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 どんな《神は死んだ》のか?

 主題は ふたつです。
 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?
 ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?


 まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。

 ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~
 ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。

   寒くなってきてはいないか?
   これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?
   昼前から行燈を灯す必要はないのか?
   神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?
   神が腐る臭いがまだしてこないのか?
   ――神々といえども腐るのだ。
   神は死んだ!
   死んでしまい 蘇ることはない!
   しかも 我々が殺したのだ!
   殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?
   これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。
    (『喜ばしき知識』125番)

 大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。

 しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。

 実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。

 《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。

 ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。
 ・・・
 再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。

 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。
 そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。

 と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。

 三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。

 つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。

 いったいニーチェとは何だったのか?
 レクイエムを書いてやってください。

A 回答 (24件中11~20件)

> どんな《神は死んだ》のか?


⇒イエスをのけ者にして、パウロがでっち上げたキリスト教の神、「官能」をただ敵視し、「死の臭い」すら漂わせている宗教の神が死んだのです。ルターが「法王こそ反キリスト者だ」と言ったように、ニーチェは、「キリスト教会こそ反キリスト者だ」と言います。神の代理を騙って免罪符を売り、魂の救済どころか単なる金儲けに血道をあげるような輩、そういう連中が掲げ、崇める神が死んだのです。

> 神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?
⇒「人間の英知が及ばない範囲を統べるもの」、「絶対的真理の統覚者と(暫定的に)みなされるもの」、「我々が絶対性を仮託しているもの」、その存在相手が神である、と私は考えています。

>   昼前から行燈を灯す必要はないのか?
⇒シノペの、樽の中の当のディオゲネスが、「人間」を求めて嘆いたように、ニーチェは、「人間の尊厳の感情が客体化されたもの」(ゲーテ)や「我々人間の願望を投影した幻影」(フォイエルバッハ)や『ツァラトストラ』の超人に体現されるような、「力強く、高らかに生を謳歌できる神」を求めて嘆いたのだと思います。その気になれば手にできるかも知れない、無限の可能性を持った人間の「自己写像としての神」を求めたかったのだと思います。なのに、「世の中、真っ暗闇じゃござんせんか」(急に鶴田口調になりましたが)と、「昼間から行燈を灯す必要」を訴えたかったのでしょうね。

>安っぽいレトリックに溢れた文章
⇒確かに、部分的に見れば、歯の浮くような、キザったらしい、ビックリマークを連発する大仰な表現もありますが、それはニーチェの情感や嘆きの強さを訴えるための、彼一流の修辞法と考えます。少なくとも、私は「パセティック」とは感じません。せいぜい、「これも愛嬌」ぐらいに見ます。

> レクイエムを書いてやってください。
⇒「鎮魂」よりも、「蘇生、つまり、生き返り」を促す呪文でも唱えたいくらいの気分です。

仰せのように、ニーチェの作品は、部分を見るといちゃもんをつけたくなるようなところはありますが、彼の言わんとすることを、なるべく大きく捉えるようにすると、「ならへそ!」と思えることがいっぱいあって、「目からウロコ」の気分です。(「なるべく」と言うのは、多くを知らないという意味です。)
「ニーチェは学者でなくて詩人だ」という人もいます。確かに、例えば『デュオニソス頌歌』など詩作は多いし、代表作の1つ『ツァラトストラかく語りき』などもフィクションとして読めば面白そうですよね。
何より、「木を見て森を見ず」にならないようにしたいです。広く見て、その眼力・洞察力・批判力・予言性等々を読み取れれば、「精神の快楽」をもらえそうに思います。そして、もし彼が墓から現れたら、一緒に盃を交しながら「談笑・共感」したり、もちろんニーチェ自身の作品に関しては言うに及ばず、そのほかにも、「今の世界」のこと、「今後の人類」のことなどについて、あれこれ聞いてみたいなあ…となどと思っておるのであります。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ キリスト教の神、「官能」をただ敵視し、「死の臭い」すら漂わせている宗教の神が死んだのです。
 ☆ これは ローマ教会のしわざです。そのオシエの問題です。キリスト信仰ではなく そうではなく クリスチアニズムなるシュウキョウの問題です。

