電子書籍の厳選無料作品が豊富!

 《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?

 できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。

 次のように考えますが どうでしょうかという問いです。


 非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。

 どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。

 心の伸び? 心の明け?

 けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。

 そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?



 たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。
 全体としてのひとつであるはずだ。
 どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。

 人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。

 これが 信教・良心の自由の中身である。
 

A 回答 (25件中21~25件)

度々のお礼ありがとうござます



> ☆ というのは それとして独自の観点を成すとは見ません。

この観点というのは私の思考内の探求のみの事ではなく、
現世に於いての現象、それに対しての観察(という経験)
なので、これを否定する事は誤りである
と一応、感じます、、否定の仕様がない・今の所、見当たらない、
といった感じです

私は何度とない現象の経験と、思考と伺いなどから、
これはどうやら(今の所)間違いないようだ、という、
常に今後、新たな認識・発見・変化もあるかもしれない、
というスタンスの上での、それは総合的な観点なんです

そこで感じるのですが?、bragelonneさんは、思考による
構築を確信・断定する事に拘り、厄介な真理の探求という
目的(の行動)の上に立っていないのではないでしょうか?

> 《神から見ると》ということでしょうが これは 
けっきょくその人間の主観内容のことにほかなりません。
《神の視点》を持ち出すのは 無理です。

これも上記に同じですが、まず神という存在の実体の
理解が欠けています

神・神々(神仏様方)というのは、4・5次元の一時的
半実体の存在のようで(中には、自分を神・高次元の存在
と思い込んでいる霊人の人達もいるようですが)、
これを自分なりに慎重に確認していない段階で、神・神々
を語り、言及・確信・断定する事にも無理があるだろうと

> 相い対立するような他方の一極を成すとみるのは言わば
神に失礼になるでしょう。《無根拠》なのですから
ふたつの極のひとつとして位置づけるのは 無理です。

これも理解と探求が不十分だと感じます
悪神・眷属でもなければ、(多様なので、この表現は厄介
であり、なので限定的になるのですが)多くの場合、本質的
には、神・神々には怒りというものはなく、失礼という物・
行為もあり得ないんです

その理由というのは、発生・表現の全てが、天界という
充満の大本の存在の、御体と想念による物であり、、

一応、真のの神・神々といえる存在は、それを知っているので、
神・神々に対し、失礼と思われる人の行動・思考・感情なども、
天界という大本の存在の表現であるからには、そこに怒る、
それに対する対象者の行動・思考・感情などが、失礼である、
という認識はナンセンスになるという事のようなんです

・・・これも以前、私自身が何度も伺いましたし、私は
綺麗事・潔癖・過剰な誠実性の人間ではないので、報いの現象も
含めた観察に於いて、魔・負に関わる事象への働き掛けの
試行も含める中で、色々と経験して来ました

因みにこれは、暗示などによる、精神・体調の現象ではなく、
現世に於いての物理現象です・・・

それよりも失礼とは逆に、当然ですが、真の神・神々は
寛容なんです
なので、失礼という物・状態が、本質的にはあり得ない
という、、私はそれ以外の現象の経験がありません

> この場合の視点が いくらかは 《多様性としての経験
領域》と互いに対立しあう極を形成するかも知れません。

これも簡単にいうと、物理現象として観察出来るんです、、
現象に波があるので、色々と注意は必要なのですが、、
結果、どちらかの極を消す、という霊的働き掛けを行う事で、
それは観察出来ます(ただこれは?直接・間接的現象の、延長先の
真理、とはいえるかもしれませんが?)
優れた真の秘教家なら、その現象はダイナミックな物になるようです

とここで、、どこにでも注意が必要な、厄介な自由性の
介入?を見極めなければなりませんが、、特にその部分に
対し、注意を払っている場合、目の当たりにした現象は、
証しといって間違いないといえるだろうと

> 単独の行動をするような信仰は

これも誤解だと感じます
他に表現が見付からない場合か、忘れている場合、注意が
欠落した場合などは、自分が信仰者だと、私が表現して
しまう場合もあるかもしれませんが、確信・断定せず、
信じず疑わず、のスタンスにある探求者は、(特に一般的な)
信仰者とはいえないだろう、と感じます
時に、表現としての言葉は同じでも、意味が違うだろうと、、
如何でしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 さらにご見解を明らかにされています。まづはご回答をありがとうございます。


