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 あらためて問います。
 資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。

 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

 § 2 仏陀の範囲

 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、

 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。

 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB% …

 § 1 概要

 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。
 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
 ~~~~~~~~~~

 問いのかたちで考えてまいります。

 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?
 
 (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?

 (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

 (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?

 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・

 (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

 (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?

 (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?

 けれども
 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?

 (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? 

 (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?

 (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。



 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

A 回答 (30件中1~10件)

はっきり言って、自分が覚ったかどうかと、釈尊がモノホンかどうかはあまり関係無いですよ。

各自の事柄ですよ。ブッダにへつらう必要なんてない。相手が本物か偽物かなんて増して関係ない。

余談になりますが、偽物語というアニメに、偽物の方が本物よりも優れていると言うペテン師が登場します。その理由は、偽物が本物になろうとすることこそが尊いから、と言うものでした。
仮にブッダと称する究極地点があるとして、だからといってそこに達した者が達してないものよりも優れていると言うのは、私には受け入れ難いのです。へらへらとブッダを仰ぎ見るなんてのはゴメンです。
だから私は、自分をブッダであるとは言いません。ブッダでないからといって、ブッダと対等ではないとはならないからです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 まぁ この質問の姿勢は 政治的であり 多少ともかけ引きをおこなっているかも分かりません。と白状します。
 ★ ブッダにへつらう必要なんてない。相手が本物か偽物かなんて増して関係ない。
 ☆ ブッダにへつらったりはしていません。むしろ 歯牙にもかけないということを間接的に言っていますから やはりさげすみの心で臨んでいます。

 ただし ブッダによって或る種ののぞみを持つに到った人びと――つまりは わたしは その状態をイカレポンチと言ってはばからないのですが―― これらの人びとに向き合って この質問ではそのメンツが保てるようにと 政治的世間的なおべんちゃらを言っているかたちになっています。

 そんなに重要なオシエであると言うのなら しかしそれでも そのオシエによるさとりなら もうすでにわれわれが生まれつきの人間であるならば じゅうぶん成就していますよというかたちで 対話を挑んでいる。――こういう姿勢です。(ただし 議論の中身については その水準を落としてはいないつもりです)。


 ★ はっきり言って、自分が覚ったかどうかと、釈尊がモノホンかどうかはあまり関係無いですよ。
 ☆ ここでは ゴータマは 偽物であるという前提にすでに立っています。

 ★ 各自の事柄ですよ。
 ☆ ですから ゴータマの得たさとりくらいなら 人間なら誰でも得ているということを含むかたちでの《各自の事柄》になっているのですよ。と言って行く姿勢です。


 

 ★ 偽物語というアニメに、偽物の方が本物よりも優れていると言うペテン師が登場します。その理由は、偽物が本物になろうとすることこそが尊いから、と言うものでした。
 ☆ ゴータマの場合は 偽物のまま死んだと言っています。ついぞホンモノになろうとしたところもないと言っています。


 ★ 仮にブッダと称する究極地点があるとして、だからといってそこに達した者が達してないものよりも優れていると言うのは、私には受け入れ難いのです。へらへらとブッダを仰ぎ見るなんてのはゴメンです。
 ☆ 《ブッダを仰ぎ見る》人びとがいるので その人びとに向き合っての話し合いです。説得です。

 多少は このブッダなる境地が 高いものであるという前提を共有したかたちで 話し合いに臨んでいるという意味です。

 
 ★ だから私は、自分をブッダであるとは言いません。ブッダでないからといって、ブッダと対等ではないとはならないからです。
 ☆ そこのところは あくまでブッダを仰ぎ見る人びとを前にしての政治的判断になっています。おもねりのような印象をあたえてしまうかも知れません。その第一印象を突き抜けて コテンパンにゴータマ批判をおこなっているという実質があると心得ているつもりです。


 
 押してもダメなら 引いてみなと言うぢゃないですか。

 この方法が不純だと言う場合には スルーしておいてください。
 そして こんな方法を採ったわたしを あざわらってください。
 


 

お礼日時:2014/04/08 20:34

その時、目覚めたお方、幸あるお方は、ウルヴェーラー村はネーランジャラー河の岸辺にある菩提樹の下にあって、


最初の目覚めを体験された。時に、幸あるお方は、菩提樹の下で一たび結跏趺坐したまま、七日の間、解脱の楽を味わいながら
坐したもうた。[一]

時に、幸あるお方は、その[七日目の]夜の初夜に縁起を順逆に考察された。

仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む
4~10ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

目覚めてから七日目の夜に縁起を考察しているらしいです。
それまでは、坐って楽を味わっていたらしい。
これが、覚りと縁起は別ということらしい。

だからとにかく禅定していればいい、経典なんかどうでもいい、拈華微笑とかで伝わったんだといえば
まあ、文献学者が何を言っても平気かもしれませんが、そこらへんどういう扱いなのか?

