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日本文化における中国の影響について質問させて頂きます

古代、日本は中国の文化(思想・技術など)に大きな影響を受け、
現在の日本文化の礎が築かれたと私は考えています
もちろん、土着的な文化もあったと思いますが、当時の国力差から考えると、
中国文化の方が先進的で、より魅力的であったのではないでしょうか

よって、日本文化は中国の文化に大きな影響を受けている以上、
日本特有の文化といえども、その起源には何かしら中国文化の影響力やが残っている場合が多いといえます
この場合、日本文化とはどこからどこまでの範囲を指すのでしょうか?

グローバル化に伴い、「わび」「さび」の日本文化が称賛されることが多くなり、
日本人自身にも、日本文化への表面的な回帰も見られます
しかし、合理化が進む我々の実生活の中で、これらの日本文化に基づいた生活を送っている人は、
少ないと思います(どちらかというと日本びいきの外国人のほうが多い気がします)

やや話がずれてしまいましたが、日本文化における中国文化の影響、
そして、日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は一体何のためなのか、
教えていただければと思います

近年、ネットを中心に、中国や韓国を忌避する傾向が強くなり、
日本の文化は、日本固有な崇高な文化であり、中国や韓国といった国々からの影響は少なかった、
という意見も少なからず見られます

しかし、私としては、中立的な立場で、日本文化はどこから到来し、どのように発展してきたか、
歴史的事実として興味があり、このような質問をさせて頂きました
盲目的な日本文化への賛美や懐古にはやや疑問も感じます
私としては、そのなぜその文化を賛美したり、懐古するのか、
その文化的背景や根拠を知りたいのです

散文となりましたが、ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

>日本文化における中国文化の影響、


そして、日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は一体何のためなのか、
教えていただければと思います


「文化」というのは、そもそもの元をたどればオリジナルは決して多くはありません。せいぜい古代の4台文明ぐらいが文化の発祥といえるぐらいでしょう。後は、アメリカ大陸のマヤ民族やネイティブ・アメリカンあたりが独自の文化でしょうか。

そうなると、中国の周辺である、日本や朝鮮半島・モンゴル・ベトナムは中国の文化圏ですし、タイやインドも影響を受けている、と言えます。しかしベトナムならベトナムの文化がありますし、モンゴルにも日本にも「独自」と言われる文化があります。

文化がその当時の先進的な国から伝わってくるさい、必ず起きる変化があります。それは流入-受容-改良です。
 流入とは、日本が遣隋使を送ったように求めて輸入するものもあれば、中国の漢民族が満州族に征服された清の時代の辮髪のように、強制的に文化を押し付けられる場合もあります。
 そして、その流入から2世代から3世代経つ頃には、その文化が一般的になり疑問を感じないようになったころに「受容」が完成すると言えます。
 しかし、元々他の地域の他の文化ですから、そのままでは利用しにくく、受容したもののそれを自分たちの文化や気候・生活スタイルなどに合わせて「改良」していくようになります。

そしてこの「改良」がひとつの形になったときが、その民族や地域の文化の形ができた、ということになるのが一般的です。

たとえば日本の場合、飛鳥時代から平安時代まで大陸の文化を輸入し、受容しつづけてきました。法律は律令制を倣い、宗教は仏教、文字は漢文と当時の大国である隋や唐を手本に受容し続けたといえます。まあ、仏教はインドから隋が受容したものですが・・

ところがこれをそのままにしておくと、日本の風土に合わないものが出てきます。たとえば律令制などはすぐに良くない影響がでました。そもそも律令制を維持するためには、国内の優秀な人材を集め活用するために科挙が一緒にくっついてくるはずなのですが、日本の場合すでに天皇を頂点とした貴族階層があり、彼らが行政を握っていましたので、科挙で庶民を活用することはできなかったのです。

そのため、法律的に可能な部分だけ律令を取り入れ、制度的に受け入れられない部分は日本の風土に合わせたものに変革しました。
これは明治憲法などでも同じことがおきており、そもそも憲法を作るときに西洋各国の憲法から国家元首の権力の強いワイマール憲法を参考にしたと言われています。
つまり流入と受容そのものに、取捨選択があるのです。