 神は――真理としても霊としても絶対としても 人間やその経験世界とはへだたっているからには―― 人間には分からないと見ます。《無根拠》です。つまり 《人間にとって分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》です。そういう想定です。何故かと言えば 《かみ》という言葉はどの言語にもあって用いられているからには そういう説明をしてみる。ということです。

 すなわち
 ★ ~~~~~
 そこで感じるのですが?、bragelonneさんは、思考による
 構築を確信・断定する事に拘り、厄介な真理の探求という
 目的(の行動)の上に立っていないのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~
 ☆ 積極的に そのようにおっしゃる通りなのです。積極的に《探究も理解もしていない》ということです。つまり《わが心に受け容れるのではあるけれど 非思考の庭》なのです。《思考にあらず》なのですから 理解しようとはしていません。


 ★ まず神という存在の実体の理解が欠けています
 ☆ そのとおりです。名前だけでよいという見方です。《理解》は成し得ないと見ているという意味です。

 《実体》と言おうと《瞑想・観想なる体験》と言おうと それらはすべて 人間の想像力や思考力ないし知覚力などの総合された経験事象としての認識内容であるしかありません。つまり 《名前》と同じことです。

 強いて言えば 《非思考ないし非経験》と規定する実体だという意味です。

 ですから
 ★ 神・神々を語り、言及・確信・断定する事
 ☆ ではなく――《言及》にはなるかも知れませんが―― 《非思考の庭に受けいれる〈非経験の場(ないしチカラ)》として人間が想定する何ものかが カミです。この定義が おそらくどんな名の神をいだく信仰であっても 受け容れることのできる普遍的なものだと考えています。つまり《かみ》という名前だけでじゅうぶんだという意味です。(むろん 一人ひとりの主観内面においては それぞれのゆたかな《信じるという非思考の庭なる動態》が繰り広げられている。こうです)。


 ★ ~~~~
 本質的
 には、神・神々には怒りというものはなく、失礼という物・
 行為もあり得ないんです
 ~~~~~~
 ☆ 《神に対して失礼》というのは 表現だけの問題です。つまりそれは 《おのれの主観ないし心の内実とは別の中身を持つことになるであろう》という意味です。理論として表現できたとしても その中身がわが心に思うところと じつはどこかで異なって来ている。そういう意味です。

 

 ★ 天界という充満の大本の存在
 ☆ これがそうであろうとしても それ(神)はワタシの心の中におさめられている。そういうところから出発している。つまり
 ★ ~~~~
 一応、真のの神・神々といえる存在は、それを知っているので、
 神・神々に対し、失礼と思われる人の行動・思考・感情なども、
 天界という大本の存在の表現であるからには
 ~~~~~~
 ☆ というとおりに すべてはわが主観の中におさめられた神であるということになります。つまり 《天界においていかなる姿をしていかなる内容であるか》にかかわらず すべては――表現されたものは―― 一人のひとの心の中のものごとだとなります。
 おのれの見方としては いやそれはワタシの外のまたはワタシを超えたところの領域である天界にましますと思っていたとしても それは 普遍性を持ち得ません。なぜなら もし仮りに普遍性を持っていたとするなら それは《ワタシとは別のところに存在する》とは言わないで その神について人びとに説明し得て納得が得られたとき ということになりましょう。
 つまり 天界なら天界に存在するということが ぎゃくに普遍性を持つと人びとによって見られたとするなら それはただただ《天界にある存在》だという表現が共有されただけだということです。証明が出来ないからです。

 ですから 神がこの経験世界にかかわっているとするのならば それはあくまで人間つまりその心とそこからの表現を介してなのだとなります。人間の心とそこからの自己表現とは あくまで経験行為であり経験事象だという意味です。

 この経験事象そのものが 神だという見方をすれば それは《神に対して失礼になる》でしょう。わが心ではワタシはそうは思っていないのですから。


 ★ それよりも失礼とは逆に、当然ですが、真の神・神々は 寛容なんです
 ☆ 神は 神に対して失礼になること・すなわちワタシの心にもないことを言うこと これをおこなったとしても 何も仕返しをすることはないでしょう。つまり 寛容です。というのは すべて――非思考の庭という信仰をつうじて―― その《わたし》という人とその主観においてかかわっていこそすれ 何かを要求したりねだられたりする関係ではないからです。

