけですね。たしかに。
好ましいも大事にしたいという欲求も価値判断であり、「命は尊い」のではなく、「ある人が自分が生きることは好ましいと考えるなら、ある人は自分が生きることを大事にしたいと考える」。自分が生きることを尊いと自分は考えるというのは、生きることに対する志向的態度であり、なぜこのような態度が成立するかと言えばこれまで生きてきたなかで様々な選好を満たすことができてきたから。つまり生きることそのものに価値があるからではない。

「同じだと思いますよ」
捕食者である肉食動物は死という観念ではない。

「というかたちでこの今のワタシにおさめています」
文によって書いているにすぎず収まってなどいない。「千年後の私は他者である」と述べてもそれはたんに「私」という字に「千年後の」を文の上で帰属させているにすぎない。あなたの言う「今の私に収める」とはどういう具体的にことですか? 私がいま「十年後の私」という句を書くことができることが「私に収める」ということなら、それはまったく意味がない。「今の私」とはどの私ですか?

「そのように記憶が欠けた状態でのワタシとしていまのワタシが いま取り収めます」
まさか空虚表象すら知らないんですか? 「記憶を失う前の私」を「記憶を失っている私」が統覚できるには、記憶の回復が必要であり、それによってはじめて「私はどういう者だったか」を把握できる。超越論的自我と経験的自我の違いさえわかってないんですか?

「ワタシは自己同一性においてこそ、《わたしはわたしである》という自同律においてこそ、その同語反復性によって存在が確定します」
なぜ? 
あと、「自然本性なるわれ――つまり聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれ」とあなたの言う同語反復の「私」は違います。いま私は赤子ではない。あなたと違って乳首をしゃぶって母に性的快楽を与えていた時期に戻りたがる「われ」ではない。また、あなたによれば人格は「ゴミ」「飾り」なのだから、「私」はゴミであり飾りです。「私(ゴミ)は私(自然本性なるわれ)である」なわけですか? ならば「私は私である」は同語反復ではない。たんに字面が同じであるだけ。
「私」「自己」「われ」「主観」「超越論的自我」の違いはなんですか? すべて同じですか? 
「私は命としての存在である」「私は主観である」「自己は聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれである」「主観は聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれである」「私とは私と自称する者である」「超越論的統覚をおこなうただひとりのワタシ」
どれがどう違うんですか?
「私は超越論的自我であり、私はアタシと自称するものであり、私は主観であり、私は聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれであり、私は人間という種に属する個体の一つであり、鏡に映っているあの姿は私であり、ボクはアタシであると述べるワシをウチであると考えるオレが私であると述べる俺がボクであると考える自我は超越論的自我であると述べる主体がmanuke22であると考える自己は主観であると述べる我輩が儂であると考える主観がry」
どれが「私」ですか? あなたの同語反復を七文字からできる一文で留めるべき論理的妥当性はないから、まったく確定できない。
私が超越論的自我であるならば私の体は超越論的自我の体だとなりますが、超越論的自我はその超越論的な在り方からして物理的身体ではありえない。私は超越論的自我ではない。
私という一人称代名詞を用いる者が「私」なら、私はチューリングマシンであり山田花子であり安部総理です。ゆえに私は山田花子でありチューリングマシンです。
また、「私は私である」という文によって確定するらしい「存在」とはなんですか? 「私は存在」ですか? 「存在」というならどこに存在しますか? 存在とはなんですか? 「私」とは誰ですか?

「なぜ時間性を見ない? なぜ可能性を排除する?」
なら「私」があったということを論じてください。
胎芽に時間性などない。意識がないのだから。フッサールでさえそんなことは言わない。時間性の意味わかってます? それともまたオリジナル定義の「時間性」ですか?
排除するも可能性もなにも「胎芽は私ではない」でしょう。違いますか? 「胎芽や受精卵は私か?」についてそれは神秘だとか保留だとか言って放置するなら、「可能性」とかもちだすべきではない。また、着床前診断や出生前診断によって生後まもなく死ぬ無脳症児であることや思考能力をもちえないことが明らかになったなら「可能性」などない。


「失敗した行為です」
失敗した行為と言うなら銃弾を撃てはしたが銃弾が標的から外してしまった場合。していないのに失敗も成功もない。

「文脈によります。あるいはそのふたりの人間関係という文脈が この場合ものを言うかも知れません」
具体的にどういう文脈ですか? どういうときには責任を果たしていないのですか?

「《死の恐怖》は共有されていました」
どこで? まさかデストルドーのことを言ってるんじゃないでしょうね。あなたはいったいフロイトのどの著作を読んだんですか?

「ですから潜在意識と言えばよいのです」
潜在意識と無意識あるいはエスとの違いはなんですか? すくなくとも無意識は超自我とも関わるのであなたの言う潜在意識とは違います。ユングの元型はある個体が男性であるか女性であるかも関わりますので、あなたによって性別を捨象された「人間」がもつという「潜在意識」だの「人間本性」だのとは違います。
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この回答へのお礼