また文字についても、輸入した文字をそのまま利用してる民族はほとんどありません。たとえば世界最古の文字と呼ばれる楔文字はシュメール人が開発したものですが、シュメール人はこれをひらがなのように音節文字として利用していました。これを受容したアッカド人は中国語と同様、音節と意味が一体になっている表語文字として利用できるように工夫し、さらにアッカド語を受容したヒッタイトでは音節文字として利用したために、日本語の漢字・仮名の書き分けというか、万葉仮名の書き分けのような複雑な法則で記されることになったようです。
アルファベットを使っている西洋諸国でもドイツのウムラウトのように独自の文字を足したり、記号を利用したりして自国語を表記するのに改良しています。

この「楔文字」ひとつとっても、発明したシュメール・表語文字にしたアッカド・さらに複雑に受容したヒッタイトのように、それぞれの民族の文字といえるほどに変化しています。これがそれぞれの文化になるわけで、「楔文字だからぜんぶシュメール文化」という乱暴な区分けはできないのです。


これらの法則にしたがって、中国文化を受容し改良した日本をどこで区分けするかと言う点については、大体平安時代が区切りとなってその後は日本文化としての改良になっている、といえるでしょう。そして明治維新前後の西洋文明の受容があり、その改良は現在も続いているといえます。

個別に中国文化から日本文化に切り替わった時点を見てみると
・政治権力 5世紀には中国の皇帝に朝貢し、その威光を借りて権力に正当性をつけていたが、100年ほど朝貢が中断した後、再開された遣隋使では、有名な「日出ところの天子・・」という文章があり、この時点で大和朝廷が、大陸の後ろ盾がなくても国の権力を収めていることが伺えます。
 このときの隋の煬帝は返書で「皇帝問倭皇 使人大禮・・・」と倭皇(王ではない)と認めており、政治権力としては日本の文化的独立が6世紀には成立していた、と言えさらにその王朝が現在まで存続していることを考えれば天皇制と天皇の勅許で政権を開く権力構造は「日本文化」と認定しても良いと思います。

・政治制度 日本の王朝は6世紀に成立したとして、しかし遣隋使を派遣することで仏教や法律・建築学・天文学そしてその他の学問を吸収し始めたわけですから、この時点で日本の文化がすべて独立していたと見ることは無理があります。
 政治制度については、この時点から律令法を学び始め、平安時代に大宝律令として完成を見ます。この大宝律令には律令を支えるはずの科挙がなく、またそれ以外にも換骨奪胎したものが多くありましたので、中国の法律を学びながらも日本の風土に合う改良がくわえられていたと言えます。この程度では「文化」とはいえませんが、それから30年程度で「墾田永年私財法」ができ、律令の本筋から離れていきます。
これを「改良」というかはともかく、日本的な風土に合わせた変化とこの法律がやがて武士の発生を促したことを考え合わせれば、8世紀の中庸には日本的な法律文化が形成され始めていた、といえるでしょう。
なお、この墾田永年私財法の法的概念はその後の日本の法律に強く影響を与え、現在でも土地収用に時間と費用がかかる原因になっています。「文化」というのそれぐらいの影響があって初めて「独自の文化」といえるのではないでしょうか。

・宗教 7世紀の大化の改新については一定の疑問があるものの、嵩仏派の蘇我入鹿一派が勝利し、仏教受容に動いたことは間違いなさそうです。これにより日本は「国策」として仏教を輸入しついでに学問も輸入していきます。仏教の受容から1世紀経った8世紀ごろから、各地で神宮寺が建てられるようになっていきます。つまり神社に付随したお寺を建てると言う方法です。
 これには国策となった仏教と、各地の豪族がそれまで信仰していた地域の神とを習合させるものであり、この結果日本は神と仏が同列に並ぶ宗教体系を得ることになりました。この改良を「神仏習合」と呼ぶのですが、これ以降の日本の宗教観は世界のどことも似ていない独自の文化になっていきます。
 しかし、習合自体はそれほど珍しいことではなく、たとえば古代ローマは多神教で各地に道祖神の祠が立っていたものを、ローマがキリスト教を国教化した後、道祖神をキリスト教の聖人になぞらえて、祠を維持したという例もあります。これはキリスト教でもイタリアにしかない独特の文化でしょう。

