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ある人の考え。
無い神は有るとゆー。
無い神も有る神も等しく神であり同じであるとゆー。
無神論は無い神を信じる宗教であり、無宗教も宗教であるとゆー。
多くの日本人は神にも宗教にも関わりたくないとゆーておるのに、無理やり無い神を持ち出してきて神と関わらせよーとする。
まるでカルトの引っ張り行為である。
結局初めに神が存在せねばならず、神なくしてこの世は成り立たず、全てを神によって語ろーとしているのである。
無神論を含めあらゆる人の活動は宗教活動であると見なすのである。
このよーな考えは何から生まれるのか。
何故このよーに考える必要があるのか。
  

A 回答 (7件)

世界観に、「神」が含まれているかどうかで判断するか、


あるいは世界観の中に、合理的・物理的な論理展開だ
けではない、論理的飛躍(信念や通念)があるだけで、
比喩的に宗教だと考えるかの違いです。

定義の違いによりますが、そのような比喩的な表現が
必要なのは、“神なき宗教”の場合、拝金主義などの
ように、本人が気づかず合理的・普遍的な価値のよう
に思っている場合があるからです。
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この回答へのお礼

 
すると拝金主義は拝金教となり、資本主義は資本教となり、ビッグバン宇宙論はビッグバン宇宙教となり、・・・・全ての主義主張は宗教であると見なされることになる。
あらゆる主義主張や研究・学問さえも宗教とみなされることになる。
このとき宗教の冠をきせることによってグレードアップすることはなく、必ずやデグレードする。
宗教には悪の響きがあるからであろーか。
それが狙いなのか。
 

お礼日時:2013/12/05 10:08

おはようございます。


人の道さんのお導きで、アルケーも含む八百万の神とも、
絶対宇宙の法則とも言って、これを信奉して見たら
心理に近づけるのかも知れないと思考して居ます。
大宇宙は、140億年以上をかけて破壊と創生を繰り返して
来ていると、何とは無く、理由も借り物で、思考して居ます。
地球のある宇宙は45億年程度だそうですが、ヒトは200万年
程度で創生されたものだそうです。
宗教の発生と成り立ちは、その時代背景に必然が有るとすれば
自然への畏怖であり、自らへの破壊が一秒でも遅く訪れる事
への祈りであったのではないのかと思考します。
絶対宇宙の破壊創生は、ヒトの思考出来る時間軸では思考外なのでは
と思考いたします。
それを、意識しない尊大な思いに、思い上がりへの戒めとなる宗教が
必要なのではないのかな~と思考します。
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この回答へのお礼

 
>絶対宇宙の破壊創生は、ヒトの思考出来る時間軸では思考外なのでは
と思考いたします。

これは正しい。
だからアルケーは絶対宇宙の破壊創生は無いと教えているのである。


>それを、意識しない尊大な思いに、思い上がりへの戒めとなる宗教が
必要なのではないのかな~と思考します。

これも正しい。
それがつまり、アルケーの教えであり、人の道である。
 

お礼日時:2013/12/05 10:21

人の道様、こんにちは。




いつになく素晴らしいご質問と思いますが、

宗教が、必ずしも無関係の者を、無理矢理にでも「(欲しいままに)位置付ける」というのは、
オウムの昔(以前?)から、そうではありませんか。


>「このよーな考えは何から生まれるのか。
何故このよーに考える必要があるのか。」

おそらくは、歴史的(自然発生的)に発生したのでしょう。
それについて、批判してはならないというものではない、でしょう。
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宗教を意味を理解できていないので、そのへんの


国語辞典で調べてみたら、理解できるかもしれませんよ。
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宗教の宗とは「そう」と読めば中心となるもの、「しゅう」と読めば中心となる教えを尊ぶ集団。


つまり宗教は一つの教えを尊ぶ集団ということになります。
科学者は自分が認める学説ですら完璧には信じていません。相対性理論ですら絶対とは考えないのです。

神という存在は有無どころか「神」という定義すらありません。だから一神教もあれば多神教もあるし、創造神もあれば付帯神もいます。つまり「神はいない」とする科学的根拠も無いのです。

科学的根拠もなく「神はいない」とするのが無神論であり、それを疑問なく信じるなら無神論も無神教という宗教。

科学も昨日までの理論も明日は崩れている。それを受け入れなければなりません。
従って「科学を信じる」とか「神や霊は非科学的だ」となんの根拠もなく信じているのも「科学教」という宗教とみなすことが出来ます。

無宗教といういものには「一つの宗教に属さない」という考えと「いずれの宗教にも属さない」という二つの意味が成り立ちます。これを教えとして尊べば「無宗教」教となりますが、一つの姿勢であれば、その原因となる思考は多様となるので「宗教」という形式が成り立ちません。
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不可解・不可知が超越者を呼ぶ

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神の存在を考えすぎる者はシビアになり無神論者になりやすい 宗教学者も本当に信仰している者はいなくてただ知識だけなのだ。

宗教の歴史にくわしいと良い面悪い面が解ってしまうので、神を信じられなくなるのは当然であろう。知恵有る人間は無意識に軽い気持ちで「神」を信じるから、それほど頼りすぎないものなのだ。「神」のあるなしにこだわる者はスーパー神を探している理屈をこねる甘えん坊である
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