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それ相応の責任をとるという、ごく自然なことだと思います。
宅間守や加藤智大のように どんな台詞を言っても私は無視です。
どんな台詞を言っても何の意味もないのですからね。
自らの命で責任をとって、めでたしめでたしということです。
そこで質問ですが、良識者のみなさんは 命を命で償うことについて いかがお考えですか?

A 回答 (11件中1~10件)

正しいか否かではなく、正しいとすればいつしか人は殺せ、殺せの正義に陥る。

人はどこまでも馬鹿だから。
これが問題。分からなくてはいけない。分かってこそ、語れるようになるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/09/10 21:05

私も昔は死刑は当然早く執行すべしと思っていましたが、よく考えると死刑囚はその方が楽なのです



さっさと殺してくれれば何も考える必要がない。反省すらしなくていい。逆に待たされる方が苦しい。

遺族にとっても、しけいしゅうが、さっさと殺されたら、後恨む相手はどこにもいなくなります

何に怒りをぶつければいいのでしょう?

こういう理由を言う人は少ないかもしれませんが さっさと殺されたら堪ったもんじゃありません

死刑囚が苦しみ、後悔し、死の恐怖を覚え、蛇の生殺しのように苦しんで始めて遺族は「思い知ったか!」

と言えるのです。

死刑廃止の向きも世界にはありますが、刑務所とは言えある程度の人権は守られるのです。

人を殺しておいてちゃんと寝れてちゃんと働いて減刑されて釈放と。遺族は怖いですよそんな者が出てきたら。

世界では多くの罪なき人が死んでいきます。病気や老衰でなくても、飢えや戦争や自殺や事故で死んで行きます。

それに比べたら凶悪殺人犯を無期懲役にするなどあまりに不公平です。そんな金があるなら罪なき人を救って下さい

今から世界は人口爆発で人が多すぎて困るのです。過失致死は刑を重くするだけでもいいですが

恋に人を殺す、それも情状すべき理由がなくとなれば、命を命で贖うことはあってしかるべきだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

話がちょっと矛盾していますね。

お礼日時:2015/09/08 21:57

宅間守や加藤智大のような重罪人に死刑を下す事は、不条理性は全く感じません。



理由①
日本は何もかも「命を命で償うこと」としているわけではなく、国会で審議された「死に値する重大な罪」に限って死刑を採用している。

例えば、傷害致死罪(刑法205条) - 3年以上の有期懲役。
過失致死罪(刑法210条) - 50万円以下の罰金。

人を殺しておいて、50万円の罰金で済む事もあるのだ。

強盗致死罪・強盗殺人罪(刑法240条)などの重犯罪でも、「死刑又は無期懲役」である。日本の死刑判決の数は、年間一桁~20人程度。日本の殺人犯の検挙数は年間1000人前後である事を見ても、多くの殺人犯は「命を命で償うこと」はなされない。

http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html
https://www.npa.go.jp/toukei/seianki/h24hanzaizy …




理由②
宅間守や加藤智大のようなケースは、殺人現場のその場で現行犯逮捕された様な、冤罪を疑いようがない重犯罪者。冤罪の懸念も全くない殺人鬼に対し、「命を命で償うことに 不条理性」は全く感じない。





強調して言いたいが、「命を命で償うこと」と言う制度を日本は採用していない。
「命を命で償うに値する重犯罪を犯した罪人に限って、命を命で償うこと」としているだけである。

もしも日本が、「命を命で償うこと」を実践し、傷害致死罪も過失致死罪も強盗致死罪・強盗殺人罪も一律死刑という制度を採用しているなら、不条理極まりない。
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この回答へのお礼

>冤罪の懸念も全くない殺人鬼に対し、「命を命で償うことに 不条理性」は全く感じない。
強調して言いたいが、「命を命で償うこと」と言う制度を日本は採用していない。
ちょっと矛盾していませんか?

お礼日時:2015/09/07 17:47

No.7です。


「生きる価値と命の償いは別問題だと思いますけどね」
→紗布羅和さんの書いている通りですね。
「昔の武士は生きる価値があっても 自分の命を差し出すこともあったし、殺人も犯さなくとも 生きる価値のない人間はおりますし」
→おっしゃる通りです。
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No.5です。


「そこで、もう一度 宅間守の捨て台詞の思い出してください」
→宅間守の捨て台詞は光市事件の福田の捨て台詞と同じでしょう。
人間社会に対する逆恨みと理不尽な殺人を犯すような人間に生きる価値はありませんでしょうね。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。

>人間社会に対する逆恨みと理不尽な殺人を犯すような人間に生きる価値はありませんでしょうね。
生きる価値と命の償いは別問題だと思いますけどね。
昔の武士は生きる価値があっても 自分の命を差し出すこともあったし、
殺人も犯さなくとも 生きる価値のない人間はおりますし。

お礼日時:2015/09/05 10:31

何も慌てて殺す必要は無いのでは?


