映画のエンドロール観る派?観ない派?

らしくもなく、哲学的な問いを立てます。
無の解釈についてです。皆さんは無についてどのような理解をしていますか?ウィキには無の思想史が述べられていて、それが意味深い概念であることを示していました。
昔、このサイトで、無ほど完全なものはないとおっしゃった方がおったのですが、さて、無とは一体何でしょう。
また、この概念が活かされた思想とはどのようなものでしょうか。
気長にご回答、お待ちしております。

質問者からの補足コメント

  • とても哲学的なお答えをいただけて嬉しいです。よく読みたいので、お礼の方少し遅れます。ご了承ください。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/19 15:50
  • ふむ。こちらも。お礼をするには少し勉強が要りそうです。阿頼耶識ということは、唯識関連と思いますが、残念ながら私は唯識はほぼノータッチです。少し調べてからお返事します。
    よろしくお願いします。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/19 18:50
  • ご回答くださった皆様。お礼文、順序前後することご容赦くださいませ。

      補足日時:2015/11/19 18:52
  • でもあれですよね、無が普遍的なマクロのものであるとばかり考えている私ですが、無が固有のミクロなものであると考える事もできる気がします。1秒先の未来など、無と関連してるんじゃないかなどと思いました。えー加減な頭なので、良いお礼が書けなかったかもしれません。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/22 18:27
  • むむむ、、、これは解釈に時間がかかりそうです。私も時間に対して無が関与してるのかなと思う事があります。
    また後日、お返事書かせてください。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/22 20:07
  • すみません、訂正です。キリスト教の神は、無始無終ではありませんでしたね。始まりであり終わりであるというものでした。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/23 23:31
  • hiakの、馬鹿だけどまともだ発言が削除された。ここにメモっといて置こう。監視、運営にとっては誹謗中傷、名誉棄損だが、一連のやりとりにおいては意味のある発言だったからな。他の閲覧者に配慮しておきます。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/24 20:30
  • 質問、しばらく開けておきます^_^
    もしまた気が向いたら、気軽にいらっしゃってください(^-^)/

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/11/25 20:20

A 回答 (33件中21~30件)

#8関連で。



御坊さんの主張は、西田幾多郎の無という概念の分析は、カントの言う分析的判断による分析であり、綜合的判断による分析ではない、と言っているようですね。私もそう思えます。要するに、数学と同じ分析であり、すなわち、我々が埋め込まれている世界の有りように関わる概念ではなく、言葉の定義に基づいた整合性の分析である。だから、無とは何かが解るようになっても、我々自身も我々の世界も解るようにはならないことに関する分析的判断なのだと言っているようです。

例えばそこで語られている、「自分とは何かと」いう西田幾多郎の分析は、数学の歴史の中でも繰り返し起こって来た、認識の未熟さの故に起こる、込み入って混乱した分析であるように思われます。まず、「自分」を規定するために、自分に関わる個々の事象を分析する。その個々の事象が自分だと言ってみる。ところが、それを自分の個々の事象の総体として改めて「自分」を規定してみると、個々の事象を「自分」としたことに矛盾することに気が付く。んで、ああだこうだと、いろいろ新たな言葉を提案して、話が増々複雑になって行く。その典型が、御坊さんが紹介した西田幾多郎の混乱と思えます。

数学の世界でも、そんな混乱が度々起こって来ました。例えば、量子力学で頻繁に使われるディラックのデルタ関数等のがありますが、前世紀の大数学者と言われ、コンピュータの論理の基礎となる数学を構築したフォン・ノイマンはこの代物を徹底的に分析した結果、何がなんだか解らなくなってしまい、結局、デルタ関数は牛の糞だから使うな、と言い出した。ところが、そんな有り難いご神託を全く無視して、物理学者がその牛の糞を使い続けていると、どんどん新しい物理現象が生産的に見付け出されて来てしまった。

そこで、前世紀半ばになって、

「一寸待った、デルタ関数は関数ではなくて、関数の関数なんだ」

と言うことがわかって来た。フォン・ノイマンの混乱は、関数と「関数の関数」の違いを認識できずに、その二つをゴチャゴチャに理解していたので、そう、それは、自分に関する個々の事象を自分と言うか、その個々の事象の総体を自分と言うか、の違いを認識できず、支離滅裂なことを言い出してしまったのと同じように、支離滅裂になってしまったのだという事が、明らかになったのです。

