【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

宗教のカテゴリが無いみたいなので哲学にしました。

ネットで軽く調べると、禅とか修業とかで自我を超越して
自己を得る?みたいな事が書いてあるのですが、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

私は心理カウンセラーの資格を持ってますが、昨今の日本
に増えた境界線人格障害は、イド又はエスと呼ばれた動物
的本能と超自我と呼ばれた親の理想という型で出来た優等
生の自分が綱引きをして、真中でそのバランスをとる自我が
未発達なのが特徴で、それにより誰でもあるような同姓・異
性での振った振られたに過剰に反応して、プライドを守るた
めに手首を切ったり、男性の場合はイジメ、ハラスメントや
DVなどをし、親子間での児童虐待も多々起きてます。動物
的なので子や伴侶への愛情が薄れ、家庭も崩壊したり、浮
気なども増えます。

ネットで見る自我の崩壊は仏教でいう「無」で、元々あると
いうかきちんと成長した自我を親が押さえつけるのでは無
く、自分自身で超越をするのが「空」という事でしょうか?

だとしたら、日本に増えた境界線人格障害のように自我の
成長が未発達で、元々自分がない人は、禅や修行などで
逆に自我を発見・発掘する事も可能でしょうか?

ちなみに私はそれらの病気とは正反対で健康ですが、臨床
心理士によるカウンセリングは数年かかり、費用も数十万
~百万以上もかかるので、クライアントには勧め難いので、
禅や修業でそれらに効果が少しでもあるようなら、患者さん
に勧めたいと思うのです。宜しくご指導ください。

A 回答 (13件中1~10件)

カウンセリングも禅や修業も、やる人と内容によるのではないでしょうか。



心理療法やカウンセリングであっても人間(臨床心理士や精神科医など)によっても違いがあるでしょうし、また誰でも完全ではないので、療法を施す人によって様々だと思います。これが宗教による禅や修業であってもそれは同じです。

方法論の一般論よりも施す信頼できる人とそのカリキュラムではないですか。

いかがでしょう。
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全ての有限的存在性は認識される事で生じており、宇宙は


脳内にあると言えます(自我仮説(記憶=時間の流れ=過去
=超光速)と時空仮説(予測=空間の広がり=未来=光速下)の
相補分化)。
ところが、その「相補分化」は、無=不確定性無限の潜在として
の認識可能性(感受表面での量子相互作用=現在=光速)に
基づく階層現象表面的定性化による仮想的非光速性によって
おり、肉体に付属した感覚器官に依存するため、肉体的自己
中心性を帯びる傾向がある(短絡的思考において)。

そこにおいて、認識の深まりとは、肉体としての自己(物)と
宇宙としての自己(心)を連結する過程であり得る。

この回答への補足

ふぁ?・・・・

補足日時:2013/11/13 22:59
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 仏・ほとけ、への修行とはごく当たり前に成長した人が“人生とは?”なんて考えて答えを見つけようとするものです。


 自発的な事です。

 だから、質問への答えは当たり前の人間に、というか普通の人間に成る為の処方が必要、だと思います。

 ここで言う「仏道修行」は無駄でしょう。

 まずは愛情を持ってその人の“苦”を理解して、受け入れてあげて、、、と云うところから始まるように思います。

 人は誰でも他者に認められたいのです。まずは「そのまま・ありのまま」を認めて、受け入れていることを知らせて、そこから次のステップへと進めてみてはどうでしょうか。

 自我を好ましく発達させるために。
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無になる事だけを求めるのなら効果がある場合もあるか


もしれない、、幾つかの動画で症状がよくなったという
精神疾患の患者さんの動画を見た事もある

ただし始めは苦痛で仕方なかったが数ヶ月~半年程続け
る内に、少しずつ苦ではなくなり、気分も安定して来た
、というような事を話していた人達が多かった事から、

かなり根気の要る方法で、誰にでも進められ効果がある
とはいえないのかも?

多様な治療法の1つにはなるかもしれないという程度で
は?

