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客観って、主観の副産物でしかないのですか?
純粋な客観と云う"対象物?"は無いのでしょうか?

人の思考作業に使われ、辞書にも定義のような事が載っている「客観」と云う視点?に付いてどう扱ったらよいのかを考える事はとても哲学っぽい事柄だと思うので、聞いて見たくなりました。

辞書に基づいて考える事は危険?ですか。

宜しくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    客観って主観が産みだしたものですか?
    主観から離れた客観って考えられないのでしょうか?

    Aという物事を世間では価値があるとして大事にして居る様だけど、自分は少しも価値があるなんて思わないので大事になどしていません、と云う場合の自分のAに対する世間の評価を確認する行為は、自分の主観がそう判断したのだから、純粋な客観を確認したわけではない、あくまでも主観が産みだした"客観"を確認したに過ぎない、と云う事なのでしょうか。

    自分以外の他者の認識を客観と云うのではないでしょうか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/19 11:14
  • 認識は主観!

    悔しいけれど受け入れます。

    でも、BAはあげない。

    気分は"御免"

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/25 22:46
  • とても勉強になりました。
    柏木由紀ちゃんが誰だか知りませんが、かわいこちゃんなんでしょうね。
    hakoburuさんのお気に入りですか。

    ☆ 完全な客観性など存在しない、と捉えることに異議が称えられない。
      そう、思うようになってきました。

      ありがとうございます。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/25 23:00

A 回答 (22件中11~20件)

難しいですね~。

ただ客観的になるには、日常生活で五感を
よく働かせることが大切なようです。
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この回答へのお礼

うーん・・・

日常生活で五感をよく働かせると客観的になるんですか?
よく分かりませんが、考えてみます。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/20 22:52

#8です。



>☆ 客観とは主観を離れた「認識」である。

客観とは主観を離れた「認識」である、というのはその通りです。
しかし、それはあくまで定義であって、では、
主観を持つのが必然である私という主体が「客観的に考える」ということができるかといえば、それはできないだろう、思います。
カントは、物自体は認識できない、と言ったと思いますが、それと似ているかもしれません。
彼は、物自体を認識しているつもりでも、実は「物自体だと思っているもの」を認識しているに過ぎない、として、物自体を認識するのは不可能だと結論していたようです。
ただ、客観的妥当性を持つことのできる対象として「現象」というものを挙げている。
わたしたちが客観的に考えることのできる対象も、この「現象」と似たような位置づけて、「客観としての他者の考えそのもの(物自体)」ではなく、「客観と思われる他者の考え(現象)」と捉えるのが自然ではないか、と思うような次第です。
なぜなら、客観を認識するという行為自体が、すでに主観の制御の下で行なわれる作業だからです。
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この回答へのお礼

人が捉える万物の事柄は主観の内に在る、との見解かと思いました。

とりあえずの了解です。

お礼日時:2015/06/24 22:57

★ (№4お礼欄) これは"主観"に付いて考えて、それに定義なるものを与える事に由って、お互いの考えをクロスさせうるのではないかと。


 ☆ (か) 主体が客体(=対象)に対して言葉(概念)で把握すること・およびその内容が 認識です。

 (き) その認識内容としてのひとつの主観 これをも 客体(=対象)として認識し得ます。これが 《"主観"に付いて考え》ることです。

 (く) 《定義》というのは 次の場合がそうです。
  ◆(回答№6)例えば、gooのロゴの色は、赤。 / これは客観です。
  ☆ 幅がありましょうが 《赤色》は だいだい色や紫色とのあいだの色合いとして取り決められています。その定義にしたがって goo のロゴの色を赤だと認識しています。むろん その認識をおこなった人の主観ですが 定義にしたがった認識であるということになります。