 § 65 文の構造
 ★ ~~~~
   「文ハ( T1 )人‐ガ( T2 ) 語る( T3=P )」

 あなたは「文は」も「人が」も主題titleとしていますね。主語廃止論者の意見を誤読でもしたのですか?
 ~~~~~~
 ☆ 主題を提示する文の構造は 欧文などの・特に英文の《線形論理》の文型とは まるで違うということです。
 
 ☆☆ 【Q:私ハ お前ガ 好きだ。】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7193067.html

 (α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文


 ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: 
  ・ 私が好きな相手は お前だ。

 ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:
  ・ 私を好きなのは お前だ。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 つまり ハ格とガ格がになう体言は 文にとってふたつの主題(テーマ)であると見ます。検討してみてください。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ☆☆(No.36お礼欄) ~~~~~~~~~
    § 42-2 ★ 「おっとっと」「げ」「うわぁ……」、これらは句点や疑問符や感嘆符を付ければ文になります。しかし内容をもちません。
     ☆ 何でやねん?
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 馴れ馴れしいですね。非常に不愉快です。そういうのやめてもらえますか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なら 意味のない文章はやめてもらえますか? なれなれしいと採ったのですね。

 ★ 内容Sinnについてわからないならかまいません。
 ☆ いまは こちらは 文法について述べています。

 ★ 「今の私」とはどの私ですか?
 ☆ そのように問うているあなたです。

 ★ 「記憶を失う前の私」を「記憶を失っている私」が統覚できるには、記憶の回復が必要であり、
 ☆ 《記憶を失っていなかったワタシがある》と受け留めればよいのです。当座はそれでよいでしょう。

 ☆☆ 《わたしはわたしである》という自同律
 ☆ これは 1=1 うんぬんとして説明しました。

 ★ 「超越論的自我」
 ☆ 《超越論的》は用いますが 《自我》は 用いません。《自己・自分・わたし》を充てます。
《 das Ich 》なりエゴーなりなら 《わたし》なのですから いちいち自我という語をつくり用いる必要はないと考えます。自我は 《我執》という意味にもなります。使わないほうがよいでしょう。

 《主観》は 《わたし》が存在ということに力点を置いたときの語であるのに対して 認識や表現の行為に重きを置くときのかたちを表わします。(意志はどうしたと言わないでください。意志が存在の中軸であることに変わりありません)。

 ★ 「私は私である」という文によって確定するらしい「存在」とはなんですか?
 ☆ その主観あるいは 本人です。いま語っているあなたです。特定の主観 特定の存在です。
 掛け替えのない本人のことです。

 ★ また、着床前診断や出生前診断によって生後まもなく死ぬ無脳症児であることや思考能力をもちえないことが明らかになったなら「可能性」などない。
 ☆ 《明らかになる》前なら 可能性があるということでしょうか? そのようにその診断で障害を持たないと判明したなら 可能性があるとなりましょう。


 ★ ~~~~~
  「文脈によります。あるいはそのふたりの人間関係という文脈が この場合ものを言うかも知れません」

 具体的にどういう文脈ですか? どういうときには責任を果たしていないのですか?
 ~~~~~~~
 ☆ 夫婦の場合という例は出しましたが そのさらに具体例は欠かしますがと言っています。
 ☆☆(No.36「お礼欄) ~~~~
 ・・・夫婦の場合には 答えがなくても わかる場合があるかも知れません。
 そういう場合でも 説明責任を果たしたかたちになるでしょう。(具体例を欠かしますが)。
 ~~~~~~~~~~~~


 ☆☆ 「《死の恐怖》は共有されていました」
 ☆ すでに議論ずみでしょう。

 ★ 無意識
 ☆ それが独立した領域として存在するという説が 実証されないと考えます。
 《自我と超自我》は そしてそこに欲動という身の動きをも加えて すべて ひとりのワタシのもとにあるという見方です。もしどうしてもそのように仮説された概念について述べよという場合にはです。
 いちいち部分要素に分けない。分けてもかまわないが それらが単独分立してはたらくと見ることはしません。
 《元型》も 上の用語ないし概念と同じく 基礎理論にかかわらないと見ますから どうでもよいという見方です。
 

お礼日時:2013/02/10 00:40

「あなたの持っているものでもらわなかったものはあるか?」


私は自分がなにを「もっている」のかよくわかりませんね。すくなくとも「命」は貰ったものでもないですし、持っているものでもない。それは所有物ではない。

「でもけっきょくそれは樅の木になることであって・つまりは飾りやゴミとしての自己を無化することであってわたしを活かすことです」
「理性的動物」から「理性」を抜いたら「動物」なわけですが、つまりはただの動物あるいは植物人間になろうっていうことですか?
樅と言えばクリスマスツリーだか生命の象徴だかですね。ありきたりすぎます。なぜ樅であり銀杏や桜や杉ではないんですか?
あなたによればいわばクリスマスツリーの飾りが人格や理性に該当し、それらを取り除いた姿が「本来の」樅の木ということでしょうが、では木の年輪や枝葉や樹皮は「飾り」や「ゴミ」ではないんですか? 樅の木にも大小や実の寡多や色々な違いがありますが。
ものみの塔のものみって松とかを意味するそうですが、松科の樅と近いニュアンスがありますね。キリストの十字架も樅と関係するとかなんとか。

「白紙状態になると言ってもけっきょく《自然本性》なるわれ――つまり聖なる甘えのもとにある赤子としてのわれ――が見えればよいわけです」
なぜ自然本性がおっぱいをモミモミチュパチュパする新生児なんですか? エディプス・コンプレックス? 樅の木という全身ペニスになって象徴的母を犯したいんですか? 理性ratioというラティオを無くしてイマラティオになり、母を犯したいんですか? なんで母体に性的快楽を与えるおっぱい樅モミの甘えが「聖」なんですか? 善と同じで、聖もたんにあなたの好感を表したにすぎないわけですか?
それとも母のペニスになりたいんでしょうか。「母なる」大地から屹立する木=ペニスとなり、「母なる」大地から養分=母乳を吸い取りたいんでしょうか。授乳を母体の乳房から受けなかった新生児に「自然本性」はないんでしょうか?

「持っているものでもらわなかったものがあるか?」
なるほど。あなたにとって「母」はあらゆる障碍を含めてすべてを与えるものみたいですが、しかしペニスをもっていないので自分が樅の木=ペニス=男根になろうというわけですね。アマテラスとイザナギもズコバコで国を産んだわけですし、あなたが興味をもつのも当然。「母」は与える者じゃなきゃ困る。あるいは「与えられた」のだから返済の責任がある、そういうギブアンドギブの論法でしょうか?
あなたにとっては規範、法、理性が「父pater」であるようです。つまり「母」と自分を切り離すもの。パターナリズムpaternalism、つまり自由を制限する象徴的「父」たる法をあなたは忌避する。理性・人格などそうした「父」の象徴を切除することで、あなたは「母」との関係を取り戻すのでしょう。
被造物感情を刺激したいなら胎内で母親とへその緒で繋がっていたころまで戻ればいいのに。へその緒ではなくおっぱいじゃないと満足できないのでしょうか?
「私がもっているものはすべて与えられたものです」と私に言って欲しいんでしょうが、私はあなたの言う「もつ」がわからないし、あなたは「誰が」何を与えたのかもあなたははっきりさせてない。もっと明晰判明にどうぞ。べつにサリドマイド奇形児の奇形は親が与えたものではなく、たんなる遺伝的変異が薬品によって生じただけ。

「奴隷は対等なのだから市民権を得たいと思うし、得るようはたらきかけます。動物は?」
対等だから市民権を得たい? 違います。対等ではないから市民権を得たいと思い、言語を話せるから働きかけることができる。対等であるならわざわざ対等だなんて主張はしません。
奴隷は奴隷であることを好みさえする。古代ギリシアで奴隷は自分が奴隷であることになんら不満はなかったし、近代ではいわゆる精神病者が対等な扱いを求めたりはしなかった。知的障碍者もそう。しかしそれを疑問に思う人間が知的障碍者らを擁護したのであり、知的障碍者らが自ら運動を開始したのではない。
そして動物が働きかけるわけがない。働きかけることができないのだから。それゆえに人間には責任がある。この非相互性をあなたは考えることができない。ギブ&テイクおよびギブ&ギブという互恵関係を前提にしているから。
法や社会についてどうこう述べながら、動物に対しては慣習的な利害関係を大前提にしていますね。利害関係ではないとすれば契約能力の有無ですか。私とはけっして相入れない前提です。

「チンパンジーやオランウータンが遠くの地で事故に遭ったといったニュースを聞けば悲しむのでは?」
もし聞いたら悲しむほどではないにせよいい気分にはならないと思われます。とは言え他の人なら猿のニュースなんて流すヒマあるならもっと別のニュース流せってところでしょう。そういう人に対しては、どんなニュースを優先的に流すべきかはたしかに簡単な話ではないと思うので、むやみに批判はしません。
そして私の気分に影響が出るならそれは生がどうこうではない。子猿が死んだならその親猿のことを思うし、猿を大事にしていた人間を思う。また、事故にあった猿の苦しみを思うのであり、生の尊さだのを思うのではない。快と苦、この現実的な事態が私の問題であり、生死だの尊さだの抽象的なものは二の次三の次。

「《善》という用語がいやだというコダワリがあるだけだと思いますよ。《好ましいこと。不快でないこと》と取っておいてください」
あなたの言う善や基礎理論はたしかに気持ち悪いです。しかしベンサムやカントやプラトンやムアやレヴィナスが論じる善はとても魅力的。あなたのはそうではない。
善は好ましいことなんですか。ならば生きることが好ましくないなら生きることは悪ですね。あなたが「それは悪い理性だ」と言っても「私が嫌いな理性だ」と言っているだけ。理性は善でも悪でもない。あなたが嫌いなものの一種であるだけ。
「いえ。そのようにしてみちびいているのです。プラス価値が感じられるというただそれだけのことによってです」
あなたの場合はそうなんでしょうね。私は違います。
私からすれば恋人を殺すより他人を殺すほうが遥かに望ましい。こういう相対評価です。また、生が尊いからではなく、他人が恐怖する様子や表情から殺すことに抵抗感を覚えるでしょう。
雑な決めつけではなく論証をどうぞ。

「ボブの殺傷能力を殺ぐことを考えます」
五秒以内で? 子が殺されることより優先して? それでなにか具体案は出ましたか?
さらにあなたは四肢を折られているとしましょう。どうぞ。どうせまた「~を考えます」と言って責任を回避しつづけるんでしょうけど。

「《あは!》と言ったとき《わたしは世界と和解することができた》と言っていることがあり得ます」
それはあなたが発話者の意図を解釈したあとの文であり、「あは!」はそんな「内容」をもたない。内容Sinnがまだわかりませんか? 意図intentは内容contentではない。


「文は人が語る」は「文を人が語る」と等価ではない。「文は人が語る」に対しては「文は動物も語る」によって偽であると証明することが可能ですが、「文を人が語る」は「文を動物が語る」によってなんら影響を受けないからです。ここに意味論的な違いがあります。
「文は人が語る」
「ある鳥は文を語る」
「鳥は人間ではない」
ゆえに
「その鳥は人間であるか、またはその鳥は文を語っていない」
となります。主述形式をもっていればそれが文であるのは間違いないため、結論の後件は誤りです。しかし鳥が人間ではないのは真であるため、「文は人が語る」という大前提が偽であるとなります。
「文は人が語る」は述語論理的に分析するなら、「いかなるxについても、xが文であるならば、xは人が語るものだ」のようになります。「その文」や「いくつかの文」のように量子化がはっきりしていないため、文が一般名詞であることから「あらゆる文」のように解釈するのが妥当でしょう。分析以前の問題ですが。
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この回答へのお礼

 § 63 いのち (つづき)
 ★ 「持っているものでもらわなかったものがあるか?」
 ☆ いのちなる存在は もうそこで行き止まりであるという意味です。ワタシが存在ならそれは あたえられた存在だという意味です。《生まれた》ことにさかのぼれば そこで行き止まりです。

 その自然本性とそれによってかたちづくった我れ それらも《生まれた》ことによる貰い物であると考えられます。
 貰い物という表現が気に食わなくても 生命存在が所与だという条件は 飲まなくてもはならない命題でしょう。

 ★ 対等ではないから市民権を得たいと思い