もしくは、仏典結集をやったんだから、教えは伝わっているはずだと考えるか。

ニヒルな
中村元の結論にその後の仏教系の思想家はどう考えているのか気になります。


私は前回は試しにスバッダの発言とニヒリズムとか実存とかを重ねて考えるためにドストエフスキーまで引用したわけですが。


万人救済主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%BA%BA% …

神がないならすべては許される、と、万人救済主義は表裏一体では?


あと、長いので誤字とかあるかもしれませんが
キルケゴールの著作を引用してみました。

だれもかれもがブッダならそれゆえに仏教は存在しない?
と読み替えてみるとか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


だれもかれもがキリスト者であるならば、まさにそれゆえに、キリスト教は存在しない

このことは、いちどはっきりさせられれば容易にわかることであり、いちどわかった以上忘れることのないものである。
あらゆるものに妥当する規定があるとすれば、そのようなものは現実存在にとっては意味がなく、ただ現実存在の根底にあるか、
それともその外に無意味なものとしてとどまっているかでなければならない。
<<人間>>という規定をとりあげてみよう。われわれはみな人間である。それゆえ、この規定は人間の現実存在とは
一般にかかわりがない。なぜなら、人間の全体がわれわれはみな人間であるという前提のもとに立っているからである。
この規定は、現実存在の根底にあるという意味で、出発点よりも前にある。われわれはみな人間である
――さあ、問題はここから始まる。

中略

誰もがキリスト者である、ということについても全く同様である。われわれがみなキリスト者であるとすれば、
この概念は止揚されており、したがって、キリスト者であることは出発点よりも前にあるもの、その外にあるものである――
さあ、ここで問題が始まる。われわれは異教におけると全く同じく、たんなる人間的な生活を営むことになる。
キリスト者という規定は全然効力を持ちえない、なぜなら、われわれはみなそうだということによって、
この規定は問題外におかれるからである。

中略

ところが、人類はその後しだいに本性を現わし、もとのように利口になったので、力ずくでにキリスト教に勝つことの不可能をさとった――さあ、われわれは策を弄しようではないか、われわれがみなキリスト者になれば、キリスト教はまさにそれゆえに消滅したことになる。
われわれの行きついたところは、こんなものだ。いっさいが欺瞞である。この二千の教会――その数はどれだけあろうと――は、キリスト教的に見れば欺瞞行為である。
ビロードや絹やラシャの衣服をまとって闊歩するこの二千人の牧師も、同じく欺瞞行為である。なぜなら、いっさいのというものが、
われわれははみなキリスト者であるという詐称にもとづいており、それはキリスト教をこっそり根こそぎにするものに他ならない
からである。したがってまた、われわれはみな幸福になりうるとか、あるいは「私は他のみなさんと同じように幸福になりうる」
と言って自己満足しているならば、それは一種の虚飾である。このようなレッテルをはったところで、天国にいけるひとはいない、
それはちょうど陸路でオーストラリアに行けないのと同じことである。

100ページから103ページ
キルケゴール著作集19 瞬間 白水社

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この回答への補足

 ゴータマ関係につきましては あたらしい質問へ移ってください。

補足日時:2014/04/20 12:47
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この回答へのお礼

 ☆☆(No.29お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  ▲ 「(自分こそが神だという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば、) すべては許される。」      
  ☆ 神という観念であそんでいるだけです。
 つまり ドストエフスキーは 阿呆です。神について なあんも知らない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしその神なる観念と思想が実効性を持つとするなら それは 宗教=政治的な分野においてです。人びとをその思想でみちびこうとして――権力にものを言わせるか すでに何かのマチガイで宗教者が権威を帯びるという情況が出来ていたとするかにおいて―― したがわせることは或る程度の人数と期間において 可能であるかも知れません。

 ただしそれは 実効性があるとしても ほとんど人間の意志行為としては無効であると考えます。

 
 神を知らない・したがって人間の条件を知らない人間論や世界観にもとづいて 社会の中でお遊戯をおこなっている。言わば人間以前の状態にある人間たちの世界であると考えます。ゾシマ長老とか何とか。




 ご回答をありがとうございます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 目覚めてから七日目の夜に縁起を考察しているらしいです。
 それまでは、坐って楽を味わっていたらしい。
 これが、覚りと縁起は別ということらしい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《さとり》の中に 《縁起》観があったかも知れないぢゃないですか。

 言いかえると 《さとり》の中身が もんだいです。二千年余のあとに こんな問いをあたえなければならないことは ふつうなら 恥づかしくてブディスト同好会はみな 一たんは 解散しましょう。

 《特許》の問題がなければ 《実物》を示さなくてはなりません。特許の問題がなければ・実物を示し得なければ 論文撤回は 再スタートのためにも 必要です。

 どうして二千年も おとがめ無しで来ているのでしょう?

 イカレポンチの問題が 喫緊の課題ではないでしょうか。






 ★ 神がないならすべては許される、と、万人救済主義は表裏一体では?