 (け) 《質問者:yy8yy8az》とか《回答者:bragellone 》というように書かれたシルシは 何か? という問いに対して それは 《質問し回答するそれぞれの人》のことだと答える。これは 特に主観だの客観だのと言わず ただこの質疑応答の場の仕組みとして《その主体たる人間》を表わすとされているのだから そういう広い意味での定義のことを言っているわけです。
  ◆ 「主観から独立して観る」
  ☆ というのではなく 主観たちのあいだであらかじめそのように取り決められているその定義を言ったまでです。定義を言うときにも あくまでそれぞれの人の主観によっています。

 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 思うに"主観"には当人の「思い」が込められているものであって、当人の情とか理性とかが介入する前の"認識"と区別されるのではないでしょうか。
 そう思えば、認識の内から主観と客観が現れる、と捉えられますので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (こ) 思いが込められているかどうかに関係なく 主体が客体を認識したら それは主観です。この主観をとおさない認識はありません。

 (さ) どの主観にとっても 真実だと思える認識は 共同主観を成します。そして ときにそれは 純粋な客観に近いと見られることがあります。(ほんとうには ありません。あるのは (く)(け)の《定義》としての認識だけです)。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 主観とはその個体の情や理が創り出す観念。
  ☆ 客観とはその個体の情や理を込めない観念。或いは認識する事柄。

 と、云うのはどうですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (し) 《観念を創り出すこと》は 一般に認識とも主観とも言わず 《想像ないし思考あるいは創作などなど》と言います。主観にふくまれますが。

 (す) 純粋客観に近い共同主観を《ほぼ客観》と見て 便宜的にそのまま《客観》と言うとすれば そうは言ってもこれも そういう認識内容の――それぞれの人の――主観なわけです。
 《情や理》を込める込めないとはかかわりなく一定の客体について一定の内容が認識されているもの(それぞれの主観)を言います。


 
 (せ) 《事実認識》が 《主観》です。《純粋事実 もしくは 事実それ自体》を仮りに人間が認識し得たとすれば その内容が ほんとうの《客観》です。
 ほんとうの客観に近い実際の認識内容を――それは 《ほぼ客観》というべきところですが―― 便宜的にただ《客観》という言葉だけで表わすことが ナラハシになっています。
 《ほぼ客観》というふうに判定するのも じつは われわれ人間一人ひとりの主観です。判定がまちがっていることもあり得ます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

煎じ詰めれば、認識=主観と云う事ですね。

とりあえず了解しておきます!

お礼日時:2015/06/24 22:50

主体が持つのが主観、客体が持つのが客観。


主体が持てるのは、客観的であって客観は持てないと思います。

距離をおいて見直す時、客観的は必要でしょうから
さまざまな場面で想像力を発揮させる場合、無いと困りますよね。
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この回答へのお礼

うーん・・・

意識される主観と客観。
意識されなければ主観・客観は存在しない。

まずは主体が在って、だから客体がある。
主体の意識が客体を捉える。
捕えた客体を主体の"観"が客体の"観"を受け止める。

☆ 思考の途中なのでまだまだ・・・
☆ 哲学はこれからだ!

                     頭が疲れてきた・・・

お礼日時:2015/06/19 21:33

ちょうど他でも回答した勢いで、こちらにもお邪魔いたします。


なぜ「辞書に基づいて考える事は危険?」と思われるのかよくわかりませんが・・・、まず、辞書(大辞泉)の確認です。
1 観察・認識などの精神活動の対象となるもの。かっかん。⇔主観。
2 主観から独立して存在する外界の事物。客体。かっかん。⇔主観。
3 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/54335/m0u/

>客観って、主観の副産物でしかないのですか?