 ☆ そう考えることもあり得ますが それでは 基礎理論からの思惟と行動にはならない部分を残しましょう。つまり飾りやゴミとしてのシガラミの中でシガラミに即してのみ意志をはたらかせています。

 基本主観として互いに対等だから 市民権を得たいと思う。のであって シガラミの中でシガラミに即して市民権が得られておらず対等ではないからその市民権を得たいと思うのは シガラミの認識のみによる思惟や行動でしかないという部分がつきまとっています。押されたから押し返す。奪われたから奪い返す。


 § 64 主観
 ★ 善は好ましいことなんですか。ならば生きることが好ましくないなら生きることは悪ですね。あなたが「それは悪い理性だ」と言っても「私が嫌いな理性だ」と言っているだけ。理性は善でも悪でもない。あなたが嫌いなものの一種であるだけ。
 ☆ そのとおりです。そういう主観内容の持ち主なら そのとおりです。


 ★ 生が尊いからではなく、他人が恐怖する様子や表情から殺すことに抵抗感を覚えるでしょう。
 ☆ それが 主観であるなら そのようであるのが 現実です。


 ★ 「ボブの殺傷能力を殺ぐことを考えます」
 ☆ ボブの心にはたらきかけます。ことばで。

 ★ 「文は人が語る」は「文を人が語る」と等価ではない。
 ☆ 《等価》と言ったのではなく 意味内容を分析するとそういう結果が出ると言ったまで。

 《文》は 鳥がしゃべっても 答責性をおびた表現の自由のもとに文体をみづからがかたちづくる動態としての語りではない。そして 確かに人が語るのであるが それをわざわざ言うのは そうではなく たとえば権威者が書いた文は その文じたいがあたかもその内容を語っているかのごとく受け取る場合が見られる。
 けれども そうではない。あくまで誰か一人の《ひとが語ったもの》である。つまり 主観の問題である。




 あとは 焦点や論点のズラシがあると理解します。

お礼日時:2013/02/09 22:47

「本人の自己申告あるいは申告はしなくてもいいですから自己診断となります」


多くの人は基礎理論なんて知らないし、「去勢」「惰性(習性)」になってると診断した人に基礎理論を教えてまわらなきゃダメなんじゃないですか? 人格とか気質という「ゴミ」を漁ってる人ばかりなんでしょう? それは「ゴミ」だと教えてあげなければ。あなたの人格なんぞ人命に比べたら「ゴミ」だと。まさに脳を洗うと書いて洗脳しなければ。

「その結果が基礎部門ではもともとなかったと言っています」
胎児とか胎芽には比較する主観なんてないから当然ながら応用領域なんてありませんね。まさに「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在だったことでしょう。
母の糞便と血に塗れて産まれた「無垢なる」存在、その存在に近いと思われる知的障害者は(理性的能力はあなたにとってゴミだから理性的能力が少ないほど無垢に近い)電車で騒いだり涎を垂らしたりするわけですが、しかし理性的能力があまりないので「尊さ」や「対等」という関係がわからない。それとも知的障碍者はいわゆる健常者より無垢ではないのでしょうか? 人にロボトミー手術をすれば理性的な判断能力はなくなるので、人類全員ロボトミー化するのが理想なのでは?
フマニタスとアニマリタス、健康と病気、主観と基本主観、さらには聖(無垢)とゴミ(垢)、ゴミを漁る人間とゴミを漁らない人間。二項対立の古典的な形而上学がボロボロでてきましたね。

「ひとりの人の《一》がほかの人の《一》と共通であるゆえに、十人いたとしてもどこまでも共同主観としては《一》である」
人間と動物のキメラとか面白そうですね。その場合だとキメラさんは0.5とかになるわけでしょうか? 

「《いのちとしての存在。またそのとうとさ》」
尊さってなんですか? 存在とはなんですか?

「《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば、それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう」
なぜ? 私は友人をあなたと同等に見たりはしませんよ。飾りによってとか言いますが私は飾りだと思いませんし。友人はあなたと同化しない。また、私が友人を大事にすることにフランス国民や人類とかなおさら関係しません。

「この現実の世界をどう見てどう認識するか? そのために基礎理論を提出しています」
「改善」とか「ゴミ」とか「落ちぶれた」とか言っているんですから、どう認識する「べき」か、でしょう? もしくは「こう認識してほしい」ですか? 解釈の仕方にハウツーをもたらすと言いますが、べつにあなたの理論もどきがほかより優れているわけではないんでしょう? あなたは比較しないんですから。
フッサールの自然主義的態度のエポケーのほうが「生活態度」をどうたらより方法論的にも優れています。もっと魅力的なプレゼンをお願いします。

「それには相手がおとな一般(=ふつうの判断力)にはまだ成っていないことと」
命とかすべてとか大げさなんですよ。
「普通の」判断力をもってるのは誰でしょう? 誰が誰を「普通の」判断力をもっていないと判断し、そのように判断した人間の判断力は誰がなにを基準に判断するのでしょう?

「やましさのみを殊更に取り上げるのは基礎理論ゆえです」
なぜ基礎理論は疚しさのみを大々的に取り上げるんですか? 

「《存在することそのもの》にかんしてヤマシサを感じることはありません。そう思うのは理性です。飾りかあるいはわるいゴミです」
なぜ生きることに疚しさを感じないんですか? なぜ悪いゴミなんですか?

「これらを並べ集めていまの基礎理論が出来あがればそこまでです」
無理ですね。デリダやレヴィナスはあなたに絶対そぐわない。バタイユも無理。単に言葉をその意味もわからないまま使うことができるだけ。
あと「基礎理論」のどこがどう「新しい」んですか? まったくわからないんですが。

「《産みだした》がすでにそこにあるものを見い出し」「基礎理論が共同主観であると言っているのに」
あなたが考えを巡らせて思いついたもの、発明したものにすぎません。どこに「在り」ますか? 「在る」とはなんですか? そことはどこですか? なぜ「すでに」あるものだと言えるんですか?
見出したdis-cover。つまり「飾り」という覆いvealを除いたreことで、あなたは基礎理論を見出したre-vealと言う。あらかじめpreそこに在るものensを自分は見出した。まさか。

「これは人間観の間違いでしょう。人間の精神が外から他者によって損傷を受けることはあり得ず」
なぜですか? 人間がまさに傷つく、不正in-juryを被ることは多々あります。PTSDなどありえないということですか? PTSDはつまり仮病だと?

「本人が主観にもとづき思惟し行動するという問題のみなのだから」
どこが本質主義ではないんですか? 人間本性は本性naturaであり本性は本質でしょう。違うならどう違いますか?
「本体の樅の木はいのちとしての存在」。本体essense。「ゴミ」や「飾り」という枝葉末節を切り捨てた「人そのもの」。「ゴミ」や「飾り」は偶有であり、実有は「命としての存在」。もろに本質主義です。そして命なら動物にも植物にもある。しかしあなたによれば動物は「共同主観」をもたないことがまさに本質的な違いなわけでしょう。存在esseを語る時点で本質essenseは不可分。
偶有/本質。
偶有→ものに付け加わったり失われたりして、xがxそのものであることには関わらない付帯的な性質(ゴミ、飾り)
本質substantia, essense→xがxであると云いうるために最低限持たなければいけない性質(命としての存在)
動物は人間と違ってすべての人間がもつ共同主観をもたないのだから、人間とは本質的に違うわけでしょう。言語が「人間に」生得的innateであり動物はそうではないという生得論nativismをとるなら、それは本質論と不可分です。


「まづ本人の主観こそが問題だというときモデルはあるようでない。あったら、また作ったら、それは主観の動態にならない。共同性が固まってしまう」
なら人命を神聖化しない主観があってもなんら問題ではないでしょう。それをわざわざ「歪み」や「去勢」などと評価する意味がない。

「もしお望みならばみづからに対して従僕であるのみです。ナラワシとしてみづからをかたちづくる」
自己洗脳ですか。そうであるならやはり共同主観など要りませんね。自分がしたいようにすればいい。これだけなんですから。

「ちゃんとしたおとなは誰もが自分ひとりで考えて生きます。話し合ったり助け合ったりすることは何の障害にも変な補助にもなりません」
「ちゃんとした大人」、「変な」。おかしいですね。あなたは議論や批判はなんの役にも立たないと言っているようです。
「誰もが」? どうやって確認しましたか? 夫婦は話し合います。妻は母に自分をどう育てたかなどを尋ねたり友達と情報交換をします。具合が悪い人は医師に相談したりします。なぜか? 自分一人で考えることの限界を知っているから。分を弁えているからです。
あなたもルソーをパクりアウグスティヌスをパクり色んな言葉をパクります。ここで質問してる人はみんな「ちゃんとしていない」のでしょうか? 「ちゃんと」ってなんですか? 「ちゃんと」「ひとりで」考えたら誰でも人格や能力を「ゴミ」や「飾り」だと断定する「基礎理論」という独断論を採用するのでしょうか? なら私は「ちゃんと」しておらず、基礎理論を採用しているあなたは「ちゃんと」していることになりますね。そしてあなたみたいになってしまうなら、私はすくなくともあなたの言う「ちゃんとしたいい子ちゃん」にはなりたくないし、なれません。


「《エポケー》の一発です。飾りとゴミなるシガラミから白紙状態になれば一発です。ハカラヒをやめれば一発です。理性から自由に」
エポケーもわかっていない。「ちゃんと」考えた結果がそれですか? 理性から自由に?PTSDや虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発ですか? もしそうならすごいですね。医学会に激震が走りますよ。こんなところで自説を開陳せずに早く精神病院や南米の少年労働者やその雇用者に「えぽけー」を教えてあげてください。
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この回答へのお礼

 § 59 生きること。存在。
 ★ まさに脳を洗うと書いて洗脳しなければ。
 ☆ いままさにしているぢゃないですか。

 ★ まさに「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在だったことでしょう。
 ☆ 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前だという或る種の仕方で特殊な時期をあつかっています。
 きよらかなおそれは そのような赤子の状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがつく》という事件をはさんで前後の違いがあります。したがって 後の段階では 聖なる甘えと同じ状態をこそ言うために しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを持っている状態》と呼びます。
 聖なる甘えは きよらかなおそれすら――おそれすら――まだ持てない状態です。

 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。
 
 そうしてこの共同主観に立つわたしは 基本主観の動態として生きる。その文体としての自己表現をおこなうにあたっては だからけっきょくその共同主観から逸れることはないかという――あのやましさ反応と何らかのかたちで相携えてはたらくかのような――《きよらかなおそれ》を持つ。自然に持つようになる。

 言いかえると 主観の共同性への言わば《愛》を持つのが 基本主観の動態である。この《愛》をもたないなら きよらかなおそれをも持たない。ということになります。

 このきよらかなおそれを持つ主観の動態は むしろ――その段階はすでに上級であって むしろ――《飾りであれゴミであれ 人びとの・社会関係におけるシガラミの中へ すすんで入って行く》のをつねとします。それが 基本主観にとっては そのまま《生きる》ということを意味します。それよりほかの生き方は 見い出しがたいでしょう。

 そうして あえて言うならば この生は《「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在》と言うよりも どれだけ《ゴミをアース役として浴びようとも あなたの言う〈洗脳〉のためには そのシガラミに中にあって生きる》ということになります。

 要するに《けがれ》がどうだこうだは どうでもよい。これです。
 次のご理解は 成りません。
 ★ フマニタスとアニマリタス、健康と病気、主観と基本主観、さらには聖(無垢)とゴミ(垢)、ゴミを漁る人間とゴミを漁らない人間。二項対立の古典的な形而上学がボロボロでてきましたね。


 § 60 生きること。存在。(つづき)
 ★ ~~~~
   「《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば、それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう」

 なぜ?・・・飾りによってとか言いますが私は飾りだと思いませんし
 ~~~~~~
 ☆ ぢゃあ 《洗脳》あるいはマインドコントロールによってでしょうか? 