 ☆ 神は 人間の思考によって規定されるということは あり得ません。あり得たなら 人間が考えた神だということになります。

 人間が 《神がないならすべては許される》と考えようと《万人救済説》を説こうと 神にとっては何ら――規定の上では――関係ありません。神は それら思考を超えているからです。

 その上で 神は万人をすくうか? だとかの――補助線を引く作業としての――問い求めが来ます。それだけです。
 すべては 非思考の庭において起こることです。または 非思考の庭なる動態として推移することです。つまり 信仰です。ここで神は もしそうだとするなら 人間とかかわっています。〔と想定されます〕。





 ▲ だれもかれもがキリスト者であるならば、まさにそれゆえに、キリスト教は存在しない
 ☆ 神ないし信仰と 《キリスト教》とは何の関係もありません。つまり オシエは 信仰とは何ら関係しません。
 信仰が ヒラメキをとおして得るものは 補助線としての観想です。あとは これを思考において思想として 問うという自己表現の分野です。

 キリスト者であるなら この〔信仰から得られる〕思想で勝負することになります。



 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 あらゆるものに妥当する規定があるとすれば、そのようなものは現実存在にとっては意味がなく、ただ現実存在の根底にあるか、
 それともその外に無意味なものとしてとどまっているかでなければならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《規定》は 経験合理性で判断する思想の次元においてなら それも一般に思想として扱われます。もし仮りに神についてなら 意味がありません。せいぜい思想として《神を説明した》という補助線の問題が特殊な分野としてありうるかどうか といったところでしょう。



 ▲ キリスト者という規定は全然効力を持ちえない、なぜなら、われわれはみなそうだということによって、 / この規定は問題外におかれるからである。
 ☆ もしこの議論を活用しようと思えば――する必要はないですが この議論の意義を分かりやすくするためにそうするならば―― 

  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   人間は みな――非思考の庭を大きく言って《身と心》なる存在に自然本性としてそなえているゆえ――信仰する動物であると規定する。この規定は 全然効力を持ち得ない なぜなら われわれはみなそうだということによって この規定は問題外におかれるからである。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 つまり《キリスト者》は キリスト・イエスが 《神》を指し示したゆえに 人間としての普遍的なあり方のことを言ったことになる。あらゆる名の神も《無い神》もみな ひとつの神としてイエスは示した。

 ゆえに 神を信仰する存在として 人間を規定したのと同じ意味で 《キリスト者》という名をあたえたに過ぎない。つまり《クリスチャン》という名は すでにそこで――信仰の徒という概念へと――揚棄されている。

 ましてや クリスチアニズムというオシエは 何の意味もない。シュウキョウは その無意味から――狂気にも――有を起こした運動である。
 
 ▲ この二千の教会――その数はどれだけあろうと――は、キリスト教的に見れば欺瞞行為である。
 ☆ そのとおりですが 《キリスト教的に見れば》と言っていて シュウキョウと信仰との区別がついていないように思われる。

お礼日時:2014/04/19 16:17

引用だらけです。


勉強しなおさないといけないことが出てきています。

そういえば、ブッダが死んだ後、こんなことを言った人がいたなと思い出したのと、
神がいないならすべては許されるとかなんとかは似てるのかな?ということでメモ書きついでの投稿です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



二〇 そのとき、年老いて出家したスバッダという修行僧がかの会衆のうちに坐っていた。さて年老いて出家したスバッダはそれらの
修行僧にこのように言った。「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。
<このことはしてもよい。このことはしてはならない>といって、われわれは悩まされていたが今これからは、われわれは何でも
やりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」と。

ワイド版岩波文庫 ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村元訳
170ページから171ページ


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
9. 「(もし永遠の神がないなら、) すべては許される。」  
「(自分こそが神だという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば、) すべては許される。」      
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻
のp239の3~4行目・14行目、p271の12行目・17~18行目。)
「もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要でない。」
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻のp239の5~6行目。)
      
※、イヴァンの有名な「神がなければすべてが許される」という命題が述べられた箇所。       

「だが、そうすると、人間はいったいどうなるんだね? 神も来世もないとしたらさ? そうしてみると、
人間は何をしてもかまわない、ってことになるんだね?」
(『カラマーゾフの兄弟』の、ドミートリイがアリョーシャに語る、ドミートリイが過去
にラキーチンに向けて尋ねた言葉。新潮文庫の下巻のp155。)

http://www.coara.or.jp/~dost/2-3-1.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ちなみに、多くの仏教学者たちは、ゴータマ・ブッダが」十二因縁を順逆に考察したのは「覚った」後のことであるから、