そんなことはないでしょう。
わたしの考えは私の主観ですし、質問者さんの考えは、私にとって客観になるはずです。(上記2に該当)
ただ、わたしが「質問者さんの立場に立って観察し考えること」は(厳密には)できない。
上記辞書の3では、たしかに語釈のひとつとしてそれが挙がっていますが、それを客観と呼ぶと言っているだけであって、それが可能だとはどこにも書いていません。
「客観的に見る」という行為自体が主観に基づいた行為に他ならないと思います。「見る」という主体が、主観の保持者である自分である以上、そうなります。
端的に申し上げると、「客観は存在するが、客観的に見ることはできない」ということ。
どの程度、他者の立場に立って判断することができるか、によって、純粋な客観にどれだけ近づけるかが決まっていくのでしょう。
しかし、最大の数を見つけることはできないのと同じで、純粋な客観そのものを(主観が)知ることはないと思います。
近づくだけでも、相当の想像力を要する(脳内)作業になるような気がします。
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この回答へのお礼

どう思う?

お待ちしてました。

この質問は少し前の他の方の質問、主観と客観のバランスという問いについてのhakobuluさんの回答に"不満"を感じての事だったからです。

頂いた回答を見て益々確信してしまいました。
主観と認識との"捉え方"が必須ではないかと。

私は思いました。
主観・客観は認識されうる感性。
主観と云う感覚は認識に理や情が注がれて発生する観念。
客観は感性を通して、主観とは無関係に"感受するもの"で、それは認識したもの、或いは認識の段階である、と云える・・・と。

☆ 客観とは主観を離れた「認識」である。

これが頂いた回答から得られた私の結論です。
どう思われますか。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/19 18:54

No6です。



×これが、「主観から独立して観る」と言う事です。
○これも、「主観から独立して観る」となります。
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客観と主観は厳密に追求すると、白黒付けにくいですよね。



例えば、gooのロゴの色は、赤。
これは客観です。

個人差やモニター差によっては、紅色に見えるかもしれません。色覚異常の人なら灰色に見えるかもしれませんが、主観から独立して観ているので客観といえます。



「gooのロゴの色の赤は、良い(悪い)」
これは、主観です。

ただこの後、何故良い(悪い)かの理由によって、主観的意見か客観的意見かに分かれます。
例えば、マーケティングから観た視点でユーザーに与える影響を考慮して良いかどうか?デザイン的な視点で観てよいかどうか?などを考慮すると、客観的な意見になります。

これは主観に基づくいて考えるのではなく、統計や学問上の視点で物事を考えているから客観となるのです。
これが、「主観から独立して観る」と言う事です。

ただ、この類の問いは、時として客観を装った主観も横行します。
これは、解答と回答の性質の差です。



先ほどの色の判断は、解答可能です。白黒はっきり答えが可能なので、客観を装った主観の解答そのものが不可能です。色覚異常の人は、誤った解答をしてしまうでしょうが、嘘を意図的につかない限り主観を100%排除して、客観的に解答する事は可能な問題です。

「良いか?悪いか?」の問題は、解答不可能です。回答のみ可能です。
そのため、学術的な視点や統計の視点で、正当性を主張し回答する必要があります。しかし、その過程で無意識に、自分の意図する結論に回答を導いてしまう。あるいは、意図的に結論ありきの都合の良い研究結果を持ち出し、読み手に印象操作を行う。このような、客観を装った主観の回答が横行します。自分では、客観と思い込んだ主観も良くあるでしょう。私も多分、そう言うところはあると思います。

ただ、あまり深く考えなくて良いと思いますよ。
「主観から独立して観る事が客観」。そのくらいで大雑把にみてればよいと思います。



本当に気になるなら、世界でその研究している人は結構いるみたいなので、その研究者の論文や研究結果の発表物を読む事をオススメします。このサイトで素人の回答を聞いたって、結局あなた本人が、気に入った意見だけを採用して、あなたの主観を強化するだけの事です。
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この回答へのお礼

ありがとう

私の主観は強化されました。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/19 16:44

発達心理学的にいうと、「その言語を獲得するにあたった経験値」


普通「概念」っていうもの。
普遍的にあるものとして信じているから「象徴としての呼び名」。
自由とか愛とか時間、対等、感謝、美とか神とか。

母国語にその言葉がないということは、
その概念を持ててなかったということですよね。

言葉を獲得した人間は、
空間的にも時間的にも存在しないけど使える?「概念」も獲得した。
多分次元が違うところへ行きたいときに、
心は行けるようになったってことだと思う。