 さらに強いて言うとすれば:もし仮りに神が人間の願いを聞いて叶えてくれるのだとしたときには 人間が祈ったり願ったりするその前にすでに神はその願いのことを知っているとこそ言うべきでしょう。から。

 

 ★ これも簡単にいうと、物理現象として観察出来るんです、、
 ☆ 説明もされていますが わたしの見るところ この《物理現象》というのはけっきょく もし《霊的働きかけ》がおこなわれたとしても・あるいは《神》の名前が含まれていたとしても すべては 人間と人間とのあいだ・またはわが心の内に起こることであって それとして《観察内容》は主観におさまっている。こう見ます。
 早く言えば 《神を見た》という発言に対しては その自分の主観として心の内におさまっている問題とほかの人びととの間にそのことを共通の認識として持つという問題とは 別だと見ているという意味です。後者は 無理だという意味です。

 次の現象も その本人の主観の内におさめられているという問題だと見ます。
 ★ 優れた真の秘教家なら、その現象はダイナミックな物になるようです

 次の《証明》も 同じく本人の主観のもんだいであると見ます。
 ★ ~~~~~
  とここで、、どこにでも注意が必要な、厄介な自由性の
 介入?を見極めなければなりませんが、、特にその部分に
 対し、注意を払っている場合、目の当たりにした現象は、
 証しといって間違いないといえるだろうと
 ~~~~~~~


 (あ)☆☆(No.3お礼欄) ~~~~
 単独の行動をするような信仰は 信仰でもなく神でも何でもないはずです。ただの思い込みであり 名誉欲と支配欲と金銭欲という神を寄り頼むという経験行為のひとつです。組織宗教は 個人の信仰とは基本的にまったく別です。信仰の抜け殻としてのオシエを――経験思考の成果であるオシエを――神としてあがめています。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この文章について次のように批評を承けたということは ちょっと納得が行きません。そしてどこがどう食い違っているのか? これも分かりかねています。
 (い)★ ~~~~
 これも誤解だと感じます
 他に表現が見付からない場合か、忘れている場合、注意が
 欠落した場合などは、自分が信仰者だと、私が表現して
 しまう場合もあるかもしれませんが、確信・断定せず、
 信じず疑わず、のスタンスにある探求者は、(特に一般的な)
 信仰者とはいえないだろう、と感じます
 時に、表現としての言葉は同じでも、意味が違うだろうと、、
 如何でしょう?
 ~~~~~~~
 ☆ 上の(あ)の文章は ごく一般的なことを言ったまでだと思います。
 
 組織宗教は 神を受け容れ信じているのではなく 信じた結果 観想をとおして得た命題――たとえば 人は人をころさない――をオシエとして――つまり なんぢ ころすなかれなる倫理規範として――持ち 個人の主観における神をではなく 神にかんするオシエを大事にする。というようなことを言ったまでです。

 (い)のご批評は 飲み込めません。《非思考の庭》は 疑う・疑わないとは関係ないとすでにお伝えしましたし。また《探究者》であるというよりも 信仰が始まったのならすでにひととおりは《探究》し終えていることを意味します。あとは むしろこの経験世界ないし生活世界のものごとにかかり合って行きます。
 そういう意味で どういう食い違いによっているのか 分かりかねています。

 こんなところでしょうか。

お礼日時:2013/02/24 16:07

bragelonneさん、こんばんは。




>「これが 信教・良心の自由の中身である」

そうでしたか。
そうであれば、なるほど、裁判所と致しましては(笑)そこ(信仰の内容、内心)まで立ち入る問題ではありません。
ただ、裁判所と致しましては、「信教の自由だ」という表現には、別の意味・次元で注意が必要かと思われるところです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ ただ、裁判所と致しましては、「信教の自由だ」という表現には、別の意味・次元で注意が必要かと思われるところです。
 ☆ どうしてですか?

 《別の意味・次元での注意》とは どういうことが考えられますか?

