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この遺跡では多くの建物が復元されていますが、何世紀ごろの姿を想定しているのですか。
なかでも大型掘立柱建物や大型竪穴住居です。
縄文時代といっても1万年以上もあり、また地域性もあると思い、質問しました。

また、大型掘立柱建物は、直径約1mのクリの大木で建てられていたと推定されていますが、どんな方法で大木を伐り出したのですか。
焼けた跡があるそうですから、焼いて倒したと推定されているのですか。

大型掘立柱建物
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/01.html

地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

大型竪穴住居
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/05.html

三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。

A 回答 (4件)

>この遺跡では多くの建物が復元されていますが


上部構造はあくまでも推定です。
正倉院や伊勢神宮などの古建築物や銅鐸に描かれた絵から建築学的知見を取り入れて再現しています。
大木を使った柱の列は吉野ヶ里遺跡や、出雲大社遺跡からも出土しています。
厳密に上部構造がこうだったというのは未だ研究中です。
時間的なデザインの推移変化もこれからでしょう。

>どんな方法で大木を伐り出したのですか。
石器というのは作り方次第で、現在の安い小型ナイフ程度の切れ味はだせます。(カッターとは別の肥後守とか呼ばれていたナイフ)動物の皮を切ったり剥いだりすることは充分できます。上手くやればお刺身も出来ます。
(こんなことをセッセトやるのを実験考古学といいます)
楔を使えば大概の大木は倒せます。

>焼けた跡があるそうですから、焼いて倒したと推定されているのですか。
生木はちょっとやそっとでは燃えません。
腐敗防止処置は表面を炙るだけです。

>大型竪穴住居
竪穴式住居については、小型のものが、各地からそっくりそのまま倒壊したものが見つかっていてほぼ正確に復元できます。

>集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
どのような社会制度であったのかは、正確には解っていません。
民俗学の知見から推定しています。

これからも、各地から色々なもが出土するでしょう。楽しみにしていてください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>楔を使えば大概の大木は倒せます。

なるほど! そうでした。
岩でも楔で割っていますね。
それに、確かに“生木はちょっとやそっとで燃えない”です。よく解りました。

>腐敗防止処置は表面を炙るだけです。

こんなことを知っていた縄文人はすごい!
現代でも杉板の表面を焼いて板壁にしていますから。

小さな竪穴住居はそっくりそのまま出土している例があるのですね。
早速調べてみます。
ご教示に感謝します。

お礼日時:2013/09/16 13:47

他の方の回答どおりなのですが、ご自身が紹介のサイトに年表がありますね。

世界史とのからみも分かる、なかなか良いものだと思います。

http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/jomon/main. …


建築物の上部構造は、伊勢神宮のつくりなどを参考にしての想像なのですが、神社を研究している人から言わせればまったくのデタラメらしく、縄文時代の建物が伊勢神宮の建物と関連があるとは考えられないらしいです。
吉野ヶ里遺跡の再現でも、堀の外に木柵をつくり、それでは堀の意味が無いと指摘されたり、どうも考古学の再現はおそまつなものが多いようです。
質問者さんも指摘されているとおり、遺跡の期間が1000年ほどもあるのに、その間のものを一緒くたに「再現」している部分もあります。

あと出雲大社の遺跡は13世紀ごろのものなので、そんなに古くないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

遺跡の「公式サイト」という名を信用して画像を見てしまうと、とんでもない誤解をするおそれがあるということですね。
吉野ケ里遺跡公園はずいぶん前に一度だけ見ましたが、堀の外に木柵があったとは気づきませんでした。
柵のすきまが狭すぎて、迎え撃つ攻撃がしにくいのではないか、という意見は聞きました。
それにしても、一見して、立派すぎると思いました。


>縄文時代の建物が伊勢神宮の建物と関連があるとは考えられないらしいです。

そうですよね。両者の間には3千年の隔たりがありますから。
地元の遺跡を立派に見せたいものだから、他の遺跡に負けないという気持ちがあって、建物をより大きく復元しているような気がします。

大変参考になりました。

お礼日時:2013/09/18 15:44

1000年以上も続く遺跡であれば、様々な年代の遺物が地層毎に重なり合って発掘されるものだと思います。


遺物類の年代測定をもとに、5500年前から1500年間続いていた遺跡だろうと推定しているのではないでしょうか。
当然、建物の類は、何代にもわたって新しいものに建て替えられているはずですから、放射性炭素による年代測定結果があったとしても、年代幅がある内のどの年代を採用するかは、不確定なものだと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

この遺跡は、ネットの画像でしか見たことはないのですが、
「この遺跡は、ここが最も栄えていたおよそ○世紀ごろの様子を復元しています」という説明があれば、と思って質問しました。

お礼日時:2013/09/16 13:27

三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末までを中心に、およそ1500年続いた大規模集落の跡地だとされています。


今から5500年前頃から始まっているそうですから、紀元前3500年頃から紀元前2000年頃まででしょう。

有史以降の感覚とは違いますので、いつ頃だと特定できるものでもありませんが、この1500年の間に縄文人の生活・文化はゆっくりと進歩していったはずです。

有史以降の歴史をみると、勃興期~最盛期~衰退期と変化していくのが一般的なので、三内丸山遺跡でも恐らく同様に推移したものと思われます。
そうすると、最盛期から衰退期の間のどこかだと考えられるのではないでしょうか。
1500年から推定すると、1000年くらい経った時点が一応の目安のような気がします。
すなわち、紀元前2500年ごろの遺跡の復元ではないかと、私は勝手に想像しています。

 〔参考文献〕講談社・日本の歴史01『縄文の生活誌 改訂版』(著者:岡村道雄)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>最盛期から衰退期の間のどこかだと考えられるのではないでしょうか。

そうですね、同感です。
すると「紀元前2500年ごろの遺跡の復元ではないかと」いうことになりますね。
ただ、大型掘立柱建物のクリは焦げているので、放射性炭素年代測定法ですでに年代測定が終わっていると思っていたのですが、素人考えなのでしょうか。

お礼日時:2013/09/15 20:12

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