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西洋哲学が東洋哲学からパクった例を教えてください。

A 回答 (9件)

 こんにちは。



 パクリ得た例です。


 表題は 《ネコ‐ヒコ》連関と《イリ》なる歴史知性の誕生 です。



 奈良・三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。西暦300年頃の話です。

 そうしてある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めた。祟りという認識でしたから 祀れば(オホタタネコをして オホモノヌシのカミを祀らしめれば) 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシについての記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。


 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。

 これは――つまり ネコとヒコとは――

   一人の人の身体と精神とに当てはめられるでしょうし 

   あるいは 市民政府として 市民一般と 市長および公務員とに
  やはり当てはめて捉えてもよい

 と思います。つまり 社会形態としても 確立したかたちを採り始めたと考えられます。


 すなわち この《身体 ‐ 精神》の一体なる存在 または 《市民 ‐ 公民》の連関にたとえられる《ネコ‐ヒコ》連関は そのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。

 崇神(いわゆる天皇としては 第十代)ミマキイリヒコイニヱの《イリ》であり《ヒコ》であり 歴史知性というのは 人のきよらかな自然本性(《自性清浄心》)にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。あるいは 目の前の現実の世界の内にそのまま――理屈抜きに もののあはれなる境地のもとに――《入り》したとも 考えられます。世界‐内‐存在だというわけです。




 その以前では――つまり イリなる歴史知性を持ってみづからの身と心とから成る《わたし》を 時間的な存在であると自覚する以前においては―― たとえばイクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。

 アニミスムないしシャーマニスム(――たとえば 《鬼道によく事(つか)える》卑弥呼を想え。つまりそれは 崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀の出来事である――)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(時間的な・相対的な)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活 そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに(つまり現代人ともあたかも同じように) 営まれていくと言えます。(潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。

 かんたんですが これが 日本人の哲学です。その出発点です。



 図式化したものです。三つ目に《ヨセなる超歴史知性》の登場も見られます。社会の階段をアマアガリして 二階に棲みつくシンドロームに罹った知性です。

 
  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                   時間的存在の自覚。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から
                《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                社会力学上(政治的に) 寄せる。






 ついでと言ってはなんですが 次をも添えます。

 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~

  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓        ↓            ↓
  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 世界に《イリ》した知性なる人間の その世界における位置づけが重要だと考えます。《ひと》と《かみ》との間のへだたり および 近しさ このことが重要ではないかと。

 スメラミコトも 仮りに現われた仮りの存在としてカミと呼ぶことはあっても(ほんとうは ないはずですが) カミなのではないということ。

 あるいはまた いかに多くのカミガミが現われても それらはすべて《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》としての唯一なるカミのもとにまとまっている。こう捉えます。そして カミは ナゾです。(観念ではないという意味をふくみます)。





 つまりは 西と東 あるいは南と北 これらのあいだの違いは 大したことではないと考えられます。

 理屈をならべるか すでにさとっているかの違いがあるだけではないでしょうか。

 日本に科学が起こらなかったと言うとすれば ヨーロッパにもののあはれを知った境地をひとがたのしむことは まれであったと言えましょう。
 それに 科学なんて 或る程度は すぐにマネすることができます。

 最初に《パクリ得た例》と言いましたが これがなかなかパクリ得ないようなのです。
 エウローパよ おごるなかれ。
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この回答へのお礼

大した違いはなくて結局は一緒ってことですか?

カミの考えはどこの人も考えるんですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/13 00:05

追記。

ところで中国哲学には紀元前しか存在しないと思う人はいないでしょうね。思想は政治経済のシステムを動かしてきた実学だということを体現している国ですね。顧炎武、黄宗羲、王夫之、李卓吾、といった近代のあたりに目を向けて、西洋と比較したら面白い。
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この回答へのお礼

中国哲学の近代は全く考えてませんでした。

お礼日時:2014/04/12 23:56

 アダム・スミスによる「神の見えざる手」から、カール・マルクスに至る変化で何が解ったかといえば、人間の行動の足跡から人間の意識を社会科学の領域で分析するための手法の変化ともいえます。