お礼日時:2013/02/24 09:33

お礼ありがとうございます(なぜか補足のボタンが機能しない)



成る程、、非思考の庭が、意味・印象・概念の感受の瞬間後
のやり取りではなく、感受の瞬間その物、または感受の性質としての
可能性の内包(永遠の過去からの可能性としての内包など)
だとすると、そう定義出来ない事もないかな、とは思いますが

ただ?内包だとすると、そこには変化・経緯も内包されている
事は、自然だろうと感じるので、やはり信じるが内包という
定義は、無理があるかな?と感じます


ややこしいので区別しなければならないと思いますが、根本的
霊的真理・真実の観点からすると、可能性という多様性と、
唯一という計画(宿命)の両極というのは、実は同体状態・一体化
なのだそうで(これは私自身の観察からも)

その観点からも、信じるの内包の定義というのは、やはり
飽くまでも経緯という事になるでしょうし、、
これは、根本的真理・真実というのは、両極が一体化してる
のであって、一方を切り離して永続的に定義出来る物とは
いえないだろうと・・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回のご議論はかんたんです。

 ★ ~~~~
 非思考の庭が、意味・印象・概念の感受の瞬間後
 のやり取りではなく、感受の瞬間その物
 ~~~~~~ 
 ☆ であると同時に 信仰はその誕生の瞬間のあとも――すでに人が生きている・生活しているということは 存在が動態であるからには―― 非思考の庭としてありつづける。ということになります。

 言いかえると 人間の存在は 

   ・非思考の庭
   ・思考の緑野
   ・感性の原野
    などなど

 の重層的に構造的に成り立ったものだと見るからです。非思考の庭と思考の田園かつ都会とが ふたつとも同時に活きてあゆんでいます。

 ですから
 ★ 根本的霊的真理・真実の観点
 ☆ というのは それとして独自の観点を成すとは見ません。《神から見ると》ということでしょうが これは けっきょくその人間の主観内容のことにほかなりません。《神の視点》を持ち出すのは 無理です。出来るように見えますが 実際には無理です。ただただ《人間の――神をめぐる――想像力とその産物》でしかないと見て 言わばあきらめるかまたは禁欲しなければならない。こう考えます。

 ★ ~~~~
 可能性という多様性と、
 唯一という計画(宿命)の両極というのは、実は同体状態・一体化
 なのだそうで(これは私自身の観察からも)
 ~~~~~~
 ☆ これはですね。《可能性という多様性》が 《思考の緑野および感性の原野その他その他》つまりこの経験世界そのもののことです。

 《神の視点ないし神の計画》 これは想定することが出来るでしょうが 経験世界のどんな事項とも《対極》を成すことはありません。この経験世界を超えているからには 相い対立するような他方の一極を成すとみるのは 言わば神に失礼になるでしょう。《無根拠》なのですから ふたつの極のひとつとして位置づけるのは 無理です。

 ただし 一人のひとの非思考の庭は ものごとの判断においてヒラメキに恃んで《信仰に照らし合わせるなら》といった視点を提供することがあるとすれば この場合の視点が いくらかは 《多様性としての経験領域》と互いに対立しあう極を形成するかも知れません。

 でも《極》というのは 必ずしも現実的ではないかも知れません。なぜなら 信仰は むしろそれ自体のままとしてではなく ヒラメキをつうじてけっきょく《経験思考》のためにこそはたらくような・自然本性としてそなわった要因だと考えられるからです。

 言ってみれば 神は むろん経験領域とは絶対的にへだたっていながら しかもむしろ経験世界のためにこそ 人間にヒラメキ(インスピレーション)をあたえる。ということかも分からないからです。


 そういう意味では
 ★ 一方を切り離して
 ☆ いるわけでもないのです。信仰もけっきょく経験世界における多様性をもった
 ★ 経緯
 ☆ に注目をしている。わけです。そして決して独自の行動をするわけではなく きわめて控えめな要因(契機)です。

 単独の行動をするような信仰は 信仰でもなく神でも何でもないはずです。ただの思い込みであり 名誉欲と支配欲と金銭欲という神を寄り頼むという経験行為のひとつです。組織宗教は 個人の信仰とは基本的にまったく別です。信仰の抜け殻としてのオシエを――経験思考の成果であるオシエを――神としてあがめています。




 ★ 内包
 ☆ という用語をうまく受け留められなかったキライがあるかも知れません。

お礼日時:2013/02/23 20:40

> 《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと


理解していますが これは どういうことか?