十二因縁は「覚り」の内容ではない、「覚り」とは無関系だ、結局、ゴータマ・ブッダが何を「覚った」のかは分からないのだ、と主張します。

『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む 宮元啓一 春秋社

16ページ



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その時、マガダ国の著名な良家の息子たちが、次々と幸あるお方の下で清浄な行を修した。人々は、不機嫌になり、憤り、そしった。
「沙門ゴータマがやって来て子を奪う。沙門ゴータマがやって来て夫を奪う。沙門ゴータマがやって来て家を断絶させる。今、彼は、千人の結髪行者を出家させ、また、これらサンジャヤの徒二百五十人を出家させ、また、これら
マガダ国の著名な良家の息子たちが、沙門ゴータマのもとで清浄な行を修している」と。
また、比丘たちを見ては、次のような詩節をもって非難した。

「大沙門が、マガダ国の山に囲まれた都城(王舎城)にやって来た、すべてのサンジャヤの徒を導いて。今、また誰を導くのか」と。」〔五〕

比丘たちは、そうした人々が、不機嫌になり、憤り、そしるのを聞いた。時に、彼ら比丘たちは、幸あるお方に、このことを告げた。


『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む 宮元啓一 春秋社

210-211ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

引用するのが疲れたので、ここまで。
ネットにあるのは英語ですが興味あったら読んでみてください。でも、日本語訳と英訳と違う気がする。
パーリ文まで比較する能力は私にはありませんので、あしからず。

もしも、韻文が古いならヴィナヤピタカのマハーヴァッガの詩に何が書いてあるんだろうと思ったら、
ゴータマへの批判があって、それが興味深いと思ったので、話題にしてみました。

http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 最後の引用のくだり:
 ▼ 『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む 宮元啓一 春秋社 210-211ページ
 ☆ すなわち
 ★ ゴータマへの批判があって
 ☆ ということですが これは買いません。出家にしろ何にしろ 誰もがみづからの意志でおこなっている行為について そのコトだけを謗(そし)っても何にもならないと考えます。

 おこなっていること・思想の内容について批評や批判をしないのなら 意味がないと考えます。




 ▼ (同上書 16ページ) 十二因縁は「覚り」の内容ではない、「覚り」とは無関系だ、結局、ゴータマ・ブッダが何を「覚った」のかは分からないのだ、と主張します。
 ☆ 《分からない》という批判は 成り立つと思いますが その理由については 何故かを明らかにすべきだと考えます。何故さとりとは関係ないのか。





 ▼ (ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村元訳 170ページから171ページ) ~~~~~~~~
 <このことはしてもよい。このことはしてはならない>といって、われわれは悩まされていたが今これからは、われわれは何でも
やりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ゴータマの生前には 何も自主的に出来なかったとすれば そのことが何故だったかについて反省し明らかにしていないなら 《やりたいことをしよう》と言っても 意味がないでしょう。子どもに戻ったというだけでしょう。つまり 阿呆です。





 
 ▲ (『カラマーゾフの兄弟』) 9. 「(もし永遠の神がないなら、) すべては許される。」  
 ☆ この《神》は 単なるあたまの中の観念です。人間のおこなう思惟に過ぎません。つまり これも 阿呆です。

 《もし永遠の神がいるなら すべてはいつの日かおのれの思惟や行動は すでに知られていることが 測かれ裁かれ得る》と あくまで あ・た・まの中で考えても 同じことだからです。 


 ▲ 「(自分こそが神だという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば、) すべては許される。」      
 ☆ 神という観念であそんでいるだけです。
 つまり ドストエフスキーは 阿呆です。神について なあんも知らない。

 

お礼日時:2014/04/14 16:14

大きな勘違いがわかるか?考え方ってのは古代から進化してるんだよ。

宇宙の広がりまで理解出来ている現代とはちがうんだ。幼稚に見えたりするんだよ超古いことは、ただしそれが重要な始まりなんだ。おメエはたとえば原始人をバカにしている「頭でっかちイカレポンチ」なんだよ 
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この回答へのお礼

 たとえば
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
 (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった解釈による理解が かろうじて成ると言えるかも知れない。

 つまり
 ★ 考え方ってのは古代から進化してるんだよ。
 ☆ ではなく そうではなく すでにゴータマに先行したブラフマニズムにおいて 梵我一如なる妥当性の高い信仰類型が打ち出されていました。

 ゴータマは よく解釈してやると かろうじて この梵我一如の信仰類型におさまる無神論なる信仰形態を説いたと言える余地があります。

 だとしても はっきり言わなかったしおそらく知らなかった。とすれば 《進化》というよりは 退化としての変化でしょうね。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/04/13 21:31

「私もブッダ」っていったい誰が言うんだよ マジなら病院へいけ! 暇人野郎! ネットだから言えるんだろうよ 外ではなにも言えないだろどうせ。

どうだ?
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この回答へのお礼

 だいじょうぶか?