 たとえば【Q:イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7460587.html
 ○ イエスは 第三項として排除された。その仕方があまりにも見事だったので そのあとイエスというイケニエと見なし しかもこれを聖別した。聖なるイケニエとして 儀式の中にも称えられた。いわばタタリをおそれて イエスを自分たちの観念世界の中で神としたのです。
 ☆ つまり 宗教の神は ローマ教会のしわざです。儀式化がひとつの特徴的な要素でしょうね。パウロもイエスもかかわっていません。


 ★ ルターが「法王こそ反キリスト者だ」と言ったように、ニーチェは、「キリスト教会こそ反キリスト者だ」と言います。
 ☆ ルーテルを何が何でもほめることはしませんが かれは信仰ないし信念にしたがってそのような批判をおこないました。ニーチェくんは どうでしょうか。『アンチ・クリスト』を呼んでみてください。その支離滅裂ぶりを。この四文字熟語は その形容のためにこそあるとまで思わせるような内容です。まともに取り合うことは出来ません。


 ★ 神の代理を騙って免罪符を売り、
 ☆ 《神の代理》と名乗ったところでアウトです。オシエが神の補助線だというまでなら まだしもです。

 ★ 魂の救済どころか単なる金儲けに血道をあげるような輩、そういう連中が掲げ、崇める神が死んだのです。
 ☆ そのとおりです。と言いますか すでに《観念の神》がかかげられ抱かれたその時点で 死んでいます。





 ★ 「人間の英知が及ばない範囲を統べるもの」、「絶対的真理の統覚者と(暫定的に)みなされるもの」、「我々が絶対性を仮託しているもの」、その存在相手が神である、と私は考えています。
 ☆ ここは厳密にまいります。

 《英知が及ぶか及ばないかが人間には分からない場》でしょうね。

 《統覚者》というのは 上の《ナゾの場》を擬人化したということだと見ます。つまり表現の問題です。

 《絶対性を仮託》されなくても 《ナゾの場》は存在するでしょうね。言いかえると ナゾの非知なる場をそのまま《想定する》のだと見ます。想定されてこの神が遍在するといった仮りの説明がなされると その神にわれわれ人間は ふたたびのように 絶対性を仮託しているという恰好になっている。こういう事情なのだと捉えています。




 ★ その気になれば手にできるかも知れない、無限の可能性を持った人間の「自己写像としての神」を求めたかったのだと思います。
 ☆ これは先ほどの《仮託》よりも劣った心に成り下がったと捉えます。《想定》していればよいのです。

 人間が神をこしらえてどうするんですか。ローマ教会とまったく同じことになります。

 ★ なのに、「世の中、真っ暗闇じゃござんせんか」(急に鶴田口調になりましたが)と、「昼間から行燈を灯す必要」を訴えたかったのでしょうね。
 ☆ 《想定》していることを知らないからでしょう。



 ★ それはニーチェの情感や嘆きの強さを訴えるための、彼一流の修辞法と考えます。少なくとも、私は「パセティック」とは感じません。せいぜい、「これも愛嬌」ぐらいに見ます。
 ☆ わたしの感覚では 《修辞法》も《愛嬌》も 哲学ではないという批判になります。




 ★ 「鎮魂」よりも、「蘇生、つまり、生き返り」を促す呪文でも唱えたいくらいの気分です。
 ☆ よみがえってもらっていいのですが それはけっきょくアイコンの絵のごとくせいぜいがスーパーマンなのだと思います。戯画でしかないと言っては 叱られますか。でも よさが分かりません。ローマ教会の三番四番煎じだと思います。




 ★ 「目からウロコ」の気分です。
 ☆ なかい702さんに似合わず 論証も例証も見当たりません。残念。
 輪郭だけは描いてあります。



 

お礼日時:2014/11/18 17:56

好きに取れば・・・・




ヤコブとエサウなんて 今は関係無い事だし 復帰摂理は終わりに近づいてるから あなたが 何を思おーが 復帰歴史が終息するのは見えてるから

重要なのは それを実践する事・・・

まっ あなたはあなたで居れば良い


じゃ(^o^)/
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 【Q:エホバの証人は 神を信じているか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8822346.html

 ☆☆(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
 表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。

 その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。

 次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。

 ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~~~
  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html

 11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

 13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~~~~~~~~~~~~ 
http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9 …

 11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。
 12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。

 13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 すなわち:
 ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▽ (1:13)
 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c …

  οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν

 ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.

