「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

現在、日本橋の架かっている川は、「日本橋川」と呼ばれています。
この「日本橋川」が、かつて「神田川」と呼ばれていた事実はありますでしょうか。

江戸時代、神田川はもともと「平川」と呼ばれていたのが、
江戸初期の大規模な改修を経て流れが現在のものとなり、名称も「神田川」とされていることを、切絵図で確認しましたが、神田川から分かれた支流、つまり、まさに日本橋が架かっていたあたりの川を、1830年代頃に何と呼んでいたのかが知りたいです。

日本橋川、神田川、平川、いずれかの名称であったのではないかと想像しているのですが。
ご存知の方がおられましたら、ご教示ください。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (3件)

No.2投稿で「佳境(自称^^)を目前にして」と自らハードルを上げてしまった


Kittynote です。再度、失礼致します。

No.2投稿では、主に【東京市史稿】の情報に基づいてカキコミましたが、
【東京市史稿】一つのみの情報では心許ないため、
・東京大学史料編纂所>データベース選択画面/できごとを主題に-近世編年データベース
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontrol …
上記でも同様の検索を試みました。
ただ、結果的には、東京大学史料編纂所「近世編年データベース」での検索ヒットも、
一部【日本財政経済史料】などほかも含みますが、主に【東京市史稿】のものでした。

・「平川」/ヒットした中には川名は含まれず、
 天正18年以降、地(域)名、町名、門名や平川口など場所名、寺社名、人名などのみ。
・「平河」/ヒットした中には川名は含まれず、
 慶長19年以降、橋名、寺社名、町名などのみ。
・「神田川」/多数ヒットも本・支流(日本橋川)との関係が明らかなものは含まれず。
 ※ただし、多数のため出典本文流し読みにつき、見落としの可能性は残ります。※
・「小名木川」/天正18年8月15日「小名木川水路」、 萬治3年6月18日「小名木川」等
 人工運河にもかかわらず江戸初期・前期時点で「小名木川」の呼称あり。
・「竪川」/萬治2年是年、江戸前期時点で「竪川」の呼称あり。

・「日本橋川」/下記7件ヒット。※結果的にNo.2前投稿と同一内容どまり。
1/文化5年3月7日/日本橋川・竪皮(※川)・小名木川を浚渫す、/東京市史稿・港湾篇
2/文化5年6月20日/〔附記一〕老中牧野備前守「牧野忠精」、日本橋川等浚渫の
出来栄見分命ず、/東京市史稿・市街篇
3/文化6年3月2日/〔附記〕老中牧野備前守「牧野忠精」、日本橋川筋その他浚普請中
見廻りを勤めた町奉行根岸肥前守「根岸鎮衛」に時服を三下す、/東京市史稿・市街篇
4/文化9年2月25/板材木薪炭問屋及土船乗土商請うて、竪川「東京市内」及日本橋川
江戸橋大川出口間「東京市内」の定浚を為す、/東京市史稿・市街篇
5/天保15年4月7日/〔附記一〕日本橋川浚に関する達あり、/東京市史稿・市街篇
6/天保15年4月7日/日本橋川筋を浚渫し、この日着手す、/東京市史稿・港湾篇
7/嘉永元年11月14日/日本橋川本材木町川の定浚請負を更命す、/東京市史稿・港湾篇

なお、上記のうち「東京市史稿・港湾篇」の
「1/文化5年3月7日」「6/天保15年4月7日」「7/嘉永元年11月14日」各條に関しましては、
下記『東京市史稿. 港灣篇 第2/東京市編/東京市/大正15.3』で確認出来ます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915641/226
<226~244/615>(397~432頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915641/412
<412~417/615>(746~756頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915641/449
<449~451/615>(820~825頁)

文化年間に限らず、天保・嘉永期に至っても「日本橋川筋」表記なのは、
単に先例を踏襲してのことか定かでありませんが、
仮に世間では「日本橋川」呼称であっても川浚など工事特有の言葉ゆえ…
否、小名木川・竪川事例からもそれは考え辛く…
あるいは、「日本橋川」の内の特定区間ゆえ?などと妄想が絶えません。

あと、「東京市史稿・市街篇」に関しまして、私の知る限りWEB上に限れば、
・東京大学史料編纂所>データベース選択画面/できごとを主題に-近世編年データベース
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontrol …
上記にて検索後の各画像で確認する以外の方法を知りません。

「佳境(自称^^)を目前にして」なんて言いながら、尻すぼみで申し訳ありません。

実はこれ以外に、山東京伝(1761-1816)、大田南畝(1749-1823)、曲亭馬琴(1767-1848)
などの作品等からのアプローチも試して見ましたが、さすがに全作品制覇なんてことは
無理なので、一部の作品内目次とか大田南畝では全集索引等での確認のみ行いましたが、
日本橋川に繋がる成果は得られませんでした(><)

