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このコーナーを読んでいて思ったのですが、かなり古代の哲学者の名前が頻繁にでてきます。ソクラテスだとかプラトンだとか。
自然科学の研究だとそれはありえない。確かに、古い時代の人の名前が出てくることもありますが、それはまれで、その古代の人が書いた書物を研究のために真剣に読むことはないでしょう。いつでも、その時最新の研究論文を研究者は読みます。そして論文ではやはり1~2年遅れてしまうために、学会発表に参加して論文になる前の情報を必死でつかもうとします。最新の情報がいつでも重要です。
そうして考えると哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?人間というものがそんなに変わるものじゃないからだという答えはありえるかと思います。確かに、文学だったらそれは納得です。むしろ古典のほうが人間の忘却というフィルターを乗り越えて存在しているため価値があるといいます。文学作品はまず、その著者が死んで評価が固まらないと駄目だという人さえいます。
はたして、哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

哲学の中でも経験をもってしては答えられない「形而上学」の問題は今もって哲学の主要な問題で、これには原理的に言って進歩というものはありません。


たとえば、「存在とは何か?」「なぜ、世界は存在しているのか?」「神は、あるいはこの世界を超越した存在者があるのか?」「なぜ、私は私なのか?」「外部世界は存在すると言えるのか?」「過去は実在するのか?」「他人には心があるのか?」・・・・・などなど。
こうした問題は科学・物理学をもってしては答えられません。
科学・物理学は進歩・発展ということがあるけど、「形而上学」の問題というのはただ思考の中にのみあり、思考によってしか解決できず、解決がひじょうに難しい問題です。
「存在とは何か?」という問題は今から2500年前に古代ギリシャのプラトンやアリストテレスが問題にしましたが、アリストテレスはあまりにも厄介な問題だったので、存在論を回避して、実体論に逃げました。
アリストテレスはその「形而上学」という本で、「存在するモノの全体としての存在者を論じる」のが存在論といいましたが、ウーシアとか、ト・オンというギリシャ語に存在のほかに実体という意味があるのを利用して、実体を論じる方向に転じ、結局のところ、存在とは何かという問いは実体とは何か、という問いにすり替えられました。
近年になって、ハイデガーがアリストテレス以来2500年にわたって、忘却されていた存在論を復活させましたが、かれもアリストテレスと同様に存在に関しては「明るみ」とか、「性起(エルアイグニス)」としか言えず、結局のところ挫折しました。
それだけ存在とは何か?という問題は解明が難しいということです。
にもかかわらず、私たちは日常的に「ある」とか「いる」という言葉を使っていて、当然存在の意味を知っているはずなのですが。
次に、「なぜ、世界は存在しているのか?」ですが、世界とか宇宙は存在する必然性がないのだから、存在しなくても良かったはずなのですが、不思議なことに存在しています。
このことは古来、「なぜ無ではなく、存在なのか?」という問いとして問われてきました。
しかし、この問題に対する答えは科学・物理学をもってしても答えられないと思います。
最近、ジム・ホルトという人が「世界はなぜあるのか?」という本で、現存の哲学者・科学者に問い、それを探究していますが、原理的にいってその答えはありません。
次に、「神は、あるいはこの世界を超えた超越者が存在するか?」という問題も、人間の知性とか理性が、経験に限られ、経験を超えたて問題には二律背反に、矛盾に陥る性質を持っている以上、神がいることを証明もできないし、反証もできません。
にもかかわらず、人間理性は己の能力を超えた問題を問題にせざるを得ない以上、絶えず神の存在を気にかけずにはいられない宿命を負っています。
