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こうでなければならないというような在り方を、昔は考えていたものです。
しかし、実には固定的な在り方でなければならないなどということはなく、基本的に自由であり、しかも自制が効いているのが理想的な在り方だと思うようになりました。しかしながら、それも極みではないような気がします。
人が本当に幸せであれるような在り方は存在するでしょうか。真実には、人はどのような在り方をしているのが望ましいのでしょうか。また、真実的な生き方とは何であるでしょうか。ただ、偽りのないことがそうでしょうか。それとも、偽りがあって、しかも真実的であるような、人として抱える正邪の矛盾を包含してそれを超えているような、人間の完成を見るような在り方が正しいのでしょうか。

A 回答 (6件)

 こんにちは。



 ★ 真実の在り方
 ☆ 生まれ落ちてそなわった自然本性は そのまま《わたし》の真実です。


 ★ 人が本当に幸せであれるような在り方は存在するでしょうか。
 ☆ あります。人生において何が来ても し合わせであると――縁起共生であると――捉えて しかるべく考え直しし直すことはそうする これだと考えます。

 ★ 真実には、人はどのような在り方をしているのが望ましいのでしょうか。
 ☆ 前項のし合わせ人生がわが真実であると――すなわち わたしがわたしであり わたしがわたししていると――いうあり方です。

 ★ また、真実的な生き方とは何であるでしょうか。
 ☆ ひとは おこないについてあやまちうる存在です。あやまつならば われありと言って そのマ(間)の違いをきちんと捉えておくこと。そのマチガイを内的に棄てるということ。何が来てもそのやり方を重ねておこないマチガイをつねに自覚しこれを なぜマチガイであるかについて哲学して ただちに内的に棄て続けていくということ。――これが ひとにとってその心における真実の生き方です。

 ★ ただ、偽りのないことがそうでしょうか。それとも、偽りがあって、しかも真実的であるような、人として抱える正邪の矛盾を包含してそれを超えているような、人間の完成を見るような在り方が正しいのでしょうか。
 ☆ マチガイは おおむねウソ・イツワリによって成ります。けれども相手の状態やその場の情況にかんがみて ウソを言ったほうが長い目で見れば 自分にもそして相手にもそれぞれ真実の生き方が出来ると考え判断したならば そうすると思われます。そしてそのような場合には 確かに《矛盾をみづからの心の中にかかえている》ということが起こります。

 でも そのようであるならば自分にはウソや矛盾があるということを隠す必要はないのですから――真実の生き方としてそうおこなったのですから―― やがてその問題は相手とのあいだで解けるようになるはずです。というよりは 五十年かかってもまた死ぬまで実際に解けることはなかったとしても じつはすでにそのウソをついた時点で 問題は解決しています。わが心には 真実しかないのですから。

 ★ 人間の完成
 ☆ などという命題は どうでもよいことです。おのぞみなら 生まれつきの自然本性ですでに人間はまったく出来ています。それでも――理性が有限で意志がへそ曲がりと来ていますから―― あやまちうる存在である。


 あとは 仕事 あるいは 問題 これが 鍵語ではないかと考えます。
 職業のことにもなりますがそれよりは わたしは人生において何をするか。そういう意味で 自分の仕事とは何か? どういう仕事をして行くのか。ということ。

 そしてすでに人生をあゆんでいるからには――そしてひとはあやまちうるからには―― さまざまな問題が起きています。これを 自分の問題として捉えること。何でもそうすることは むつかしいことですが 出来る問題を取り上げ これに向き合います。
 むろんその解決を図るのですが まづは問題意識をしっかりと持つこと。それだけで 解決の半分は出来たことになるかとさえ思われるということ。――こういったことをこころがけて行くなら 悔いのない人生を送ることが出来ると考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
勇気のもてるご回答でした。