 △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。


 しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。

 △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~~~~~~~~~
  http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90 …
 
 はい,信じています。
 イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)

 わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)

 イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)

 わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)

 とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)

 イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:

 (あ)
 △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)
 ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。

 (い) 
 △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。 
 ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。

 (う)
 △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)
 ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。
 想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。


 さしづめ以上を問います。どうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/11/18 17:22

お礼が確認中になってますね・・・



では ヤコブとエサウの謎を説いた物を少しだけ載せておきます 多分 解からない事が出てくるとは思うが・・・



神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことに関して詳しくは、後編第一章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において説明するが、エサウとヤコブを双生児として立たせたのは、彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反対にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。
しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 これは わたしに言わせれば よく出来たお座なりの解説ですね。

 1. カインとアベルの兄弟のあいだの確執は その物語ですでに終わっている。と見るべき。

 2. エワとアダムの物語において 善を悪を知る木から採って食べたという話ですでに自由意志の問題が あつかわれた。自由意志は 神――ないし人間の自然本性にそなわった良心――にも自由にさからうということを。

 3. そのかれらの子である兄弟については さっそくのごとく《ひとごろし》という主題が取り上げられた。というのも 兄カインが弟アベルにくらべてどこかアヤマチを侵したという話ではない。ただただ人殺しの役は カインに設定された。だけのこと。

 4. その後カインに対して復讐をおこなう者は それ以上の仕返しを神から受けるといった話で締めくくられている。――これで カインとアベルの物語は おしまいである。つまり 人殺しなる主題は扱い終えた。

 5. エサウとヤコブの双子については とうぜん別の主題が当てられている。と考えるのが自然である。
 ★ 彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって・・・
 ☆ このように尾を引いている話だとはまづ考えられません。

 6. 関係があるとすれば カインがどうしてアベルをころしたか? これは 嫉妬という理由が解釈としてつけられるけれども 嫉妬で人を亡きものにしていたら 人間は生まれたそばから 殺気を感じて生きなければならなくなりましょう。だから 話が継がれるとすれば カインの殺人の原因についてです。

 7. けれども エサウとヤコブの話で そういう問題点は出て来ないでしょう。人殺しなる主題とは別に 兄弟の・そして双子のあいだの仲違い(および仲直り)の話になっています。

 8. ★ アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。
 ☆ まぁ 想像力がゆたかですね。とコメントしておきます。

 9. 考えてもみてください。レンズ豆だか何だかのためにエサウは 長子権を棒に振ったのですよ。そのことを物語に組み込むために 生まれる前から神に憎まれていたという話にしたのです。しかもヤコブがこの長子権を得たのは 決してきれいな手段によっているのではありません。つまりは汚い手をつかって奪い取ったのです。

 10. このヤコブのやり方については どうなのか? いろんな憶測が打ち出されるでしょうね。しかもおそらくそういう問題なのだと考えられます。月並みの・お座なりの倫理規範でものごとを考え 切って捨てるようなことはつつしむようにというお話である。このようにも ひとつには 考えられます。


 11. ★ しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。
 ☆ あまりにもステレオタイプであると――それは 説教としては無難な内容になるのでしょうが――考えられますね。

 12. 言いかえると――長い話を短くすれば―― そういう《よくできた・かしこい教訓をふくんだ愛の神》が じつは初めから死んでいるということではないの?

