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ふと、人間の罪って何だ?と思ったので質問致します。
法的に関しての「罪」は理解しているので、それ以外の「罪」を感じられている方々に質問します。


質問1
人間の罪とは?
その定義は、何ですか?

質問2
それは、時代によって変わるものか?
それとも、変わらないものか?

A 回答 (18件中1~10件)

>質問1


>人間の罪とは?

後ろめたいこと。
それを知られたくないと思う物。


>その定義は、何ですか?


教えてくれるから分かる。


>質問2
>それは、時代によって変わるものか?
>それとも、変わらないものか?

事象は変わるが、本質は変わらない。
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この回答へのお礼

>後ろめたいこと。
>それを知られたくないと思う物。

その文章だけを読む限り、実に正しい。

この定義だと、「本人が後ろめたい事などの、自覚が無いなら罪でない」となる。
そう言うと「そう言う意味じゃない」などの否定的な感想を抱く人もいるだろう。
もしかしたら貴方も、「それは読み違えている」と否定的な感想を抱いたかもしれない。

しかし、「本人が後ろめたい事などの、自覚が無いなら罪でない」と言う、「人間の罪」の定義は実に正しい。
(刑罰の罪の話はしていない。「人間の罪」の話だ。)




事例を言えば、「メルセルケビール海戦」。

イギリスの教科書には、「メルセルケビール海戦」の罪の意識など一切無い。

その歴史教育を受けたイギリス人は、「たとえ同盟国の船であっても自国を守るためには容赦なく攻撃する。これが政治のリアリズムだ。」と、胸を張って語る。そこに「罪」など、一切存在しない。この事件を「それを知られたくないと思う」イギリス人はいない。それどころか、イギリス人はこの事件を英雄譚として語り継いでいる。


実に、正しい歴史教育だ。


それに対し日本は、最近、朝日新聞のイアンフの捏造や、河野談話が実は「談合」だった問題が露呈したが、事実の罪だけでなく、捏造された罪も鵜呑みにして自虐史観の歴史教育をする。そして、多くの日本の子ども達は、自虐史観に基づいた日本の「罪」を刷り込まされ、罪深い日本人として大人になる。

あまりにも愚かな歴史教育だ。
(強調するが、「歴史教育」に関して。数学とか科学とか他の教育には言及していない。)




「メルセルケビール海戦」の引用元。
http://ameblo.jp/channelcrara/entry-11813034525. …

お礼日時:2014/09/25 15:28

 ★(No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~


 「人間の罪」とは主観的なものである。しかし、それが客観的に認められるかどうかは別の話。
 そう言ってくれれば、何の矛盾も感じませんが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。

 《客観的にみとめられるかどうか》は ふたつの段階があると考えます。

 ほかの人たちがそれぞれ主観としてどう認識するか。の段階。

 そして 法にうったえて法律がどう認識するか。の段階。

 そして 人はいづれの段階でも おのれの主観真実が 客観的にも妥当な見方考え方であることを願っており これを主張しようとするところまですすみます。


 これらの事情をふくんだ社会という場において
 ★ それ(* その人の主観真実)が客観的に認められるかどうかは別の話。
 ☆ である。と成ると思います。



 大幅に舌足らずだったですか? おつかれさまでした。
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この回答へのお礼

おつかれさまでした。

お礼日時:2014/09/28 11:34

 ★ (No.16お礼欄) ~~~~~~~~~~~~


 裁判に負けた(敗訴側は「不当判決」と表現する)セクハラと主張した女性は、貴方にとって、その女性は、ひとの意志を踏みにじられた「人間の罪の被害者」ですか?それとも、「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」ですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (4) 主観真実は その本人にとって どこまでも真実です。よほどの勘違いなどがないかぎりそうです。

 ただしこの主観真実が そのまま相手やさらにほかの人たちにとっても そのそれぞれの人にとって事実であると認識されることになるか? と言えば それは 一概には決まりません。

 それだけのことを言っています。そのように答えているだけのことです。







 重ねてお答えします。

 ★ 一行で終わる簡単な質問
 ☆ だとは わたしは思っていない。という答えです。

 ★ (1)この女性は「人間の罪の被害者」。
 ☆ という主観真実を この女性は持ち続けている。

 ★ (2)この女性は「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」。
 ☆ これは 話の前提として しりぞけられている。のではないのですか?