中世の聖アンセルムス以来、多くの神学者・哲学者が神の存在論的証明に挑戦しており、西欧にはその長い歴史があります。
一応、近世のカントの批判をもって終止符が打たれたと言われていますが、依然として挑戦するものが絶えません。
それと次に「なぜ、私は私なのか?」という自己同一性の問題もいろいろな哲学者が論じていますが、これといった決定的な回答がない問題です。
もちろん、私は自分が私だという強い「信憑」を持っています。
それがなかったら、私が人生を生きる意味はないでしょう。
しかし、私の私たる根拠とか理由はどこにあるのか?と問われたら、人は容易にはそれに答えられません。
なぜ、私は私なのか?
私は私でなく、他人であっても良かったはずです。
他人でなく、まさしく私である根拠は何なのか?
デカルトは神が世界を作ったのだから、その神が私を欺くはずはなく、私が私と思うもの、それが私だと言いました。
だけど、神がいなくなると私が私である根拠はなくなります。
いくら、「われ思う、ゆえにわれあり」といっても、それは単に私の思考作用があると言っているのにすぎず、思考作用があるからといって私が存在することの根拠にはなりません。
依然として私の存在は謎です。
つぎに、「外部世界は存在すると言えるのか?」という問題です。
これは現代の懐疑論の大きなテーマの一つで、すでにラッセルが20世紀の初頭に「外部世界はいかにして知られうるのか」という本を著していますし、最近はバリー・ストラウドという人が「君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか」という本を著しているように、外部世界が存在している根拠とか理由は何なのか?という問題です。
私たちは外部世界が存在している強い「信憑」を持っています。
その根拠はそれを感覚・知覚していることでしょう。
目の前に外部世界を見ているから、見ていることは外部世界が存在していることの証拠です。
しかし、デカルトがそうしたように人間の感覚・知覚は間違えやすいものです。
錯覚があるし、もしかしたら夢を見ているのかもしれないし。
実際は外部世界なんて存在しないのかもしれません。
次に「過去は実在するか?」という問題ですが、私たちは未来は存在しないことはよく知っていますが、過去は記憶があるし、遺物があるし、記録があるから実在していると考えています。
だけど、過去というのは過ぎ去っているのだから、実在しないはずです。
にもかかわらず私たちは過去が実在するという。
記憶がある、しかし、脳細胞は細胞のかたまりで、細胞は生体で、生体は現在しか知らないはずです。
脳のどこに過去が保存されているというのか。
また、過去の遺物があるという、しかし、遺物は過去に存在するのではなく、現在に存在しているモノです。
その遺物に過去という時間が刻印されているわけではありません。
私たちが遺物を見て、それを過去に存在していたものだと思うから、過去なので、いわば過去時制で語るから過去なのです。
過去という時間があるわけではありません。
この問題はラッセルが「世界5分前創造仮説」といってから有名になったように、もし過去が実在しなければ、世界は5分前に作られたといっても、それを証明も反証もできません。
次に「他人の心」の問題。
私たちは私が心を持っていることは直接的に知ることができますが、他人が心を持っているのを間接的にしか知ることはできません。
他人の言動や他人の振る舞いや表情から間接的に、その向こうにあるだろうと想像しているだけです。
だけど、他人の心は私から見えないのだから、私の心を他人の表情や振る舞いの向こう側に感情移入によって「投げ入れて」そこにあるだろう心を想定しているにすぎず、実際はそれは私の心の「投影」です。
だとしたら心というのは世界に私の心一つしか存在せず、もしかしたら他人の心は存在せず、ロボットか、ゾンビかもしれません。
これは哲学では「独我論」の問題で、「独我論」を論破するのはひじょうに難しい問題です。