非思考の庭というのが、意味・印象・概念という本質的な、
霊的やり取り(会話)、、または思考・感情の発生点などの
意味でしたら、その定義は一応、正しいといえるとは思います

ただし、そこにも陥りがあり罠もあり、信じていいとはいえない、
と私は経験からも感じます


私は神仏様方から
「(たとえ神仏達の言葉であっても)信じず疑わず、確信・断定
してはならない」
と伺い、それをつくづく思い知らされて来ました

またそのように伺い経験して来た事は、非常に幸運だった、とも
感じています

信じるという情動?は、言葉の表現として必要、または強く引き
寄せられてしまう多様な状況は別として(言語・文章の欠点とも)、、
逆に欠かせない、その部分での注意などは別にして、、
信じるという情動は全く不要だと感じるのです
(むしろ悪弊かと)

それで困る事が、私自身、今まで全くなかった事も、多分それで
間違いないようだ、という私の理解の本になっているのですが、、
ただしどこまでも信じず疑わずは重要だとは思うので、これも
確信・断定すべきではないだろうとは一応、思ってはいます


ただ?多くの人々は、(特に安易な)確信・断定を自他に求める
欲求?のような物を持つようですが、、霊的真理というのは、
厄介な自由性の中にあるので、、これも多くの人達には、理解
されないのですが、曖昧・矛盾が自然に成立している部分があり、
現世的な論理・矛盾の指摘・精査・検証などは、通用しない所
にあるんです

このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で))
を理解するには、霊的能力が必要で尚且つ、罠・テスト・踏み絵を
クリアし続ける必要があり、能力者の人達の多くが、初歩の段階で
躓いてしまうのを今まで見て来た事から、、

そしてそのような事に付いての伺いからも、、霊的能力があり尚且つ、
意識体に素養が与えられていないと理解・認識する事が困難なのだなと
(ただし、霊的働き掛けで、種のように与える事は可能なようです)


> たとえば端的に言って自分の神とは名前の違う神を排斥する
ということですよね?

いいえ、まず、神・神々がどのような存在であるのか、という事を
確認する意思が必要であり、、多くの能力者の方々が、霊的現象・
奇跡などで確認・探求を放棄(信じる行為)しがちであるという
事から、私は信じるという行為その物が問題・不要なのだと感じています

神・神々を排斥するのではなく、、神・神々が創造された多様な過程と、
彼らが一時的半実体であるという事などの繰り返しの経験、、
それでもここでも、確信・断定してはいけませんが、