 これは自然科学でのレオナルド・ダ・ヴィンチのスタイルと似ているともいえます。データを集めてそれを分析し抽象化する作業の蓄積であって、理論と実証の基本的な関係ともいえます。
 マルクス以後のケインズであれ、現在のフリードマンであれ、理論と実証の関係を殊の他に重視しもするのはなぜかとお考えになれば解るでしょう。
 実証に裏付けられない理論は抽象論であり、理論のための理論でしかありません。逆に幾らデータだけを集積してもそこから何が解るかとの部分がなければ単なる実証主義でしかなくなります。
 東洋にはそれがないから、最後には天や天命などに逃げようとし説明を避けもします。なぜ………なのか?との問を立ててそれに対する合理的な説明がなされない限り、問題を立てるとはいえません。それでは体系を構築することもできません。
 哲学は知の体系ですから、そうした不可知論とは真っ向から対立もします。
実例を挙げてみますと、鎌倉時代の慈円による『愚管抄』がありますが、この作品で慈円が歴史の変化を「道理」との言葉で説明しようと試みています。
 これに対し江戸時代の新井白石による『読史余論』では「九変説」として歴史の変化を説明しようとしています。前者では政権の移りよりも「武者の世になりにけり」として権力の座にある者の変化を綴りますが、後者は構造の変化にも着目しています。そうした点で何れに合理性があるかと問えば後者に一日の長があるとも申せます。実証性が幾らかでもあるからです。
 余り「天の決めた意思」などに縛られますと、自立した個人を認めることができなくなりますよ。それでは人間が如何に進化してきたを説明する材料にはなりません。

この回答への補足

うーん、わからない所を突き詰めていかないと哲学にならないってことですか?

もちょっと説明お願いします。

補足日時:2014/04/12 23:53
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6です。

ちょっと穿った話をしようと思います。音楽学は西欧の叡智を定義づけた四科のひとつです。ほかに算術、幾何、天文学ですね。プラトンをひもとく気力はありませんが、ポエティウスの有名な言葉、真理と哲学は四科を通してのみ拓かれる、というのは聞いたことがおありではないかと思います。哲学は音楽と兄弟のような関係だと、アドルノも言いました。
さてそこで、西洋音楽が東洋音楽をパクったというエポックメイキングな出来事に注目しますと、やっぱり6で述べたようにロマン主義のあとの時代なんですね。それは、空間では異国趣味、時間では古典発掘という、相対化と自己洞察の時代です。アラビア風の音楽よりもさらに東、中国風、日本風の和声が作曲に用いられました。ドビュッシーの時代です。時期的にもですが哲学ではベルクソンの果たした役割と似ています。ただし音楽のほうが移植はあきらかですね。
では東洋音楽が西洋音楽をパクったのはいつごろでしたでしょうか。本格的には幕末明治、東京音楽学校設立や鹿鳴館のころでしょう。あまり時間差がないですね。東京音楽学校は1887年に作られたようですが、西洋一辺倒の文明開化のありさま、哲学で言えば、西周や井上哲二郎のような役割となりましょうか。
気をつけておきたいのは、しかし、日本には西欧的な意味での音楽がなく西欧的な意味での哲学もなかったということの本質です。もちろん日本には謡と器楽のしらべがありましたし、世のことわりも道理も、詩歌文学から宿曜、算、暦をつらぬいておりました。天皇に天文の知らせを申し述べることを暦奏といいますが、かつては神へことばを差しのべる繊細な道理があったことでしょう。
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この回答へのお礼

日本は自分を保ちつつの良いとこどりがうまいんでしょうか。

哲学と音楽の関係ってどんなんでしょうか?
気になりますね。

お礼日時:2014/04/12 23:50

 確かに、ヤスパースにも『龍樹と仏陀』との論稿もありますが、これは仏教を西洋哲学で説明すれば、こうだよね、こう説明できるよね、との「理解の仕方」を説明した方法論ともいえます。


 でも逆はありません。仏陀の時代にデカルトがニーチェがいたなどの事実はどこにもありませんから、逆は成り立たないとの結論になります。
 西洋で仏教に関心が集まるのは、キリスト教が社会の中で守旧派の総本山的な存在でもありながら、それでも一応は「知のありようを問う」姿勢を示すことである程度の「合理性」を担保しようとしたことに対する揺り戻しとも解釈できるでしょうね。
 でも仏教をはじめとする東洋にはそれがない。ひたすら神秘主義を守ることでしか、自身の存在を認めさせることが適わないからですよ。
 そうした点に僕は不信感を持ってもいます。西洋には哲学があるものの、東洋には哲学はないとの結論です。

この回答への補足

結局なんで哲学ではないのですか?

