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忍者は好きです。
なんか国内でも外国人からも人気があり、なぜなのかというのも疑問ですが、
最大の疑問は暗殺はあったのかということです。ゲームやってても雑魚武将の暗殺は成功しませんね。
ま忍者の暗殺などなかったように思われますが。暗殺するくらいの実力はあったのですか?
そのたまじめな忍者論お待ちしてます^-^

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A 回答 (9件)

こんにちは。


bungetsuです。

>>あ、すいません。ほかにもこねたあれば聞かせてください。

そうですねぇ。何から話しましょうか・・・。

★伊賀の服部家の滅亡
服部氏は、北伊賀の豪族で伊賀忍法の総元締めであった。しかし、戦国時代になると外に活路を求めて本国を離れた。初めは足利将軍に仕えたが、足利幕府の衰退を認識するや、足利将軍家を離れて三河の徳川家康に仕えた。
家康の代に活躍したのが首領の服部半蔵正成であった。
この経緯としては、天正10年の本能寺の変で信長が討たれた時、家康は信長の招きで堺遊覧中であったが、兵を引き連れていなかったため孤立無援となってしまった。
一時は、家康も年貢の納め時と自決しようとしたが、家臣の説得で思いとどまり、甲賀、伊賀の山中をさまよった。この時のことを家康自身が「糞、小便は垂れ流しであった」と述懐している。運良く服部半蔵に出会い、半蔵に率いられた伊賀者200人によって家康は守られ、伊賀の白子浜から海路で無事三河に戻ることができた。
半蔵は他にも姉川の合戦や三方ケ原の戦いにも戦功があったため、家康が幕府を開いてからは、伊賀組の頭領として3,000石を与えられ、城の警護や他藩(主に外様大名)の情報収集などを主な仕事とした。
ところが、二代目を継いだ子の石見守正統が、半蔵の死後10年目に人違いから、家康に信任の厚い重臣の家来を2人までも闇討ちをしてしまった。
また、配下の者たちへの統率力も欠けていたため、伊賀者の大半が四谷の西念寺に立てこもりストライキを起こしてしまった。正統は責任を問われて直ちに改易となってしまった。
その後については、北伊賀は藤林氏が、南伊賀は百地氏が伊賀忍者を支配することとなった。

★便利な「忍び熊手」
忍者は高い塀などをいともたやすく乗り越える。抜群の跳躍力を持っていたからである。
これは、男子が4~5歳になると、「麻」の種をまく。そして、毎日その上を飛び越えさせる。「麻」は成長が早いのでドンドンと伸びていくが、男の子にはその上を飛び越す訓練を続けさせる。こうして、跳躍力が身に付くのだ。
とは言っても、やはり、限界というものがある。
そこで考え出されたのが「忍び熊手」である。
あまり太くない竹を一節ごとに切り、空洞に麻縄を通してつなぎ、先端に熊手を取り付ける。
麻縄を引っ張るとピンとした1本の棒状になり、高所に熊手をひっかけて縄を引くと棒となり、その棒をよじ登ることで高所の壁などを楽に超えることができる。縄を緩めれば折り畳むことができ、簡単に懐中に入れて持ち歩けた。
現代でも、大工や瓦職人などが綱を引くと梯子が伸びる物を使っているが、まさに、最先端技術の発明であった。

★忍者の弱点
月光、風上、竹藪、藁、水の動き。
月光は、月が東に見えたら、できるだけ東を避けて西に向かって進む。
風下を歩けば敵方の物音が良く聞こえる。逆に、忍者の音は相手には聞こえない。
竹藪や藁は、言わずと知れた通り、どんなに注意を払っても音がしてしまう。
水の動きは、溜まり水を踏んでしまうと、その波動で相手に気づかれてしまう。
これらをなるべく避けるのも忍法の教え。