お礼日時:2013/07/16 13:38

>実には固定的な在り方でなければならないなどということはなく、基本的に自由であり、しかも自制が効いているのが理想的な在り方だと思うようになりました。

しかしながら、それも極みではないような気がします。

世界は無常であり、また、価値は相対的に決まるものですから
固定的に考えると煮詰まってしまうのはそうですね。

>人が本当に幸せであれるような在り方は存在するでしょうか。

例えば、徳川家康公は世継ぎに対して遺品を時期を空けて小分けにして与えたという話が残っています。
そのこころは、「一度に与えると、親を蔑ろにするだろうから」ということです。
一見すると、息子を信用していないケチな人物のようですが
後継者の人間性と人間性の変化と振る舞いは相対的に決まることへの洞察力を示しています。
凡人は、天下が定まれば、天下や配下に気を配る(=洞察=サティ)ことは厭い
己の心情のまま、信用するという怠惰(=脳の省力化)に流れます。

さて、徳川家康公により約300年の平和が保たれましたが(その負の効果をあげつらう方は価値は相対的であることを想起してください)、果たして、彼は幸せであったのか?

これは豊臣秀吉公と比較すれば
秀吉公は太っ腹で人の歓心を買う能力は高かったが、晩年は自分と他人を満足させることに忙しく、体制維持は冷や冷やものでした。
家康公は大きな気苦労は常であったが、安定した体制を残せ充実感はあったでしょう。

no pain no gain 先の苦労か後の苦労か 人それぞれなのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
今の苦労が後に実を結べばよいのですが。参考になりました。

お礼日時:2013/07/16 13:40

存在性という造語を想定して、


それはそのことについて知っているドウダ
といっているようですね。

そういう意味では、おぢぢさまとおなじ様な発想の仕方なのでしょうか・・・
質問者様の個人という観点から・・・

まず、善悪を定義できていないことが問題ですね。

論旨として、「ねばならない」というのはどうかと思う、「可能性があるというべきだ」という議論を延々繰り返しているだけです。進歩がありません。いみをなさない。

文法上、品詞の用法として問題なのは、真実ということを、「実」と「真」に分けて語ろうとしているということです。本来的に、真実とは、真なりというということが、体系的にとらえられるという前提で、語らなければ、真実という言葉を持ち出す意味がないのです。
さもなくば
内容のない空っぽの言葉です。真実がないのであれば、上も下もありません。超えるもとどまるもありません。ほかの人も述べているようですが、「自分のそのまま」があるだけです。

「基本」・「自制」・「極み」という言葉に関しても、意味の煮詰め方・取り方をもっと整理するべきです。
たとえば
「自制がきいている」というのは、「生きていて間違いがないように生きていく」ということの言い換えです。つまり、事実と全くかけ離れた立ち位置からの「そうだったらいいな」というつぶやきでしかないのではないでしょうか。「それでいて自制がきいていて」「善悪を超えていけるような気がします。」といわれると 回答者としては、「それで、あと何が聞きたいの?」となってしまうばかりです。昔はこうだったが今は昔ではない。私は移り変わっている・・・ なにがいいたいのだろうか と立ち止まってしまいます。

上と下・善悪・真実という言葉を使わずあなたの気持ちを整理するべきです。「道徳的要請」ばかりが言葉として先走り、間接的過ぎて意味がとおっていません。

たちもどって
存在ということを述べるとすると、あるか無いかの二通りしかありません。
さらに当然のことではありますが、
「ありかた」というのは、ひと時としてとどまることがありません。この事実を踏まえ、「わたしは、ダイナミズムというのは、とどまらないものだということであるということをいま発見した!」と大げさに語ろうとしても周囲はしらけるだけです。

完成は、部分の整斉・組上から始まります。
言葉が整理できていない現状で大風呂敷を広げ、「何か自分で分かってもいないこと」を語ろうとしているようです。出発点に引き返して、もっと確実な手がかりを作ってから先に進むほうがいいと思います。

生き方は、生きるとは距離を置いた別のものです。言葉でしかありません。
ですから、わるい「いきかた」を「いだいたまま」善い生き方もできて、そのうえをいくことができるのだ!

というような錯覚に陥るのではないでしょうか?