違う次元から自覚した自分が「客観視」してる。

動物でも訓練すれば演技を身に付けるから動物は機械ではない、
でも、演技力なのか習慣とするのかが難しい。

もしや!?演技力ナッシングなら「超天然人」が機械人間かもしれない。
先のことで悩めないし。知的障害?
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この回答へのお礼

うーん・・・

自分を見つめることを客観視とした場合、客観には主観が混じってもおかしくないと思います。

なんで、客観なんて言葉が生まれたのでしょうね。

お礼日時:2015/06/19 16:37

うまく伝わらなかった部分があると思います。



 (あ) 主体(人間)――客体〔(ⅰ)主体たるわたしの身や心(ⅱ)他の主体たるひと(ⅲ)人と社会と自然環界から成る世界(ⅳ)ぜんぶを含めて世界とも言う〕

 (い) 主体が世界たる客体を認識する:これは 主観を形成する行為である。人間については人間観 社会については社会観 その他自然観をもふくめて全体については世界観とよぶ。

 (う) 或る人の主観の内容が経験合理性に照らして妥当であって ほぼみなによって同意されると 共同主観となる。コモン・センス。ただし百人が百人とも これでよしとする世界観は――つまりそのような客観は―― ない。と言いますか 人間の能力によっては得がたいのだと思われます。共同主観は 純粋客観への近似値だと見られます。

 (え) この近似値としての――また社会や時代によってうつろいゆかざるを得ないながらの――共同主観を 便宜じょう《客観》とよぶ。客体についてのいろんな主観認識の中からほぼ誰もが納得しうる(また検証し得た)内容を取り出して 便宜じょうそのように取り扱うのが 《客観》。《ほぼ客観》とか《利便客観》と呼ぶのが 正確である。

 (お) 人間の主観のまだ入っていない《純粋な客観》はあるのか ないのか? あるとすれば それは 《客体〔たる事実世界〕》のことである。ただしその純粋客観を得ようとするのは 人間の一人ひとりの主観行為である。主観としての作業を経た共同主観は 便宜的に《客観的な認識》だとして扱われる。むろん《純粋客観》ではないけれど。
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この回答へのお礼

うーん・・・

回答を頂いて思いました。
これは"主観"に付いて考えて、それに定義なるものを与える事に由って、お互いの考えをクロスさせうるのではないかと。

思うに"主観"には当人の「思い」が込められているものであって、当人の情とか理性とかが介入する前の"認識"と区別されるのではないでしょうか。
そう思えば、認識の内から主観と客観が現れる、と捉えられますので。

☆ 主観とはその個体の情や理が創り出す観念。
☆ 客観とはその個体の情や理を込めない観念。或いは認識する事柄。

と、云うのはどうですか。

お礼日時:2015/06/19 16:23

客観って主観が産みだしたものですか?


主観から離れた客観って考えられないのでしょうか?

例えば動物には客観視ができないので、そ自分が今恋をしていることも
「恋愛感情」という概念がないので頭の中での理解ができない。
死や別れを恐れることもないし、
ただ今の主観たる本能に命じられるま動く機械のようなもの。

客観は『価値の表明能力』がある人間だけにある主観?のような気がする。
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この回答へのお礼

うーん・・・

人間以外の動物の心に理性という働きはないはずですが、でも認識する働きは有るようで・・・
人の赤ちゃんも生まれたばかりは、その認識と云う働きさえまだないのかもしれず、だから成長するにしたがって、認識力が現れ、発達するのでしょう。
その認識と云うこころの働きの成長は意識や理性や感情を産みだし、成長と共にそれぞれ発達していくのではないでしょうか。

そこで思います。
主観・客観は意識の産物なのか、理性の分別なのかと?

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/19 12:59

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