ただし、じっくりと苦しめる手立ては、合法的に必要になっているのかもしれないですよね。。。

以下、稚拙の「裁判員制度と極刑概念。。。」です

http://jinen.exblog.jp/22962505/
(前略)
個人的な意見で申し訳ないのだが、「極刑」という概念にて私が想定するのは「私刑」である。次のレベルに来るのが「生命を保護されない無期懲役」で、その次に来るのが(一般的概念での)「無期懲役」で、その次にて、ようやく「死刑」が来る。

一番目と二番目は、法律を有する国であれば、通常許されえない「極刑」であろう。
三番目と四番目は、現行の日本での法規として制定されているが、多くの国が死刑を廃止している。
国民・民族の死という概念の捉え方によっても、「死刑」の位置はずれてくると思われる。
死後を想定する宗教のあり方も影響しうる。
日本はどちらかと言えば無宗教であろうから、「死刑」が一番最下位になるのだろうと思っている。
だからこそ、「死刑」という制度は廃止されえないのではないのか?

二番目の「生命を保護されない無期懲役」は、間接自殺を企てる人々のために合法的に制度化すべきだと考える。合法的に・積極的に地獄を現世に出現させるべき時が来ているのかもしれない。。。

「地獄」、すなわち死後の苦しみが信じられていた時代、悪人の「死」は「地獄」での苦しみへ放逐するという特別な意味を帯びていたことであろう。

「宗教の不在」という宗教を共有する人々は、「死後は無い」ということを共有するがため、「死」は苦しみからの逃避そのものという宗教を信じるに至った。

結果、自殺者は増え、いじめや殺戮、テロによって人が死んでも何とも思わない人々が増えている。
猟奇的とされて蔑まれてきた死体の切断が横行し、平気で人の殺戮現場をネット上にアップする人々が出現している。
旧来の宗教で、死後に追いやられていた地獄が、まさに現世に出現しているといって過言ではない。

「死刑」が極刑として成り立たなくなっている状況で、それでも「死刑」に加担することで心の安静をかき乱される人々がいる。
そういった人々が裁判員に任命され、流れ的に「死刑」が確定するような裁判を担当することになったなら、「私は死刑を極刑とは思わない。終身刑が極刑だと信じている」と、あらかじめ宣言しておけばいい。皆が極刑を望むときには、終身刑を求刑すればいいのだから。。。
・・・
逆に司法当局は、裁判員に任命するとき、四つの極刑概念のどれを極刑と信じるかを、あらかじめ宣言させるべきだろう。。。
あと、心身二元論か一元論かについても、あらかじめ、宣言させるべきであろう。。。
「理想的な真の自己」と「そうでない自己」という二項対立図式を信じているかどうかも、あらかじめ宣言すべき事項になるだろう。。。
「そうでない自己」を悔い改めることで「理想的な真の自己」を取り戻せるという物語が成立するところに、社会復帰を前提とした刑法が成立しうるのだから。。。
。。。
自らの正義心で、他人の悪事をネット上で匿名攻撃する人々。。。
「皆してるし、私は一回しかしていない」という自己恩赦にて罪を逃れられると勘違いしている人々。。。
境界を越えて土足で他者の心の中に踏み込む人々。。。
「私刑」を合法的だと勘違いしている人々。。。
死後の地獄を信じていない人々。。。
現世の地獄を作り出している人々。。。
自ら作った現世の地獄に落ちないよう、くれぐれも注意しつづけるように。。。

。。。

これからの世界を生きていく人々へ。。。
ネット社会は、死後や死後の天国・地獄を信じる人々よりも、信じない人々の力が強くなるように出来ている。。。

死後を信じる宗教の人々も、死後を信じない宗教の人々も、そういったことを十分にわきまえて、相互の宗教を尊重しあうべきなのだろう。。。たとえ、一方の宗教からみれば、他方の宗教が悪魔という概念であったとしても。。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/09/04 23:29

「私は 命を命で償うことに 不条理性は何もないと思います」


→多分、不条理性を感じているのでしょうね。
でも、その不条理性をうまく説明できないところに悩みがあるのだと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

これは gouzigさん自身も不条理をどこかで感じているいるんでしょうね。
多分、ゼロ分母の論理が絡んでいるかもしれません。

人間の命は限りなく尊いです。そこで、1人に命の重さを 仮に 1/0としましょう。
すると、1/0=8/0 という公式も成り立つわけです。
そこで、もう一度 宅間守の捨て台詞の思い出してください。