 ★ (3)そもそも、「セクハラは、人間の罪ではない」。
 ☆ 《意志がふみにじられている》かどうかが 判定基準だと考えます。

 (4) (1)の言わば《うったえ》が そのままほかの人たちによってみとめられるかどうか。これは 一概には決まらない。という当たり前のことをもって答えとしているのみです。




 《藪の中》だと言っているわけではありません。
 セクハラを受けたといううったえが通った場合を考えてみましょう。その場合 ではその主観真実が 社会のみとめる真実であり事実であると成った。のですが 相手のうったえられた人間としては その社会的な事実をみとめたことが 同時に自分における主観真実だと確認したことになるかと言えば 一概には決まらない。つまりは 最高裁にまで行って 社会的な結着は完成したとしても この人間の主観真実が その事実(つまり 女性の主観真実としてのうったえ)に屈したかと言えば 決まらない。むしろ 自分の主観真実は その結着した事実内容とは違うのだと思いつづけることはあり得ます。


 一概に決まるものではない。という答えですので その答えをこれでしっかりと確認したと思います。見解の相違で一致するものと考えます。
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この回答へのお礼

>セクハラを受けたといううったえが通った場合を考えてみましょう。その場合 ではその主観真実が 社会
>のみとめる真実であり事実であると成った。のですが 相手のうったえられた人間としては その社会的な
>事実をみとめたことが 同時に自分における主観真実だと確認したことになるかと言えば 一概には決まら
>ない。つまりは 最高裁にまで行って 社会的な結着は完成したとしても この人間の主観真実が その事
>実(つまり 女性の主観真実としてのうったえ)に屈したかと言えば 決まらない。


はい、そうです。
「人間の罪とは、おのれの心でやましさを感じる事」と言う貴方の定義であれば、その通りです。
(私もこの定義は、共感する)

被告男性がセクハラと判断がされ、刑罰を受けたとしても、本人が「おのれの心でやましさ」を感じなければ「人間の罪」ではありません。

実際のセクハラ裁判で「○○ちゃん」と言う文字をメールに書いただけで、セクハラとして訴えられるケースもありますが、そんな事をセクハラと呼ばれて、例え被告男性が裁判で負けても、何も反省せず「世の中が間違っている」と被告が思うのは、実にあり得る人間の心理だと思います。

「人間の罪とは、おのれの心でやましさを感じる事」の貴方の定義であれば、被告男性は「やましさ」を感じていないため、「人間の罪」は発生しません。



しかし貴方はその後に、「ひとの意志を踏みにじること」も「人間の罪の定義」に盛り込んでいる。
これがややこしくしている。

被告男性は、女性に対しセクハラをしたと言う件で「ひとの意志を踏みにじること」をしているため、男性は「人間の罪」を犯している。と言う事になります。





この二つの判断基準を、同じ定義に盛り込む事は矛盾する。


あの、こんなに貴方とのやり取りが長くなってしまいましたが、そもそもの貴方の追加質問はNo.4で言った通り、この件の「矛盾」の指摘ね・・・。全く話が噛合いませんね・・・。



「人間の罪」とは主観的なものである。しかし、それが客観的に認められるかどうかは別の話。
そう言ってくれれば、何の矛盾も感じませんが。

お礼日時:2014/09/27 13:29

 ★ (No.14お礼欄) 誰が、「人間の罪」を、決めるのですか?


 ☆ 《決める・結着する》といった言葉を 不用意に使っていたと省みます。舌足らずであったと。


 第一に 主観が主観の範囲内において やましさ行動とその罪性を決めます。

 第二に その行動が相手のある場合のときには こちらにも主観があり 相手にも《罪》についての判断としての主観があります。

 したがって 《決める》のは それぞれが主観としてすでに 自分ひとりだけで おこないますが 互いの判断(つまり主観)が異なっていたときには 話し合いに入ります。そこで言わば《結着》をつけます。