結局、牛の糞だったのは、デルタ関数ではなくて、フォン・ノイマンだったということが明らかになったのです。

現在では、数学者は集合を「集合の集合」と区別して論じないと、表向きの矛盾が起きてしまうが、それを峻別して論じれば、一見した矛盾が氷解していく例を沢山見つけています。例えば、

「私は嘘つきであると言った人は嘘つきなのか」

と言う有名な矛盾の例は、その類いの混乱から起こって来たことが解っています。また、同じ例として、

「カタログのカタログを作ったのが、それに図書館の分類法で割り当てる番号を付与するのに、カタログの番号を割り当てても良いのか」

と言うのがあります。これも、集合の集合は集合か、と言う問題の例です。

西田幾多郎さんが、現在の数学の到達点を知っていたら、彼は「無」に対しても、「自分」に対しても、当時とは随分違ったことを言っているのじゃないでしょうか。でも、西田幾多郎はカントの分析的判断と綜合的判断の違いの発見を十分理解していたようなので、彼の「無」に関する分析が、我々の生きざまとは全く関係ない言葉の遊びに関する分析であることは承知していたのでしょうね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いらっしゃいませ(^-^)
お礼遅くなりすみません。
さて、西田さんの研究についてですが、正直言って私はあまり理解できてないのですが、自分とは何か、は、総合的な存在であるので、様々に分析してバラしても、その本質は見えてこないというのは理解できます。御坊さんは、それが一般論としてあることを最初に断っておられました。
西田さんは禅に造詣のある方だというのは有名ですが、その人生はそのように静かではなかったようです。何人かお子さんはいたがその全てを亡くしたそうで、かなり辛い人生を歩んだ事が容易に推察されます。
その中での探求でしたから、必然的に何か救いはないのだろうかという動機があったのではないかと思われます。

さて、自分とは何かと言う話に戻りますが、自分を総体なものであるとした場合、その総体なものと自分以外のものの境界は何処にあるのかという問題が出てくると思います。肉体に関しては皮膚がそれに相当すると単純に思うのですが、その肉体でさえ代謝によって刷新されます。また、精神的存在としての自己の広がりは何処までか?という話がさらに残ります。
私は日本人ですから、日本文化は私の一部です。日本語もまたそうでしょう。このようなある程度普遍性を持ったものによって、私の精神的な個性が支えられています。これは猪突さんの言う通りです。
さらには人としての様々な特徴を私は有していますから、これはより普遍的な構造を私は持っていることになります。
今度は肉体的にもそうですが、一生物としての様々な特徴、代謝を行うなどのさらに普遍的な特徴があり、このより普遍的な構造を自己に求める事を繰り返すと存在者としての私というものに当たります。より普遍的なものが私の個性を支えているということで、ここから無の話に移りたいのですが、字数がががw
存在者としての私よりも普遍的な私はあるのか?となると、それは無いのでは?と、あやふやですがそう思われます。私という存在の持つ普遍性を突き詰めると、やっとこさ無というものがどうやらその境界であるらしいことがわかるのではないか。そしてこの境界は、万人をして同じであり、万物をして同じであるわけです。存在を存在たらしめているものが無との境界であるなら、この無と言うものは、存在よりも普遍的なものであると考えられます。この様に言葉遊びともとれる思考ですが、自己の有り様、、字数が、、w

お礼日時:2015/11/22 14:23

もう何年も前になるのかな。

みこでしさんがカプラの著書を使ったご質問を立てたことがありました。
そのときとほとんど同じことを、もう少しわかりやすく書きます。

わたしの前の夫は禅宗の僧侶で、頭脳派でなく武道派というひとでしたから、公案を拈提しても、見解は無と言うばかりです。
まだ、とやり直しを命じられ、「ムー!」「やり直し!」「ムー!」「やり直し!」となりまして、座禅の痛みと疲労で心身限界になるのだそうです。
そこでムー と言うと、よしと言われた。

ムーは息のこえ、息とは万物の有の姿すなわち法身の息でありましょう。
万物の有の す-がた に隠れたるわざは、一切あまねく存在が感じられることであり、すべてが姿を定めずに動くとおりの、動きが感じられることであり、しかもそれは戸が開き続けるような蓮華がほころび続けるような刷新的な動きであろうとわたしは考えています。さて、無はその静寂の音なんでしょうかね? 決して法身が息を止めることが無なのではないと思います。
影ひなた、引力斥力、裏表のどちらかでしか現れと見えないわたしたちの限界を、すっと抜ける音なのでしょう。