以上 限られた範囲内での情報に過ぎませんので、断定は出来ませんが、
「日本橋川」が「平川」または「神田川」と呼称された事実は浮かばず、
また江戸時代を通じて「日本橋川」との呼称の事実も浮かばず、
文化年間に川浚など工事に際して「日本橋川筋」の表記が登場して、
それ以後、天保・嘉永期に至ってもその表記が踏襲されている事実のみ浮かび、
また、下記でも
〇『徳川実紀.續第2篇/成島司直等編/経済雑誌社/明治38.8』
「文恭院殿御實紀 四十四卷 文化六年三月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917828/35
<35/498>(58頁8行目)
○(※三月)二日町奉行根岸肥前守鎭衞日本橋川筋…

と「日本橋川筋」表記が採用されていることも考え併せますと、
1830年頃の「日本橋川」は、
少なくとも公には「日本橋川筋」と呼称されていたと考えられます。

これはあくまでも、私ド素人の管見に基づく私見に過ぎませんので、
当時世間一般では「日本橋川」と呼称していた可能性を否定するものではありません。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

うわあ……。まさかこのように調べてくださるとは! かけていただいた労力を思いますと、本当に恐縮です。「日本橋川筋」という呼称を発見していただき、その名称が登場した年代、1830年代、とまで明らかにしていただきました。「筋」が付くとはいえ「日本橋川筋」という名称が明治以降ではなく、江戸期に使われていた、ということがわかり、非常に感銘を受けました。「川」でなく「川筋」とされている点については、Wikipedia(日本橋川のページ)によると、日本橋川は、江戸城の外堀の一部を構成していた、と。工事で流れが変更されることが頻繁にあったならば、「人工的な流れ」という意味合いも込めて「筋」が付けられた可能性も? 
切絵図は私も見ましたが、「神田川」は絵図内に記載されているのに、分岐後の「日本橋川」等の名称がどうしても見当たらなかったので、途方に暮れておりました。

本当にありがとうございました!

お礼日時:2015/03/25 17:21

興味深い御質問ですね。


WEB上で散見される「日本橋川」関連記事に当たってみましたが
文献・記録等の用例が明記されたものは見当たらず曖昧記述のものばかりでした。

ならば、当時の文献・記録などに用例があればと、
1830(文政十三・天保元)年頃で先ず思い当たるのは
【御府内備考】と【御府内往還其外沿革図書】。

【御府内備考】は、1826(文政九)年幕府が三島政行に命じ作成させた江戸幕府官撰の
江戸府内地誌『御府内風土記』(正編145巻<江戸城沿革・市街・旧跡>、
続編147巻<江戸の神社・寺院記事>)のうち、1872(明治五)年の皇城火災で焼失を
免れた中の正編で『地誌大系』に所収されているもの。
【御府内往還其外沿革図書】は、1807(文化四)年普請奉行小長谷政良・岩瀬氏紀が
老中牧野忠精から命じられたにことに始まる、江戸市街地等の土地利用変遷地図集。

・『大日本地誌大系.壹/大日本地誌大系刊行会編/大日本地誌大系刊行会/大正3.9』
「御府内備考」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879417/12
巻之六(98~121頁)の各川・各堀・各橋と巻之三(45~63頁)の関連各門などを一通り
読み流しましたが、少なくとも「日本橋川」項目は無く、
見落としの可能性も残りますが、「日本橋川」の記述用例も見当たりません。
なお神田川や日本橋の記述だけではハッキリしません。

・『新修日本橋区史.寛保沽券図解説・御府内往還其外沿革図書日本橋之部/
東京市日本橋区編/東京市日本橋区/昭12至13』
「御府内往還其外沿革図書日本橋之部」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255703/87
第九 呉服橋御門外{北之方日本橋川筋限/南之方上槇町通道敷限/東之方本材木町川筋限}
向寄道式共
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255703/136
※上記、第九の「北之方日本橋川筋限」表記は残念ながら編纂時の題目に過ぎません。※
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255703/137
<137~139/156>
延寶年中之形・元禄年中之形・享保年中之形・文化二丑年之形・安政六未年之形
の何れの地図でも一石橋・日本橋・江戸橋の間は「川」表記のみ。
一方では例えば下記「第一 浅草橋御門内」地図では「神田川」表記も存在することから、
少なくとも一石橋・日本橋・江戸橋間の「川」と「神田川」とは区別されていたとは
言えそうです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1255703/92

上記の【御府内備考】と【御府内往還其外沿革図書】を見る限りでは、
果たして江戸時代に「日本橋川」の呼称が有ったのか怪しくなって来ましたなんて、
予断が生じてしまいました^^

さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題…とは言いましても、
私素人の管見に過ぎませんので軽く読み流していただければ幸いです。