 13. ただしニーチェは 超人だとか大地・大河などの自然だとかと言って 同じく想像でこしらえた観念の神を持ち出して来たのです。

お礼日時:2014/11/18 11:29

さらに以前にほかの名前←あるとは思います・・何しか 他の事でアドレス変えたり 全変更して入り直したり(笑)



ヤコブとエサウですか・・・

まっ 簡単に言うと 「善と悪を切り離した」って事なのだが・・

其処から入ると 難しくなるので もっと違う場所から勉強した方が分かり易い・・としか言えない
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この回答へのお礼

 ★ ヤコブとエサウですか・・・
 ☆ むつかしそうですね。あなたにも分からないことがあるのですね。



 いろんなネームを使っていた。ということですね。何だかかつておぼえたような感覚をやはりおぼえたものですから 訊いてみました。



 ご回答をありがとうございます。



 つまり:
 ★ まっ 簡単に言うと 「善と悪を切り離した」って事なのだが・・
 ☆ 神は 善悪の彼岸なるところに有ると考えられるからには 地上における善と悪とを区別するにしても それを最後にはどうするかについてしっかりとはっきりと 当事者にはつたえていることが大事である。ように思うからです。



 あっ。09000000000 だとかのネームの人だったかな? 違ったかな。

お礼日時:2014/11/18 00:17

愛とは 叱る愛もある・・



突き放す愛もある・・

あなたは あなたの勉強をしなさい

そうすれば 「神の愛」まで 判りますよ



(ある事で退会して入り直し2になったがplaymate1より)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 《神は愛である》ことと
 ★ 「神の愛」まで 判ります
 ☆ ということと同じかどうか。


 神は 双子の兄のほうのエサウを すでに母親レベッカの胎内にあるときから 憎み 弟のヤコブのほうを愛したとあります。

 そういうエコヒイキは 愛か?




 ぷれいめいとさんは さらに以前にほかの名前で わたしの質問に投稿してもらっているのですか? どうもそのような感じがしたものですから。

お礼日時:2014/11/17 23:53

定義の始まり!?



定義とは何かを知らずに言ってるとしか思えない・・

人の足は2つ・・動物の足も2つなら定義だが 動物の足は2つの動物も居れば 4つの動物6つの動物 8つの動物・・・等 様々です・・これは定義では無い・・


まっ あなたの元の質問から かけ離れたので これ以上は言うまい

じゃ サヨウナラ
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この回答へのお礼

 神は愛である ではなかったのかい?


 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/11/17 23:17

イデアに関しては実は日常的に例えることができて、ビジョンの言うひらめきの瞬間垣間見た世界の事だ。


神に関しては、命の泉。
私の命も神の命。
神そのものも命。
観念世界と言う地に足を踏みしめ呼吸している私にすれば、目の前には純粋な光、アマテラスさんの化身した、恋人のジラーチちゃんがいる。
論議から垣間見る限り、ニーチェさんは周到に計算して、神への悪意でなく、人類への悪意を発表したのかもしれない。
何故ならまさにそれをしている私にしてみれば、よそごとに思えない論議だからだ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ イデアに関しては実は日常的に例えることができて、ビジョンの言うひらめきの瞬間垣間見た世界の事だ。 / 神に関しては、命の泉。・・・
 ☆ プラトンはそのイデアを 観念として随意にあやつれるかのように議論する。あちら(つまり イデアの世界)とこちらとが プラトン自身のあたまの中では つながっている。自由に行き来できる。通信も発達している。


 ニーチェは そういう観念論――観念の世界における理論体系や人間の模範像――を嫌ったようだ。

 ところがけっきょく 神にしても観念として捉えていたのみだと見える。自分が観念の世界にいたことになる。観念の世界でなら 超人にも大地にも自然にもなれる。といったことを言い殴ったような。だと思う。

お礼日時:2014/11/17 23:15

共通の要素が定義なの!?