「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべくは常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万有の母。
故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。
此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。
同じきこれを玄と謂い、玄のまた玄は衆妙の門なり。」(老子)
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この回答へのお礼

こんにちは^^
(カプラとは、フリッチョフ・カプラのことでよろしいでしょうか?タオをはじめとする東洋思想と、物理学に造詣のある方のようですね。)

興味深い解答を有難うございます。
動的な無というものを提示していただいたと理解しました。かなり個性的なご見解で、私にとっては初めて聞くものです。イメージに頼って理解を進めたいと思います。

目に見えないが主要な流れを形成しているエーテルのような透明な媒質を想像しました。その流れが川のように蛇行しており、背後から諸存在や現象を成り立たせているのかなと。

玄のまた玄、これは深淵と思えばよいでしょうか。いつの時代でも人は見えざるものに英知の光を当ててきましたが、この透明な無に光を当てることが出来るだろうか。

独特の世界観を示してくださり有難うございます。回答を振り返る楽しみが残ります^^

お礼日時:2015/11/22 01:44

哲学的な無・・・。


意識の中に「我執・煩悩・拘泥」的要素として存在しない。
そういう要素のない概念は概念として意識されずに
心の中を流れていく。
それは作為のない自然体。
そんな状態を精神的な無といっていいのかな、
などいうイメージを持っています。
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この回答へのお礼

ありがとう

ほう、これは趣がありますね。
スズメさんは短文なのにどうして密度のある言葉をお使いになります。
才能を感じますね。
頂いたご回答、ゆっくりと吟味したいと思います(^-^)

お礼日時:2015/11/19 19:17

"皆さんは無についてどのような理解をしていますか?"


   ↑
無、というのは存在と対置する概念です。

だから、無について語ることは、存在について
語ることになります。

存在には二種類あります。

月や太陽が存在する、という場合と、愛情や
美が存在する、という場合です。

前者は人間がどうあろうと、客観的に存在します。
後者は、概念です。つまり人間の頭の中にだけ
存在します。

現実の宇宙には、つまり物理学的には、無、
というのは存在しません。

完全なる無、というのは概念の無のことです。

ここで問題にしているのは、概念の無のこと
でしょう。
だから、無とは何か、とは、それは言葉の問題
になり、使われ方、運用の仕方になります。

数学ではゼロになり、経済ではすかんぴんのことを
指し、哲学では物理的無と概念の無を混同します。
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この回答へのお礼

なるほど、無を語る上での環境を説明して頂けたのだと受け取りました。物理的無は観測されて無い、出来ない?のですね。
何もないと思われていた真空にも、揺らぎによって何かが飛び出すと聞いたことがあります。電子だったかな?

無は無くてはならない概念のひとつだと思いますが、改めて考察すると奥が深いです。
ありがとうございます。

お礼日時:2015/11/19 19:12

あほなさん。


寄せられた回答で直接"無"に付いての事かどうか私の頭では判然としませんが、"無"を考える上に於いても非常に重要な処、"駅"に降り立ったと思われるものが有ります。

回答文としては結構長いですが、その後半部分、《要は、私自身の「意識」という・・・》処からの文に当たります。

ここで取り上げている"こころ"は 仏教用語の「阿頼耶識」に当たるのではないかと思ったんです。そうだとすると・・・

阿頼耶識は蔵識とも云い換えられるようです。
そしてこの蔵識は見分・相分・自證分の三つの作用を持っていると。
これは彼のお坊さんの言葉なので、これを私は理解している訳では無いのですが、ひょっとしてあほなさんなら分かるのではないかと思い、ここに足してみました。

見分、相分、自證分。分かりますか。

回答文の「意識そのものを意識することは出来ない。だから自己の本質は無である」と云った趣旨の考えが述べられていますが、ここの処を私なりに解釈すると、受け皿、蔵、が自己の外の物を"客観"して受けた、と説明して見ようと思います。回答文で云っている「無」は蔵、に相当するのではないかと。

例えれば、自身の顔(蔵)は直接には見えない。でも見え無くても「無」とは言えない、
と云った感じです。
蔵にある見分・相分・自證分と云う働き(鏡のような感じか?)が客観を実在のように見ていると。
そう考えると、心は「有」であると思えてきます。