 

 ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2014/04/13 20:46

イエスもそうだけど、私は神とは言ってない ブッダも同じ、しかし弟子を従えるほど、強烈だったに違いない。

それが何年もの歳月で信仰の対象にされてきたのです 解釈に次ぐ解釈によって派閥まで作ったのは後生の宗教家ですよ。なぜか?一般庶民の救いもあっただろうし、各々が感じる悟りもあったはず。だから続いているわけです。見えない法律、道徳にもなった。この功績の原点はブッダに間違いないはずです。普通の人間をこえた仏という概念だからこそ、民衆が信仰するし、信じるから効果があるのだ。いくらネットで顔が見えず、無責任も可能とはいえ、「私もブッダ」と言う者はいないだろう。庶民の悟りを開けよばかやろう、脳が混乱してないか? オレも死んだら仏式の葬式なんだよ。ふざけるのは止めろ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ イエスもそうだけど、私は神とは言ってない ブッダも同じ
 ☆ 《イエスなるふつうの人間が キリストと呼ばれる神の子でありみづからも神である》という想定としての命題を持ちますが いまイエスは措いておきます。ややこしい議論になりましょうし この問いには直接にはかかわらないからです。

 ところが ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)の場合には 説が分かれますが 神格化を為す向きもあります。

 たとえば直前の回答No.25では
 ■ ブッダの再誕は名前が変れどもブッダなんですね。ブッダ以外にブッダはいないんです。
 ☆ と言っています。《輪廻転生》という事柄とは別として――なぜなら ブッダと成ったものは もう苦界に生まれるような再生をしないというのですから―― それでもあたかも永遠のいのちにおいて 何度もブッダとして世に出るというような意味合いで言っていると見られます。

 すなわち これは 神格化されたゴータマ・ブッダです。


 もっともさきほどのイエスが 神キリストであると想定されたのと同じように ブッダなる存在が あたかもブラフマンと同じ神だと見なされたとしても それほど驚くにはあたりません。

 すなわち 後世においてとしても人びとは ダルマ・カーヤ(法身)としてのブッダを想定しています。これは どこから見ても 押しも押されもせぬ《神》です。《非経験の場 ないし 非知》なるナゾです。



 ということは ゴータマをゴータマ・ブッダと呼ぶだけではなく 法身のブッダが そのままいわゆる応身としての(つまり人間としての生身の)ブッダとなったと想定しても それはそれとして みとめなくてはならない議論です。

 ところが その神学が よくその議論を聞くと まったく成っていません。あやふやなんてものではありません。めちゃくちゃです。

 その神学の理論をめぐってとしても けっきょく《ゴータマの成道と呼ばれる智慧のさとり》とは何であるか? という問いに帰着します。つまり その中身を説明したものは いっさいありません。つまり 詐欺である。という結論になるといういまの問題です。




 ★ しかし弟子を従えるほど、強烈だったに違いない。
 ☆ これは 基本的には どうでもよいことです。あたらしく興ったシュウキョウの中にも 《弟子をしたがえるほど》のにぎわいを呈しているところは ありますから。



 ★ それが何年もの歳月で信仰の対象にされてきたのです 
 ☆ ですから この神格化に対応した《信仰》 これについての定義や説明は おそらく皆無でしょう。合理的な内容のあるものは ないはずです。

 例証をひとつしますと。
 アン-アートマンと言ったなら これは アートマンが 梵我一如というように 神ブラフマンと一体であると言っているものであるからには 〔アン‐アートマンと言ったならそれは〕《非経験の場=非知》についての《わが心なる非思考の庭》における受け容れであるはずなのです。信仰であるはずなのです。決して《思考や感性》の問題ではなく あきらかにそれらを超えているということでなくては おかしい。

 つまりは もしゴータマが アン‐アートマン(無我)を説いたのなら けっきょくのところ それについての信仰の形態というのは 無梵無我一如というかたちの無神論なる《非思考の庭》であるはずなのです。

 つまりひとつには けっきょく梵我一如のブラフマニズムと同じ類型である。名前は違っている。片や《有る神》 片や《無い神》であったりする。しかも 信仰は 同じひとつの類型に落ち着く。

 こういった神学つまり 信仰の理論を明らかにして初めて ゴータマ・ブッダの神格化も それとしてみとめられる水準に達する。と言わねばならない。にもかかわらず その説明は しっちゃかめっちゃかでしかありません。神についても信仰についても なあんも知らないのです。





 ★ 各々が感じる悟りもあったはず。
 ☆ ならば その内容を明らかにして クリーンヒットを飛ばして欲しい。





 ★ 見えない法律、道徳にもなった。この功績の原点はブッダに間違いないはずです。
 ☆ あり得ません。《世間虚仮 唯仏是真》などという思想は 世迷いごとです。娑婆即寂光(浄土)と言わなければウソです。

 法律や道徳は わざわざブディズムに頼らなくても 考えることが出来るはずです。

 道徳なる規律にたよることは 基本的に言って日本人について言えば しません。
 ましてや法律は 要らないという基礎があるはずです。
 もののあはれを知るという境地から出発しています。臨機応変にことに処する。(そのとき 倫理思想や法律を用いるという筋道をも用意している)。

 
 そのとき ゴータマの説教とほとんどのブディズム思想は要りません。百害あって一利無しです。(例外は 親鸞です)。
 
 経験合理性にもとづく思考が いつまでも経っても 身に着きません。中身のないさとりを追い求めているからです。玉ねぎの皮むきを 延々と大昔からつづけているからです。




 ★ 普通の人間をこえた仏という概念だからこそ、民衆が信仰するし、信じるから効果があるのだ。
 ☆ ぢゃあ 秀吉も家康も神のごとき存在として祀られているぢゃないですか。それとどう違うのですか? その違いを明らかにして初めて ブディズムの存在理由を議論することができます。




 ★ いくらネットで顔が見えず、無責任も可能とはいえ、「私もブッダ」と言う者はいないだろう。
 ☆ これほど中身のないさとりですら 成道したと言っているのなら その程度の目覚めた境地の状態なら 誰でもすでに生まれたままの姿で成っている。という意味で 《われもブッダなり》と宣言しても 何の問題もない。こういう意味であり そう問うているものです。


 ★ 庶民の悟りを開けよばかやろう、脳が混乱してないか? オレも死んだら仏式の葬式なんだよ。ふざけるのは止めろ。
 ☆ ゴータマ崇拝なる御ふざけをすみやかにやめなさい。

お礼日時:2014/04/13 20:04

>>われわれは各々が ブッダであると何故言わないか?