・学問 まず文字については、万葉仮名からひらがな・かたなかが開発され日本語を表記する形式が整った時点で「日本文化」と言うべきでしょう。その後、源氏物語などの宮廷文学も生まれています。
 それ以外の学問に関しては平安時代までに大学寮が設置され、数学や天文学・薬学・法学などを学べるようになりましたが、基本的には大陸の書物を中心にしていたようです。
 それが武家政権の鎌倉幕府以降は、もともと庶民である武士階級を中心に学校が開かれるようになり(足利学校など)必要なことを教えるようになっていきました。しかし、江戸時代まで四書五経が中心でしたので、江戸時代の中庸、和算の発達などの例外を除けば、学問が独自の文化として定着したかについては、学問ごとに見るしかないのかも知れません。
 しかし、逆に面白いのは雅楽や宮廷作法などの平安時代までに大陸から輸入されたものが、大陸では長い間に消失し、日本にだけ古来の姿で残っている、ということです。(韓国にもありますが、遺産としてです)
これを日本文化とみるか、大陸の遺産と見るかは難しいところです。

これらをみてみると、どの国、地域でも文化が周辺の大国から流れてくるのは間違いの無い事実でしょう。しかし、それをそのまま受容している国家や民族というのはほとんどなく、いずれその地域の風土や生活スタイル・道徳観などと触れ合って、変容していくものです。
その変容が一定のスタイルとしてその民族に世代を超えて伝えられるようになったときが「文化」なのだと思います。

現代でもアニメーションなどは外国で開発された手法であるのに、すでに受容してから100年以上経ち、手塚治や富野 由悠季・宮崎駿などの天才たちを通して日本的なアニメになっています。これは明らかにディズニーアニメとは違いますし、他の国でまねしても同じものが作れるわけではありません。
アニメ自体が日本的な手法や考え方、そしてそれらを産業として支える仕組みによって、独自のものになっているからです。

こういうのを「オリジナルの文化」っていうんじゃないでしょうか。
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 書き忘れました。


>室町あたりでは足利義満が、天皇に取って代わろうと画策し、中国の冊封体制を利用しましたが、その影響を受けています。
金閣寺の屋根の上には鳳凰が乗っていますが、鳳凰は、中国では「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされています。
ここら辺からも義満が天皇になり変わろうとしていたことがうかがえますが、これも中国の影響を受けた結果ですね。

 これは井沢元彦の引用であり、その井沢も勘違いしています。鹿王院には鳳凰がありますが、同時に慈照院にも鳳凰があり、さらにいえば宇治の平等院には向かい合っての鳳凰が飾られています。
 井沢の珍説は仮想の上に仮想を重ねることから根拠のないまことしやかなデタラメと同様であり、足利義満による「皇位簒奪」などは三文ミステリー小説と同じレベルですから相手にしないことが大切です。
 義満の「唐好み」には実利としての貨幣輸入などの目的があっての行為ですから、それは政治家として評価すべき問題であって、皇位云々などという時点ですでにドグマティズムに基づいた偏頗なナショナリズムと批判されても然るべきです。

 ※井沢の珍説は引用した部分の前に典型的に表れており、「金閣の屋根にしか鳳凰はない」と断定までしている部分で既に事実誤認であり破綻もしています。
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難しい質問ですが、他の方の回答にも素晴らしいものがあり、なかなか楽しませていただきました。



質問者の考えられているとおり大陸文化の影響は非常に根深くはびこっており、日本的だと思っているものでも良く調べてみると多大に大陸文化の影響を受けたものだったり、実は大陸文化由来のものだったり、というものは山ほどあります。

最近私は、そのような文化の融合したものが本当の日本的なものではないかと考えています。つまり逆に『純日本的なもの』を求めるのは、じつは日本的ではないのではないかと思えています。例えば、神社は純日本的なもので、神仏習合した神社寺のようなものは大陸文化の影響の強いものに感じると思います。しかしながら純日本的と思っている神社の有様を詳しく知ると至る所に大陸文化の影響が見られ、逆に神仏習合こそが本来の日本的なものではないか、ということです。

日本料理も外国に輸出され、各国独自のアレンジでもはや日本食と言えないようなものも沢山あります。逆に言えば日本人も、外国の食べ物をそのようにしている訳です。どこをして日本的というのか、面白いところですね。
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 先ず「文字」の問題があるでしょうね。

