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《穢(けが)れ》について質問いたします。

 1 穢れとは何か?
 2 死は穢れなのか? であるならば、その理由は?
 3 死穢(しえ)は禊(みそ)ぎ、水によって流せるのか? 流せるとすれば、その理由は?
 4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?
 5 穢れは伝染するのか?
 6 こうした《穢れ》観の背景にあるものは何か、その理論的根拠は?


質問項目はすこし多いのですけれども、
《穢れ》がどのようなものであるのかを私が理解するためにどうしても欠かすことのできない項目なので、あえてそのまま列挙いたしました。

私の身勝手な希望としましては、6項目すべてに答えていただきたいのですけれども、
1項目でも構いません。


よろしくお願いします。

A 回答 (53件中31~40件)

私は単純なものだと思いますけど。

。百足にしても、キキカイカイな出で立ちですし、陰気な場所に住んでいるし、そこから派生した戒めや迷信の類いかと思います。それにしても二度も刺されるとは不運ですね。お大事にしてください。
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この回答へのお礼

夏に実家に帰ったとき、ムカデに噛まれました。
10cmを超えるムカデ(別のムカデです)にガブリとされました。

噛まれた直後はかなり痛いんですけれど、
噛まれると手や腕がパンパンに腫れ上がるので困ったもんです。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 20:43

1 穢れとは何か? 難しいですね。

一つは決まり事や天命を破ること、つまり罪、
元々は天津罪、国津罪ですが、いまでは法律や規則もはいります。
更に自分では気がつかないこと。例えば入試で自分が受かれば定員外の誰かが落ちる。その人の悲しむや無念も自分の罪穢れとして受け取ります。心沈む状況も穢れです。

2 死は穢れなのか? であるならば、その理由は?
3 死穢(しえ)は禊(みそ)ぎ、水によって流せるのか? 流せるとすれば、その理由は?
死が穢れであるなどとはどこにも書かれていません。よくイザナギを例に出して「イザナミの死によって穢れた」などという人が居ますけど、イザナギはホノカグツチをいう自分の子を殺していますが穢れたとは言いません。彼は生きながらに黄泉の世界に立ち入るという天の定めた規律を破ったがゆえに穢れたのです。
神武天皇となるカムハヤトイワレヒコは戦を繰り返しますが穢れたとはかかれて居ません、兄が死んでもそうです。
アメオワカヒコの死に際し、彼と間違われたアジスキタカヒコネが「穢れた死人と一緒にするな」と怒るが、
アメノワカヒコは天命を忘れて地上での暮らしに溺れた事によって穢れたのです。
オオムナチは兄神らによって何度も殺されています。つまり死んでいます。しかしその母はそのつど高天原にのぼり、カミムスビの神のもとにいって救済を願っています。死が穢れであればそんな事できませんよね。
そもそも仏教伝来以前、神道しかない時代に死が穢れであるならば、いったい誰に死後の魂の救済を願えばいいのでしょう。

4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?
実に神聖なる者の前にまみえる時、古来より心身を清める事は世界中で行なわれている事です。つまりは自然な行為だといえます。

5 穢れは伝染するのか?
穢れは個人の罪です。親類縁者はもちろん他人に伝染するなどという事はありません。

6 こうした《穢れ》観の背景にあるものは何か、その理論的根拠は?
明らかな証拠というのはありませんが、以前読んだなかで、古代の宮中が政争の坩堝であったという説を私は信じます。
ちょっと気遣うような言動をしただけで政敵と見なされ殺されてしまう時代。天皇も例外ではありませんでした。そこで誰か身内が死ぬと何ヶ月どころか何年も喪に服すと称して政務に出てこない。その辺から死が穢れだと言い始めたのではないかということです。ということで、服忌令は「これだけ休まねばならない」と言う規則ではなく「これだけ休んだら、政務に復帰すること」という規則だったという事です。