○あはははは!言えるわけないでしょ。手塚治虫の漫画の主人公達が私は手塚治虫ですというようなものですよ。漫画の中に通行人もいますし、またわけのわからない物も書かれていますね。その何やら不明のものが私が手塚治虫ですといえば笑われるでしょう。
ただね。漫画の登場人物、全てのものは手塚治虫が創造したものには違いがありませんね。それがブッダと仏性の違いですね。ブッダが創造したものが仏性ということですね。手塚治虫の魂が転生輪廻して生まれ変われば時代によって名前は違えども手塚治虫なんですね。それと同じでブッダの再誕は名前が変れどもブッダなんですね。ブッダ以外にブッダはいないんです。一方、仏性とは漫画の中の主人公達のことですからごまんといるわけです。あなたも漫画のなかの一人ですよ。漫画のなかの者がこの漫画は俺が書いたとはいえないですね。このように悟りとは簡単なものです。でも創造された者(漫画のなかのもの)がどのように悟ろうともブッダとの立ち位置が変わることは決してないのですね。
この回答は冗談ではありません。道を外している者への慈愛を込めての「一転語」です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ○あはははは!言えるわけないでしょ。
 ☆ ご見解は とうといのですが 次の理由は いまひとつ理解が行き届きません。

 ★ 手塚治虫の漫画の主人公達が私は手塚治虫ですというようなものですよ。
 ☆ つまり 主人公たちは――じっさいにはほとんどわたしは知りませんが―― それぞれの職業に就き自分の仕事を持っているのではないでしょうか。つまり 漫画家ではないわけですから 《私は手塚治虫ですというようなもの》とは はっきりと別だと思うのですが。

 つまり ゴータマ氏のブッダ状態は 職業に関係なく言わば人間業をめぐってその境地を問題にしているわけですから 誰でもこれにいどむことは出来ます。

 そして 問題は その競い合いにあるのでは けっきょく無くて ゴータマ氏の場合は ブッダ宣言をしたにもかかわらず その中身はいっさい明らかにしない。ここにあります。その程度の智慧が問われるのであれば その詐欺の部分は除いて けっきょく誰でもブッダ宣言は出来る。こういう問いです。


 さらに粗探しをするようで恐縮ですが
 ★ ブッダが創造したものが仏性ということですね。
 ☆ これは ありません。

 ゴータマは ブッダター(仏性)についてはひと言も語っていません。
 《タターガタ・ガルバ(如来蔵)やブッダター》が言葉としても言われるようになったのは ゴータマの死後です。
 《自性清浄心(*)》が あたかもブラフマニズムのアートマン(霊我)のきよらかさに追随するかのように言われたのを承けて それらが考案されたのであって ゴータマは ブッダターを知りません。

  * ヰキぺ:自性清浄
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7% …
 

 あるいは 一切衆生 悉有仏性と言われるブッダターは けっきょく自然本性(《自性 プラクリティ》)において 生まれつきそなわったナゾのハタラキ(《清浄心 プラバスワラ》)であって けっして・けっして・けっして 《ブッダが創造したもの》ではありません。



 それに
 ★ 転生輪廻して生まれ変われば
 ☆ ということは 同じ DNA の存在がいないとするかぎりで けっしてあり得ません。《生まれ変わり》はありません。文学において表現のあやとしてのみ使われます。

 ★ それと同じでブッダの再誕は名前が変れどもブッダなんですね。ブッダ以外にブッダはいないんです。
 ☆ そのような想像力をたくましくしたという事実は それとしてみとめられましょう。文学の問題です。

 言いかえると それが 《大化城》のマボロシたる所以でもあります。自分でマボロシだと言っているわけですから。

 わざわざ本人が 大化城だと言ってみとめているものを あとになってこれを・つまりこの話を説いた人間を あろうことか神格化しておがむようになった。これだけのことです。

 論証することが出来ない話を持ち出して これが万能細胞だというようなものです。科学のほうでは 実証されるかも分かりませんが 想像力の分野では けっして証明しようのない《唯仏与仏》の論理(?)で 突っ走って来た。という歴史があるだけのことです。よ。

お礼日時:2014/04/13 10:50

宇井伯寿という人のことは知らないから


とても影響があったとしても、なんともいえないし、

中村元が

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず
機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をしていた。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、
いろいろ異なって伝えるにいたったのである。」(『ゴータマ・ブッダI』417~418ページ)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

徹底的に仏教を批判しているわけで

ニヒリズムに陥ったとしても

偉い学者にあれこれいう学力もありませんから、
そうですか、仏教には特定の教義がないのか。
と受けとめて終わってもいいのですが。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答です。

 1. ブラフマニズムに反対し理論的にも抵抗したと思われる節が ありそうだとは考えます。

 2. アン-アートマン(無神という意味での無我) あるいは それとつながって 世界のものごとは関係のみにて成り立っているという縁起説または空観。

 3. あとは 神学的な雰囲気を醸し出して――というのは 時空間を自由自在に飛び越えて想像をゆたかにした表現をおこなって―― のちにけっきょくアートマンの復活と同じ意味を持つところのブッダターが 人びとのあいだで考案され持たれた。

 4. つまりこれは ことの本来の意味での《信仰》が省みられたということであり それは ゴータマのいい意味でもわるい意味でもにおける飛躍した自己表現から来る神学的な雰囲気から出たものであったろう。


