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歴史の教科書を読んでいると、ドイツという国が生まれたという記述なしに「ドイツ」という表記が出てきます。

たとえば、ナポレオンとの戦いに敗れたのがプロイセンだと書かれながらすぐ下で
(ナポレオンとの)「戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人に対して、哲学者フィモテは「ドイツ国民に告ぐ」という講演でドイツ人の愛国心情を鼓舞した。」(改訂版 詳説世界史研究、山川出版、2009年、P352)

とあったり、いきなり「ドイツ統一運動」という言葉が出てきます。
世界史は苦手なので記憶違い、読み飛ばし等々あるかとは思いますが、ドイツとは一体いつできた国なのでしょうか?
ドイツの正式名称はドイツ連邦共和国ですが、様々な民族の集合体をドイツというなら、そのドイツという概念はいつ生まれたのでしょうか?また、プロイセンの敗北がドイツ人の敗北とイコールになるのはなぜでしょうか?

下手な説明で申し訳ありませんが、ドイツとプロイセンの違いを説していただけたらと思います。

A 回答 (5件)

ドイツの旧国名がプロイセン、という訳ではないです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD% …
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18世紀から19世紀において


ドイツというのは地域の名前
プロイセンというのは国家の名前

プロイセンの国王がドイツ皇帝も兼務することによって1871年に他のドイツの中の国家が連合してできたのがドイツ帝国。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4% …
いろんな王国や公国などの連合

※ 徳川家が将軍になったみたいな感じ

ドイツ革命で王侯が退位になって、まぁ日本史で言えば廃藩置県みたいなもの
1918年にドイツ国になります。

第二次世界大戦で敗れたので、東をソ連が占領してドイツ人民共和国ができ、西をアメリカ・イギリス・フランスが占領してドイツ連邦共和国ができた
ドイツ人民共和国が崩壊して、ドイツ人民共和国の各州が個別に連邦共和国に参加したといのが現状です
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 下記の大ドイツ主義、小ドイツ主義を読むと理解が深まりますよ。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%83%89% …
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polkanさん、こんばんわ。



ドイツとは一体いつできた国なのでしょうか?1871年ドイツ帝国(第2帝政)成立からです。これはプロイセン王国が母体になっています。それまではドイツというのは一地方名といってもよく、大小多数の領邦国家(日本でいうところの大名)や帝国都市の集まりであり、プロイセンもその一つです。10世紀に成立した神聖ローマ帝国(第一帝政時代)の一部です。その皇帝はオーストリアのハプスブルグ家出身でした。神聖ローマ帝国はオーストリア、ドイツのほかにハンガリー、ポーランドの一部、チェコ、スロバキアを支配していました。しかし、ナポレオンによってこの体制は崩壊します。ナポレオン体制に代わってウィーン体制になるともっと緩やかなドイツ連邦という体制が出来上がりますが、ドイツは35の領邦と帝国都市とオーストリアという構成で、とても統一国家というわけではありませんでした。
ドイツ統一運動というのは1830年代にドイツで産業革命が起きるとブルジョワ階級を中心に起こってきました。それというのも領邦内で税金や生産企画がばらばらだったからだと思います。そしてウィーン体制の時に成立したドイツ連邦内でオーストリアを含めた大ドイツ主義かプロイセンを中心とした小ドイツ主義かでもめていました。
結局、プロイセンがビスマルクの指導の下シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争に勝利し、前述のドイツ帝国の成立ということになりました。

詳しいことはURLを参照ください。
ドイツ統一http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4% …
ドイツ連邦http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4% …
ドイツの歴史http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4% …
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ドイツというのは神聖ローマ帝国から、オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・リヒテンシュタイン・スイス・イタリア・オーストリアなどが離脱していった残りの部分といった概念です。

厳密な説明は避けますが、大雑把にいえばそういうことになる。神聖ローマ帝国はその末期には国としての実態がなく、実際は封建領主の集まりみたいになっていました。名目的にはハプスブルク=ロートリンゲン家のフランツ2世が神聖ローマ皇帝でしたが、ナポレオン戦争の時代に、弱小封建領主がライン同盟を結成し、ナポレオンを盟主と仰いで、帝国からの離脱を宣言して、それを受けてフランツ2世が帝国の解散を宣言します。こうして19世紀初頭に神聖ローマ帝国は名実共に滅亡してしまいます。

『ドイツ国民に告ぐ』で有名なフィヒテはライン同盟に参加したザクセン王国で生まれたドイツ人です。『ドイツ国民に告ぐ』として知られる演説が行われたのは神聖ローマ帝国が解体して、プロイセン・オーストリア・ライン同盟(ナポレオン配下)といった具合に三分割された時のことなのです。

ドイツは様々な民族の集合体ではありません。東フランク王国の時代は様々な民族の集合体だったといえるけど、その後の歴史によってドイツ人という民族的アイデンティティを持つようになったのです。

念のため付け加えれば、オーストリアは多民族国家でした。オスマン帝国の脅威に対抗する為にチェコ人、スロバキア人、ハンガリー人などがドイツ人であるハプスブルク家の支配に服したといった国がオーストリアでした。

ドイツの歴史は滅茶苦茶煩雑なので、ここでは極めて大雑把な説明に留めていることを理解してください。

19世紀後半になると分裂していたドイツに統一の機運が生まれるのですが、異民族を含むオーストリアも含めた統一ドイツにするのか(大ドイツ主義)、オーストリアを除外したプロイセン王国と旧・ライン同盟諸国だけで統一ドイツを結成するのか(小ドイツ主義)という議論が起こります。

元々オーストリアは神聖ローマ帝国に関係なく、ハプスブルク家が帝国の領域外に領土を広げてチェコ人、スロバキア人、ハンガリー人などを抱え込んだから話がややこしくなっている訳です。

オーストリアを除外して、統一ドイツの盟主となりたいプロイセン王国は小ドイツ主義を唱える。統一ドイツの盟主になりたいオーストリア帝国は大ドイツ主義を唱える。旧・ライン同盟諸国は小ドイツ主義派と大ドイツ主義派に分かれて、それぞれプロイセン支持、オーストリア支持に回ります。その対立が普墺戦争に至った理由な訳です。

とりあえず説明はここまで。まずいっておきたいのは教科書も参考書も滅茶苦茶大雑把な地図に過ぎないといったことです。教科書は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、アメリカ大陸ぐらいしか記述されていない、いい加減な地図みたいなものなのです。教科書は勉強の取っ掛かりにはなるけど、そんなものを何回読んだ所で、絶対的に歴史など分かるわけがない。教科書を取っ掛かりにして後は自分で細かいところを調べて補ってください。それは私の回答についても同じです。それが歴史の勉強です。
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