現在神社本庁でも「やむおえず神事に携わる際には“祓え”を受けること」としています。これは「3死穢は禊ぎ、水によって流せるのか?」の答えにもなりますね。死そのものは穢れではありませんが、そうであっても禊ぎによって流せます。またイザナギ伝説を死穢の根拠とする場合でもイザナギが禊ぎによって穢れを祓っているのですから、禊ぎによって流せるという証拠になります。そしてそこには日数など書かれていません。
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆よくイザナギを例に出して「イザナミの死によって穢れた」などという人が居ますけど、イザナギはホノカグツチをいう自分の子を殺していますが穢れたとは言いません。
◇ホノカグツチは神さまであり、禁則の例外事項の可能性があります。
そもそも、この時点で殺害は罪や穢れではありませんよ。
「天津罪・国津罪が発生したのはスサノヲ以降!!」と屁理屈をつける(ポリポリ)。
高天原の神々が若草日子を射殺しても、お咎めはない。(補強する。)
また、古代において最大の禁忌の一つである近親相姦をイザナギとイザナミは犯していながら、穢れてもいなければ罪を得ていない。(さらに屁理屈を捏ね、補強を図る)。

と屁理屈をコネながら、
「神々すら下側ざる得ないオキテ、天則・リタ(Rta)の如きものが、イザナギ、イザナミ以前に存在していたと考えらざるを得ない」
と前言を翻すようなことを口走ってみたりする。

国産みでヒルコが生まれたとき、イザナギ・イザナミは高天原に上り、神意を尋ねていますよね。これは、イザナギ・イザナミを超える上位の存在が存在しているということを意味しています。記紀には、このことがハッキリと記されていませんけれど…。

そして、こうしたことを口にすると、怒られてしまうのであった!!


☆彼は生きながらに黄泉の世界に立ち入るという天の定めた規律を破ったがゆえに穢れたのです。
◇このように考えると、確かに天の定めた規律を破った故に穢れた、となるのですが、
誰が天の定めた規律を作ったのか、
という大問題が発生します。
ここで言う《天》とは誰か、という問題です。

一番、楽な解決法は、最初から《天のオキテ》は存在していたのだ、となるのでしょう。
そして、これは、《老荘》で言えば《道》となるのでしょうね。

天界の神々が天若草日子を射殺すのも神明裁判であり、高天原の神を超える存在が存在しないことには成立しない話ですし…。

まっ、死穢は、素朴に「死(体)に対する恐れ」や「死(体)に対する不浄観」の現われかもしれないので…。


☆そもそも仏教伝来以前、神道しかない時代に死が穢れであるならば、いったい誰に死後の魂の救済を願えばいいのでしょう。
◇「死後の魂の救済」という考えは、仏教渡来以前にはなかったのではないでしょうか。



☆4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?
実に神聖なる者の前にまみえる時、古来より心身を清める事は世界中で行なわれている事です。つまりは自然な行為だといえます。
◇なぜ、自然な行為なのでしょう?
これは、むしろ、人為的・人工的な行為なのではありませんか。
子供は神仏を恐れませんよ。そして、神仏(の像)を目の前にしたとき、自身が穢れた存在であると考えもしませんよ。


☆5 穢れは伝染するのか?
穢れは個人の罪です。親類縁者はもちろん他人に伝染するなどという事はありません。
◇穢れは、自身の所属する共同体に対する罪とする考え方もあるようです。
これを祓わないと、共同体に災いが降りかかる・・・。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 18:47

「穢れ」とは、生命の根源的目的(淘汰(エントロピー増大)


への反力)たる“生”に反する方向(エントロピー増大)である。
死は、生に反するようだが、生とは死を避けた結果として
残るものではなく、誰もに訪れる死を見つめて最大限の
自己の可能性の発揮(社会的貢献)に努める=最良の生
とは最良の死を意味するものである以上、「死は穢れ」と
単純には言えない。
基本的に「汚れ」は、自己の食物にならず、病いの原因とな
る細菌を含んでいる可能性が高いので、汚れ=穢れであり、
格式ばった場では、身や手を清めて臨むようになったのだ。
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この回答へのお礼

エントロピーという観点からの考察と回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 18:49

 《祓へ》とは どういうことか? です。



 ▲ (大野晋:カミの祭祀) ~~~~~~~~~~~~~
 ・・・奈良時代・・・養老律令(718年選定)・・・。国家的に行なわれる祭祀は次の五項に分類される。

  1.年ごとの五穀豊穣・息災の祈願
  2.新穀に対する感謝の祭祀
  3.個々の災害が生じないようにとの祈願
  4.天皇即位の際の祓除(はらへ)と祈願
  5.国民の罪悪の祓除と祈願