 ★ 自然主義的態度
 ☆ が飾りの一種です。

 ★ 「普通の」判断力をもってるのは誰でしょう?
 ☆ 《純粋意識》とて 樅の木本体ではなく 飾りだと言っています。そのように見るのが ふつうの判断力だと考えます。

 ★ なぜ基礎理論は疚しさのみを大々的に取り上げるんですか?
 ☆ 《本質直観》が 形而上学でしかないからです。

 ★ なぜ生きることに疚しさを感じないんですか? 〔生きることにやましさを感じるとそれが〕なぜ悪いゴミなんですか?
 ☆ 存在は もう問い求めてもそれ自体が行き止まりだというあたえられた条件のもとにあるからです。それ以上あるいはそれ以外の場をもとめてもそれは すでにもう飾りであり 形而上学のゴミであるからです。

 ★ 「基礎理論」のどこがどう「新しい」んですか?
 ☆ 《わたしがわたしである》という自己表現の動態を――つまり文体を――打ち出したところです。

 ★ つまり「飾り」という覆いvealを除いたreことで、あなたは基礎理論を見出したre-vealと言う。あらかじめpreそこに在るものensを自分は見出した。まさか。
 ☆ とは まさか!

 ★ 人間がまさに傷つく、不正in-juryを被ることは多々あります。PTSDなどありえないということですか? PTSDはつまり仮病だと?
 ☆ 基本主観の理論としては みづからがやましさ反応をかいくぐってわが心にさからう負の善を思惟し行動することをしないならば 決して心が傷つくことはない。と見ます。

 それでは 言わばやましさ反応によって判定するしないにかかわらないところで みづからの意志が踏みにじられ身としてにせよ社会的な生命としてにせよ 傷をこうむることがあったとしたら それは どういうことか?

 これは 《ウソをつきイツワリをおこなったこと》の後遺症です。すでにそのような《過去における負の善と それによる傷》は癒されているわけですが その――単純に言って――後遺症が出ることがあります。
 これは 遠い過去に負った傷であっても 出ることがあります。それは 人間の心や意志行為が 傷が有る無しについて全か無かで割り切ることのできないかたちに成っている部分があるからだと考えられます。

 言いかえると またまたたとえですが 母斑がまだ残っている状態だと考えられます。あざ・しみ・そばかす・ほくろなどのように 過去の傷跡がかすかに残る。またその傷跡が疼く場合があるのだと考えます。

 § 61 存在
 ★ 人間本性は本性naturaであり本性は本質でしょう。
 ☆ 自然本性は 身と心だと言いました。心が 記憶・知解および意志の三つの行為能力から成る精神だと。
 《本質》は むしろこれら自然本性がいのちのもとにあるという存在のことを言うのでしょう。あるいはつまり その存在はさらに何から成っているのかという問い求めの答えでしょう。
 自然本性は 現実存在です。

 ★ 「ゴミ」や「飾り」は偶有であり、実有は「命としての存在」。
 ☆ 《本体》たる樅の木は むしろ偶有性――応用領域――の世界においてこそ生きる。これは すでに言って来ています。

 ★ 本質substantia, essense→xがxであると云いうるために最低限持たなければいけない性質(命としての存在)
 ☆ 《本質》という用語には 何かを規定するという意味合いがつきまといます。《最低限持たなければいけない》という規定になります。
 微妙ですが やはりそうではなく 誰もが持つ《主観》から出発します。それは互いに違っているが しかも共通のものがあるかも知れない。それが いのち・存在・それのとうとさうんぬんだということです。
 つまり 現実存在について捉えたまでの認識です。
 そこから 同じ生命存在であっても その中でも 種差があると捉える区別もある。うんぬんとつづきます。それだけです。

 そのとき
 ★ 言語が「人間に」生得的innateであり動物はそうではないという生得論nativismをとるなら、それは本質論と不可分です。
 ☆ とおっしゃいますが 言語能力ないし言語活動――つまり ヒトに見られる文体なる動態――という基準で判定したのが 動物との種差です。
 種差が見られるということは 一方に生得的であり 他方にそうでない。という見方をするというものです。これも 現実存在について認識したというのみです。

 § 62 いのち。
 ★ なら人命を神聖化しない主観があってもなんら問題ではないでしょう。
 ☆ 《神聖化》しなくても 《とうとぶ》つまり命をまもることはおこないます。後者は ひと一般に共通だと見るというものです。

 ★ 「ちゃんと」「ひとりで」考えたら誰でも人格や能力を「ゴミ」や「飾り」だと断定する「基礎理論」という独断論を採用するのでしょうか?
 ☆ そのとおりです。

 ★ なら私は「ちゃんと」しておらず、基礎理論を採用しているあなたは「ちゃんと」していることになりますね。
 ☆ やましさ反応を突破する意志行為は いくらでもあります。

 ★ そしてあなたみたいになってしまうなら、私はすくなくともあなたの言う「ちゃんとしたいい子ちゃん」にはなりたくないし、なれません。
 ☆ 自由です。そして 《洗脳》することも――互いの自由な批判をまじえての対話――も自由です。

 ★ PTSDや虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発ですか?
 ☆ 本人の主観が それを知ったらそのとおりです。