★現代人でも役立つ忍法
(1)夜道を歩いていて先が見えない時は、地に伏して雲に透かして見ると良く見える。
(2)人間の通る道なら、舌でなめてみると塩の味がする。
(3)暗い中で草木を人間と間違えることがある。そういう時は、そこに止まり心を静める。人間ならば必ず前後左右に動くはず。
(4)前方の柵などを人の集団と見間違うことがある。この時も心を静めて目をこらす。人の集団なら「たけ」が揃わない。

まあ、この位にしておきましょう。
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歴史番組の多くはエンターテイメントです。

ゲーム本に毛の生えた程度。受験用以外は。犬hkですな。


鉄くずを複数、持ち歩いてください。鉄ビシがいかに無駄なモノかよくわかります。あれは、トラックで運ぶ量をまかねば、道を封鎖できません。手裏剣も曲芸。実際の戦場では役に立ちません。近代軍は、銃剣は採用してますが手裏剣は採用しません。しょせん、曲芸だからです。

つまり、この手の忍者グッズは観光産業グッズだということです。
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戦国時代の本物の記録は意外なほど少なく、戦国を描いた古文書の多くは江戸の創作物です。

忍者や軍師ネタは特にね。

服部半蔵は、歴とした徳川の家臣団の一員であり、忍者では無くて武士です。徳川家臣団、伊賀担当というのが彼の立場でした。
忍者マンガの伊賀は東北の山間部の寒村のように描かれますが、実際は、畿内の盆地そのものであります。太閤検地でも伊賀国は面積の割には石高の高い国となっています。伊賀は、中世では東大寺に反抗する悪党が跋扈し、織田・豊臣に対しては惣国一揆が反抗しています。独立心がやたら高いのでしょう。この伊賀の「農民兵」たちをうまく懐柔したのが服部半蔵でした。と言っても、数代後に、また服部家に反抗したのですが。


羽柴秀吉が密使を捕まえて本能寺の変を知った、というのは、またまた小瀬甫庵の創作でしょう。甫庵以前にそんな史料は存在しませんし。秀吉に変を伝えた人物の名は記録されていません。当たり前です。例えば、首相暗殺の報を県知事に伝えたぐらいで歴史に名を残せるでしょうか?社長の急死を有力支店長に伝えたぐらいで、大出世できるでしょうか?大組織なら、重要情報を迅速に伝える方法が確立されていて当たり前。そんなものただの公務です。さらに、有力者は、重要な情報を伝えてくれる私的な人の付き合いをいくつもしていて当然です。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

回答しようかどうか迷っていました。

>>最大の疑問は暗殺はあったのかということです。

この答は、「あった」とも「なかった」とも言えます。
なぜならば、忍者の書き残した物が一切ないからです。

すべて口伝で証拠を残さないように配慮していたからです。
ただし、伊賀忍者は伊賀忍者だけが使う文字を持っていました。
これは文献で明らかになっています。

例えば、「木」へんに「色」が「い」。
「火」へんに「色」が「ろ」・・・などです。

私は、忍者は実在したと考えます。

それが証拠に半蔵門で有名な服部半蔵が実在し、大奥の中に唯一男性の詰める場所があり、「広敷向」(ひろしきむき)と言いますが、役目としては次のようになります。

大奥での事務や警備等を担当する「男性役人」の詰め所。唯一、男性の入ることのできた区画です。しかし、火事などの非常時以外は御殿向や長局向へ出入りは「厳禁」でした。
★「広敷用人」は、大奥の御台所や上臈(じょうろう)御年寄りなど、大奥の上級お女中から頼まれた事務を取り仕切った。「御用達」は、用人の指示により、出入りの商人から買い物などを調達する掛り。
★「広敷番」は、大奥の女中が城外への出入りに使用した「平川門」(不浄門)の警護や御錠口という「御殿向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。さらに、「七つ口」と呼ばれる「長局向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。この七つ口は、朝五つ(午前8時)に開き、夕七つ(午後4時)に閉まることから「七つ口」と呼ばれるようになりました。
★「広敷伊賀者」、大奥の上級者たちが社寺へ詣でるような時の警護役。

>>暗殺するくらいの実力はあったのですか?