江戸時代の事で手懸かりを得るのに私が良く利用するのが、【東京市史稿】。
・東京都公文書館>刊行物>東京市史稿
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
例えば「港湾篇」のうち
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
「東京市史稿 港湾篇第2 目次」
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
例えば、上記画面で<[Ctrl]+[F]>クリックと検索(キーワード)「日本橋川」で
下記3件(同一件内重複でヒット数4件)の情報が得られます。
ただし、仮に[題目]に「日本橋川」が含まれていても、これはあくまでも編纂時の
編者作成の題目に過ぎませんので、結局は出典本文に当たるしかありませんが、
有力な手懸かりには違い有りません。その意味では、
「[出典]日本橋川筋竪川小名木川浚一件書留」が気になるところです。

○[題目]日本橋川竪川小名木川浚渫/[篇巻頁]港湾2-0397/[年月日]1808(文化5)年3月7日/
[出典]日本橋川筋竪川小名木川浚一件書留、弘化3午年本所竪川〆切大浚御普譜書留、
荒和布橋より室町堀留迄町-自分浚一件書留
○日本橋川浚渫/港湾2-0746/1844(天保15)年4月7日/川筋浚書留
○日本橋川本材木町川定浚更命/港湾2-0821/1848(嘉永元)年11月14日/
川筋定浚、遠山左衛門尉・景元

続いて、「東京市史稿 市街篇 各巻一覧」
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
上記と同様の検索を試みましたが市街篇第1~第32各巻ではヒットせず、
「東京市史稿 市街篇第33 目次」で1件ヒット。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
○附記 日本橋川等浚渫/市街33-774/1808(文化5)年6月20日/文化録
「東京市史稿 市街篇第34 目次」で2件ヒット。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
○附記 日本橋川浚竣成/市街34-006/1809(文化6)年3月2日/文化録、文恭院殿御実紀
○竪川日本橋川定浚/市街34-346/1812(文化9)年2月25日/撰要永久録

市街篇第35~第40各巻ではヒットせず、「東京市史稿 市街篇第41 目次」で1件ヒット。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
○附記 日本橋川浚/市街41-146/1844(天保15)年4月7日/撰要永久録
あと市街篇第42~第50各巻ではヒットせず、以降は検索省略。

上記で、編者題目「日本橋川」・出典名「日本橋川筋」記述が登場するのは文化年間。
そこで、「[出典]日本橋川筋竪川小名木川浚一件書留」に着目して、
・『日本橋川筋竪川小名木川浚一件書留』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2605834
上記のうち「[1]日本橋之部 壱 文化4年[117]1」を確認してみますと、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547646/3
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547646/18
<18/117>
日本橋川筋
 一石橋ヨリ  日本橋マデ
 日本橋ヨリ  江戸橋マデ
 江戸橋ヨリ  湊橋マデ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547646/19
<19/117>
 湊橋ヨリ   大川マデ

遅くとも1807(文化四)年には、一石橋・日本橋・江戸橋・湊橋・大川の間を
「日本橋川筋」と表記されている事が確認出来ます。

また、「[2]日本橋之部 弐 文化4・5年[137]」「[3]日本橋之部 三 文化5年[106]」
「[4]日本橋之部 四 文化5年[108]」「[5]日本橋之部 五 文化5年[125]」の何れも
「日本橋川」ではなく「日本橋川筋」というところが悩ましい所ではあります。
ちなみに、ほかの「竪川」「小名木川」に関しましては、「筋・通」等が付く場合も
ありますが、どうやら「竪川」「小名木川」が通常の名称の様子です。

と、佳境(自称^^)を目前にして、誠に申し訳ありませんが、
後の下書き原稿の編集・整理未了につき、一旦失礼致しますm(_"_)m
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この回答へのお礼

no.3にお礼が書ききれなかったのでこちらに。

日本橋川筋、と一般の江戸民衆たちが呼んでいたかどうかは、仰る通りわかりませんが、
「想像」はできるようになりました。
参考にさせていただきます。

ここまでわかった、ということが、本当にありがたいです!

お礼日時:2015/03/25 17:25

神田川から日本橋川になった流れはここに書いておりますよ。


http://www.geocities.jp/tokyo_ashy/b-nihonbashig …

江戸時代よりもっと前は、
一石橋付近まで深く海水が入り込んでおり、
「湊江(みなとえ)」と呼ばれていたそうです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
ご教示いただいたホームページ、とてもわかりやすく書かれておりますね。

想像するに、三崎町で神田川から分かれた現在の日本橋川は、日本橋が架かっていることから、「日本橋川」と呼ばれるようになったのでしょうが、そう呼ばれるようになる以前は「神田川」「平川」などと呼ばれていたのだろうと想像されます。
いつ頃から「日本橋川」という名称が使われ始めたのかが知りたいところなのですが、さらに調べてみようと思います。

情報をいただき、本当にありがとうございました!

お礼日時:2015/03/23 11:41

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