 と考えます。

 中村元は テレビで解説をしているときは つねに全面的にゴータマを擁護する立ち場でしたよ。

お礼日時:2014/04/12 13:06

参考になればと思い、引用しました。


問題があれば削除してください。
誤字・脱字あるかもしれません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


複数の文献に共通する部分は成立が古い、という文献学の常識について

今日、わが国で行われている仏教文献学は、大正時代から昭和時代にかけて宇井伯寿博士が確立したものを基礎にしています。
そして、とりわけ初期仏教に関わる仏教文献学を精密化したのは、宇井博士の愛弟子・中村元博士です。
その中村博士の文献学の手法が顕著な形で見られるのは、『ゴータマ・ブッダI、II』(中村元選集〔決定版〕第10、第11巻、春秋社)
においてです。

その文献学は、二本の柱から成っています。一つは、複数の文献に共通する部分は成立が古く、
そうではない部分は後世の仏教徒による加筆・挿入(伝統的にこれを「増広」といいます)であるとする柱、
もう一つは、韻文(偈頌)は成立が古く、散文は成立が新しいとする柱です。

中略


伝統的な仏教文献学は、右に見たように、徹底して消去法を取りますから、ゴータマ・ブッダの世界は、拠って立つ場所すらも
ないほど狭く、貧相なものとなります。そして、その結果として、ゴータマ・ブッダの真説探索において、驚くほどニヒリスティックな
態度をとります。中村博士のゴータマ・ブッダ論は、ゴータマ・ブッダ哲学解体論に他なりません。
仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。

中略

韻文は成立が古く、散文は成立が新しい、という文献学の常識について

中村元博士を始めとして、少なからぬ仏教学者は、とりわけ初期仏教の文献研究にさいし、新層・古層というカテゴリー区分を行い、
それを判定する一つの重要な基準として、韻文は成立が古く、散文は成立が新しいという仮説を立てています。
しかし、これもいかがなものかと思われます。といいますのも、確かに、韻文は歌として朗詠されますから、そして歌というものは、
古今東西を問わずそうなのですが、当然と言えばあまりに当然のごとく、古い語形を残す傾向を強く持ちます。

たとえば、韻文の中でゴータマ・ブッダがマガダ語で「ちゃいまんねん」と語ったならば、パーリ語になっても、それに近い語形が
ずっと残るという可能性は非常に高いと言えます。それにたいして、散文は、唄うように朗詠されることはありませんから、時代とともに
大きく語形が変化すると考えてよいでしょう。マガダ語での「ちゃいまんねん」がパーリ語で「違いますよ」となっても、何の不思議もありません。

ここから言えるのは、韻文は古い語形を比較的よく保つ傾向にあり、散文は新しい語形へと変化しやすい、ということです。
言えるのはそこまでで、ここから、韻文は「成立が古い」、散文は「成立が新しい」と言ってしまっては、それは大きな勇み足、重大な誤謬になってしまいます。

中略

中村元博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義(考え、哲学)がなく、ケースバイケースで(行き当たりばったりに)
人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇っ怪なことになります。つまり、中村元博士説では、法門はたくさんあるけれども、
そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、そこにあるのはただの空き地だということになるのです。

ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。


『仏教かくはじまりき パーリ仏典『大品』を読む 宮元啓一 春秋社

はじめにi~ix

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ▼ 中村博士のゴータマ・ブッダ論は、ゴータマ・ブッダ哲学解体論に他なりません。 / 仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。
 ☆ この推論は いただけません。

 たとえ《解体論》になろうと 自分の方針となる前提をおいたなら それにしたがい探究をすすめていくことは それとして成立します。その結果 《解体》に行き着いたとしても そのことに問題はない。

 いづれにしても もし問題があると見るのなら 《前提とした方針》を批判すればよい。
 ▼ 仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。
 ☆ この思考には何の意味もありません。あるとしたら それは ゴータマを開祖とするすべてを鵜呑みにして イカレポンチになっているので そう見えるというだけのことしょう。





 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ここから言えるのは、韻文は古い語形を比較的よく保つ傾向にあり、散文は新しい語形へと変化しやすい、ということです。
 言えるのはそこまでで、ここから、韻文は「成立が古い」、散文は「成立が新しい」と言ってしまっては、それは大きな勇み足、重大な誤謬になってしまいます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 門外漢が まさに一般論として触れるのですが

 1. 自己表現にあたって うた(つまり或る種の韻文)にする場合 これは 初めから 韻文と見なされるようになった形式にしたがって表現すると見られます。

 2. つまり わが国のやがて三十一文字にかたまって行くウタにしても もともとの初めからそのかたちに嵌めるものと考えられます。

 3. 和歌の場合は 音韻が工夫をこらしたものになったのは少ないわけですが ひとつには タトエが発達しています。

  なになにの〔ごとく〕 なになにだ。

 この形式の踏襲は 散文との区別を成すはずです。