補足日時:2014/04/12 23:45
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http://www.transview.co.jp/05/top.htm
『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を恐れたか』ロジェ=ポル・ドロワ

を読んでみてはいかがですか。わたしは未読ですが、フランスにおける既知の事項を述べます。ロマン主義が席巻したとき、東洋美術とともに神秘思想がかなり流行し、仏教思想は世俗の知識人に身近な難解なものとなりました。ヘーゲルがかつて敷いた仏教の解脱のイメージから特に掘り下げることもなく、つまみぐいの知識でアイディアやイメージをふんだんに得たというのが妥当かと思います。ところでこのころベルクソンがおり、その思想が甚だ仏教的なのはどういうわけとも知りませんが、フランスの現代思想の方向性が牽引されまして、さらに、少し後になるとインテリはハイデッガーを読め読めの風潮になりました。ハイデッガーはベルクソン批判の姿勢を取りましたので、おのずと仏教の風が吹いたあとの風土を継承しているといえそうです。この風土の子供たちは、ベルクソンを踏襲するサルトルやメルロ・ポンティ然り、ハイデッガー批判のドゥルーズ然りですが、時代が世界を相対化し、価値を多様化し、脱中心的に運んで行くなかで、バタイユとかデリダとかもそうですが、へーゲル読みでありつつ実社会分析にシフトする流れがあるんですね。西欧の築いた市場経済の機構や社会通念や価値観に向き合うとき、仏教の緩やかな影響というのは手段とか方便に潜むばかりで、それはたぶん逆の場合でも同じだと思うんですよね。東洋的なるものが西洋化はできないし、西洋的なるものは東洋化できないわけで、外から見てみようという相対意識を磨く結果になるだけなんじゃないかなとわたしは思います。ま、こんなとこで。
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この回答へのお礼

な~るほど。

結局取り込めないってことですか。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/12 23:41

 もし東洋に「哲学」があるというのであれば、それが対象とする領域を定義する必要もあります。

天命などというわけの分からないものを持ち出すだけならば、それはキリスト教にも同じ要素はありますが、キリスト教が仏教と異なる最大の点は、偶像を持ち出しそれを信仰対象とする点です。つまり日和見不可知論に逃げ込む形と同じです。
 キリスト教は偶像崇拝を禁じています。また同時に自らが主体的に挑めとの点が仏教などという低次の信仰とは異なりもします。
 もちろん仏教の中には禅の様に「問うことを求める」質の宗派もありますが、それはインドで発生した原始信仰を体系化するとの工夫により中国で生まれたものです。仏教本来のものではありもしません。中国で形成されたということは老荘思想のそれを多分に受けているともいえるでしょう。けれども唯唯諾々として権力に従い、権力の支配を正当化する孔孟とは明らかに方向性も異なります。
 とはいえ、東洋とやらのそうしたスタイルで西洋哲学史の歩みを説明できますか?。できようはずもありません。思索そのものが深化するとの発想がないのですから当然の話です。
 そして何よりも最大の違いは「人間とはどの様な存在であるのか」を基本命題とする西洋哲学に対し、東洋は「運命」何ぞという「初めに結論ありき」の質問の立て方をしますから、それで議論は留まります、深化はありません。
 東洋に近代がないのは、こうした背景にもよります。下手をすればヨーロッパ中世の暗黒時代の延長線上をいまだにトレーシングしている形と同じですよ。
 東洋には倫理はありますが、哲学がないのは「生きて行動する『個としての』存在」を対象とするのか、それとも「枠組側から見た人間」を扱うのかとの違いです。その象徴的な言葉が『修身・斉家・治国・平天下』との儒教道徳的価値観の生成ともいえます。お上の前にひれ伏すだけの人間を育てるか、逆に自立した個人と市民社会の主体を生み出すための原動力となるかとの違いです。

この回答への補足

結局、哲学の定義は何なのですか?

人間とはどの様な存在であるのか」を基本命題とする西洋哲学に対し、東洋は「運命」何ぞという「初めに結論ありき」

この違いですか?

補足日時:2014/04/12 23:34
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 ただ聞いているだけにしては傲岸不遜ですね。

東洋なんぞには「哲学」がありもしないのは初めから解りきっているはずではありませんか 笑

この回答への補足

そうなんですか?

補足日時:2014/04/07 04:53
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m2150様、こんばんは。




「どちらが先」ということよりは、
「なるほど、そうなんだ」ということのほうが、大事で、


「コレは、優れているが、「起源」が異なる(敵製だ!)からダメ」といった、のは、
・・・何処かで聞いたような話(不合理、極まりない)です
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この回答へのお礼

「どちらが先」より・・・・
なんてことはわかってますよ。

ただ聞いてるだけですよ?

お礼日時:2014/04/06 19:48

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