当然あったと思いますが、先にも述べた通り、いかんせん、史料としては残っていません。

(よもやま話)
★忍者とは
起源は、聖徳太子の側近の大伴息人(おおとものそくじん)が記した書の中に「志能便」(しのび)がはじまりとされている。名実ともに特殊技術と認められるようになったのは、奈良朝中期に遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が中国からもたらした「孫子」の中にスパイ術が書かれてあり、これを源とする。

★忍者の原形
修験者が体得し広めていった。貴族が信仰するような優雅な仏教文化と違い、修験者は眼に見える現世的な力を見せて、庶民仏教として受け入れられことを目指した。そこで、山中などの厳しい環境に身を置き、気合術、催眠術、医療術などを体得していった。これらの技術は日々進歩し、長く伝わっていった。

★「陽忍」と「陰忍」
まず、「陰忍(いんにん)」は一般的に知られる、種々の「技」(わざ)を使う忍者で、源平合戦のころの「義経流」(ぎけいりゅう)に端を発している。つまり、鞍馬山中で修行した「体術」を駆使する者である。これに対して、「陽忍」(ようにん)は知能的な諜報、謀略を主としている。南北朝の「楠流」(くすのきりゅう)を受け継いだといわれている。

★忍者の格
忍者のランクとしては、「上忍」(じょうにん)、「中忍」(ちゅうにん)、「下忍」(げにん)の3階級に分かれる。「上忍」は豪族で、主に、「陽忍」を使った。「下忍」は、もっぱら、体術を使う「陰忍」であった。「中忍」は両方を使い、「下忍」の組頭的存在であった。

★伊賀と甲賀
どちらも、自然的条件がそなわっていた。まず、伊賀(三重県)であるが、鈴鹿山系と笠置山系に囲まれ、外界からは隔絶していた。山岳修験者が好む山あり谷ありの絶好の修行場であった。また、京にも近く、古来より戦いの進撃路でもあり、敗残兵の潜入場所にもなった。宗家の「服部家」は、その土地の豪族であった。服部家は家康に仕え江戸時代に全盛期を迎えた。「半蔵門」は服部半蔵から名前をとっている。一方、甲賀(滋賀県)は本来の地名としては「こうか」と言うが、忍法に関してのみ「こうが」と呼ぶのが一般的である。甲賀も鈴鹿山系と信楽(しがらき)盆地とそれらを囲む丘陵地であり、甲賀衆は普段は農業や行商人に身をやつし、「上忍」はおらず、「中忍」と「下忍」だけで構成されていた。甲賀衆は、織田信長を経て豊臣秀吉に仕えて手腕を発揮した。しかし、忍者は戦陣においても他人に「忍者」とわからないよう、また、同じ忍者同士でも悟られないようにしたという。そして、雇ってくれる者があれば敵味方関係なく働いたので、いちがいに、伊賀は○○方甲賀は△△方と所属を分けることはできなかった。その他、雑賀衆(さいかしゅう、または、さいがしゅう)、根来衆(ねごろしゅう)なども忍法を駆使して戦いで活躍した。また、一説には「柳生」も剣とともに、忍法を用いたとも言われている。

★本当に伊賀対甲賀?
本来、甲賀衆も家康に尽くした。伊賀衆は、天正九年(1581)に織田信長が戦のたびに神出鬼没のゲリラ戦に業を煮やして伊賀を攻めた。女、子供にいたるまで容赦なく殺戮したという。通称、「天正伊賀の乱」である。この時、甲賀は家康の「とりなし」で信長に攻められることなく無事であった。したがって、家康には恩義を感じていた。一方、伊賀衆は天正十年(1582)の本能寺の変で信長が討たれた時、家康は信長の招きで堺遊覧の最中であったが、信長の死を聞くや、家康は必死の形相で伊賀、甲賀の山中を逃げ回り、伊賀衆の助けを受けて伊賀の白子浜から海路三河に逃げ帰った。その後、慶長五年(1600)の関が原の戦いでは、甲賀衆は伏見城籠城に参戦し100人もの戦死者をだした。家康は幕府を開いてから、この甲賀衆の戦死者の子弟100人を召抱え「甲賀百人組」を結成させている。さらに、「伊賀同心」より1階級上の「与力」に任じている。伊賀も甲賀も家康を陰で支えた功績は多大なものであった。忍法的には、さほど違いはなかった。