以上、現代にまで及んでいて解決されない「形而上学」の問題のいくつかを述べましたが、どんなに科学が発展しても依然として古代ギリシャで提起された問題は解決しておらず、そのためにプラトンだ、アリストテレスだ、とその著作を読む羽目に陥っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。すごく勉強になります。哲学で問題となっていたことが概観できる感じです。

ただ私からするとなんか簡単に答えられそうな問題の気もします。それは問題の難しさがわかっていないからなのでしょうけど。

例えば、「世界がなぜ存在するのか」というのは、私はたまたま偶然だと思います。もちろん世界は存在しなくてもよかったのですが、あるいはそうした世界が存在した(あるいは他に存在する)のかもしれませんが、そこには人間が存在していないので(存在できないので)認識できていないということではないかと。しかし、これは誰でも考えるでしょうし、答えではないのかもしれません。

ギリシャ以来考えて解けない問題についてこれ以上考えて答えが出るのだろうか?という疑問がわきます。考えるという手法で答えがでるのかどうか、ということも考察されていることでしょう。

また、何か答えが出た場合にその答えが正しいかどうか考察で判定できるものなのかどうか気になります。

お礼日時:2014/04/07 20:20

 コメントありがとうございました。

それと共に新たな宿題もいただき恐縮です。

>「そして誠実な研究者ほど古典的な理論や方法論に立ち返りもします。」ここがどうなのかなあ?と私は思います。やはり、哲学だと必要なのかもしれないですね。

 そうですね、理学や医学分野では、確かに先進の研究成果を常に意識する必要もあります。けれどもその前提にも「なぜそうなるのか」「別のアプローチの仕方は他にありうるか」として過去の研究実績にも立ち返るとの部分が多分にあります。
 アインシュタインはニュートンを説明できますが、ニュートンはアインシュタインを説明することはできません。それ以前のライプニッツなどは説明できますが自ら以後を説明できないのは当然の話になります。
 つまりは「対象化とその設定の仕方」との問題にもなるかとも考えることができます。現代科学に特徴的に見られる特有の現象として、研究成果が利潤に結び付きもするとのビジネスとの関係のあり方が問題にもなります。
 本来の基礎科学論などは滅多に日の当たらない地味な領域ですが、それがひとたび「これまでの常識を覆す」などの下世話な報道がなされますと途端に企業関係者などが擦り寄ってもいきます。
 これまでも科学技術の世界では、「転用」と称する形で軍事利用が目的だったものが民間に転用されたケースなども多々あることもご存知でしょう。
 「科学」本来の立場からすれば、人間を殺傷する目的のために利用されることを最も嫌いもするはずですが、それを民間転用した段階で、今度は金儲けの対象などに矮小化されることも同時に悲しい話です。
 ですから、もしかしたら良識有る科学者は「なぜ、こんなことを続けているのだろうか」と自身の研究を常に疑いそして観察対象としているかもしれません。この「自身そのものを対象化する作業や発想」を僕は哲学することと同義にとらえているのですが。そうした考え方は青臭い書生論と同じですかね。
 漱石の『こころ』にせよ、鷗外の『舞姫』にせよ、「他人との関係の中で『傷付く人間』」に照準をあてているとも読むことは可能です。
 人間観察を言葉で表すのが文学であるとするならば、その文学の骨組みとなりうるのが哲学する行為そのものと何かの関わりや違いがあるのだろうかとも考えたりします。
 ヘーゲルやデカルトの著作の多くが論文的なスタイルではあるものの、ニーチェやハイデガーのそれは物語を読むこととも似ていて、読書するとの言葉を使う方が適切かもしれません。
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この回答へのお礼

再び回答いただきまして、どうもありがとうございます。過去の古典的な業績と自分の立ち位置を比較して方向性を確認するということなんですね。
ご指摘いただいて科学が社会的にどのように利用されるのかについて関心を持つことは重要だと思いました。

お礼日時:2014/04/08 08:09

こんにちは。


 確立した大きな分野からの細分化、認識を転がすことによる新たな見え方の出現、ミクロからマクロまで無限大の広がりの中における有限の存在の解釈。素人考えの直観ですが、こういう方向の進歩の流れはあるように思います。また、本質を言い表した言葉がまずは昔から積み重ねられていて、その先に時代の進歩による成果を踏まえた新しい本質が言い表されて積み重ねられることが繰り返されてきてはいると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。そうすると古代中世の考えをそのまま発展させていくという感じでしょうか。
自然科学については古代中世の説は誤りばかりでした。自然発生説、天動説、燃焼素説など。そしてその誤りを正しながら発展しました。哲学では過去のあやまりは(私があまり知らないせいかもしれませんが)あまり出てこないでそのまま古典として受け入れられている気がします。そこらあたりが違うかなと思いました。

お礼日時:2014/04/08 07:47

>そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?