 ・・・(1~4について省略します)・・・

 5の大祓(おほはらへ)・・・は人間の犯す罪の祓除を願っている。罪は 天つ罪と国つ罪とに区分される。・・・

 注目すべきはこれらの罪の祓除の考え方である。
 中臣氏が大祓の祝詞を読み 卜部氏が祓いの所作をする。罪をはらうとは次のことをいう。まづ 風が吹き払うように天の神と地の神が罪を吹き払う。すると舟を大海に放つように 速川(はやかは)の瀬の瀬織(せおり)つ姫がその罪を大海に持って行く。大海の速開き(はやあき)つ姫がそれをすっかり呑みこむ。すると気吹戸主(いぶきどぬし)の神がその罪を大風によって吹き飛ばす。その吹き飛ばされた罪を速(はや)さすらひ女(め)という地底にいる神が持ちさすらい歩いて 失くしてしまう。
 そのようにして天下の罪という罪は全てなくなると説いている。


 これは行為についての《個人》としての自覚は全然問われていない。カミは罪について個人的戒律の違反を処罰することもない。風によって 川から海へ 海から地底へと罪をはらって行けば それは失われると説いている。・・・
 (大野晋:日本人の神 1997 初出は『一語の辞典 神』1997)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (1)から(3)の祈願や感謝は まだましです。人間としての意志や思いが見られます。


 こういった側面を見ると わたしには 神仏習合であるとか 道教の影響だとかあるいはヒンドゥーイズムの神学だとかが入って来ているとかそういう要素について にわかには信じられないのです。《文》化として・その表現として入って来ているでしょうし それなりにじゅうぶん消化されているものと思われますが 生活日常のあり方を変えたとはなかなか思えないところがあります。


 こういう側面は持ち出したくなかったのですが。つまり 世界へのイリを果たしたイリ歴史知性は そのまま《世界‐内‐存在》として一人ひとりが発進したと言っている手前 何とも不甲斐ないわれらが祖先であります。

 フクシマをまさかこの《大祓へ》の思想で乗り切るとはもはや思っていないはずですよね。
 だって まさかそのような《高津神乃災(タカツカミノワザハヒ): 雷など天災地変による災難》としての国つ罪が《伝染》するとは思っていないでしょうから。




 哲学は 自己了解(ないし自己到来)のことであると考えられます。
 《自己》を言うなら 《いま・ここ》の問題です。つまり 現代において世界に位置する自己の了解です。イリ歴史知性のハタラキです。

 ですから いぢわるぢぢいとしましては 資料渉猟および情報整理のあとにこの自己了解としての理解をも推し出して欲しい。というのが いつわらざる魂胆です。
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この回答へのお礼

仰せのとおり、
No.22のお礼で、
少しだけ哲学してみました(ポリポリ)。

お礼日時:2014/09/24 18:56

要するに、怪我、傷、病などをけがれと言うのでしょう。

死は、上述のけがれが連れてくるものでもあるし、死後は腐敗しますから、それもまたけがれを引き起こすものです。
水によってけがれを流すとは、単に洗っていると考えれば良いと思います。死穢というのは聞いたことがありませんが、それが、死体を川に流すことなのか、死体を洗うことなのか、死体に触れた手や身体を洗うことなのかははっきりしません。
神社に参る前に水で濯ぐのは、衛生の観点からであると思います。神社は寄り合い所でもあったため、その名残ではないでしょうか。
伝染するけがれもあるでしょう。流行病や血液や粘膜から感染する病もあります。
穢れ感の背景にあるものは、死や病に対する怖れでしょう。また、その得体の知れぬものに対する恐怖が、神秘的なるものを生み出したのだと思われます。古に、呪術者やシャーマンが、薬剤師でもあったことを思えば、納得行くのではないでしょうか。人の合理性とイマジネーションがせめぎ合っているのでしょう。
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この回答へのお礼