また、精神疾患の患者さんの中には、霊感や霊的世界に
オープンになり易い人も普通の人達よりも多いようなの
で、

実際、座禅を始めたら映像が見えたり音声が聞こえ始め
たという人達もいるので、新たな症状を招いてしまう人
も出てしまう場合もあるかもしれない

因みに、霊的探求の目的で自ら行っているのでなければ
、霊的世界にオープンになる事は、混乱や恐怖・戸惑い
を招く事になりかねないかも?
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ぬー、体験したことも、修行した事もありませんが・・・



修行とかは、自我が成立してからのもののような気がします。

よく分からないけど、全宇宙との一体感の経験を得るって事かなぁ・・・そこからの成長なのでは・・・
感じる事で、納得して、すべてに対する肯定が出来るようになるのなら・・・

修行をするんじゃなくて、肯定してる人に会う事の方が意味があると思う。


プロの人に対して意見を言うのは失礼だと思うんだけど、問題は ”親の理想という型で出来た優等
生の自分” の部分だと思う。
条件付きの愛しか得られない状況で育てば、良い子ちゃんでいないとダメなのね。ほんとの自分じゃないものを演じ続けるのね。
でも、そんな良い子ちゃんは自分じゃないから苦しいし、本当の自分は愛してもらってないから悲しい。
苦非と絶望、劣等感の中 クモの糸のような条件付きの愛情にしがみついてる

条件付きの愛情を、条件なしの愛情に変えないと。

”親の理想という型で出来た優等生の自分” を ”自分の本当に理想とする姿” にすり替える必要があると思うのね。

でもそれには正しいモデルが必要なので・・・肯定してる人に会い、話す方が治療になると思う。
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人間の思考は脳の活動ですが、自我は左脳に存在する意識です。

その自我は『右脳』からの情報を貰って、その情報を言葉に翻訳をして言葉にして味わったり感じたりしているようです。

この情報の受け取り方によって、心を病む、神経症になる、境界線人格障害になる、或いは自律神経失調症や過敏性腸症候群になると思います。

脳内の情報交換の有様を、脳卒中の為に自分自身で体験した脳科学者の動画がありますので載せて見ます。


URL:

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

この動画に在るように、自我意識は右脳からの情報によって思考させられていると考えられます、この情報の受け取り方と言う意味は、『脳梁の中での情報交換』=『意識の根底での』意識が芽生える瞬間に、右脳からの情報によって『感情や考え』が、沸き上がらせられているという意味です。

右脳の機能は『生命維持機能』から成り立っていて、右脳そのものの意思や計らいや、期待する事は特別には無いと考えられます。

右脳の機能はその時々の全ての情報を、逐一漏らさずに自我に送る事が全てと考えられます。目的も何も無くです。

右脳にも人格があります、その証拠を載せてみます。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この情報の受け取り方と言う意味は、高いところに上がった場合では『瞬時にその高さが、不安と共に送られて』その受け取り方によっては、嫌う場合では『高所恐怖症』になっていると言う意味です。

人間には(生きとし生けるもの全てですが)生まれた瞬間から働き始めている機能があります、その機能は『命の働き』と形容するべきものですが、赤ん坊でさえ全てを知り尽くして『生命活動を行っています。』

何も知らないはずの赤ん坊が『身体に付いての生命活動全て』を知り尽くして機能させていると言う意味です。心臓や呼吸や発汗作用や、ホルモン系統や神経系統など生命維持機能を知り尽くして『機能させている働き』を言っています。

何も知らないはずの赤ん坊が『怖い事も不安という事も安心する事も』まだまだ数え上げるならきり際限無いほど知り抜いている事を言っています。この機能は主に『心に感情が湧き上がる作用』と言う意味です。

何も知らないはずの赤ん坊が『行動に関して』自分の身体を自由自在に動かす事が出来ています。

何も学ぶ以前に既に知り抜いていると言う意味は、命そのものの働きが『既に備わっている』事を意味します。そうしてその機能を働かせている者が『右脳の人格』と言う意味ですので、生まれた訳でもない事から、滅する事も無い存在と言う言い方も可能です。

宗教の目的は『魂の救い』が全てです。滅び行く自我意識、死んでゆく自我意識を掬い取る事が宗教の目的です。人間の脳内には既に神や仏が一人の人間には一つ備わっています。

禅などの『見性成仏』と言う意味は、自分自身を知ると言う意味です。自分自身の命そのものは『永遠の存在を内在させていた』と言う事を実感する体験です。その体験後は『死でさえ恐れる事が無くなります。』この体験を、『生死の問題が解決する』と表現しています。