それはそれでも、神・神々の実体を確認・認識する経緯・段階
であって、そこには排斥という行為は不要だと感じます

問題のある様々(神・神々にまつわる)に対して、関わる必要が
なければ関わらない、という行為・結果が、一般・多様な排斥の
面と同一になる部分、そのようにしか見えない部分は、あるとは
思いますが、行為は同じでも、意味は別といえるだろうと、、
如何でしょ?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 みよんよんさん あたらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづ
 ★ ~~~~
 私は神仏様方から
 「(たとえ神仏達の言葉であっても)信じず疑わず、確信・断定
 してはならない」
 と伺い、それをつくづく思い知らされて来ました
 ~~~~~~
 ☆ この《神仏様方》というのは 人間がそうなったとされるその人びとのことでしょうか?
 どうも 《伺い》ということですから そのようです。
 その人びとの考えを摂り入れてご見解があるということですね。

 読んで行くと どうも《信じる》ということの定義が 違っているように思われます。

 でも最初に《非思考の庭》が 人の心に成って動態するという定義は一応みとめてくださったのですから そのあとの
 ★ ただし、そこにも陥りがあり罠もあり
 ☆ というときの《落とし穴》について注意をうながしておられましょうか?

 曰く:
 ★ 信じるという情動は全く不要だと感じるのです(むしろ悪弊かと)
 ☆ たぶんまづ ここですよね。

 《情動》がそのとき伴なわれているかどうか? これは何とも言えませんが ただし《信じる》という行為には その感情やあるいは理性さえもが 主役ではありません。強いて言えば 意志がわづかにかかわっています。

 つまり 《信じる》とは 神なら神 しかもヤハヱーならヤハヱーあるいはブラフマンならブラフマン そしてさらには《無い神》なら《神はない》という或る種の仕方における神 これらの名前を心に受け容れることです。ただそれだけのことです。
 
 もう少し説明がつづきますが。まづ 或る日或る時ワタシ(一般的に或る人)の心の窓を何ものかがノックする。これを――神の一定の名前とともに―― 受け容れる。言わばそのとき――思考もハカラヒもなく(ただし 感情や理性が脇役としてともなわれているかも知れませんが)―― ただただ心に受け容れるということです。

 そしてそれは 意志によってだと言いましたが それは言わば領収証をみづから切るということ。何を領収したかと言えば 何ら分からないナゾの何ものかをです。これが 《情動や理屈》を抜きにして――つまり《非思考》として――成る《信じる》という行為の中身です。

 言わば無根拠において成ります。

 そう言うと ぢゃあ《情動》よりもさらに やっかいなことではないかとも問い返されかねませんが そこが《信じる》の真骨頂であるとも考えます。《非思考》で《無根拠》なのです。

 なぜなら そうでなければ それは 思考であり感情のおもむくところでありあるいは理屈(理論)によって 《信じる》ことになってしまう。それは けっきょく《信じる》ではなくふつうに《考える ないし 感じる》という行為なのであり そういう問題だとなります。

 つまりたとえ《神》を持ち出していたとしても その場合には 《信じる》とは何の関係もありません。

 《信じる》は 神を思うあるいは感じるあるいは考えるといった行為ではないところの特殊な――しかも意志がかかわるからには――経験行為である。と考えられます。

 意志が受け容れる経験行為でありつつ しかもその受け容れる対象は――非思考で無根拠であるゆえに――《非対象》だとなります。これを 一般に《神》と言っている。しかも 人びとによって民族の違いによって異なる名前がつけられています。キリストとかアッラーフとか。

 これが 《信じる》だと考えています。


      *


 この定義にもとづき ご見解との相違について見てまいります。
 ★ ただしどこまでも信じず疑わずは重要だとは思うので
 ☆ 《うたがう・疑わない》 これは――非思考で非対象で無根拠ゆえに――《信じる》には関係しません。ということだと考えます。

 ですから
 ★ 確信・断定すべきではないだろうとは一応、思ってはいます
 ☆ という《確信・断定する》こととは別なのだと考えます。《確信》は 《信》が入っていますが それはおそらく感性によるにしろ理性によるにしろ 何らかの知覚があってその認識があってさらに一定の推論をほどこした上での判断行為なのでしょうから これまた《信じる》という行為とは別だとなります。

 ですから たしかに
 ★ このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で))
 ☆ というのは そのようにおっしゃるとおりなのですが つまり《非対象・無根拠》というのが この《真理ないし霊ないし霊的真理》のことだとわたしも受け取っていますが ただしこれは
 ★ このような事(霊的真理(霊的真理以外の物はないという意味で))を理解するには
 ☆ とはならない。と見ているわけです。
 
 《神》を人間がその能力と努力によってあるいはその境地において《理解する》とは 豪も思わない。となります。ただただ――いくら不合理であったとしても――そのいづれかの名を持ったその神の名を心に受け容れる。だけなのです。

 《理解》は この非思考の庭なる動態の過程をあゆむとき実際に経験事象を自分もおこないほかの人びともおこなっているその社会的な歴史におけるものごと これらについておこなうことです。
 そのとき多少は おのれの信仰――つまり言いかえると 信じるから来るヒラメキにおけるわが心の奥の奥なるところの直感や思い――に照らして それはちょっと違うぢゃないかとか ううーんそれは どうもおかしいなぁとかそういう思考をもおこなうわけです。

 ★ 霊的能力が必要で尚且つ、罠・テスト・踏み絵をクリアし続ける必要があり、
 ☆ おそらくこのような紆余曲折をともなう過程は 信仰なる動態としてというよりも やはり上に述べたもろもろの社会経験をめぐる事柄についてだと考えられます。
 
 そして確かに判断行為にあっては《おのれの信じるところに照らして》という要素がありますから その意味で《霊的能力》というふうに規定しても間違っていないと思いますが それでもその判断の成否・当否は けっきょく社会経験をめぐる具体的な問題についておこなうのだとやはり成ります。

 言いかえると そのように《落とし穴に注意しつつ踏み絵をつきつけられてもその壁を突き抜ける》という行為は 《信じる》にあっては――非思考の庭がすでに成っているからには―― もうすでに乗り越えて来ている。ということではないでしょうか?

 どのように乗り越えたのか? 無根拠においてです。非思考としてです。神は それほどのチカラがあると言ってもよいでしょう。

 ですから
 ★ 能力者の人達の多くが、初歩の段階で / 躓いてしまうのを今まで見て来た事から、、
 ☆ そもそも《無根拠》なるチカラは 《能力者》なる人間のチカラに後行するということはあり得ません。つまり人間がおのれの能力を 神のチカラに対して先行させるなら その能力行為が成就する気遣いはない。そもそもの初めから ない。ということかと思います。

 おそらくこの《無根拠における非思考としてのわが心の動態》 これが 次の文章の中身に呼応しているのではないかと考えます。
 ★ ~~~~~
 多くの能力者の方々が、霊的現象・
 奇跡などで確認・探求を放棄(信じる行為)しがちであるという
 事から、私は信じるという行為その物が問題・不要なのだと感じています
 ~~~~~~