 そして 確かに母斑の残滓という問題もあります。
 そして こればっかりは 言っても聞かないでしょうがそれでも言いますが 人間の社会と歴史は たしかに命がけの跳躍を結果的におこなったということもあるのでしょうが あくまで全体として自然史過程をたどります。人びとが意志行為をおこなって社会の改革や人間の前史から後史への回転をおこなっても その進み具合いはゆるやかな自然史過程にしたがいます。
 つまり なにごとにも ときがあります。ときにかなうこと これも必要です。歴史は一足飛びにすすむことは むつかしいでしょう。
 けれども 《 PTSD や虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発です》。本人の主観内面におけるその自己表現の過程としてです。

お礼日時:2013/02/09 21:50

「意志する〔ことを意識する〕前に潜在意識において――なぜならやがて《手首を曲げる》ことをあらかじめ指示されているのを知っているからには――実際の動きが始まってもそれは《意志行為》の範囲に入るであろうと見るという意味です」


脳の準備電位が原因であり、主観や意識は現象であるということ。行為ではなく現象。あなたが意志行為と呼んでいるのは脳の準備電位の後に生じる意識現象。
他人から「黒点が特定の位置に来たら手首を曲げろ」と言われる。この条件が要因。その条件が満たされるとき、つまり黒点が特定の位置に来たとき、視界に現れているその黒点を刺激として、「手首を動かそう」と意志するまえにすでに脳で準備電位が反応として生じている。行為ではなく現象であり、または反応。物理的運動と言ってもよい。
意識は準備電位から生じた結果であり、行為ではない。黒点の運動という現象が脳に準備電位を引き起こすcause。黒点の運動という刺激が原因causeで脳に準備電位が生じ、その後に意志が発生する。脳が物体substanceである以上、脳で起きる物理的現象は物理的な因果律causalityに支配されている。脳が因果律に支配されているなら、脳で生じる物理現象の結果である現象的意識の活動もまた因果律に支配されているだろう。私の視界に現れているこの文字色は「黒として見よう」という私の意志によらない。目や視神経といった感覚器官が自動的に働いており、その「結果」が黒い文字なわけである。「手を曲げるI'll bend my rist」という意志willもこれと同じ。「黒点が特定の位置に来たら手首を曲げろ」が条件設定であり、視界に現れている黒点の運動が原因となって脳に準備電位が生じる。その後にいわゆる「意志」が現れる。意志があるにしても因果律に支配されているのだからそれは「自由意志」ではないということ。

「現にある。ゆえに人は意志の主体である。分かっているのなら疑義を書くこともないでしょう」
個体に自由意志があろうがなかろうが個体と個体の間では「法的な責任と自由」が生じる。脳には個体差があるので、かりに私が物理的反応に従って「私の脳がやらせたんだ」と言っても、「なら私の脳があなたに賠償を求めたらあなたが私を非難することはできない。あなたの脳と同じく私の脳があなたに賠償を求めるのだから」、このように法的な責任はなくならない。両者に自由意志がなくても、片方が脳の物理的反応を原因として「私に責任はない」と言ったら、他方も自身の脳の物理的反応から「私の脳が賠償を求める。だからあなたが賠償請求をしないよう求めても仕方がない」と答えるわけです。個体に自由意志がなかったら「法的な自由と責任」がなくなるなんてことはないと言ってます。脳には個体差があるからです。そしてそれは「個体には自由意志がある」と私が述べていることにはなりません。
自由と責任があるのは、たんに社会を円滑にする「法的人格」としてであり、形而上学的な自由意志があるからではない。私はあなたのように「選択肢のなかから自由に選択できる」という意味での自由意志があるとは言ってない。
選択肢が二つのときと選択肢が三つのときでは選択の「自由度」はたしかに異なる。目の前にチョコとプリンがあり、そのどちらかを選ぶときより、チョコとプリンとブドウがあるときのほうが「自由度」は高い。また、私が囚人であるなら「自由に」外出はできないが、私が囚人でないときは「自由に」に外出できる。こういう意味での自由は否定しない。囚人は身体的移動の「自由」を制限されている一方、私にはそうした制限はないから。
しかしこうした意味での自由を私が認めることは、主体に備わるとされる形而上学的な「自由意志」を認めることにはならない。

「チョムスキーに賛同するのではなく《言語能力は人間に生得的なものである》には同感です」
人間だけの生得的能力じゃないということがすでに明らかになったわけです。しかし言語能力は生得的ですか。あなたの言った「能力種」による差別がここでは問題になっているようです。
あなたの言う言語能力とはなんですか? 構文能力は無理。伝達も無理。運用能力も無理。なぜなら動物にもそれらの能力があるから。この時点でチョムスキーやフンボルトやプラトンやデカルトやなんやは全滅です。
ヒトという種に固有の言語能力、そして共通の言語能力。前者はすでに反証されていることは示しました。なら後者はどうか。チョムスキーの普遍文法に当てはまらない人語がすでに報告されました。「すべての言語に同じ基本ルールがある」も反証されたわけです。
人間と動物を柵で区分けし、人間の普遍的共通性を前提とする。この二点を鑑みないならチョムスキーはとりあえず読む価値があると念のため言っておきます。
すでに壊滅的な言語生得説による動物と人間の区別ですが、あなたはどんな「言語生得説」を展開するのでしょう。ある新生児の生育環境からあらゆる言語活動を取り除き、話しかけもせず文字を見せたりしないなら、その新生児は自然に言語を話すようになるというのでしょうか? しかしアマラやカマラと違って、野生児として認められている人間は発見当時に言語は話さず、動物のような鳴き声や身振りをするのみであり、教育によって多少の言語獲得ができたという報告がいくつかあるのみです。つまり教育および発話を聞くという後天的な経験が言語獲得には不可欠だとなります

「あるいはその前にその鳥が自分たちも人間の社会の一員としてみとめてくれという主張を言って来たときに考えましょう」
なぜ鳥が先生にならなければ動物について考えないのかというより、なぜ鳥が教師になって「人間社会の一員として認めてくれ」といったらあなたはそれを考えてやろうと思うのですか?
相手がなにも言わなければこちらからはなにもしないという社会契約的な、つまり慣習法的な立場があなたにはある。頼んできたら考えてやる。頼んでこなければ「答責性」はないわけですね。

「生命存在はヒトとそのほかの生物とのあいだに種差がある」
チンパンジーやゴリラなどは最近は人間と同じヒト科に分類されているようですね。
種差があればなぜ動物について自分は考えなくてよいとなるのですか? 生命存在? それは単に生物学上の分類における種差ではなく、生命に差があるということですか?

「オランウータンにはそれとしての思考があったとしてもそれが人間と同じ共同主観をかたちづくるとは見ません」
「人間と同じ」ではないならどう違いますか? 人間は動物とどう違いますか? 共同主観の内容たる基本主観は「人命を尊ぶ」とか「善い」ものでしたね。動物はその「善いもの」をもつ可能性がない。したがって動物の存在は生まれながらにして「善」が欠けている不具者であり、存在自体が「負の善」「善の欠如」ですね。生まれながらにして「負の善」なのだからまさに比較を絶しています。しかし「善」を有するらしいあなたは、この不具者たる動物を憐れんでかなんでかは知りませんが畜生もそれ相応に扱うらしい。じつに寛大なハカラヒです。
人間社会と契約をする能力がないからでしょうか。共同主観とはルソーの一般意志であり、それが動物にはないから動物については考えないのでしょうか。共同主観がないから、「自分と同じような」考えをすることはあり得ないから、動物は種としての人間という共同体から疎外してよいのでしょうか。
動物は人間の社会で人間と相互的interactiveな関係をもたない。共同体communeが課す責任や自由から免れている者immune。自分たちと同じ責任や自由から免れている、つまり人間という共同体の「内に」属さない余所者alien。そのような他者alien, Alterなど自分の「関心・利害・interest」の「外」である。人間という共同体の内部のinternal者ではない外部のexternal者であるかぎり、共同体から排除するexterninateことは当たり前である。他者alien。人間という共同体の外部にいる他所者alienは、人間に内在的なintrinsic本性・本質natureからすれば外在的extrinsicであり、異物xenobioticである。それは人命homobiosにとって異物である。だからあなたは排除したい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 さっそくまいります。

 § 56 アイヒマン実験
 ★ あなたが意志行為と呼んでいるのは脳の準備電位の後に生じる意識現象。
 ☆ この場合は 《他人から「黒点が特定の位置に来たら手首を曲げろ」と言われる。この条件が要因。》という条件が 意志の発意にあたえられています。ですから 《準備電位》があるように 準備意志という意識下の動きがあるという見方をしています。
 