この体験は世の中の見方や感じ方の転換点になります。

人間は自分でも知らない間に『世の中を二つにして見ています。』一つは『紛れも無い真実の世界です。』この世界では人間の計らいが入り込む余地が無い世界です。真実の世界です。

それと平行して『仮の世界』=『頭の中の計らいで真実を捻じ曲げた世界』です、この世界は現実には存在していない世界ですが、本人は存在していると信じて疑わない世界です。いわゆる『妄想』と言われている世界です。

現実には存在していない不安や恐怖を心に作り出して、身体で感じている世界です。

ストレスを感じる、と言う場合に当てはめてみると分り易いかも知れません、同じ環境にいながら、ストレスが少ない人は『真実の世界に近い人です。』逆にストレスを多く感じている人は『自分で不安を作り出して、作られた不安を本当にあるかのようにして体感している人』の事です。

この場合の違いは自我の『好き嫌いする心』が大きく働いているためです。

良い事に過剰反応する心と、悪い事に過剰反応する心が『予期不安になって』ストレスを作り出していると言う意味です。

今の精神科医たちのやり方は間違っていると言う意味があります、ストレスが無い環境に移す事は『学業から遠ざけて休ませたり、仕事を放り出して欠勤を進めているようです。』が、本質的の間違いはストレスが無い世界など存在していない事と、ストレスを作らない考え方や感じ方を教える事が出来ない事です。

少しのストレスでさえ耐えられなくして、それ以下のストレスでもストレスにする考え方を奨励している事が間違いと思います。

ストレスの意味は『受け入れられない事柄』と言う意味です、小さな受入れられ無い事柄があるために『薬を処方して』それに慣れると、もっと小さな受入れられない事でさえ受入れたくなくなる事を見逃しているからです。

人間は、楽をしたいと考えて、一日中休んでいたとしても、もっと楽をしたくなるなら、一日中休んでいても楽と感じません、一週間休んでも、一ヶ月休んでも『もっと楽をしたいと思った瞬間に楽ではなくなります。』

一年休んでも、二年休んでも『もっと楽をしたい心があるうちは』楽が出来ません。こういう繰り返しで『精神科医や製薬会社が儲かっています。』

神経症を医師が治せない理由が此処に在ります。神経症の完治とは『症状を受入れるところ』にだけ存在しています。

沸きあがる『嫌な感じ』=『受入れられない事柄』=『違和感』=『症状』を無くそうとする心の働きが『症状』をよりきつい症状にまでしています。症状を嫌って無くそうとする心の働きが、症状を重くしていて更にしっかりと心に固定させています。

そういう事で『症状を無くそうとする努力そのものが』症状を作り出して固定させる働きをしています。一生掛かっても症状を無くす努力を積み重ねた場合では『一生症状に苦しむ事が保障されています。』

神経症の治りとは『症状を受入れる以外存在していません。』受入れた時には、同じ症状が在っても『受入れたために、あっても無くともどちらでも良くなっているからです。』

治す事をしなくなった場合にのみ『在っても無くともどちらでも良くなっています。』症状など在ろうが無かろうがどうでも良くなった場合では『意識上に症状として上がってきません』そうなった時が完治です。

症状とは、良い事をのみに過剰反応する心と、嫌な事に過剰反応する心が、現実にはない世界として頭の中に造り出していた幻=妄想だった事が分ります。

倉田百三が『治らずに治った』と言う意味が此処にあります。

受入れた時から『症状だった事柄が、症状ではなくて、誰にでもある生体反応』だった事を了解するからです。

自我がストレスと感じていた感じ方を変更して、誰にでもある事とする事で治った事が分ります。

意識の変化では『天国を求めなくなる事と、地獄行きを了解する事』です。楽を求めない生き方の変更が鍵になっています。

修行の目的とは『今の自分を受け入れる事』が全てです。良い自分であっても悪い自分であっても、生き生きしている自分であっても、今正に死のうとしていたとしてもです。受入れられない間は苦しみが続くかもしれませんが、受入れた時から『全てが天国に変わります。』

自我と言う心が全てを諦めた時から『全てが手に入るようになります。』

動画の中でテーラー女史が『自分の人生が終わった』と観念した時『死の受容』が完了しています。その後では全てが光り輝き始めています。
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この回答へのお礼

