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昔、友人に、難しく考えすぎだと言われたことがあります。その通りだと思いました。
もし人が、考えることに囚われず、適度な考えを持つことができたなら、その人の哲学はどのような地点に行きつく(どのようなものになるか)でしょうか。

A 回答 (33件中11~20件)

#22の者です。



>弓道をしていた時のことです。なかなか上達しない私に
>対してのアドバイスとして、考えすぎだと言われました。

弓道において的に当てる技術は、思考力によって得られる
ものではない。
肉体的鍛錬における反射神経が重要であり、余計な事を
考えて鍛錬を怠るのは良くないでしょう。
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この回答へのお礼

体のセンサーに頼るということは、日常でも大切ですよね。

お礼日時:2014/01/05 04:14

最初に確認しておかなければならないが、その人は、認識を深め


る事がイヤだ、面倒くさい、という事ですね?
認識を深める時間を得るために職業を転々とした私には、信じられ
ない事ですが。

人間の社会性が発達する前なら、個人の環境認識は生きるため
の知識と直結していたが、社会性の発達において、そうした個人
の生命性の社会的拡張の自覚化を怠り、社会的に処理された
二次的情報(お金、出世、モラル、法規、宗教etc.)によって、他律
的に生かされるようになり、それら社会的虚構の価値に対して
条件反射的に行動し、その本質的な意味(なぜ存在しているか)
や本当の目的(何のために生きているか)を認識しない、他律的
な歯車となっているのだ。

流されて生きるだけなら、本質的意味のないお金や出世といった
“馬車馬の目の前のニンジン”だけを見、あるいは歯車として使役
されるための断片的情報だけ記憶すれば良く、それ以上の深い
認識など、無駄な遊びに思えるだろう。
しかし、自動販売機が反射的に「ありがとうございます」と言った
ところで、本当に喜んでいると思う人は居まい。
人の「認識の深まり」とは、目の前に見えている世界をより強く、
鮮やかなものにする事であって、人の生きる真の目的である
精神的充足量の最大化において、決定的関数を成すものだ。
見た目が同じ物質的状態に見えても、認識の低い人の営為は、
実りの乏しい、より脳死状態に近い存在だと言えるのだ。
即物的にどんなに美しい花をつけていても、それは根のない
造花であり、実をつける事はない。

人類は、認識の発達によって、遺伝子DNAの変異とその淘汰
による適応という、時間のかかる進化によらず、意識における
行動の多様化による迅速な進化を可能にしたのだ。
ところが、社会性の発達において、先述の法規やモラル、お金
や地位、あるいはそれを支える国家体制や教育といった、
DNAによらない世代間伝承によって、他律的に社会行動を
導く方法をとったために、再び意識は条件反射的に希薄化し
てしまったのだ‥‥それが宇宙そのものであるにも関わらず。
意識に水を与えないアスファルトの地面に、満開の造花のお花畑。
宇宙は、笑いながら消滅して行くのだ。
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この回答へのお礼

私が以前、弓道をしていた時のことです。なかなか上達しない私に対してのアドバイスとして、考えすぎだと言われました。その時に、そもそも私は考えすぎる傾向にあると思ったのが始まりです。

認識を深めるためには、考えすぎということはない、どんどん考えるべきだということでしょうか。

お礼日時:2014/01/05 00:10

様々な考えを受け入れて、一般的な考えに落ち着く。

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この回答へのお礼

マジョリティになるということですね。

お礼日時:2014/01/05 00:04

他人に哲学に乗ることに成ります。

                                                                                                                                                                            
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この回答へのお礼

サーフィンのように哲学を乗りこなすなら、他人の起こした波でも上等な気がしました。

お礼日時:2014/01/05 00:03

大衆に迎合するという結論になります。

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この回答へのお礼

時に大衆も適度を越えた思考の振る舞いを現出することもありそうですが、その点についてはどう考えられるでしょうか。

お礼日時:2014/01/05 00:01

自分と出会うことに一度収束して、そこから何を生み出して(作り出して)いくのかになると思います。



人は事象(現象)から自分を理解していき、そこからまた新たな現象を作り出していく。
それの繰り返しが、人として人類として新たな未来を作り上げていくことになります。

本当の自分と出会うことで、人は新たな未来を築いていく。
今までに無かったものを手にすることができるようになる。

自分を深くまで理解し受け入れられたときに、大きな成長と喜びに包まれるので
今ある全体は、徐々にそこへ向かうこととなると思います。
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この回答へのお礼

今ある全体が、、という一文が気になりました。
考えにとらわれることがなくなったとき、全体、自分というものや、世間全体と言ったものが表に現れてくるのかもしれません。

お礼日時:2014/01/04 23:58

そもそも哲学は考えること自体なので、もし考えすぎず適度に考えるのだとしたら、それは哲学的態度ではありません。


したがって、それは哲学と無縁に生きるということになると思います。
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この回答へのお礼

なるほど、哲学自体が生じ得ないと。

お礼日時:2014/01/04 23:53

行き着く地点は、(たぶん)同じです。


人生は、考えようが考えなかろうが、そこで決まるものではないように思うからです。
人間は、殆どの場合自分で決めた価値観に従い生きていて、その価値観を形成するのは、突き詰めれば自己満足な思い込みだと思います。ただ、考えることに囚われた生き方をしたとしても多分、自分の内で矛盾をきたし、自分の理想とする生き方など出来はしない自分に気が付かされ、いずれ本当の自分に帰って行かざるを得なくなるのではないでしょうか。考えすぎることは悪くはありません。むしろ自分に素直な分あなたは、真面目なんだと思います。一生懸命自分で自分の人生を模索することは、必ず自分を成長させることでしょう。今のまま一生懸命生きることです。一番大事なことは自分が満足できる生き方ができたかどうかで、あなたの質問されるようなことは、あなたは考えなくてもいいと思います。
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この回答へのお礼

励ましありがとうございます。
考えそのものを左右する価値観の方が、人生において重要なファクターだということですね。

お礼日時:2014/01/04 23:52

「適度な考え」というものはないと思います。


人がいるだけ、何通りも考え方があると思いますので。
まず、あなたがこのような質問をしているという時点で
考えすぎているようにも感じますね。
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この回答へのお礼

適度な考えというもの自体がないですか、そういう考えもあるのですね。

お礼日時:2014/01/04 23:48

考えすぎなこと、悩んでることほとんどって妄想に近かったりしないですか?



適度な考えをもつことができれば、ストレスも軽減されますし、まず自分自身が楽になりますよ。
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この回答へのお礼

妄想に近い、取り越し苦労、そういうこともありますね。楽になるということはすごく大切な気がします。

お礼日時:2014/01/04 23:47

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