 この意味での結着ないし決着は ひとりだけでは定まりません。



 ここまでのことを述べたものが わたしからの回答です。


 《罪についての法的な扱い》についてはいま別として それ以外の罪の問題について見解を述べよと問いを理解して そのように回答を寄せました。



  でも 相手のあることなら 主観だけでは 社会的な結着がつかないというのは 質問者さんもすでに前提として話をしておられたものと思っていました。こんな感じでしょうか こちらからの弁明は。
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この回答へのお礼

話が全く噛合わない。
もっとシンプルにお聞きします。



>この意味での結着ないし決着は ひとりだけでは定まりません。

では、No.14の返答の例で話した、裁判に負けた(敗訴側は「不当判決」と表現する)セクハラと主張した女性は、貴方にとって、その女性は、ひとの意志を踏みにじられた「人間の罪の被害者」ですか?それとも、「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」ですか?

裁判に限った話ではありません。

例えば、職場でセクハラを受けたと主張した女性がいた。職場の全員の話し合いの結果、彼女の主張は認められなかった。これも、貴方にとっては「人間の罪の被害者」ですか?「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」ですか?

*状況の整理
・セクハラと主張している女性は、本当にセクハラと思っています。詐欺などの目的はありません。
・しかし、それが、客観的に認められる事はありませんでした。


答えは、三択です。

(1)この女性は「人間の罪の被害者」。
(2)この女性は「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」。
(3)そもそも、「セクハラは、人間の罪ではない」。

三択です。

一行で終わる簡単な質問です。
宜しくお願い致します。

お礼日時:2014/09/26 23:07

>要するに、「それは読み違えている」と言う趣旨の補足説明でしょうか。



私は、そうは思っていません。
思っているなら、あのようには書きません。
むしろ、そのまま受け取って貰えたことが珍しいと思えました。


質問者様が、補足を読み違えた可能性はありそうに思えますが。
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この回答へのお礼

>質問者様が、補足を読み違えた可能性はありそうに思えますが。
>むしろ、そのまま受け取って貰えたことが珍しいと思えました。

はい、No.11の回答に関しては、たぶん私は読み間違えています。

No.11の回答を読んだ時、なんだか否定された気分でした。でも、否定される事は覚悟していました。
もしかしたら、「きっと、否定される」と言う先入観が、貴方の文章の「読み間違い」を誘発したのかもしれません。

大変、失礼致しました。

No.12の返答に、「そう言うと貴方も、kanto-iさんのように、「それは読み違えている」との感想を抱くのでしょうか。」と言うコメントをしているのですが、補足欄に、訂正を記載しました。


誠に失礼致しました。

お礼日時:2014/09/26 19:04

 No.13です。




 相手があることの場合には どちらか一方の判断では決まらないという意味のことを述べました。

 そういう意味で 被害者の言い分を――それについてどう判断していようと――まづは 受け留めて相手の反応や考えについて明らかに把握できるようにする。


 一方の側において すでにヤマシサはないとか その反対側では 被害者として罪なる行為をこうむったとかといっても まだ――実際問題としては――決まらないという考えで 再回答しました。

 それが わたしの考えですから。

 けれども 一方の側の判断とその決意にもとづく行動ですでに決着がついたというお考えでしたら 互いにそういった見解の相違があると合意して 対話はここまでなのだと思います。・・・
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この回答へのお礼

>相手があることの場合には どちらか一方の判断では決まらないという意味のことを述べました。
>けれども 一方の側の判断とその決意にもとづく行動ですでに決着がついたというお考えでしたら

これを否定されるなら、誰が決めるのか明確にお聞きしたいです。
これは反論とか貴方の批判ではなくて、個人的な興味で「では、誰が決めるの?」と言う疑問が沸いて来ました。



「おのれの心でやましさを感じる」に関しては、一方側の判断で決着が付きます。
「ひとの意志を踏みにじること」も、一方側の本人がそう言う主張をしたら、「罪」の発生に関しては決着が付きます。しかし、法的問題かどうかの決着は、別の話と言うだけ。


例えば、セクハラ問題。
セクハラは、本人がセクハラと言えば、セクハラなのです。

誰が何と言おうと、加害者は自覚が無く「おのれの心でやましさを感じる」事も無く「罪」でないとしても、職場や周りの100%が「セクハラには見えなかった」と証言しても、本人にとってセクハラと思えば、「ひとの意志を踏みにじること」であり、「罪」なのです。←言っておきますがこの定義、私の定義ではなく貴方の定義ですからね。