元々中国の中原から華中地域で発生したとされるものが朝鮮半島に移入されそこから日本に伝わったとされ、この見解にはほぼ異論はないでしょう。
 でもそこから先が問題であり、万葉仮名は「一文字一音」で構成されています。つまり「文字の発音」に重点が置かれ、文字の意味は後回しだったとされています。
 一方「文字を使ったもの」は本国のスタイルをそのまま移入したものといっても過言ではありません。律令システムに基づく公文書の作成や史書の編纂事業も中国スタイルをそのまま踏襲しています(このように書きますと誤解する慌て者がおりますので補足しますが、『記紀』殊に日本書紀の天皇即位前期に使用されている宣命体は万葉仮名のルールを適用しており、本文は全て漢文で記されています)。
 元々は文字を持たなかった地域ですから、何処かからモデルを探さねば自然発生的に文字を持つなどのことは殆どないでしょう。
 「盲目的な日本文化への賛美や懐古にはやや疑問も感じます」まさに同感です。ネットやヘイトスピーチで自己満足している方々は単に満たされない欲求のはけ口として鬱憤晴らししているだけで、何等の根拠にも基づかず無責任な言動を一方的にアジテーションしている以外のなにものでもありません。
 本居宣長が偏頗なナショナリズムに陥ったのも「閉ざされた文化状況」の中でしか生きていなかった田舎の秀才だったとの悲劇もあります。もし彼が長崎や大坂に生まれていたなら、あの様にはなってもいなかったでしょうね。彼がこっそりとオランダ語に接していたなら、あの様な排外主義には染まらなかったはずです。
 ヨーロッパでいえば「フランス文化」と「ゲルマン文化」は本質的に異なります。がしかし双方に「優位性」との問題などあるはずもありません。比較のしようがないからです。ドイツには哲学に代表される洞察と思索があり、フランスには社会と個人の関係を巡る精神風土があります。それぞれが影響を与えそして与えられつつ独自性として伸張させてきたから、互いの価値や存在を認めそして求め合うとの理性的な対応がなされてもいる。それだけ彼等は大人なのですよ。
 こうした部分を見倣ってこそ「真似る価値」があるというものではないのでしょうか。「どちらが偉い」などのつまらない比較をしていては子供の喧嘩と変わらないと思いますよ。
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「日本の独自の文化は畳くらいだ」なんて冗談が在るくらい,日本の文化は多くの国の影響を受けています。


文化史として少し纏めてみます。

原始時代,南北から渡ってきた人々が定住するようになったと考えられる時代です。
未だ詳しいことは分かってはいませが,それでも大陸系にはない独自の文化を持っていたようです。
特に縄文・弥生時代には大陸には見られない独特な形状をした土器などが発掘されています。

平安時代頃になると,中国・朝鮮からの文化的影響を強く受けるようになりました。
建造物やインフラ整備などには,多くの渡来人が主導的立場を担っていた旨が日本書紀などに散見されます。
また政治制度も中国のそれを模倣して整備されていきます。
その頂点を極めたのが聖徳太子の時代です。
彼は積極的に中国文化を取り入れ,特に仏教を使った国造りを目指していました。
遣隋使や遣唐使を通じて,積極的に交流をもっていました。
これらの時代の文化的特徴を捉えて「唐風文化」と呼ばれています。


884年,中国側で黄巣の乱が起こると,唐王朝の求心力が一気に低下し中国社会が不安定になりました。
そこで,遣唐大使菅原道真が遣唐使の一時的な中止を求めた建議を提出,採用されました。
理由は

・中国の治安悪化によるリスク
・大使に任命されるのは優秀な人材であり,遭難で失うリスクに対する見返りがない。
・唐の優れた文化・技術を吸収する目的は達せられた(もはや国として同等である)
・中国とはもともと対等な立場であるのに,屡々下に見られていたことへの反発

等などです。
その結果,道真の意見は取り入れられ838年を最後に中止されました。
そして唐が滅亡した結果,遂に再開されずに遣隋使を通じての交流は終焉を迎えました。
ただ,まったく交流が無くなったかというとそうでもなく,交易や好奇心旺盛な者が大陸への密航を試みたりと,それなりの繋がりをもっていました。(まぁ,表向きは渡海禁止した法や異国船の入港制限などありましたが)