言葉を抱くことはできますから・・・言葉を抱いたからといってそれがおかしなものであれば、
先に進んでも、腐っていくだけです。
質問者の言葉で言うなら、超えているようで沈んでいおちるということです。

でも、生きている人が沈むことはありません。
沈んでいる人は生きていませんから。
沈んで生きることはできないのです。

人性は水の中での生活ではなく、沈むは言葉でしかありません。生活とは、一偏の関係もないものです。

よいと悪いは違うものであって、悪を抱いて 「よい」「あり方」を選び、
その上を行くというのは、個人的に言わせてもらえば、

くそ坊主の念仏にも劣る世迷いごとです。

真が善いの言い換えであって、実が「あり方」を表現しているというだけで、

同語反復です。しいて言えば、「わかるかわからないか わからないと わかった。俺さまの神はそういう神である!」

とうぬぼれてしまっている異端者と同じです。

私の評価としては、超全以善悪同時というような内容/真偽不可知唯物神即無神以此唯一神は、
哲学ではありませんし、神学とも関係ありません。

上記の言葉を「お経」として唱えたとしても、自分自身が向上しているかといえばそうではない。
ということに注目するべきです。

おさる=ふられおとこさんじゃないですけど、「XライダーはYライダーの上をいっている。いや上も下もない。Zライダーになってどちらも飛び越えたい」という文章と同じような意味合いを持ちます。現実への関係性が欠如しているのです。


「ユニコーンはかっこいい動物である。」といったとき、真偽は規定されていません。

「おれは、正しい+上記の文言は真である」と思う人がいたとしても、存在しない者に対し真偽を語ることがルール違反なのです。

もちろん死ぬまでユニコーンはかっこいい!と叫びながら地獄へとまっさかさまに飛び込んでいくのも一つの人生ですが、
私の目から見ると意味がないことなのです。

すべて お こえたいという 名前のユニコーンが 出てきている時点で、
真実とはかけ離れた部分での絵空事に切り替わってしまっています。

現実に立ち返ってみてはいかがでしょうか?

ごにょごにょ念仏---

「僕は悪でも善でもない、その上を行きたいだけだ」 ということは いったん忘れるべきです。

真実という立場を大事にするなら、哲学的に、この世では、道徳的事象に引き付けて語るとして、悪であるか善であるかのどちらかであるというのが、言語的前提とされるべきです。

真実は相対的なものだ。というのであれば、それは哲学ではなく、雑談です。

要するにこのカテでよく行われている非哲学者の馴れ合いですね。

負け犬たちが自分の傷を独りでなめているという行為以外の何物でもありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
おっしゃる所はあると思います。
生きるとは難しいことなのですね。

お礼日時:2013/07/16 13:37

>人として抱える正邪の矛盾を包含してそれを超えているような、人間の完成を見るような在り方が正しいのでしょうか。



  ありのままで人間は完成してます。

 幸せ、真実、愛、正義・・・でなければならないとするならば、それこそが不幸なことです。

 そのままで、自由、自在です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
自由なお考えをお持ちですね。

お礼日時:2013/07/16 13:35

人を助ける事と助けて喜ばれる事と助けられる事。

それに対して感謝を伝える事。それには嘘とか不誠実とかがあっては偽りの物になるから自分に不利な事でも嘘偽りがない自分を守れる事。人の嘘とか不誠実を許さない事。その場は助けているように見えても将来的にはマイナスになるから。世界中の人がひとつになるために必要な事の最低条件だと思います。そうなれたら戦争も犯罪もなくなるから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私には、助け合いの意識というものが薄かったのかもしれないと思いました。

お礼日時:2013/07/16 13:34

この答えは個人個人で全く違っているのが普通だと思います。

誰でもそれぞれに個性的な性格や生活環境、肉体的な条件、弱点などを持っているので、全ての人にとって共通する「幸せの技法」のようなものはないと思います。

ですから、「こうでなければならない」と考えるのも一つのやり方、「固定的に考えない」のも一つのやり方です。

生きているうちに、そうしたことに思いを馳せて、道を探求することは素晴らしいことだと思います。何の指標もなく、ただのらりくらりと過ごすよりは、自分にとってベストの考え方を見出したほうが、人生がより良い方向に向かうと思います。

僕は、こうした考え方には貴賎がないと思います。不良として生きるのも、神への愛に生きるのも、虚無的に生きるのも、考え抜いた上で自分にとってそれがベストだと思えるのなら、その人にとって良いものなのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
前向きな気持ちになりました。

お礼日時:2013/07/16 13:32

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