 それだけではなく その条件が成るのを待つという記憶行為もあって 記憶は秩序作用だというごとく 言わば自己組織化をおこなっており その《黒点がその位置に来た》ときにおこなう動作がおこなわれても平衡をたもつために準備している。こともあずかっていましょう。つまり 準備電位の現象をうながしているという見方です。

 ★ つまり黒点が特定の位置に来たとき、視界に現れているその黒点を刺激として、「手首を動かそう」と意志するまえにすでに脳で準備電位が反応として生じている。
 ☆ 黒点の動きが条件を満たす前にすでに意志行為は 準備段階に入っている。それは 意識下の動きだとしても 大きく《こころ》の現象であり すでに初めに意志内容が決まっているからには 《行為》なのです。事前の《予想ないし期待》と事中の《行為》とを 現象と意志行為とに分けるのは いただけません。人間の意志行為がそのような機械的な動きをするものだとは思えません。

 遠足の前の晩は すでに気持ちが高鳴っています。日が明けてからようやく意志行為が始まるという機械的な区分は 無意味でしょう。

 次の現象にすでに意志行為も参画しているという見方です。意識下でであったとしてもです。
 ★ 黒点の運動という現象が脳に準備電位を引き起こすcause。黒点の運動という刺激が原因causeで脳に準備電位が生じ、その後に意志が発生する。
 ☆ 準備電位の段階で意志を言うのは そぐわないとしても 記憶行為がはたらいていると見ればよい。準備意志に呼応した記憶行為は 意識下でおこなわれます。

 ★ 私の視界に現れているこの文字色は「黒として見よう」という私の意志によらない。
 ☆ 色の識別については この場合は 意識的なものではなくても その黒点が決められた位置に来るのを見守っているのは 誰が泣いても彼が笑っても 意志行為の一環です。

 ★ 「黒点が特定の位置に来たら手首を曲げろ」が条件設定であり、視界に現れている黒点の運動が原因となって脳に準備電位が生じる。
 ☆ その条件設定を受けた被験者はすでに意志行為を 準備段階としてでも おこない始めているという見方です。それにともなって 《脳に準備電位が生じる》。《身と心》とは一体です。

 ★ その後にいわゆる「意志」が現れる。意志があるにしても因果律に支配されているのだからそれは「自由意志」ではないということ。
 ☆ 《身――脳なら脳――》と切り離された心の動き――つまり条件に応じて手首を曲げるという意志行為――をどうして 打ち出して来るのか 分からない。

 § 57 自由意志
 ★ かりに私が物理的反応に従って「私の脳がやらせたんだ」と言っても、「なら私の脳があなたに賠償を求めたらあなたが私を非難することはできない。
 ☆ 《脳》は たとえ自分の脳であっても 意志行為の主体にはならない。答責性をになうことはない。《わたし》という一人の人間でなければ――すなわち 身と心との一体なる存在でなければ―― 答責性をおびた自由な対話は出来ません。
 
 なんで脳と心とを切り離すのか? 《悪魔がやらせたんだ》という原始心性と同じです。《悪魔に責任がある。わたしにはない》という《くるい》。

 《わたしはわたしである》という同語反復をおこなえないと見えます。

 ★ 個体に自由意志がなかったら「法的な自由と責任」がなくなるなんてことはないと言ってます。
 ☆ そんな形而上学ではないのです。相手がいきなり足を踏んで来たら どうするか? 土足で家に入って来たら? 自由な意志行為には 説明責任が問い求められるという問題です。なんで足を踏むのか? いまは国家どうしの関係として世界は成り立っている側面があるのだから たとえ無人島と言えども 勝手に他国の領土に上陸してはいけない。どうして そういうことをするのか? と問い詰めます。

 そのように答責性を帯びることは 自由意志の存在とそれによる自由な選択判断としての行為ゆえにではなく次のような理屈からみちびきだされるというのですか?
 ★ 両者に自由意志がなくても、片方が脳の物理的反応を原因として「私に責任はない」と言ったら、他方も自身の脳の物理的反応から「私の脳が賠償を求める。だからあなたが賠償請求をしないよう求めても仕方がない」と答えるわけです。
 ☆ 《あなたの脳は わたしの脳ではない。知らない。関係ない》と答えられたら?

 ★ 形而上学的な自由意志
 ☆ 他人が勝手にひとの家の玄関をづかづかと入って来る行為は 形而上学的な意志によるものだろうか?

 ★ 私はあなたのように「選択肢のなかから自由に選択できる」という意味での自由意志があるとは言ってない。
 ☆ 言ってください。裏口から勝手に入る・入らないという選択肢があって それを自由意志が選択します。何でひとの家に勝手に入って来るのか? と訊かれたら この家は おれの持ち物だからと言う・言わないという選択肢があって 自由意志はどちらかを選択するのです。鉄面皮は 昔からおれの所有だと言うことがあるのです。どうしてこれが《形而上学》なのか?

 ★ 私が囚人であるなら「自由に」外出はできないが
 ☆ 脱獄という選択肢があるのです。

 § 58 言語
 ★ あなたの言う言語能力とはなんですか? 構文能力は無理。伝達も無理。運用能力も無理。なぜなら動物にもそれらの能力があるから。
 ☆ 言語を使う能力というのは 言わば文体にかかわります。問いに対して答える。問うのも自由。答えるのも自由。ゆえに 互いに社会関係性にもとづき 答弁をする自由も責任も持つ。これの繰り返しを 自由に妥当性を持って推し進め しかもその妥当性のある自由を破った場合には なぜ破ったのかの問いに答えなければならない。この過程をも繰り返してともに生きる。
 この言語能力を 動物は持たない。と言ってるぢゃないですか。オランウータンが どこどこ市議会の議員に立候補したという話はまだ聞いていません。

 ★ 人間と動物を柵で区分けし、人間の普遍的共通性を前提とする。この二点を鑑みないならチョムスキーはとりあえず読む価値があると念のため言っておきます。
 ☆ 鑑みます。

 ★ つまり教育および発話を聞くという後天的な経験が言語獲得には不可欠だとなります
 ☆ 言語能力は 一生の文体の推進過程だと言っているからには 能力があるからと言って一足飛びに或る日それが開花するとは言っていません。むしろぎゃくです。文体は 自己表現を重ねながらの 自己形成の動態です。
 《言語獲得》というひとつの段階は あまり取り立てても仕方がありません。そこまでの経験と習慣が欠けていたなら 条件を満たしていないというそのことははっきりしているのですから。

 《文体》という動態 この《人間としての条件》は 次の議論にも有効です。
 ★ なぜ鳥が先生にならなければ動物について考えないのかというより、なぜ鳥が教師になって「人間社会の一員として認めてくれ」といったらあなたはそれを考えてやろうと思うのですか?
 ★ 種差があればなぜ動物について自分は考えなくてよいとなるのですか?
 ★ 人間は動物とどう違いますか?
 ★ 共同主観がないから

 ★ 頼んできたら考えてやる。頼んでこなければ「答責性」はないわけですね。
 ☆ 自由度は留保しています。誰もがそうでしょう。

 ★ したがって動物の存在は生まれながらにして「善」が欠けている不具者であり、存在自体が「負の善」「善の欠如」ですね。
 ☆ 種差があるから 比較はしないと言ってるぢゃないですか。ほとけの貌も三度までですよ。

 ★ 動物は種としての人間という共同体から疎外してよいのでしょうか。
 ☆ 種差を見ることと 疎外することとは 別だよおおおん。
 つまり 次の判断は あなたの勝手なもの。
 ★ 人間という共同体の内部のinternal者ではない外部のexternal者であるかぎり、共同体から排除するexterminateことは当たり前である。
 ☆ 種差があっても 人間社会の内部に生活させる場合だってあり得ましょう。自由です。

お礼日時:2013/02/09 20:21

「基礎理論は《純粋論理》ではないのです」


カントが批判した純粋理性、神秘主義には該当しますね。

「そのとおりだと思います。その可能性はじっさい具体的にはどういうものかとは考えますが」
投票しろと脅されても投票せずに日雇い派遣やホームレスや乞食になれば良いでしょう。生きてるだけで善いんですから。より善く生きるために、一時の過ちとして疚しさを感じながらも、投票しないより投票することを選ぶのが自己保存のために有益でしょう。中断や終わりが悪くて保存が大事なら長生きすることは望ましいわけですから。


「その《神の不可謬性》が単なるオシエです」
疚しさの不可謬性も大差ないですよ。また、神がそう言っているのだから神の言葉を信じるのみでしょう。既存の宗教を否定するとするならばいっさい聖書の文言をもちださなければよい。
あなたの診断や偏見に満ちた解釈は要りません。結局はあなたの「心の窓をノックした」神以外の神は異教徒の神なんでしょう。あなたの信仰の仕方があなたのオーソドックスなんでしょう。違うなら他人の信仰にケチをつけず、神秘主義者のような独善的な断定は慎むべきです。

