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さきにも同じような質問をしましたが、意味がわかりにくかったようなので、もう一度質問させてください。
なにをもってある言説の根拠が十分といえるのでしょうか。言説についての十分な根拠とは実験や調査にともなう統計以外にありますか?もちろん統計にかんしても根拠にかかわる要因の所在を明確にできているという前提のもとでのはなしですが。
ある行動をしたという証拠になる痕跡などというような根拠ではなく、様々な領域の普遍的な言説や意見の根拠についての質問です。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

確かな論拠からの、論理学的に正確な展開によって導かれた論説。


その「確かな論拠」とは;

1.経験的ないし社会通念的に自明とみなされている事実ないし考察。
2.実験的ないし統計的な分析による科学的事実。
3.独自であっても正確な論理学的な批判によって再構築された考察。

など、異なる観点による批判に、共通のベースをもって反論できるもの。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/09 23:47

証拠という言葉も使って解きほぐしてみたいと思います。



事実の証明に適当と判断されるものが証拠です。
その場合、証拠がなぜ、事実の証明に適当と判断されるのかという根拠が示されなければならない。
また、証拠とするものが確かなものであるという根拠も必要です。

一つの事実における証明の範囲をどのように定め、どのように証明されれば、証明が済んだものとして扱えるのか、といったことも証明以前に必要とされる事柄です。
このように相対的に関連する証拠や根拠の積み重ね、段階的な照合によって、事実の証明がなされるものなのでしょう。

証拠は大きく分けて、物証と情報とになります。
この二つにおいて最も必要とされることは、そこにおける客観性です。
物証からは、科学的で客観的なデータが得られます。
一つの物証からは、客観的に信頼できる多くの情報が得られるものです。

情報では、まず関連するものを選択するという作業が必要です。
また、その選択の範囲を定めるといった作業も必要です。
選択された情報は、確率的な段階ごとに整理をすることが照合以前に必要です。
整理をしておくことによって、追加された情報も速やかに整理する事が可能です。
情報の種類は大きく分けて
資料という既存のデータによるものと、人的な感覚や認識によるものとがあります。
前者は客観性が高く、後者は客観性そのものの判断を別の事柄によって明らかにしなければならないという不確定的な面があります。
人的な感覚や認識によるものとは、感覚によって得た事象そのものを指す場合と、認識という記憶を指す場合があります。
前者は個人的な範囲とはいえ客観性がある程度認められますが、後者は主観的概念という個人的に処理された情報としての扱いが必要になってきます。
そこにおいて客観性のあるものを分別するという作業は、その基準を定めることからしてなかなか困難なことです。
事実の状況において発生しうる認識や概念が、人としての適当なものであるという判断基準が必要とされます。

事実と証拠との照合は、その内容に応じたものを段階的に行って確定させていきます。
同様に、言説の根拠に足るものとは、物証も含めた様々な情報との照合によって確認され、確定されたものを指すと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/10 23:24

 こんにちは。



 ★ 言説の根拠
 ☆ は突き詰めて捉えるとすれば 《じゅうぶんな》ものはありません。人間にとってはそれを持ち得ないと考えられます。

 最後は 一人ひとりの主観における判断にもとづきます。あるいはもっと言えば 主観としての単なる確信 これが突き詰めたみたときの根拠であり それは《じゅうぶんな》根拠にはなりません。

 言いかえると じゅうぶんな根拠とは――実際上で考えるなら―― 自由だということに行き着きます。互いの自由な判断とそれらの突き合わせによるという意味です。

 突き合わせた結果というけれども それはどのように成り立つのか? あるいは いったいどのように一人ひとりの主観としての判断を共同化したりいわゆる定説として決めたりするのか?

 ひとつには 主観と言えども ヒトには共通感覚があると――想定において――考えられています。(つまり これも主観どうしを突き合わせた結果であり それに過ぎません)。
 あるいは 思考において経験合理性を人は共通に持つとされます。一般に A = B と A ≠ B とが 同時に成り立つとは考えないという合理性の基準です。(それが成り立つ場合というのは 文学的な表現のあやにおいてだという見方がともなわれています)。

 これらの基礎の上に 主観の共同化が成り立つと考えられており それがひとつの根拠となっています。
 言いかえると われわれ人間は 言わば大きな無根拠のなかで 経験的に合理的な小根拠を見定めそれを共有することによって 主観が共同化されうると思っているかたちです。それによって互いに互いを理解がし合えると思っているものと思います。
 ちなみに《大きな無根拠》は もううつろい行くことなく 変わり行くことのないと想定され得る何ものかです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/10 15:46

何か具体的な例を挙げてもらえると


解りやすいと思うのですが。

1,
事実の問題、つまりその事実が在ったのか
無かったのか、という問題ならこれは科学的
に調べれば判ることだと思います。

それが難しい場合には、クロスチェックをするとか
すれば正しさの度合いが増します。
殺人のような犯罪なら、その行為を行った者で無ければ
知り得ない事実があれば信用性はぐっと増しますね。

その他に公知の事実てのがあります。
豊臣秀吉が存在したか、なんてのは公知の事実の問題です。

2,
例えば、ケルゼンの根本規範てのがあります。
ケルゼンはこれを基に人権やら国民主権やらを
導出しますが、根本規範の根拠については
これを求めることは不可能としています。

質問者さんの根拠というのはこのようなもの
でしょうか?

何か所為のモノがあって、そこから因果の流れに
従って種々の結論を出す。
その所為についての疑問なのでしょうか。

この回答への補足

>何か所為のモノがあって、そこから因果の流れに
従って種々の結論を出す。
その所為についての疑問なのでしょうか。

そうです。

補足日時:2011/08/10 15:28
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言説の根拠とは論拠のことであり、論理的理由のことです。


これは、掘り尽くしていけば必ず命題のかたちをとります。命題とは真偽判定のできる内容を持った文のことです。

例えば、シャーロック・ホームズが、
「考えてみたまえワトソン君、おそらく列車の屋根に置かれた死体がこの急カーブで落ちたのだ」
と言った場合、その列車には屋根があること、屋根には物体が乗りうること、列車は走行すること、カーブでは車体が傾ぐこと、などが一斉に即座にわかっていないと、ホームズの言説が何一つわからないことになります。
これらはひとつひとつ検証にかけて真偽判定できる命題ですが、まず証明済みか確実と思われている(思われているのです)事柄ばかりです。そこで、わたしたちは馴染み深いニュートン力学の公理系にさっさと参照して、それらに証明の必要がないかまたは事実であるとみなします。命題を公理に嵌めこむことができるリテラシーによって、言説の論拠は、認められるのです。したがって、殆どの人に成程と思わせ、内容におかしいところは無さそうだと思わせます。
もちろん、数十キロの死体が落下するかどうかは警察で実地に確かめなければなりませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/10 07:19

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