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ウィキペディアに次のように記されています。

系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
また、数々の資料や諸説から生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と考えられている。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。
そればかりか、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E% …

数々の資料や諸説から(小野小町の)生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と考えられている。

とありますが、小町の生没年が825-900年ごろ、というのはどのような資料または説から導き出したものなのでしょうか?

古今和歌集や小町集に詞書などがあり、それによって導き出されたものなのでしょうか?

小町の生没年を推し量る史料のようなものがありましたら教えてください。
よろしくお願いします。

小町について、仁明天皇の更衣説、惟喬親王の乳母説、六歌仙は怨霊であるとする説などがあることは存じあげています。
小野小町がどのような女性であったかという質問ではありませんが
上にあげたほかにも小町の実体についての考察がありましたら、お考えをお聞かせください。

A 回答 (1件)

ghiiopp さん、こんばんは。



wikiの記述の中に、和歌の贈答があった人々として、以下の三人が挙げられています。
1).在原業平:825~880年
2).文屋康秀:不詳~885年
3).良岑宗貞(僧正遍照):816~890年

交友のあった人々の生没年から推し測ったのではないでしょうか。
10歳も年が違うと、話が合わないというのはよくあります。
一般的に同年代の人たちとは話が合いますよね。
いつの時代も人の性質は同じということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

小町と交流があった3人の生没年を並べてみると、なるほど、彼らと同年代として小町の生没年を825年~900年としたのかな、とも思えますね。
ウィキにはそのあたりの説明をしっかりしていただきたいものです。

しかし、きっちり古今集を調べたわけではないですが、歌の贈答は、必ずしも同年代の間で行われていたものではないのではないでしょうか。

小町は100歳まで生きたという伝説があり、長寿であったとすると
780年くらいに生まれたのだとしても、3人と歌の贈答をするのは可能なんですね。

仮に小町が780年の生まれだとすると、825年生まれの業平が20歳であった845年、小町は65歳で、十分歌の贈答ができるということになります。


せめて歌を贈答した年でもわかると、小町の年齢を特定する参考になると思うのですが。

お礼日時:2013/11/08 12:02

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