遣唐使が中止されると,盛り上がりを見せてきたのが「国風文化」です。
これは,それまでに吸収した大陸の文化を礎にして,日本特有の生活や自然等を取り入れた文化が発展した時代です。
注目点は,中国・朝鮮の文化を廃するのではなくてそれを礎にしている点です。
遣唐使廃止の背景に,日本の国家意識があったのは事実ですが,排他的になった訳ではありません。
より発展・融合させてきた時代と言えます。
具体的には,浄土教の普及・かな文字の発展・清少納言や紫式部を代表とした女房文学の発展・古今和歌集の編纂・大和絵の普及などなどです。

続いて,安土桃山・戦国時代に入ると,所謂「南蛮物」と言われる中国・朝鮮以外の文化が入ってきます。
背景としてはヨーロッパでの大航海時代の到来があげられます。
この時代に「天麩羅(天ぷら)」や「金平糖」「ビスケット」などの南蛮料理・菓子や,「葡萄酒(ワイン)」や「蒐集(コレクション)」などの外来語が多くもたらされました。
さらに江戸時代に入ると,読み書き算盤というように,一端の人間になるための基礎的技術を身につけさせる寺小屋や,歌舞伎・浮世絵・大相撲など大衆文化が花開きました。

明治時代に入ると,より積極的に西洋の文化・政治制度などを取り入れ,所謂「文明開化」の花開く時代となりました。
この時も,ただ西洋文化を真似るだけでなく「和魂洋才」とか「和洋折衷」など新しい海外文化と古くからの伝統文化を上手く調和させた独特な発展を見せていきました。

大正時代になると,カフェーや映画,デパートなどが渡来し,都市型の大衆文化が世を覆う時代となります。
そして,戦時下の低迷期を経て,漫画やアニメなどのサブカルチャーやカレーやラーメンなどの大衆食の発展などなど現代につながっています。

大雑把で駆け足でしたが,文化史を何とか纏めてみました。
ではでは、参考になれば幸いです。
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どうなんでしょうね…



というか、私見なんですが、中国あるいは朝鮮といった大陸由来の文化の受容について、それを短絡的に「征服」あるいは「侵略」とイメージする方が、現在の日本でも多いのかな?と危惧はしているんですね。

そして、その根底には、戦後間もなくあらわれた「記紀批判」そして、それを土台にした騎馬民族征服王朝説などの諸論が、まことしやかに語られ、現在の混乱を生んでいるのかな?とは思っているんですね。

どうでしょう。たとえば騎馬民族征服王朝説については、アジア東端の地域を中心に、扶余族などのツングース系とよばれる騎馬民族が日本を侵略し、王朝を樹立した。
この過程について、現在では冷静な検討がなされ、学界ではとうに否定されている論調なのですが、なんとなく亡霊のように、当該国の文化の変容には、侵略などが前提たりうる。的に理解されてしまう傾向にあるのかなとか…

たとえばわかりやすい例として、今現在の日本は、かなりアメリカナイズされた国ではありますよね?
細かく例をとりませんが、これはいわゆる戦前・戦後の我が国の姿を想像した時、誰しもが思う印象だとは思うんですね。
ですから第二次世界大戦の敗戦により、日本はアメリカナイズされてゆくということなんですが、実態として敗戦につき、進駐軍が大挙して日本を席巻。彼らが定住してアメリカ文化を定着させたわけではないんですね。
ですから、文化の変容には、ある一定の切っ掛けは必要なのでしょうが、具体的に侵略後の定住など、文化の変容において、それらは、あまり必要とはされないモノではあると思うんですね。

しかし、現在の日本では、どうしても文化の変容と侵略などをセットで考えてしまう傾向にある。だからこそ、文化の受容などについても、感情的な主張をする方も増えているのでは?と僕は予想するんですね。

以上を踏まえて日本文化とは何なのか?ということなのですが、近世国学者らが指摘するように、純粋なる日本文化の根底には神々の物語がある。
しかし、後の世には仏教文化なども抱合させ、さらに技術的に高度な、豊かな文化を日本という国は形成していった。
その過程だけを見れば「あるがままの姿を受け入れる」これこそが、日本文化とよぶべきものではないのかな?と僕個人は思うのですが。
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日本人独特なのは『わび・さび・萌え』