○面白い表現ですね。哲学の本道というのは過去から未来へ一乗であり変わらないものなんですよ。人類の始まる前から存在し、人類の消滅後も同じく存在し続けるものなのですよ。哲学の真理は先人の教えも現代人の教えも同じなのですね。先人はこれを称して「北星」つまり北極星のように動かないものと言ってますね。
長い人類の歴史の中では現代ぐらいの高度な科学技術を持った時期は何度もあったのですよ。その度に人類は間違いを犯し、谷底に転げ落ちたのですね。何度も何度も這い上がって来て、それを文明と言っていますが山の高い峰はいつも同じように存在しているのですね。その最高の峯を哲学というのですね。峯の存在をいろいろな表現で表したのがいにしえの哲学者や宗教家であったのですね。
山の麓から峯を見上げると雲の上に光り輝く存在ですね。峯に立つ者にしか峯の意味はわからないのですね。
そういう者はたまにしか現れないのです。その者の教えをどこまで理解できるかが哲学の道なんですよ。
例えれば、遥か昔にこの地球に宇宙船で移民して来た宇宙人が地球の哲学を学んでいると考えればいいんですね。最高の科学技術を持った宇宙人は何度も間違いをして退化し、そのたびごとに文明を起こし、ある程度の科学技術までいくと科学技術に溺れ、地球の哲学を目指す途次でまた退化してしまう。これの繰り返しが歴史を作っているということに似ていますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうすると前回高度な科学技術を持った時代というのは何年くらい前なのでしょうか?地層を掘ってもそのような痕跡が発見されたという話は聞かないのですが・・・。
一度、発展した科学が退化するのは信じられない気がします。エネルギーがなくなるとかで社会が停滞・後退するのはわかる気がしますが。
もし、その前回に高度に発達した科学、哲学が消えてしまったのだとするとそれを保存できなかったのは残念ですね。

お礼日時:2014/04/08 07:55

自然科学や工学などの学会活動をしていると、確かにそう思いますよね。



他の人の回答を見ていても面白いですし。

私は文学として楽しんでいます。

禅などで伝わっていますが、仏陀に哲学問答をしかけた人がいるそうです。

仏陀は、理由がわかったり謎がわかったりしても、自分にとって何の役にもたたないものに

夢中になるのはやめなさい。と言ったそうです。

これば仏教の教えの中核らしいですよ。

人の思考が進歩しないのは、自分の虚栄心が邪魔をして、個人の名誉にとって都合が悪くなる

話を避けるからだそうです。

哲学が進歩しないのではなく、哲学を学ぶと益があると信じた人が、

特に益が無いということを受け入れられないのではないでしょうか?

仏陀は、毒で瀕死の状態でも、それを大事にできるならば、考え続けなさいと言う指摘をしています。

つまり、そう言うときには、あまり重要に思っていないという本音が出るだろうと。

それが心のそこにあるのに、他人に問答をふっかける根性は良くないと諭しています。

自分の人生の時間、思考の時間、さらに人と論議をする時間。

これの対象となるものは、生きているうちに各自が選ぶことができる。

ならば、本心から重要だと思っているものに、思考を振り向ける素直さが大事としています。

答えを得て人に説明することで、何か別のモノに生まれ変われると信じている人が多くいます。

仏陀は、

誰にも求められていないもの、判ったとしても、日常に利用できないもの、

そうしたものに夢中になる気持ちや執着は、

いずれ本人を滅ぼし(簡単に言うとメンタルを阻害する)、人に迷惑を掛けることなるとし、

これをある種の毒として捉えています。

哲学が進歩をしないのではなく、

哲学の中で特に人気が無かったものが、哲学として残っているだけです。

他の人に求められたものは、別の自然科学や論理学として発展しており、

今まさに質問者さんが活動しているものでしょう。

数千年も前からあるわけですから、

その中から、

「わかったとしても日常で得するわけではない」

という物だけ売れ残っているのだと思います。

当時の哲人たちに、一度精査された以上、時代が変わっても、結論は変わらないでしょう。

問題なのは、何時の時代にも、そうしたものに惹かれる人が多いことじゃないかと。

なので、質問者さんが直感的にいった、文学であると思えます。

とりあえず、頭が良くなった気がしますよね。

これで色々悩み、わかったとしても、自然科学の学会ではレターですら投稿できないでしょう。

この程度の知力ならば、はじめから分を弁えて、

難題にトライしないことが大事じゃないかと思えます。

体を鍛えて、健康を維持するほうが、得をする人も多いでしょうね。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。とても考えさせられるお話でした。このように質問をしているのは自分の中で哲学をどのようにとらえたらよいのか位置づけがわからないからです。自分は哲学の役割を過大評価している気もするし、過小評価している気もしています。
そうすると大学に哲学科が存在しているのも歴史的ななごりという意味もあるのかなと思いました。仏陀の言葉もさすがですね。