 要らない《信じるという行為》とは 人間の能力を駆使したハカラヒによってわざわざ信じようとするそのことであろうと考えます。

 

 ★ ~~~~
 神・神々が創造された多様な過程と、
 彼らが一時的半実体であるという事などの繰り返しの経験、、
 ~~~~~~
 ☆ これもおそらく人間の想像における神のことを言うのではないでしょうか? 観念における・観念としての神であろうと思われます。ハカラヒによっていますから アウトです。



 こう見て来ますと 違いは次の一点であるようです。
 《信じる》ことに何も要らない。ハカラヒから自由であること この基礎において《信じる》は成る。
 
 ただし わたしの場合は 神の名を心に受け容れること この意志による具体的な行為は 信仰の発車ないし芽生えとして なくてはならないということ。神の名の――無根拠における――受容 これがなくては話は始まらない。この一点です。
 (すでに受け容れていた場合には 確認が成されましょう。というような信仰の誕生の瞬間がある。こういう意味です)。

 

お礼日時:2013/02/23 16:47

> 信じているとは 心が閉じられていないことである。



私は逆だと感じます、、それに、信じる事の大切さ、とか
尊さ?という流布などは、私は悪弊・因習だと感じます

神を語るのなら、素養が与えられ、狡猾な罠・テスト・踏み絵
などをクリアし続けて来た経験が必要だろうと感じます

勿論それ以外の段階で、神を語る事は自由であり、罠の中で、
多様に信じ込まされてもいるので、、ただし許容とはいえないだろうと
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 よく分かりません。
 ★ ~~~~~~
   > 信じているとは 心が閉じられていないことである。

 私は逆だと感じます、、
 ~~~~~~~~~
 ☆ そのほかに何も説明が見当たらないと思うのですが?


 たとえばもし《心が閉じられていない》ではなく《心が閉じられている》のなら それは たとえば端的に言って自分の神とは名前の違う神を排斥するということですよね?
 
 これが
 ★ 〔組織宗教とその言わばひとつの文明化のもとに 隠然とにしろ公然とにしろ張り巡らされた〕罠の中で、多様に信じ込まされてもいる
 ☆ という《思い込み》のことでしょう。

 おのれの信じる神が――あるいは《無い神》が――わざわざただしいとうったえなければならないようでは それはまやかしなのでしょう。そうではないでしょうか?




 ★ ~~~~~
 神を語るのなら、素養が与えられ、狡猾な罠・テスト・踏み絵
 などをクリアし続けて来た経験が必要だろうと感じます
 ~~~~~~~
 ☆ このご見解こそが 《〔組織宗教とその言わばひとつの文明化のもとに 隠然とにしろ公然とにしろ張り巡らされた〕罠の中で、多様に信じ込まされてもい》たことの後遺症としてまだ残っている思考形式のひとつなのでしょう。

 《信じる》は いちいち《クリアする》ことを経ずとも 初めから飛び越えています。またその地点へ ただちに――ヒラメキにおいて――送り渡されましょう。

 どうでしょう?



 ★ ~~~~
 信じる事の大切さ、とか
 尊さ?という流布などは、私は悪弊・因習だと感じます
 ~~~~~~
 ☆ この判断は 同じような趣旨であるとも見られるのですが。でも あいまいですよね。わたしもあいまいなままにしますが。

お礼日時:2013/02/23 12:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!