長々と有難うございました。

理由のわび・サビでいうと、死を意識したり、終わりと
思った瞬間から自己愛や欲望、名声や金、物質への執着
というサビが消え、他者への愛、つまりそれを愛と呼ぶ
のですが、それと無欲という無苦、その「わび」を手に
入れる、真の幸福を手に入れるという解釈で宜しいでし
ょうか?私は学生時代からもう、そのわびの世界で生き
て来ましたけど。

お礼日時:2013/11/19 17:06

 こんにちは。



 《自我》という用語を広めた精神分析には 罪があると考えている者です。

 しかも まづ一般には あいまいな意味しかありません。

 もし我執という意味でなければ せいぜいが世間の波に呑まれることなく多少とも《自己主張》のできる強さを持つ・・・くらいの意味で使われているのが 実態だと思われます。

 あとは 文学的な表現として あいまいなままにカッコウをつけているだけなのだと。


 
 つまりは 精神分析論としては イドなる欲動もこれを抑止するという超自我も もしそれらのハタラキがあるとすれば みな《わたし》の中に起きていることであって そのワタシと別なモノゴトではないわけです。
 
 むろん エスと超自我とのあいだを取り持つという・いま問題の自我も それは あくまでワタシの知解し判断する心的作用の問題です。感性および理性そしてその認識事項について判断し決定する意志 これらのハタラキの中におさめられます。
 
 エスも意識上にのぼったなら ワタシの認識するところとなりますから 超自我も自我をもふくめてすべては ワタシの内におさまりワタシが思考し意志決定するという問題でしかありません。

 ワタシは 仮りにそうだとすれば 自我を駆使しますが わたしは自我ではありません。もっとおおきい内面の心を 持って生きる存在です。まして 自我はワタシそのものではありません。

 わたしは思うとは言いますが 自我は思うとは言いません。言ったとしてもやはり文学的な表現のあやといった程度のことです。




 ですから ワタシの確立 これこそが 主題です。



 《わたしがわたしである》こと またそれへの到来。
 あるいは われに立ち帰るということ。

 一般にこれは われ思う ゆえにわれ有りでは必ずしもなく そうではなく われあやまつならば われあり だとされています。

 あやまちまたはマチガイを侵したならば われに還るということでしょう。マチガイに気づきこれを反省するとき 言ってみれば確かに われ思うという要素もふくまれます。


 いまだに《自我》なる概念に固執するのは 阿呆であると言い切ります。






 《修行》は ひとことで言えば 趣味嗜好です。ご自由にというところではないでしょうか。

 《空》というのは われに立ち帰り わたしがわたしであるとさとったその人間なる存在であっても いかんせん・かなしいかな うつろい行かざるを得ないものであると見ることであり しかも その移ろいゆかざるを得ない無常なる存在であっても それとして(あるいは仮りの現象として)は 現実に存在しているのだ。ということを言っています。(色即是空という前段と 空即是色という後半のさらなる認識と判断がともなっていて 初めて《空》観と言えます)。

 《超越》だとか《無》だとかなんだかんだとか これまでブディストの阿呆たちは そのようなマボロシを追い続けて来ました。玉ねぎの皮むきは もうこれっきりとしましょう。


 精神分析とブディズムのオシエは 屁の河童であると思いこれを言い放つならば 心は日本晴れになりましょう。
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こんにちは、困りましたね。




>「私は心理カウンセラーの資格を持ってますが、


昨今の日本
に増えた境界線人格障害は、イド又はエスと呼ばれた動物
的本能と超自我と呼ばれた親の理想という型で出来た優等
生の自分が綱引きをして、真中でそのバランスをとる自我が
未発達なのが特徴で、それにより誰でもあるような同姓・異
性での振った振られたに過剰に反応して、プライドを守るた
めに手首を切ったり、男性の場合はイジメ、ハラスメントや
DVなどをし、親子間での児童虐待も多々起きてます。動物
的なので子や伴侶への愛情が薄れ、家庭も崩壊したり、浮
気なども増えます。」

・・・で、アナタは心理カウンセラーの資格をお持ちなんですね?