しかし、加害者相手に対し、法的根拠に基づく処罰が適当かどうかを判断するのは、セクハラを訴え「ひとの意志を踏みにじられた」と主張する本人ではなく、裁判所です。

例え裁判で法的に「セクハラには当たらない」との決着が付き、「法的に無罪」となっても、その被害者女性が、「人間の罪の被害者」から「人間の罪の被害を受けたと思い込んでいる、被害妄想者」に変わるわけではないのです。

(別に、被告男性を責めている文章ではない。男性は「おのれの心でやましさを感じる」事もないし裁判でも無罪が確定している。よって、被告男性は法的な罪も、「人間の罪」も一切無いと言える。しかし被害女性は、例えそうであっても、「ひとの意志を踏みにじること」と言うセクハラを受けたと思っているので、「人間の罪」が発生している。と、言いたいだけ。あと、女が実は詐欺女だったという仮定は無し。本当にセクハラだと思っている。そして、裁判でそれは認められなかった。)




「どちらか一方の判断では決まらないという」と言うのでしたら、改めて質問します。
誰が、「人間の罪」を、決めるのですか?


裁判官?それか、法律を作っている政治家ですか?
それとも、日本の教育を牛耳っている日教組の幹部ですか?
または、世論を誘導しているマスコミ?世の中の空気?
あるいは、何かの神様ですか?

それとも、揉めている当事者と、その周りにいるみんなの話し合いで「人間の罪」が決まると言う事ですか?

*貴方が「人間の罪=法的な罪」と言う価値観の方でしたら、大変失礼しました。
それなら何も疑問は感じません。その場合の「誰が決めるか」は、裁判官か、政治家なのでしょうね。

お礼日時:2014/09/26 19:01

 ★ (No.4お礼欄) しかし、「ひとの意志を踏みにじること」は本人がどう思うかではなく、他人がどう思うかが重要で、本人に「罪」の自覚が無くても、他人がその本人に「罪」を言及すれば、「罪」が発生します。


 ☆(あ)
  ★ 他人がその本人に「罪」を言及す
  ☆ るとき その他人たるひとが 感覚や判断をあやまつ場合もありますが おおむね被害者からのうったえは 重く受け留めねばらならないでしょうね。

 (い) つまりそのとき《踏みにじった本人》が やましさを感じなかったという場合があったとしたら それは 単純に気がつかなかったということでしょうね。

 (う) あるいは 不可抗力で他人の意志を踏みにじってしまう場合もあります。満員電車が急停車したとき 他人の足を踏んでしまう場合などです。

 (え) それでも あやまります。けれどもその被害者も 心寛くそのツミをゆるしてくれるでしょう。

 (お) 被害者たる他人がおのれの意志を踏みにじられたと思ったときには たいていの場合 加害者本人において 事前に心にやましさ反応を起こしていると考えられます。

 (か) やましさ反応など起こるわけないぢゃないかと言い張る場合というのは 言わばポーカーフェイスが板について来ている場合であって なぜポーカーフェイスになるのかと言えば やましさ反応が起きてそれが相手にも知られると困ると考えるからでしょうから。

 (き) 動悸がはげしくなったり顔を赤らめてしまったりするのは 何も好き好んでそうしているのではない。と思われるからには いまのやましさ反応というのは ヒトに普遍的に見られるものと思います。

 (く) 例外と見える場合は 気がつかなかったか(つまり この場合には 事後的に反応が起こる) それとも意図的にその反応を隠しているかだと考えられます。
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この回答へのお礼

私の追加質問は、「おのれの心でやましさを感じる」と「ひとの意志を踏みにじること」は、両者は相反関係で、同じ定義に盛り込む事はできないのではないですか?