★陽忍の七変化
陽忍は、いわゆる、大物スパイであるので、あらゆる人物に化けた。虚無僧、山伏、出家、商人、放下師(手品師)、猿楽師(猿まわし)、常の形(普通の人)、これらの七種類の変装用具を用意していた。これを「七方出の術」(しちほうでのじゅつ)と呼んだ。もちろん、扮装だけではすぐにバレてしまうので、ふだんから物腰や教養、技術などを身につけていなければならなかった。高級忍者たるゆえんである。

★陰忍のユニフォーム
忍び頭巾、上着、たっつけ(伊賀ばかま)、帯、忍び刀がユニフォーム。そして、携行品としては、手拭、鉤縄(かぎなわ)、石筆、薬、附竹(発火用具)を必ず身につけていた。よく、黒装束というが、黒よりも柿色が多かった。暗闇でも黒色は割合目につきやすいが、柿色は意外と見えない。さらに、血がついても目立たない。実際に柿の渋で染めたという。

★くノ一
忍法「くノ一」は、もちろん「女」である。これは、女を敵方の奥向きへ仕えさせて情報を収集するもの。「陽忍」の高等術の一つであった。

★特訓
忍者の家に子供が生まれると、畳の上に濡れた唐紙二枚を重ね貼りした襖を置く。親の忍者がその子の手を引きその上を歩かせる。子供は襖の端に置かれたお菓子が欲しくて「よちよち歩き」をする。当然、唐紙は破ける。それを叱りつけて唐紙を破らぬようになるまで毎日歩かせる。何千回、何万回と繰り返すうちに「足形」も残さないように歩けるようになるという。忍者が敵方へ潜入したとき、足音を殺し、足跡を残さないための特訓である。真綿からつむいだ細い糸を鼻の穴のすぐ上に貼り付ける。そよとも動かさずに呼吸をする。敵がまじかに潜むとき、息を殺すための修行である。大きな桶に水を満たし、その中に首を突っ込んで長時間耐える。これは潜水のための訓練。こうした幼少からの反復練習が驚異的な体術を生み出すのだ。伊藤銀月著「忍術極意秘伝書」の中に書かれてある。

★忍法のその後
徳川幕府が安定してくると、戦いもなくなり、当然のことながら、戦場での「忍法」も必要なくなっていった。したがって、「陰忍」はしだいに姿を消し、「陽忍」だけが残るようになった。一説には、寛永十四年(1637)の島原の乱で「陰忍」はすべて消滅したと言われている。それ以後は、「隠密」と呼んだ。

この回答への補足

あ、すいません。ほかにもこねたあれば聞かせてください。

補足日時:2013/04/16 13:37
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この回答へのお礼

すばらしい!@@何度も見直してお勉強させていただきます。忍者が廃れてからだいぶ立ちエセ忍者、娯楽忍者、マンガ忍者、架空の話などなどぐちゃぐちゃになりました。忍者は現在に必要ないですからね。ただ古今東西非常に特異なものでありゲームや観光などで人気を博すのはよくわかります^-^ま、本当の技は危険だから娯楽では、空中さっぽうしかないのは、しょーがないですね^^;閲覧者様も悪用はされぬよう。