お礼日時:2015/09/04 23:27

ひとの存在を抹殺することは 自分の命でも他人のそれでも 取り返しのつかないあやまちであると考えられています。



 必ずしも証明することの容易でない公理のようなものですから 別様の見方が出されて来ることがあると見ます。

 この質問が――人間として――問い求めるところは おそらく何らかのアヤマチに対して《つぐなう》とはどういうことか? だと考えられます。

 たとえば
 ★ それ相応の責任をとるという、ごく自然なことだと思います。
 ☆ という考え方によるならば すでに《あやまちをつぐない切ることが出来たか?》という問いを呼び込みます。

 《取り返しのつかないあやまち》に対しては 同じく《取り返しのつかないコト》によって《つぐなう》のか? それでよいか? です。

 どうでしょう? 

 いくつかの考え方があるのでしょうね。
 あるいはつまり 人びとの社会的な取り決めとしての法の問題をもし別とすることが出来るのならば 一にも二にもそれは その当事者が真剣に考えることであるのでしょう。
 
 なぜその行為をおこなうことになったのか。相手とのかかわりにおいて 何が起きていたのか。自分はいったい何を考えていたのか。

 おそらくこのようにしてまづは当事者が――生きている限りで――つぐないについて考えて行きたいものだと思います。

 ★ 命を命で償うことに 不条理性は何もない
 ☆ と見たとしても しかも翻って考えるに そこに償いとしての条理があると積極的に言い切るまでにも到らない。のではないでしょうか。それでよいかも知れない。がしかし それでは 安易であるかも知れない。・・・

 しっかりと考え尽くし 生き切って行くという方向を見たいと思うのですが それでは答えにはならないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/09/04 23:20

質問者さんは、儒教民族(朝鮮人)かな? と思われそうな質問ですね。

日本人は道教民族と言われたのは過去の話のようです。命を命で償う。という言葉、の不条理性は。誰に償わせるのか。償いをさせる、償いを受けるべき者は既に死んでいない、のです。被害者の子共に多額の保障金を払えば。遺産相続争いで、兄弟を殺す亊になるかも知れません。また加害者の子や孫に、謝罪せよ。とは、言う方もおかしいし。いつまでも謝る(日本人?)のもおかしい。70年前に終わった戦争の被害者も、加害者も。ほとんど死んでいないのです。被害者や加害者にならなかったとしても。死んでしまっている。死は、70年前の死も、昨日の死、も、今、となれば同じ事でしょう。
償わせる。として、死刑にすれば、他人が新たな殺人をする結果になるのです。
私が記憶すべきと思う亊は。
東京裁判で。恨みは恨みによって終わるものではない。恨みを捨てる亊によって恨みは止む。と釈迦の言葉を残して退席した、スリランカの判事がいた、と言う事と。
業に報いるに徳をもってする。という。50万の日本軍、を味方に引きこめれば、との思惑があったにせよ。
良く言った。と言うべき。の蒋介石の言葉です。その結果が、シベリヤ抑留になった意味もありそうですが?
そして、四慢外道、とかの仏教かヒンズ-教、かの寓話です。
妻の讒言によって、師匠の怒り、恨み、を買い。100本の指を集めるなら、超能力が得られる。との師匠の言葉を信じた、修行者は、夜な夜な、人を襲い、99人を殺します。今日で満願成就と、100人目を襲い、殺そうとした時、それは自分の母であった。母の話を聞き、自分が師匠に騙されていた、大変な亊をしてしまった亊に気付きます。そして、釈迦の弟子となった。
99人殺しても、それが、間違いであった、と気付き。悔い改めるなら、過去の罪は問わない、許すべきである、との考え方、なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/09/03 23:04

>良識者のみなさんは 命を命で償うことについて いかがお考えですか?


自分自身が良識か否かはちょっと自信が無いんですが、命を命で償うことについては大賛成ですが、やや躊躇する面もあります。
大賛成とは言いましたが、それが当人にとって罰となっていればですが。
「ひゃっほーい!死ねるぜ~♪」って思われるのなら、なんか腑に落ちないです。
また、警察によるめちゃくちゃな捜査や取り調べによって、冤罪がどれだけ生み出されているのかも躊躇する理由の一つです。
命で償わなければならないレベルの犯罪を犯した人には、その人が最も辛くて最も嫌だと思う刑罰を延々と続けたいと思ってしまいます。

って、この発言、どう考えても良識者じゃないな……。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>自分自身が良識か否かはちょっと自信が無いんですが、命を命で償うことについては大賛成ですが、やや躊躇する面もあります。
というよりも、命に対する価値観かもしれません。
善人にとっても悪人にとっても 命は個人の持つもっとも大切なものであるという前提が崩れると この理屈も成り立たなくなるかもしれません。

お礼日時:2015/09/03 10:46

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