と言う質問をしたのですが、その返答と思える文章を見つける事ができませんでした。(もし、書いてあるなら見落としです。すみません。)もしかしたら、私の意図が伝わっていなかったかもしれないので、改めて説明します。



例えば、私はこのように反論めいた事も言います。
その時、それを読んだ回答者が「あなたの反論に傷つきました!」と言ってきたら、「ひとの意志を踏みにじること」の「罪」が発生します。


しかし私は、「傷ついた」と言われても「そう、言われましても・・・(ん、被害妄想?頭がアレな人なのかな。丁重にに御引取り願おう。)」と言う感想です。

これは私にとっては、何の後ろめたさもありません。めんどくさいから丁重に答えるのであって、運営者通報でも裁判でもなんでも、ご不満があるならどうぞご勝手に。と言えるくらい何一つ後ろめたさも、「罪」の意識も、一切ありません。これは、「おのれの心でやましさを感じる」に該当します。本人が「やましさ」の自覚が無ければ、「罪」ではないのです。



両者は相反関係と言う事です。
これを同じ定義に盛り込む事は、矛盾するのでは?
と言う質問です。








改めて言いますが、そもそも私の読み間違いでしたら申し訳ありません。
それと、もし、既にその返答が書いてあるなら見落としです。すみません。

お礼日時:2014/09/26 15:03

質問1



罪というものはもともとは存在せず人間が考え出したものです。
人間が罪だと考えれば罪ですし、そうでないなら罪ではない。
恣意的なものです。

人間は社会的な生き物です。単独行動する生き物だったら罪というものは発生しなかったでしょう。
罪は社会の中で人間が犯してはいけないもの。


質問2
人間の考え方次第なので時代や文化、宗教によって変わります。
ただ「人間が生きること」、「繁栄すること」は根本的な社会の目的だと思いますので、これに反することは罪であり続けるでしょう。例えば人間を殺すことが罪でなくなることはないと思います。

では動物を殺すことはどうでしょうか?キリスト教では動物は神様が人間に与えたものです。
家畜を殺して神様にささげるのは良いことです。
しかし仏教では殺生だと言ってすべての生き物を殺すことを嫌います。
宗教による罪の違いということだと思います。

結論として
(1)罪は人間が勝手に決めた恣意的なことである。
(2)人間が存続・繁栄するという縛りがあるので、その内容はある程度固定的である。
社会にとって不都合な事柄が罪となる。

この回答への補足

文章を訂正します。


>そう言うと貴方も、kanto-iさんのように、「それは読み違えている」との感想を抱くのでしょうか。
>No11のように「それは読み違えている」と、否定的な感想を貴方は抱くでしょうか。

と言う文章。


kanto-iさんは、読み間違いではなかったようです。
訂正致します。


kanto-iさん。大変失礼致しました。

補足日時:2014/09/26 18:14
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この回答へのお礼

>罪というものはもともとは存在せず人間が考え出したものです。
>人間が罪だと考えれば罪ですし、そうでないなら罪ではない。
>恣意的なものです。
>(1)罪は人間が勝手に決めた恣意的なことである。



人間と言う特定の組織が「罪」と思えば罪だし、「罪」と思わなければ「罪」じゃない。
それは、客観的事実。そして正論。

そう言うと貴方も、kanto-iさんのように、「それは読み違えている」との感想を抱くのでしょうか。
私は、文字に書いている通りの意味で捉えただけの話です。

その文字だけの意味なら、実に正しい。



正しいとする根拠の一例を言えば、「メルセルケビール海戦」。
(以下、No7の返答と同じ文章)

イギリスの教科書には、「メルセルケビール海戦」の罪の意識など一切無い。

その歴史教育を受けたイギリス人は、「たとえ同盟国の船であっても自国を守るためには容赦なく攻撃する。これが政治のリアリズムだ。」と、胸を張って語る。つまり、イギリスという人間社会においては、「メルセルケビール海戦」は「罪」ではないのである。フランス人が如何に倫理的、法的観点で「メルセルケビール海戦」の「罪」をイギリス人に追求しても、イギリス人にとっては「罪」ではない。


「人間の罪」と言うものは、そう言うものなのだ。
(言っておくが、法的な罪ではない。「人間の罪」の話をしている。法的な罪は、個人なら刑期を終える。国家なら、講和条約が締結されて外交問題のすべての処理がついたら、完全に清算される。つまり、大日本帝国の罪は既に清算されている。)

イギリスは、実に正しい歴史教育をやっている。



それに対し日本は、最近、朝日新聞のイアンフの捏造や、河野談話が実は「談合」だった問題が露呈したが、事実の罪だけでなく、捏造された罪も鵜呑みにして自虐史観の歴史教育をする。そして、多くの日本の子ども達は、自虐史観に基づいた日本の「罪」を刷り込まされ、罪深い日本人として大人になる。