お礼日時:2013/04/16 11:46

ゲームのやりすぎです 笑


実際みんな知ってる 猿飛佐助や霧隠才蔵なんてのは後世の創作
まぁ
服部半蔵は実在でしたが…

忍者といえば黒頭巾を被って闇から闇へ
時には罠を仕掛け相手を暗殺
戦となれば流言を流し敵を混乱

というイメージですが
実際は諜報員というのが正しいです

本能寺の変のとき毛利方への密使を秀吉が捕らえた話は有名ですが
あの密使こそ ここで言う忍者です
それから良く 早馬を出せ! と言いますよね
あの早馬も忍者です

忍者ってのはそういう役割で
暗殺とかのイメージは完全にテレビによって刷り込まれた作られた人物像なんです
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忍者という階層は、武士でなく情報戦で戦国時代に大名に仕えた農民です。

それが江戸時代に真田十勇士といった講談で漫画みたいな超人になってしまいました。世界一馬鹿な現代日本人は、江戸時代の講談師の創作をそのまま歴史的事実と解釈しているのだからお話にならない。調子にのって観光資源にして外国からも観光客を呼びこもうとしていますけどね。伊賀野カバ丸なんて漫画が、館所蔵忍者文献資料として収められているのだから笑ってしまう。伊賀国は、律令時代に下国と分類されたことで分かるように農業生産力が弱いんです。都に近いのだけど、都に届ける産品が無い。農業で食べていけないから忍者にでもなるしかなかった訳で。伊賀市の財政力指数は三重県の中でも最低に近い。忍者に縋りたい気持ちも分かります。好きなのはいいけど、漫画と歴史は区別しましょうよ。

伊賀流忍者博物館
http://www.iganinja.jp/
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松尾芭蕉忍者説なんてあり得ないでしょう。



忍者って、幼少期より鍛えまくられた人です。それが、日本史上トップクラスの文化人であるなんて事、あり得ますか?

現代であれば、山下達郎氏がプロ野球選手みたいなもんです。



戦後日本に「傭兵」なんて職業は無かったでしょう。
しかし、創作傭兵小説にはまった若者が、本当に傭兵になってしまった例があります。
江戸に忍者がいたとしたら、これと同じでしょう。
忍術使い伝説から、本当に忍者になった(名乗りだした)のでしょう。
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奥の細道、


松尾芭蕉、
忍者
らしいですが
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忍者についての実証的な研究はあまり無いようです。

何しろ、信憑性の高い記録はきわめて少ないですし。忍者について書かれた軍記物や忍術書や分限帳なんてのは、信憑性が低いのです。もっとも、「いない」という証明は困難なのですが。

歴史学者の藤木久志先生は、珍しく、「忍者はいない。」と、著作で断言しておられます。その内容は、「戦国時代に忍者はいない。忍びや乱破というのは、貧しい農民が略奪目的で戦争に参加したモノ。」です。

「伊賀や甲賀など特定の地域に集住し、暗殺や情報などに世襲で特化した人々」
このように忍者を狭く定義したら、藤木先生の書いた通りでしょう。そんな裏工作の専門家が、住所を公開して集住しているはずがありませんし。織田や豊臣に反抗した伊賀の一揆も、当時は惣国一揆と書かれており、忍者一揆などとは書かれてませんし。

ただし、定義を広くとれば、忍者はいたこと、または、いる事にできます。
(1)忍術という創作武術の達人を忍者とする。これならいます。
(2)スパイは忍者だ。これならいます。
(3)暗殺の達人も忍者だ。これならいます。もっとも、幕末の人斬りまで忍者になつてしまいますが。

実際に江戸時代に「忍者」という新職業の創造があったかも知れません。(2)のような。

☆「草」という忍者の一種なのですが、これは、200年以上に渡って、一族から、一人の不良も愚か者も出さないように、完璧に教育し続けなければなりません。これが可能とする教育の専門家はいないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。以前犬hkで忍者は山だらけの伊賀で山伏たちがたくさんいて忍者へと変化していったと習いましたが。黒装束、手裏剣、逃走用のマキビシといったものも偽情報ですか?ま、ネットで見られるように、心得がビジネスに役立つという風に持っていくのはかなり無理気味ですけどね。^^;服部半蔵のように忍者自身が忍者がいやで、武士化して出世がしたいのが本音というのはわかります。

お礼日時:2013/04/15 05:20

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