お礼日時:2014/04/08 07:41

 不思議に思われるかも知れませんが、哲学は、自然科学の場合と違って「蓄積」が利きません。

というと、例えば膨大な量の哲学書などは何なのか、それは古人の業績を蓄積したものではないのか、という疑問を抱かれるかも知れません。なるほど、確かにそれは古来からの蓄積には違いありません。ただ、この場合、「業績の取り込みによる個人内的な蓄積」のことを指していると考えてください。

 例えば物理学の業績である、自然から抽出された法則や原理や技術などと、哲学書の類とは根本的に異なるところがあります。前者すなわち物理学の場合、蓄積された業績(発見された自然法則や原理や技術など)の情報を土台として、物理学者は比較的簡単にその先の研究に取りかかる」ことができますね。ところが、後者すなわち、哲学書はそのような利用の仕方ができません。

 哲学的業績を利用して哲学徒のできることは、先哲が何をどのように苦悩し、それをどのように考えたか、などを知ることだけです。そういう情報を取り込んでも、それを土台にすることはできず、誰でも自分の土台は自分自身で構築しなければなりません。もし物理学にそれと同じことを求めるとすれば、あらゆる物理定数や法則や技術を、無の状態から自力で揃える作業にも相当するでしょう。すなわち、哲学の進歩は個人の内部で完結し、それをリレーすることができない、という性質があると言えます。この点が自然科学の進歩と哲学のそれとが、徹底的に異なるところですね。

 ところで、「哲学」(philosophy)の原義は、「知を愛すること」ですので、「哲学する」とはすなわち、智恵や哲理、物の本質や宇宙の理法を探究することに他なりません。ということで、哲学には自然科学と同じような意味の進歩はありませんが、(哲学擁護のために補足しますと)あらゆる科学を批判的に見て、これを統合する機能があると言えるでしょう。哲学と聞くと、一般的には、「古臭い、進歩のない、図書館の片隅でカビくさい書物を紐解いて理屈をこねているだけの学問」のようにイメージされやすいかも知れません。そういう面もあるかも知れませんが、それだけではなく、現代の先端的な科学を束ねて、「総合的人間学」の一分野としての自然科学の当為を考え、これに指針を与えるという重要な使命を担うべき学問分野である、とも言えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。哲学がそうした先人の業績からの積み上げができないタイプの学問だとすると確かに進展するのが難しそうです。そういわれてみると哲学で共同研究というのは聞いたことがありません。やはり個人の考えというのが重要なのですね。
後段の哲学の役割は納得いたしました。その意味では哲学は重要なんですね。

お礼日時:2014/04/08 08:02

>哲学は進歩していないのですか?



進歩しております。

専門分化といういう進歩の形態をとっています。

古代、哲学とは、天文学や化学や心理学などの多様な科学を含む学問だったそうです。

天文学が進歩して、宇宙物理学になり、化学も無機化学から高分子化学、そして生化学になりまいした。
最近では、心理学が大脳生理学を無視できない科学の領域に進化しているそうです。

現在の哲学学は、過去に専門分化という進化の過程で置きされれた陳腐な部分だけを探求するようになっています。

昔の哲学と今の哲学はスコープがことなるので、同じ哲学という言葉で比較する誤りを避けなればなりません。

哲学は専門分化という進化の過程をたどっているのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。昔は広い分野だったのが今では、他の科学が独立した残りの存在ということなのですね。

お礼日時:2014/04/07 19:37

 こんにちは。



 認識論も 哲学の一分野ですが 哲学は 認識の獲得にはとどまりません。

 哲学は 意志を問題にします。

 人びとそれぞれの意志にかかわらず事象として成立するものごとがあるとすれば それとしての世界認識があり得て これは 科学です。つまり哲学は そのような自然科学の成果をも用いて どう意志するかの問題にすすむということになります。