>「ネットで見る自我の崩壊は仏教でいう「無」で、元々あると
いうかきちんと成長した自我を親が押さえつけるのでは無
く、自分自身で超越をするのが「空」という事でしょうか?」

「きちんと成長した自我を親が押さえつける」
さあ、仏教では、どういうのでしょうか。


>「だとしたら、日本に増えた境界線人格障害のように自我の
成長が未発達で、元々自分がない人は、禅や修行などで
逆に自我を発見・発掘する事も可能でしょうか?」

不可能とは言えない、と思います。


>「禅や修業でそれらに効果が少しでもあるようなら、患者さん
に勧めたいと思うのです。宜しくご指導ください。」

心理カウンセラーさんね、ご苦労様でございます。
残念ですけど、「患者さんに勧める」は、無理と思います。


それでも「特定の宗教」を患者さんに勧められますか
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こんばんは。




難しい質問ですね~。

仏教とは、
つまるところ、
煩悩、つまり、《リビドー》をなくしてしまおう、
という、
何とも無茶な教えです。
さらに、
《エス》や《イド》、
《スーパーエゴ》さえ、なくしちゃえ!!
です。


《リビドー》があるから、人間は苦しむのだ。
だったら、
諸悪の根源の《リビドー》をなくしてしまえ。
なくすことができないならば、
極力、《リビドー》が発生しないようにしよう。

たとえば、
女性と一緒にいれば、《性欲》(狭義のリビドー)が起きる。
ならば、
女性と一緒にいなければよい。
で、
山にこもったり、出家したりして、《逃避》する。
で、
女性との接触の機会を減らす。

これで、《性欲》がなくなればいいのですけれど、
こんなことではなくならないでしょう。
ただ《抑圧》しているだけですから。

そこで、
イメージ療法を用います。
ヨーガなどをして、
自分の体が腐敗してゆく様子を頭にイメージしちゃいます。
体が腐ってゆく。ウジ虫が体に沸いてくる。
「ウッ」と吐きたくなるような状況をイメージする。
これを何度も繰り返す。
仏伝によりますと、
これに耐えかねて自殺しちゃったヒトも結構いた様子です。
───マジ話です───

これを何度も何度も繰り返して、
 「女(or男)なんて、こんなバッチイのだから、足の裏でも触るのも嫌だ」
 「女なんて、所詮、糞(クソ)のつまった革袋だ。触りたくもない!!」
と思い込ます。
《酸っぱいブドウの論理》ですね。

こういうのを《不浄観》といいます。
《不浄観》は、
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/65fujou.htm


禅は、これとは違うのでしょうが、
どうでしょう、
わたしは、
心理療法の代替として、
仏教は使えない、
と考えますが・・・。
かえって、
症状を悪化させるような気が・・・。

そもそも、心理療法や精神医学とは、
目指しているところ、
考え方がまったく違いますので。
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>>だとしたら、日本に増えた境界線人格障害のように自我の成長が未発達で、元々自分がない人は、禅や修行などで逆に自我を発見・発掘する事も可能でしょうか?


○ 無理ですね。 あなたの指摘している自我とは生まれて成長するうちに身に付けるべき道徳観や生活知識・習慣のことのように思います。これを仏教では仮の自分と言う意味で偽我と呼びますが、これは社会に生きる人間としての自分と言う意味ですから、それを取り戻すためには現実を見極めしっかりした自分を作るしかないのですね。一方、仏教禅で見出すべき自分とは、肉体や社会環境に影響された偽我を捨てて本当の自分、真なる我を見出すことなのですね。これを真我と言いますが、真我を見出すために肉体的経験や社会的知識を一度捨て去ることを無とか空と言う言葉で表現しているに過ぎないのです。
真我を見出すためには自分にある偽我を客観的に見る必要があります。これは境界線人格障害を有する者には無理なことです。実際には客観的に見ることができず、知識不足からより混乱に陥り、精神障害になることが予想されますね。仏教的に言えば偽我とは執着する自分ですから執着を取るのが先ですね。執着をとるためには感謝することですね。感謝を習慣とするように指導すれば執着に基づく境界線人格障害は直るはずです。それから自虐観からきている境界線人格障害については、仏神はみな仏神に似せて人間を作ったということを教えることですね。人間はみな真善美と発展繁栄の因子を持っているのです。自虐観は人間の性質ではなく後天的環境や教育によるものですからそのあたりを直して行けば良いだけですね。
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