あまりにも愚かな歴史教育だ。
(強調するが、「歴史教育」に関して。数学とか科学とか他の教育には言及していない。)




どれが「罪」でどれが「罪」では無いかは、結局、「教育」が大きな要因になる。





と、言う事を返答したら、No11のように「それは読み違えている」と、否定的な感想を貴方は抱くでしょうか。それに関しての返答は、特ににするつもりはありません。私が貴方の主張を読み間違えただけの話。










「メルセルケビール海戦」の引用元。
http://ameblo.jp/channelcrara/entry-11813034525. …

お礼日時:2014/09/26 14:50

No.7です。


お礼ありがとうございました。

補足です。

人間の罪は、人間が罪を感じ選択の判断のために存在していると思います。
罪の認識が、よりよい選択はどれかを一つ一つ他者や有識者に聞かずとも
自己判断で動けるようにです。

判断の基準は、情報や教育からの概念を自己の中で再構築して
一人一人が持ち得るものです。

再構築される際の情報不足、偏った情報のみからの構築
自己都合を優先する構築などは、目先だけの利益追求に走り
結局は自身や自身の大切な人達に最終不利益として跳ね返ってくる
という所まで理解できる概念が構築されないと、適切に機能しません。

それぞれがそれぞれに、自己の概念から導き出した基準で動きますが
概念の構築で人生が良いものになるか、つまらないものになるか。
楽しく過ごせるか、卑屈な一生を送るかなどに関係します。

ゆえに概念としての定義においては、これが正解と個人が思っていても
今思っているだけに過ぎない可能性があり、常に精査が必要と思います。

概念から感じる罪の意識より、罪を感じる概念の見直しが
適切な概念構築に役立ちます。
それが行われなければ、人間の進歩はあり得ません。

人間の罪の意識からこそ、選択による適切な行動に及ぶものだと思います。

そこで言う
>人間の罪って何だ?
とは機能的なものであり、個人の中にある概念の定義は民主主義において
個の判断に任せられていると言えます。

少なくとも日本においては、与えられた自由に伴う責任の行使という意味で
自己概念の構築に自らが自らに寄与しているのは、忘れないほうがいいかなと思います。
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この回答へのお礼

要するに、「それは読み違えている」と言う趣旨の補足説明でしょうか。

それは私がNo7の返答の文章で既に述べた通り、「もしかしたら貴方も、「それは読み違えている」と否定的な感想を抱いたかもしれない。」と言った通りです。




読み間違いが発覚しましたので、文章を訂正します。


No7返答文章訂正。
誤り「もしかしたら貴方も、「それは読み違えている」と否定的な感想を抱いたかもしれない。」

訂正「きっと貴方も、「それは読み違えている」と思われるでしょう。」

お礼日時:2014/09/26 14:29

質問1


人間の罪とは?
その定義は、何ですか?
回答:
〇地球霊団における罪の定義は:個々の心に対して:
☆最大の罪:信仰を否定すること。「「神仏の一部であることの否定=自己否定」
★ 愛を与えないこと。「欲望」
★ 霊的自分を認めないこと。「無明」
★ 反省しないこと。「無知」
★ 魂の向上のための発展に寄与しないこと。「神仏の願いの否定」
以上を前向きに否定する者は人間として二度と生まれることはできない。
それが最大の罰になります。これは、自身が無になることではありません、おぞましい悪霊、悪魔と言われる存在に成り下がることです。
質問2
それは、時代によって変わるものか?
それとも、変わらないものか?
回答:
☆地球霊団では変わることはありません。それが地球霊団の神仏の掟だからです。
その他
〇何を主張しようが何を信じるかは自由ではあるが地球霊団の掟は太古の昔より至高神により定められており、それは子供でもわかる簡単なものです。これらの簡単な定義に反するいかなる宗教的、精神的教えも間違いと言えます。難しくこねくりまわすので「無知の知」と呼ばれるのです。
コメント:質問に対して心の罪の正しい答えを提示しておきました。肉体の行動の動機は操縦者である心の有り様ですので。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

お礼日時:2014/09/25 15:33

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