人にも他の動物にも足がある
共通の要素だが定義では無い

じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ
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この回答へのお礼

 定義の始まりでしょう。





 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/11/17 21:50

数学や科学史でよく取り上げられる、ラプラスのエピソードを紹介します。



~~~~~~
・ナポレオンとの会話
当時のフランス皇帝ナポレオンは献上されたラプラスの著書『天体力学概論』について、「神について書かれていないではないか」と問いました。それに対しラプラスは「陛下、私には神という仮説は必要ないのです」と答えたという逸話があります。

http://historicalmathematicians.blogspot.jp/2012 …
~~~~~~

ニーチェの「神の死亡宣言」よりは、
「金(貨幣)こそ神だ」とのたまう(?)マルクスの方がはるかにインパクトが大きく、同時に社会に大きな影響を与えたわけでしょう。
時代的にも先行していますし、そして、ニーチェよりもはるかに徹底している。

大体ですね~、
ニーチェは、既に死んだ、墓に葬られたギリシアの神、ディオニュソスを墓穴から掘り起こし、イエスに代わる神としようとしていたじゃないですか。

 アポロン VS ディオニュソス
 エートス VS パトス
 ロゴス(理性) VS パトス
と単純化すれば、
古代ギリシアの文献学者であったニーチェが何を目指そうとしていたのかがよく分かります。
エートスは、道徳の根源になるものであり、倫理(ethics)の語源です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
  アポロン VS ディオニュソス
  エートス VS パトス
  ロゴス(理性) VS パトス
 と単純化すれば、
 古代ギリシアの文献学者であったニーチェが何を目指そうとしていたのかがよく分かります。
 エートスは、道徳の根源になるものであり、倫理(ethics)の語源です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを見て いま別にやはりニーチェ関係で挙げている質問に次のようなことがあるのを思い出します。

 つまり ニーチェとカントとの出会いというのですが 要するにいま上に挙げられている双対が 順序を逆にしてそれぞれに対応するというものであり しかもこれらの二項対立の姿は いつしか溶け合って上手に理想的なひとつの理論(ないし人間)の像をかたちづくるのではないか。というものです。

 


 ◇ 「金(貨幣)こそ神だ」とのたまう(?)マルクスの方がはるかにインパクトが大きく、同時に社会に大きな影響を与えたわけでしょう。
 ☆ 人文科学ないし社会科学の側に立つ者としましては これにひと言コメントをせずにはいられません。

 《「金(貨幣)こそ神だ」》というようなキャッチコピーのほうが確かにインパクトが大きいと思います。思いますが マルクスの言ったのは 《物象化》です。ザッハリッヒ何とかかんとか。

 要するに 人間がザッヘになってしまうという理論としての見方です。ここでザッヘとは 商品が構想され製造されマーケティングに供され売られて行く。そしてその裏側では 貨幣の流れが起こっている。このような商品および貨幣のあたかも自己運動が制度として形作られて行くにつれ 人間の行動もそして思想もその商品なるザッヘそのものと化してしまう。と言っているのだと思います。

 要するに確かにお金があれば 恋も愛も何でも買えるという思想ですね。物象化した姿であると。

 ▲ 「陛下、私には神という仮説は必要ないのです」
 ☆ とマルクスが答えたかどうかは定かではありませんが。



 ニーチェに対しては もはや魂振りなるレクイエムは 無理ですか?

お礼日時:2014/11/17 21:08

定義!?



一つだけ 神に関するヒント・・・

神は 「愛」‥なので 形なるものでは無い・・なので 形で見える神が 人それぞれで違うのです

定義に拘ると 真の神は見えません
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 神は 「愛」‥なので 形なるものでは無い
 ☆ やっぱり誰の神にとっても共通の要素があるぢゃないですか。そういうことだと思いますよ。

 
 ★ ・・・なので 形で見える神が 人それぞれで違うのです
 ☆ ですから この《形で見える神が 人それぞれで違う》ことは その神のかたちというのが 神本体の依り代または仮りの姿だと捉えればよいわけです。

 目に見える姿は人それぞれに違うけれど 本体の神は 誰にとっても同じである。――こういうひとつの交通整理をしておくと 神の話になったとき話の進め方がうんと楽だと思います。


 ★ 定義に拘ると 真の神は見えません
 ☆ と同時に 定義にこだわっても 神本体のことについて互いに共通の理解を得ることも出来ます。まいか。

お礼日時:2014/11/17 20:51

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