 4. 世界の中で 音韻で韻を踏む形式のほかのかたちを取り上げるなら それは 対句があると思います。同じような意味の語句を ふたつ並べる。これで 聞くひとも意味が分かりやすくなりますし おぼえる場合にも 覚えやすくなる。

 5. こういった簡単な見渡しでものを言ってよいとしたら
 ▼ 韻文は古い語形を比較的よく保つ傾向にあり・・・。言えるのはそこまでで、ここから、韻文は「成立が古い」・・・と言ってしまっては、それは大きな勇み足、重大な誤謬になってしまいます。
 ☆ という判断は 必ずしも容易にうべなうことが出来るとも思えません。

 6. 決して 全体論ではありませんが 一部では 《もともと初めから 韻文で表現した場合がある》ということを切り捨てることは出来ない。こう考えます。

 7. ▲ 韻文は「成立が古い」、散文は「成立が新しい」と言ってしまって
 ☆ よい場合もある。こう考えます。







 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 中村元博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義(考え、哲学)がなく、ケースバイケースで(行き当たりばったりに)
 人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇っ怪なことになります。つまり、中村元博士説では、法門はたくさんあるけれども、
 そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、そこにあるのはただの空き地だということになるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 具体的に原文を持ち出して その中身について検討することで解決すべきことと考えます。一般論や総論を言っていても始まらない。



 もっとも
 ▼ ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。
 ☆ と言われても じつはわたしの場合 そのとおりであると考えています。
 ゴータマの思想は 《足場だけを築いたもので 肝心の家本体はない》という意味で 中村元説に賛成します。

 ですから このことは中身で勝負と行けば済むことなはずです。

お礼日時:2014/04/12 12:56

Seeing even Taṇhā, Arati and Ragā,


(The three daughters of Māra),

三人の女性は
マーラの娘たちらしい。

そこに
マーガンディヤの娘を並べたのだろうか。

http://suttas.net/english/suttas/khuddaka-nikaya …


降魔成道の話は、マーガンディヤの話よりも、古いのだろうか?
経典の成立事情はともかく。

~~~~~~~~~~~~~~~~

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

~~~~~~~~~~~~~~~~

ゴータマは内心の安らぎを見たことになっている。
問題なのは本人はそういっているが、客観的な根拠が示せていない、ことになる。
内心の安らぎとは何か、ということにもなる。


一応、覚りは、縁起ということになっているはず。
しかし思ったのだけれど、「内心の安らぎ」と「縁起」は一致しないのではないか?

ゴータマは、内心の安らぎを見たといっている。

縁起は因果関係などの説明だから縁起は過程の説明でしかないだろうか。

他の人も、ゴータマと同じく、内心の安らぎを見ることが出来ればいいのだろうけれど、
それができないならば、どこかに問題があることになる。

再現性の問題というものだろうか。

私は、覚りは失神状態からの回復ではないかと思う。
ただその場合、古代の人々が失神を特別なものだと考えていたか?という疑問もある。

それから、
なぜブッダといわないのか?

ブッダは称号であって、自称しても意味が無いからだろう。

それに客観的な基準がない。何をすればブッダと呼ばれるか曖昧。

だいたい、イシバーシヤーイムとかいうのによれば
サーリプッタもブッダらしいし、そこらへんの話がどうなっているかさっぱり。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アーラヴィ・ゴータマという、ゴータマ・ブッダ以外のゴータマも経典には出てくるようです。
詳細は不明。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ▼ (Māgaṇḍiya Sutta)~~~~~~~~~
 9
 With Magandiya
 Māgaṇḍiya Sutta

 Dialogue on the occasion of Magandiya’s offer of his daughter to the Buddha.

 835
 The Buddha

 Seeing even Taṇhā, Arati and Ragā,
 (The three daughters of Māra),・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ やはり マーガンディヤが娘をゴータマに嫁にどうかと申し出たときの対話だという説明があります。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 一応、覚りは、縁起ということになっているはず。
 しかし思ったのだけれど、「内心の安らぎ」と「縁起」は一致しないのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ もしむつかしいことを打っちゃっておけるとしたら 

  成仏得道 ≧ さとり・解脱・縁起説・空観・内心のやすらぎ・・・

 であればよいわけです。




 《1146》の《信仰》は 大いに定義が必要でしょう。

お礼日時:2014/04/11 23:37

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