 
 ところが 意志は それがじっさいに問題としてまたは問題解決へ向けたかたちとして現われるのは 外面の場であり 社会一般についてもその外形的な仕組みにおいてです。

 要するに 意志が問題だというのは ひとの意志をおのれが・または他人が踏みにじることを嫌うということに還元されます。



 
 慰安婦が問題となるのは 本人の意志を無視していいように扱うことにあります。

 別様に言えば この社会において 当人の意志をないがしろにするような思惟および行動は 広い意味の暴力であり 無効であり不法行為であると考えられています。



 いくらかの昔にあっては 世の中にひとり神聖にして侵すべからざる存在がいて――アラヒトガミとも言われたようですが―― その権威としての存在が言うことには 絶対的服従だというふうに だいたい成っていました。
 

 これは 一方でその神のごとき存在に対しては 人びとはおのれの意志をすべてあたかもゆだねているというかたちを採り 他方では そのほかのずべての人びとは互いの間では あたかも平等であって 互いの意志をとうとぶというふうな仕組みとなっていました。タテマエとしてですが おおむね そうでしょう。悪名高きクリスチアニズムにしても けっきょくそういうことでしょう。

 これが いやいや 一人ひとりの意志を尊重しようということに 社会の仕組みとして具体的に現実になってくれば それは 哲学の進歩だと言えるのではないでしょうか。
 《シャッポ》によってみなが平等であるという仕組みを採るのは まだまだ弱さの証拠だとなるでしょう。




 けっきょく 社会は ひとの意志如何にかかわらず 声を大きい者が勝つのだといった見方が なおあるとすれば ぎゃくに 哲学は進歩していません。

 すなわち社会力学上 その意志行為がたとえ相手の意志を踏みにじる無効の暴力行為であったとしても チカラとして有力であるなら それが通って行くというのであれば たとえ民主主義と言っていても 進歩はありません。

 そういう問題なのではないでしょうか。


 極論すれば 哲学は すでにひとが哲学としておのれの内に自覚したとき まったき内容としてそなわっている。ただし 人びとのあつまる社会にあっては その潜在力としての哲学がそのままではなかなか効力を発揮しない。歴史的な地域的なシガラミが 邪魔しているということでしょうか。

この回答への補足

すみません。よく読んではみたのですが、わかりませんでした。私自身があまり哲学がくわしくないせいかもしれません。

補足日時:2014/04/07 19:39
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私には意味がわかりませんでした。

お礼日時:2014/04/07 19:34

進歩と仰いますが、どうやって哲学に優劣をつけるのでしょうか?




ソクラテスが今でも通じるのは、ソクラテスなどの偉人の思想が元に新約聖書が作られ、そのキリスト教圏の連中が世界を支配し、その思想が世界思想になったからです。(イスラム圏などは除く)


もしこれがソクラテスなどを必要としない状況にするには、文化圏そのものの地殻変動が必要になると言う事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
キリスト教に対するソクラテスの影響は知りませんでした。
自然科学で得られた結果については思想は存在しないので古いものは捨ててしまうのが違うところかもしれないですね。

お礼日時:2014/04/07 19:31

”哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?”


    ↑
進歩という概念は、目的があって、その目的との距離が
小さくなることをいいます。
哲学の目的を真理の探究とすれば、それなりに進歩
しています。
哲学の目的を人生の指針と考えれば、これは進歩して
いません。
古典が意味を持つのは、この人生の指針という面から
哲学を見た場合に限られます。


”哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?”
    ↑
人生の指針という点からは共通する部分があります。
尚、経済学も文学的側面がある、と指摘する経済学者も
おります。


”哲学は進歩していないのですか?”
   ↑
前述したように、真理の探究という面からは進歩
しています。
哲学の歴史をみてみましょう。

世界や人間の成り立ちを知りたい、というのが
ギリシア哲学です。

中世になってこれとキリスト教が融合して、西洋
哲学になります。
神はどうしてこの世界、人間を創ったのかです。
だから存在論が中心となりました。

その後、個人が台頭して、神が死に
存在論から認識論へと重点が移りました。
この認識に対する解析が進み、哲学そのもの
に対する疑問が提唱され現代に至ります。

言語学や構造主義などの出現をみてみますと、真理の探究
という点からは、哲学はそれなりに進歩している
と言えるでしょう。
反面、哲学と社会科学のボーダレス化が進み、哲学の
存在意義が問われることにもなっております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
哲学は真理の探究という点では進歩しているということですね。哲学の現代までの流れが概観できました。

お礼日時:2014/04/07 19:29

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