死穢(しえ)については
~~~~~~~
死穢

死の穢れのこと。古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられた。死体、それと接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられた。葬式に出た者が家に入るとき清めをした。遺族が忌中の間こもったのは清まる時間が必要との考えもあったから。

http://www.weblio.jp/content/%E6%AD%BB%E7%A9%A2
~~~~~~~



☆伝染するけがれもあるでしょう。流行病や血液や粘膜から感染する病もあります。
◇病は穢れですね。伝染病なども含まれると思います。



☆穢れ感の背景にあるものは、死や病に対する怖れでしょう。また、その得体の知れぬものに対する恐怖が、神秘的なるものを生み出したのだと思われます。
◇なるほど、なるほど。
ですが、
ムカデなどに噛まれることも国津罪にあげられているので、それほど単純ものではないような気もします。

余談ですが、わたしは今年2度ムカデに噛まれました。
お祓いや禊をしていないので、おそらく私はひどく穢れているのであろうと思われます。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 02:24

もう寝ようと思ったのですが。



>一般に、呪術は
1 感染(接触)呪術
2 類観(同一視の)呪術
の2つの要素から構成されています。

フレイザーの分類ですよね。フレイザーの「金枝篇」も持っているのですが、5巻もあるので全く手付かずです。詳しくは書けないのですが、自分の仕事でこの辺のことに材をとっています。山幸彦が海幸彦を海に沈めるのは、模倣呪術(類感呪術)によってです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93
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この回答へのお礼

ご指摘のとおり、フレイザーです。


『金枝編』5巻を持っているんですか。
普通の人は、こんな本を読みませんよ(笑い)。

ですが、『交響詩篇エウレカ7』というアニメの中で、
デューイが『金枝編』を読んでいたな~♪

このアニメは、色々な神話や宗教の話が混じっていて、おもしろかった♪


回答、ありがとうございました。


エウレカ7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF% …

お礼日時:2014/09/24 01:19

また変換ミスです。



熊野三山と伊勢神宮の間に解かれるようになっていた両者同体の信仰を

熊野三山と伊勢神宮の間に説かれるようになっていた両者同体の信仰を

意味が全く違ってしまうので、訂正します。
少し休みます。目がおかしい・・・
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この回答へのお礼

短時間のうちに、こんなに回答が多数寄せられ、
私のアタマの処理能力を越えております。
脳ミソはウニり、目はショボショボしていております。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 01:07

追伸まで



◇個人死の集まりと考えれば、集団死を特別扱いする必要はない、となるのではないですか。
回答:穢れは伝染します。心を管理するのは個人個人に任されているからです。
しかし、穢れが蔓延することは許されていないのです。それゆえ、まず警告が発せられ次に浄化作用が始まります。気づくかどうかは個人の自由ですが、まとまった数の死は明らかな警告です。被害者ではなく加害者と知るべきなのです。何故、あなたの町なのか、何故あなたの都市でそれほどの死者がでたのかを神仏の心に対峙してじっくり考えてみることです。主権在民は選ばれた者だけでなくより個人に厳しいということですね。

◇宗教的儀式を行うことによって、心が改まるというようなことはありませんでしょうか。
それが反省の契機になるのであれば、そう無下に否定されるべきものでもないような気がしますけれど、いかがでしょう。
回答:本来の意味を失ったいかなる儀式も意味さえないことです。そのような意味のない儀式や思想を信じることが「穢れは伝染する」ということなのです。何を反省すべきかが分からなければ反省も禊も意味をもたない。

◇穢れは集団的なもの、共同体的なものということでしょうか。
回答:個人の考えは教育や社会的習慣に影響されるものです。教育や社会の習慣、考えかた自体が間違っていれば当然集団的に間違った思想に染まりますね。自身の考えが神仏の意思に沿っていないことさえわからなくなるのです。それを末法の時代とか浄化の時代というのです。