「めちゃくちゃだ。使ったこともない言葉をどうして?」
あなたがいま問いかけている相手に、この文の書きてに「自己」があることを証明してみてくださいと言ってます。言葉を証明しろなんて言ってませんし、経験事象なんでしょう? あなたの言う「私」が、あなたが読んでる文の書き手に存在することを証明してください。あなたには「私」があるんですよね。ではあなたからしてmanuke22という名で投稿している者はどうでしょうか。

「つまり仮説法がいきなり提出する結論というのは」
アブダクションは「観察された事実」をもとに形成されます。あなたのオリジナル定義の「アブダクション」なんてどうでもいいんです。論述にしても治療にしても指示対象にしても意味内容にしても。
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この回答へのお礼

 § 53 純粋論理にはとどまり得ず
 ★ ~~~
   「基礎理論は《純粋論理》ではないのです」

 カントが批判した純粋理性、神秘主義には該当しますね。
 ~~~~~ 
 ☆ カントは 自然本性について――という意味は 応用領域だけではなく 基礎理論についてもという意味ですが―― 規範のかたちで命題を出します。そこはいただけないと思います。

 § 53-1 応用問題は各自が自由に判断する
 ★ 投票しろと脅されても投票せずに日雇い派遣やホームレスや乞食になれば良いでしょう。生きてるだけで善いんですから。より善く生きるために、一時の過ちとして疚しさを感じながらも、投票しないより投票することを選ぶのが自己保存のために有益でしょう。中断や終わりが悪くて保存が大事なら長生きすることは望ましいわけですから。
 ☆ そうである場合も そうでない場合も 自由意志にゆだねられています。

 § 53-2 神が言ったというのは ただの表現の問題 
 ★ 神がそう言っているのだから神の言葉を信じるのみでしょう。
 ☆ 人間の言葉を語ったなら それはすべて人間が言ったことである。《神が言った》というのは 事実ではない。《神の言葉》というのも 人間の言葉でそう表わされているのみです。

 ★ 既存の宗教を否定するとするならばいっさい聖書の文言をもちださなければよい。
 ☆ 基本主観からの逸脱ぶりを示すことが出来ればよいはずです。

 ★ 〔独り善がりとは〕違うなら他人の信仰にケチをつけず
 ☆ 他人の宗教ないしその思想にケチをつけています。
 《信仰》にかんしては その定義を提出し それに合っていなければ 批判します。

 § 53-3 神は 非経験の場
 ★ ~~~~~
   「その《神の不可謬性》が単なるオシエです」

 疚しさの不可謬性も大差ないですよ。
 ~~~~~~~
 ☆ 神の不可謬性の場合は 神が非経験の場であるという違いがあります。

 § 54 他我
 ★ ~~~~~
   ★ 他我を経験事象だと見なすなら、他我の存在証明をしてください。
   ☆ めちゃくちゃだ。使ったこともない言葉をどうして?