他で見られない独特な価値観ですよね
侘しい物に萌える、寂しい物に萌える
日本人は派手な物を意外と嫌います
派手な物を飾ってる人を成金趣味と心の中で馬鹿にします
財力を讃えるんではなく、それしか自慢物が無いのか…と見下すのが日本人

擬人化、これもかなり独特と言われてます
擬人化の攻め受け論争(有名なのは東京タワーとエッフェル塔、どっちが攻めでどっちが受けか?日本人だととりあえず考えようとします)は欧米人には全く理解出来ないそうです

食文化は外国由来の物を独自に進化させてしまうのが日本人
食文化での影響というのはテイストの筈なんですが、何でも日本人の口に合うように改善してしまいます

独特な色使いも外国にはなかなか無いと言われてます
北斎を中心とする浮世絵の色使いや蒔絵漆器の色合いは真似が難しいようです

日本の漫画・アニメのキャラ絵
中国・韓国人が書くとつり目、欧米人が書くと切れ目になります
真似出来ないんですよ

日本文化とは何か?
日本人独特のセンス
創造力の豊かさ
だと思います

日本のアニメの凄さって判ります?
今の米軍装備、30年前のアニメでほとんどが映像化されてるんですよ

甲冑見ても
貴金属や派手な装飾で財力をみせつける海外
ほら凄いだろ!と、言って「合子、象さん、イカ頭、ウサギちゃん」を兜に飾る日本の武将

 独自文化があるのに金の為なら日本料理を作ったり(それも下手)、日本製品のコピーを売ったりなど、日本のモノマネばかりするから中国・韓国は馬鹿にされるんだと思いますよ
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文化の範囲というのは面白い考えですね。


文化とは、人が積み上げてきた経験や習慣の結果ですから、日本文化は、日本人ならなんとなくしっくりくるところまで、がその範囲と言えます。
なので日本文化は日本人が積み上げた結果に対しての呼称なので、日本でしか生まれませんので、どこからというのは当を得ません。

日本が中国から受けた文化は、時代によっていろいろあります。
他の回答にもありましたが、漢字。ここからひらがなカタカナを創出したのは、日本文化と言えるでしょうね。
古代では同様に律令や都という国家としての枠組みを学びました。
遣隋使、遣唐使を派遣していた頃ですね。

遣唐使が廃止されると、いわゆる国風文化といって貴族趣味のものが増えます。随筆、小説など、世界最古のものとされるものが登場しますが、その背景には、怨霊鎮魂の思想が垣間見えます。
源氏物語:なぜ藤原氏全盛の時代に藤原氏の政敵であった源氏が主人公の物語が藤原氏に仕えていた女官によって書かれたのか。
など。

時代が下るとさまざまな仏教的な観念が生まれますが、大乗仏教は中国で進化発展していますのでその思想的な影響は強く受けています。

衣食で言えば、箸や今は見なくなった呉服。呉服屋さんはもう死語ですかね。呉服は中国の呉の服という意味ですね。

室町あたりでは足利義満が、天皇に取って代わろうと画策し、中国の冊封体制を利用しましたが、その影響を受けています。
金閣寺の屋根の上には鳳凰が乗っていますが、鳳凰は、中国では「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされています。
ここら辺からも義満が天皇になり変わろうとしていたことがうかがえますが、これも中国の影響を受けた結果ですね。


また、江戸に入っては、家康が戦国に戻さないために南宋の朱子学、儒教を率先して導入しました。結果士農工商の身分制度や忠孝の考え方が伝わって大きな影響を受けていますね。本来とは違って、親子ではなく、上に対する忠に重きが置かれたのが日本らしい部分で、この結果いわゆる水戸学が発展し、将軍ではなく天皇こそが中性の対象だということで尊王攘夷につながりましたね。家康の意図とは真逆の結果というのも面白いです。

山水画や陶磁器なども当然に影響を受けていますし、その中から日本の美意識に合わせたものが発展しましたね。

基本的には、文化は積み上げた結果ということなので、その時代時代、また身分によっても変わってきますね。中国に限らず日本はどこの国の文化も非常に懐深く受け入れていますが、その上澄みをだけすくって日本風にアレンジして本質は無視するというところに、日本文化の面白さがあると思いますよ。
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>日本文化における中国文化の影響、