◇この辺の経緯がよく分かりませんので、よろしかったら、説明をお願いできませんでしょうか。
回答:肉体の死などは些細なものなのです。舞台俳優の幕が降りるようなもので、終えた舞台に肉体という服を脱いで、舞台裏に戻った時に、初めて人生の意味がわかるのです。成功か失敗かが明瞭に示されるのです。その時では遅すぎるから、神社仏閣で神仏に使える者による禊や反省の勧めがなされていたのです。今は、それさえ形骸化しています。根本的に人間の心は神仏の心の一部から創造されたものなのです。それに、気づけば反省や禊の大切さとその意味がわかります。例えば、「アリストテレスの洞窟の比喩」にある影を実態と信じないようにということです。反省や禊は背中にさす光を見るための実践行なのです。影絵を見るためのものではありません。
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この回答へのお礼

ひょっとして、
『立正安国論』の諸天善神が…というお話なのでしょうか。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 01:01

こんばんは。



>◇この質問に3000字くらい書いた回答を送ってくだされば良かったのに(ニコニコ)。

お送りしてもよいですが、途中で締め切られちゃったので、未完成です。明日は完成できないと思います。出すまで待っていただけます?削除されませんかね?

No.14でbragelonneさんがお書きになっている件ですが、「神道の成立」の冒頭部分にそのことが書いてあります。「続日本紀」にある記述で、貴族たちが、朝廷の祭儀に僧形法体のものの列席を嫌ったということですね。そして1163年に、はやく仏教と習合していた熊野三山と伊勢神宮の間に解かれるようになっていた両者同体の信仰を、多くの文献上の証拠を列挙して最終的には明確に否定し、律令公家政権の公式見解として両社の隔離を決定している、とあります。ただ、これは公家のごり押しのようにも感じられます。道教に関しては、唐の玄宗がスポンサーになって作られた金剛界曼荼羅ですでに仏と神が重なっており、それが、江戸時代の石門心学に取り入れられて、朝は神棚に、夜は仏壇に祈るという教義が作られたとか。つまり、神仏習合の実態も、公家社会と民間の間で違っていた可能性があります。時代がいつか調べなおさないとわからないのですが、仏教寺院と神社が同じ敷地内にあり、祭事の際には、雅楽と声明が共演しました。共演というのは、順番にやったのではなく、雅楽と声明の全く異なる楽曲を同時に演奏したのです。ジョン・ケージのチャンス・オペレーションなど全く新しくない!(笑)。この同時演奏は、一度東京の国立劇場で聞きました。そのときのプログラムが見つかると、何かわかるかもしれないのですが、どこにあるかわからない・・・
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この回答へのお礼

雅楽って、本来、仏様に捧げる音楽だったような気が…。
奈良の大仏開眼供養の時にも雅楽は演奏されていたような記憶が…♪
雅楽の楽器の多くは、仏教とともにシルクロードを通って日本にもたらされたもの♪♪

雅楽は神楽ではないんじゃ~(ポリポリ)。
 ───釈迦に説法をする、わたし♪───

明治の廃仏毀釈、神仏分離がなければ、
日本の神様と仏様は仲良く共存できたのに。

熊野は、仏様の浄土でいいんですよ。
それまでの人は、一部の人を除き、みんな素朴にそう信じていたのに…。


回答、ありがとうございました。



plapotaさんから教えてもらった
Prajna-paramita Hrdaya Sutram(The Heart Sutra)般若心経
https://www.youtube.com/watch?v=P2D8epuXla8

これ、大好きです、わたし♪

お礼日時:2014/09/23 23:30

 高取正男は 《神仏習合》と言うけれど それほどの習合ではなくしっかりと異なる部分も明らかになるようになっているといった意味のことを 書いていませんでしたか?




 ぢゃあ それは 道教だと言われると 応える用意がありませんが。
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この回答へのお礼

何を以って道教というか、これが非常に難しい(ニコニコ)。

今日伝わっている道教は、もう仏教の影響を色濃く受けており、民間信仰、土着宗教のごった煮スープで、何でもありの宗教です。

五斗米道が道教の始まりだとされていますけれども、今日に伝わっていないので、これがどういうものかよく分からない。
魏志倭人伝に「卑弥呼が鬼道で衆を惑わした」とありますが、
この鬼道が五斗米道(道教)なんじゃないか、
と一部の学者から言われておるようです。
儒教に対して、道教のことを鬼道というので、
卑弥呼の時代に道教が既に日本に入っていて、祭式に使われていたのかもしれないですね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/24 00:51

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