 あなたがいま問いかけている相手に、この文の書きてに「自己」があることを証明してみてくださいと言ってます。
 ~~~~~~~
 ☆ 《私》という言葉で自称していることです。

 § 55 仮説法
 ★ アブダクションは「観察された事実」をもとに形成されます。
 ☆ やましさ反応は そのように観察された事実です。

お礼日時:2013/02/05 23:33

「交通法規としての取り決めです」


そうですね。規約です。

「基本主観までをふくめて主観の持ち主だと潜在性においてとしても見なします」
あなたはそうなんでしょうが、私はそんな風に見なした覚えがないです。

「あくまでも作者の意志行為としての主観です。二段目は登場人物その者の意志であり主観であるというその虚構となっています。そしてその虚構における現実性・妥当性が問われます」
あなたの言う主観ってなんですか? オランウータンには主観がありますか?

「それが《純粋論理》だと言っています」
まるでハイデガーのようなことを言いますね。あとこの文の「私」はmanuke22のことです。書き方が悪かったです。

「〔われは言う〕:1足す1は2である。こういう文の成り立ちであることに例外はありません」
あなたは発話には発話者が存在するはずだと言っているにすぎません。あとそれならチューリングマシンも「我」ですね。製作者はマシンの対話相手と対話などしていませんし、マシンの学習プログラムは自動的に機能します。
「文はその発話者の主観を表現したものだ」。ここには、発話者の「内に」なにかがあり、文はそのなにかが「外へex」現れたものだとする昔ながらの言語観があります。そして発話者の「内に」なにもなければ、現れている字や声には意味がないとなる。いわば現前の形而上学を前提としている。ちなみにアリストテレスやルソーもそうでした。それゆえに、記述文や発話文に意味があるならば、記述者や発話者には「主観」があるはずだとなる。あなたが言う「お遊び」は、オランウータンに「主観」も「自己」もない「はず」なのだから、学者がオランウータンの手話をオランウータンの発話だと見なしているならそれは「真剣に」ではなく「お遊びで」となる。つまり、学者はオランウータンに「私」や「主観」があるなんて「本気に」してはいないのだと。「自分と同じように」オランウータンを機械のようなものとして見ているはずだと。「いや、学者がどうおもっているかは知らない」と言うならば、たんに現前の形而上学者であるあなたはそのように見ている、これだけです。
まずシニフィエという観点からすれば、床に落ちた血痕は、その血の持ち主だった人間の主観に関わらず、それがどの高さからどのように落ちたかを意味する記号になる。文ではないですが、あるものが意味をもつために主観は必要ではないとわかる。
つぎに、走っている人が「はぁ。はぁ。」という文を発しているとき、この文に発話者の「意図」や「動機」はない。酸素をより多く取り込むためだとか呼吸が苦しそうだとかの解釈あるいは意味付与が私にはできるが、「はぁ。はぁ。」と言っている人に「私は疲れを表現しています、表現しようとしています」なんて意図や動機はない。「我は言う、はぁはぁ。」。たしかにハァハァと息を切らしているのは本人ですが、意図ではないし表現でもない。


「こいつは何を思ってこのようなあからさまなウソを言うのだろう?」
嘘lieは真理値における偽falseと違いますから。

「〔或る殺人犯いわく〕:私は人を殺していない。こういう自己表現であり、そういう主観です」
分析じゃなく解釈じゃないですか。
発話者という自己が発話した文「彼はトムです」と、発話者という自己が自己について発話した文「私はトムです」、これは別です。そして自己があろうがなかろうが、学習プログラムを搭載したマシンによる文は意味をもちます。


「たましいが去勢されている」
魂が去勢されていない状態conditionを初期条件initial conditionとし、去勢状態から「更生」「蘇生」するのが望ましいわけでしょう? いわばファロセントリスム(男根主義)、健康と病気という古式ゆかしい価値観です。

「自由意志は無条件に自由です。それは選択の自由と同時に答責性を帯びるとも言っています」
デリダでもレヴィナスでもないことはわかりました。自由には責任が伴うというよくある文言と一緒ですね。

「定義文――定義主格とその述格――においてもその主題に対応する部分を大きく《論述》と言います。述語部といった意味です」
「広義」の次は「大きく」ですか?
主部と述部。主語と述語、あるいは補語。主格と与格、あるいは対格。論述なんて用語はありません。また、述定predicateは論述discourse, statementではない。
あなたが「論述」と言うときは述語や述部を意図していると解釈しますので、あなたはあなたの私的な文法用語をそのまま使ってかまいません。

「ならどうしてそれを書いたのですか?」
たんに説明に用いただけであり、この動機は文の意味内容ではありません。
私という自己が書いたから私が表現したとあなたは言っている。それだけです。話者の意図を想像するだけの現存在分析くずれは分析と呼ぶに値しません。

「むろん文章としても意味内容も出て来ます。一文ごとの意味の総和である〔に過ぎない〕とは言い切れないでしょう」
Sinnをわかっていないというのはわかりました。

「会ったことがあるか無いかは関係ありません。《いのち》をどの人にもひとしく見るという話です」
人ではなく命ですか。行為「よりも」命を重視するなら相対的に個人史も人格も瑣末でしょうから、とりあえず筋は通っていて合理的ですね。「命」をどの人「にも」見る。つまり人は命の容れ物であり、内容は命です。では命の内容は? 命とはなんですか? 私は生きている者はいくつか見たことがありますが、「命」は見たことがない。命をどの人にも「等しく見る」。比較はさておき、量だか数だかは分かりませんが、命というものが人々には「等しく」あるらしい。全体の総数が10人であれば1人の命は10らしい。私の体のどこに10個分の命があるでしょう。個ではなく量でしょうか。単位はなんでしょう。全体数が10人であるなら1人の命は10であるわけですから、命の単位は量ではなくやはり数、個数となるようです。しかし全体の数など認識できようはずもない。およそ70億と言われますが、そんな数の人間を認識などできようはずもない。さらにたえず事故や事件や出産によって人類に含まれる個体の総和は変動しているため、なおさら認識などできるわけがない。なんにせよ、ある個体の命がすべての個体の総和に左右されるなら、一時間前の私の命は今の私の命と等価ではない。「等しく見る」ということが、絶えず変動するこうした事実を無視して、一時間前の私の命と今の私の命を等価だと同定することならば、そんな手続きをすべての人間がするなんてのはありえない。それでも「基礎理論が有効だ」というなら、いったい何に対してどのように有効であるのか? 「応用領域からの反論は基礎理論に対して無効である」と言い張るだけならば、空想に対する強い愛着を捨てる動機にはならないというだけのこと。
「上に述べた基本主観の内容やその有効性に変化をもたらすものではありません」
現実から切り離してるんですから当然です。そもそもあなたにしか効用がない。なんとでも言えるがゆえに反証不可能なんですから、有効性なんてはじめからないんです。有効性があるというなら、何に対するどのような有効性があるのか、明示してください。単に反証不可能であるだけなら基本主観や基礎理論に限った話ではなく、フロイトの無意識なども反証不可能ですからその程度です。

「まるで異なった主観どうしのあいだにも共通性をいのちなる存在として見い出した」
として解釈した。それだけです。実証性ならミラーニューロンで充分ですし潜在意識とか要りません。というより異なる主観じゃなく異なる人体でしょう。生きているのは有機的な人体。そして主観では人は身近な人間を重視し、関係が遠くなるにつれて相対的に価値が低くなる。
あなたによれば個人の努力や人格などは「塵」であり「飾り」だそうですが、まるで生命だけが純粋でそれ以外は不純物だとするような見方からすれば、たしかにそれら不純物を濾過した生命は純粋なものに浄化されています。
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この回答へのお礼

 § 51 文と主観
 ★ まずシニフィエという観点からすれば、床に落ちた血痕は、その血の持ち主だった人間の主観に関わらず、それがどの高さからどのように落ちたかを意味する記号になる。文ではないですが、あるものが意味をもつために主観は必要ではないとわかる。
 ☆ 仮りに《床に落ちた血痕》を読むとすれば その落ち方を読むそうですが どうしてその血の持ち主が誰かは読まないのですか?

 § 51-1 息を吐く音は 文か? 
 ★ 「我は言う、はぁはぁ。」。たしかにハァハァと息を切らしているのは本人ですが、意図ではないし表現でもない。
 ☆ 自己表現としての意志はあるか? あるいは 聞き手がいるか? もしくは聞き手がいると想定して表現しているか? もしくはその発言を誰かに伝えようとしているか? を考え合わせればよいでしょう。

 § 51-2 主観と 文の分析
 ★ ~~~~
   「〔或る殺人犯いわく〕:私は人を殺していない。こういう自己表現であり、そういう主観です」

 分析じゃなく解釈じゃないですか。
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 ☆ もし解釈するなら 《殺人を徹底的に否定することにしよう》と思っているのだなとかとなります。
 主観として自己表現したというのは 分析です。

 § 51-3 話し手の主観がなくても
 ★ 学習プログラムを搭載したマシンによる文は意味をもちます。
 ☆ ひとりの人間がその主観を自己表現した場合の文に準じて 文と認められる場合があります。文と認められたなら 《意味を持つ》ことは つねに当てはまります。

 § 51-4 基本主観に立ち帰ること
 ★ ~~~~~
 魂が去勢されていない状態conditionを初期条件initial conditionとし、去勢状態から「更生」「蘇生」するのが望ましいわけでしょう? いわばファロセントリスム(男根主義)、健康と病気という古式ゆかしい価値観です。
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 ☆ 受け容れられません。たとえを盾にしてレッテルを貼っただけです。

 § 51-5 基本主観における自由
 ★ 自由には責任が伴うというよくある文言と一緒ですね。
 ☆ 自然本性のうちの自由意志をめぐって その自由な選択による行動や発言にかんしては 自由ゆえに誰かに理解しがたい内容であればそれに対する問いかけないし批判を受けて 答弁する責めを負う。というかたちで よくある命題と一緒です。

 § 51-6 主題に対して 論述
 ★ 述定 predicate
 ☆ この用語では 主題を承けて 話し手が何と答えるかという議論といった中身が消えるように思います。定義するという場合でも 話し手の主観の中に 議論が起きているはずです。
 
 ですから 述定ではなく 論定なら分かる気がわたしはします。

 § 51-7
 ★ ~~~~~~~
   ★ 私が書いているこの文、「私は学生である」には、私の意図を内容としてもっていません。これは自己表現ではありません。
   ☆ なら どうしてそれを書いたのですか?

 たんに説明に用いただけであり、この動機は文の意味内容ではありません。
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 ☆ 《説明に用いる》文を書いたという《動機》があります。言いかえると その説明のための例文を含む全体が 主観としての自己表現です。

 ★ 私という自己が書いたから私が表現したとあなたは言っている。それだけです。
 ☆ そのとおり《それだけです》が そのそれだけだということをも 《私の意図を内容としてもっていません》と言って否定しています。《意図》は 《その説明のための例文を含む文章全体》が あなたの主観から表現されたものだということにあります。(その意図の中身は まだ触れていませんが)。

 § 51-8 文章としても意味を持つ
 ★ Sinnをわかっていないというのはわかりました。
 ☆ 論理をとおして捉える見方に細かく進み入っていないことは そうなのでしょう。

 § 52 いのち
 ★ なんにせよ、ある個体の命がすべての個体の総和に左右されるなら、一時間前の私の命は今の私の命と等価ではない。
 ☆ 《ひとりの人のいのち》はそれが どの人のいのちにも ひとしいと見るとき 総和にあたかも匹敵する。その総和は どの時点をとっても そのときの総和である。

 § 52-1 どの人にも いのちを ひとしく見る
 ★ 「等しく見る」ということが、絶えず変動するこうした事実を無視して、一時間前の私の命と今の私の命を等価だと同定することならば、そんな手続きをすべての人間がするなんてのはありえない。
 ☆ 前項の内容が 普遍性を持ち 変わらざる真理のごとくあります。いちど共同主観を持ち得たと主観したならば 手続きは もう要りません。したい人がすればよいでしょう。

 § 52-2 その有効性
 ★ 有効性があるというなら、何に対するどのような有効性があるのか、明示してください。
 ☆ ワタシの自同律のごとく 共同主観を持ち得た基本主観を同語反復して自覚すること。ここに有効性があります。

 § 52-3 証明は じっさいのワタシの歴史にある
 ★ 単に反証不可能であるだけなら基本主観や基礎理論に限った話ではなく、フロイトの無意識なども反証不可能ですからその程度です。
 ☆ 主観が基礎理論に立った。その基本主観には 共同主観がそなわった。このような一人ひとり具体的な人間の主観が 基礎理論を仮説法において提起したことへの証明です。

 § 52-4 共同主観を心得たということ これだけのこと
 ★ ~~~~~~
   「まるで異なった主観どうしのあいだにも共通性をいのちなる存在として見い出した」

 として解釈した。それだけです。
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 ☆ そのとおりです。

 § 52-5 へそ曲がり以前にあって視野が狭い状態のばあい
 ★ そして主観では人は身近な人間を重視し、関係が遠くなるにつれて相対的に価値が低くなる。
 ☆ そういう主観には 呼びかけないでしょうね。いちどきちんと呼びかけたあとは。

 § 52-6 基本主観の上級編
 ★ ~~~~
 あなたによれば個人の努力や人格などは「塵」であり「飾り」だそうですが、まるで生命だけが純粋でそれ以外は不純物だとするような見方からすれば、たしかにそれら不純物を濾過した生命は純粋なものに浄化されています。
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 ☆ 上級編と言ったのは 半ば冗談のようなものですが じつは このように理解してもらったなら 基本主観は その状態もしくは見方にとどまりません。
 むしろ 塵および飾りであるシガラミの中へ積極的に出かけます。現実は 《基礎理論および応用領域》から成る構造なのですから。
 言いかえると 基本主観のハタラキを発揮する場は 《不純物》のただよう現場においてです。
 このような基本主観のあり方を 《無住処涅槃》と言ったり 《愛》と言ったりします。

お礼日時:2013/02/05 23:06
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