最大の影響は漢字です。

>日本文化とは一体何を指し、他の文化と区別する意味は
漢字は御承知の通り、一文字一文字が意味とニアンスを表しますが、日本人は意味もニアンスも無視して発音を表す表音文字として流用しました。(万葉仮名と呼ばれるものです)

この文字を書く際に草書体を使いますが、これをどんどん簡略化してひら仮名を作ってしまいました。
現在のようなシンプルなものは明治以降に整理されたもので、江戸時代までは漢字の面影を残していました。
現在も、これはお蕎麦屋さんやお寿司屋さんの看板文字として残っています。

さらに、中国から取り寄せた書籍を読む際に翻訳をすることなく、直接読む方法を考え出しました。
中国の文法に対して日本語の文法を適用する為に、返り点というものを文章の横に付けることによって、この問題を可決しました。現在漢文と呼ばれているものです。
更に、この漢字を読む際に備忘録のように使う簡便な記号を考え出しました。これがカタカナと呼ばれるものです。

ひら仮名のように文字を変形させて転用するのは諸外国にも多数見られますが、翻訳をせずに直接読み取るというのは日本独特の手法です。
この方法によって、極めて迅速に中国の文化を吸収してきました。

遣隋使や遣唐使のように先進国へ使節を派遣することは諸外国にも多数事例がありますが、財宝や財貨ではなく経典、書籍という文化財のみの入手に、命がけで組織的に約300年間も続けたのは世界史上も日本だけの特異現象とされています。

以上の行動そのものが日本文化です。
この伝統は明治時代にも顕著に表れています。
日本とほぼ同時期にトルコも海軍の近代化を図りましたが、トルコは完成した軍艦を買い続けたのに対して日本は数隻購入しただけで造船技術を輸入して自前でつくりはじめました。
他の分野でも、高額で外国人教師を雇い入れてあらゆる近代設備を作りました。
同様のことは現在も行われています。

日本人は多様な文化を貪欲に吸収しますが、すべて日本化してしまうという特技というか性癖を持っています。
この徹底的に日本化されたものが、当初の国々へ逆に輸出されるといのは現在も続いています。受け入れた国も自分たちが創案したものとは気づかずに日本オリジナルと誤解するケースが多々あります。

食文化や衣服、建築デザインなどが近隣諸国からの影響を受けるのは、どこの国でも同じです。

「わび」「さび」のようなその国独特の感性の表現方法は、どこの国にもあるのではないのでしょうか。

>合理化が進む我々の実生活の中で、これらの日本文化に基づいた生活を送っている人は、
少ないと思います(どちらかというと日本びいきの外国人のほうが多い気がします)
現在の生活様式や若者の思考、行動も、アメリカやヨーロッパの文化を受け入れて独自なものとした結果ではないのでしょうか。
大正時代にも、大正デモクラシー、大正ロマンなどと、欧米風のもが社会に幅広く広がっていました。
あらゆる社会現象は一定の方向に向かうと、暫くして逆方向へ動き出すという、いわゆる振り子現象は常におきるものです。
要はこれ等のものがどれだけの期間継承されていくのかということではないのでしょうか

>私としては、そのなぜその文化を賛美したり、懐古するのか、
どこの国であれ地域であれ自分たちの文化に誇りをもつのは当然の行為かと思います。
但し、ネット社会のネトウヨと呼ばれる人たちの行為とは異なります。
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日本文化というのは結構不思議な文化でして、どこから来た


「強烈な」文化でも、いつの間にか自国で消化して、独自の
解釈で自国の文化にしてしまうんです。

最近の例で言えば、明太子パスタ。こんなもん、イタリアでも
絶対にあり得ません。日本食と言ってもいいのですが、どう
みても「パスタ」という「イタリア文化」の残滓が残ってるんです。
カレーでもラーメンでもそうですし、遡ればテンプラもそうです。

ですので、「自国の文化」をどの辺で線を引くか、という話なん
ですね。日本独自と思われている「禅」だって、大元をたどれば
中国にちゃんとそういう宗教がありますし、そのルーツは明らか
にインドなどの上座部仏教(小乗仏教)ですもん。

その辺、突っ込みどころは山ほどあり、鼻につく論調もあるん
ですが、こちらの本は「視点を広げる」という意味で非常に参考に
なります。ご一読をお勧めします。
http://www.amazon.co.jp/dp/4094020012/
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