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このコーナーを読んでいて思ったのですが、かなり古代の哲学者の名前が頻繁にでてきます。ソクラテスだとかプラトンだとか。
自然科学の研究だとそれはありえない。確かに、古い時代の人の名前が出てくることもありますが、それはまれで、その古代の人が書いた書物を研究のために真剣に読むことはないでしょう。いつでも、その時最新の研究論文を研究者は読みます。そして論文ではやはり1~2年遅れてしまうために、学会発表に参加して論文になる前の情報を必死でつかもうとします。最新の情報がいつでも重要です。
そうして考えると哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?人間というものがそんなに変わるものじゃないからだという答えはありえるかと思います。確かに、文学だったらそれは納得です。むしろ古典のほうが人間の忘却というフィルターを乗り越えて存在しているため価値があるといいます。文学作品はまず、その著者が死んで評価が固まらないと駄目だという人さえいます。
はたして、哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?

A 回答 (15件中11~15件)

社会やテクノロジーは変われど、人の脳が変わったわけではありません。



炭の字で書かれた書物かタブレットかなどテクノロジーはあれど、過去の経験則、編み出された知恵は生きることは多いと思います。

例えば、快楽か節制かというテーマなど世界で幅広い哲学でテーマになっていったりするようです。(エピクロス派から陽明学、仏教など)

でも細かい「時間」のテーマなどは近代ヨーロッパなどで考えられたりしますね。あるいはポスト近代の不確実性なものというのも新しい哲学のテーマともいえそうです。

経済学、社会学なども哲学の一種だったと思います。

一時期はフランス、その後はアメリカとか本場が変わっていくとも聞いたことがあります。

でも、今まで哲学の解明にかかわった人の数からするとかなりだと思いますので、普遍的に役立つことは多いと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに人は変わらないから、これまで考えたことが役立つというのはわかります。

「人の脳が変わったわけではありません」というのは確かにそうです。ですが医学的なことを考えると人の脳は変わったはずはないのに、人の脳に関する医学はだいぶ変わりました。初期においては脳は体を循環する血液を冷却するする装置だと考えられていました。しかし、今は心の仕組みが物質的に解明されるような時代になりました。過去にあった脳に関する間違いは正されて、今では脳を冷却機関だと考える人はいません。

そうした過去の間違いが訂正されて常に新しく進歩した知識や考えが積み上げれるといことは哲学ではあまりないのかなあ?と思います。

哲学では昔も今も思考という手段のみもいちられるので、その手段を用いる限りにおいて、大きく昔と変わることはないのかもしれないですね。

お礼日時:2014/04/06 17:13

 それは「哲学」が認識論であることの裏付けである証明ですね。

その対象をどう認識するかとの方法論の違いと論点の炙り出しから問題を立てるからです。
 これは極論かもしれませんが、質問者様の例示される「科学」が結果を重視する性質のものとするなら、哲学はその対極にあるとも申せましょう。むしろ「結論に至る過程と方法論」を重視もします。ですから、理系と雖も理学部などの基礎科学領域を専門とする学部群はむしろ文系の哲学や社会科学の理論部分に近いともいえます。
 
 そして誠実な研究者ほど古典的な理論や方法論に立ち返りもします。結果だけを欲しがるならば、STAP細胞やかつてのIPS細胞で世間を欺いたお騒がせおじさんと一緒の形になってしまいます。努々、華やかさだけに目を向けてはなりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど哲学は認識論というのは納得します。
現象あるいは現実というのが既に存在していて、それをどう解釈するかという話なのですね。

「そして誠実な研究者ほど古典的な理論や方法論に立ち返りもします。」ここがどうなのかなあ?と私は思います。やはり、哲学だと必要なのかもしれないですね。

ちなみにSTAP細胞はその存在があやしいですが、iPS細胞のほうは世界中で追試されてその方法が確認されており、将来有望な手法です。仰いたいのは黄教授のES細胞の実験のほうでしょうか?黄教授の実験はインチキでしたが、後に他の研究者が実験に成功しています。

お礼日時:2014/04/06 16:57

東京―大阪間の移動方法の選択肢が増えたのと同じレベル。



どれに乗るかはお好みで。

ゼロから歩くのも愉しいモノです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

自然科学だと例えば、遺伝物質はなにか?という議論がありました。タンパク質だという意見がかなりあったのですが、ワトソン・クリックの論文が出てDNAということになりました。解決する前はいろいろな説がありましたが、解決すると一つになりました。

あれもOK、これもOKということですと、そこはやはり自然科学とは違うと思いました。

お礼日時:2014/04/02 22:39

古典は、歴史的価値しかない。


たとえば量子論以前の哲学は、頭の体操的な価値しかない。
そのように、パラダイムの変換において、それ以前の世界観は、
古典芸術に比類しうるものになる。
モナリザは誰もが評価するが、もはや誰もあんな絵は描かない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
モナリザの例えは、納得しました。
モナリザは偉大な作品として認められていますが、今更あれを芸風としてマネしようという人は確かにいないですね。練習として模写する話は聞きますが。

お礼日時:2014/03/30 17:19

「人間考えすぎると、限りなくバカな結論を出す」と言う台詞を読んだ事があります。



釈迦の教えも後々いろいろに解釈され 必ずしも釈迦の思想には至らないような宗派も出てきます

哲学も考えすぎると 自分が死んでいなくなったら、この世界も消失するという、よく考えなくてもおかしな結論を見出す人が出てくるのです。
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この回答へのお礼

進むとは限らないということですね。
私も自分が死んだら世界がなくなると考えていました。
最近はそうでもないのですが、ちょっとそう考える時もあります。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/03/27 22:43

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