上手く云えてないかもしれませんが。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

見分、相分、自證分については調べてみましたがうまく見つけられませんでした。機を見て近くの本屋にでも行って唯識について調べようと思います。
唯識で語るならば、最終的に法蔵、如来蔵というものを阿摩羅識として仮に立て、個人的無意識の層である末那識や、人類の普遍的無意識の層である阿頼耶識よりも深い、根源的な蔵の働きであるとするようです。

意識できない領分として無意識を想定し、そこを無と呼ぶならば、その無、即ち蔵とは実に内容物のあるものということになりますね。

>例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分

という記述をネットで拾ったのですが、これによると、無は常に背後にあって作用する燈火のようなもので、認識対象を照らして存在せしめているもののように思われました。

お礼日時:2015/11/22 01:23

私たちは通常、「お金が無い」とか「恋人がいない」とか言う。

なにかの対象物があることを期待して、その期待が満たされない時に「無い」と言います。この我々が普通に使っている「無」は「有」に対する概念であるとして、「相対無」と呼ばれています。

「相対無」と言うからには「絶対無」という概念があります。これは西田幾多郎の造語で、西田はこの概念を説明するために、
  「どこまでも述語となって主語とならないもの」
と表現しています。この絶対無についてもう少し掘り下げてみましょう。

「どこまでも述語となって主語とならないもの」というのは、アリストテレスが実体としての「個物」を示すための「主語となって、述語にはなりえないもの」という表現を逆転させたものです。
「アリストテレスは哲学者である。」という文の主語であるアリストテレスは述語にはならない、だからアリストテレスは個物であるというのです。
いや、「ギリシャ第一の論理学者はアリストテレスだ」という文では述語になっているではないか言うかもしれませんが、意味上の特殊と一般の関係について言っているのであって、当該の文は意味的には「アリストテレスはギリシャ第一の論理学者だ。」ということであり、やはりアリストテレスが主語であるとみなします。

では、「どこまでも述語となって主語とならないもの」というのはなにを指しているのでしょうか。

「アリストテレスは哲学者である。」、「哲学者は学者である。」、「学者は人間である。」、「人間は動物である」‥‥‥ <特殊⇒一般>という方向性の究極にそれがある、と西田は言っているのです。

つまり究極の一般性ですね。そこにはいかなる限定もない。ということはいかなる性質も帯びていない、いかなるものでもないということになります。

こう言ってしまうと簡単ですが、これはかなり厄介な話でもあります。「いかなるものでもないもの」という表現自体がパラドックスになっているからです。「いかなるものでもないもの」とはいかなる表現もできないものであり、それは何の性質も帯びていないから、私たちは認識できない。それを「いかなるものでもないもの」と対象化したつもりになった時点で、それは別のものに変質してしまいます。

「どこまでも述語となって主語とならないもの」というのは直感できる言葉ではありません。絶対無とは、否定による回りくどい極限概念よって指し示すしかないのだと思います。

西田が絶対無というアイデアに至ったのは、仏教における己事究明(本当の私を見究めること)に関係しています。
多くの人は、自分の肉体と精神をまとめて自分だと考えていますが、仏教ではぎりぎりの本当の自分というものを追究します。例えば、自分の手はどうだろう。自分の手は自分の一部だと思っているかもしれないが、なにかの事故で切断されたらもう自分の一部とは言えない。手だけではなく、肉体の大抵の部分は自分の本質とは別物であるということになります。
「なるほど、筋肉や骨格は自分と切り離すことができるかもしれないが、脳みそこそ自分そのものと言えるのではないか。」とあなたは言うかもしれない。が、しかし脳みそも肉体であることには変わりがない。新陳代謝しています。最近物忘れがひどくなった私などは若い頃に比べて脳細胞が半減しているかもしれない。いずれにしろ10年前と現在の私の脳は細胞レベルで見ればまったく別物になっているはずです。
物質的なものは自分そのものというわけにはいかないようなので、ならば記憶はどうでしょう。積み重なった記憶が私を構成しているというふうに考えられそうですしかし、既に述べたように、この頃私は物忘れがひどい。このままいくとそのうち何もかも忘れてしまいそうです。記憶喪失になればある意味で別人になったと言えるかもしれない。しかしここで問題としているのはそういうことではありません。私が記憶をすべてなくしてしまったとしても、「私の世界」は相変わらず私に開けているということです。その限りにおいて、私は私に他ならないというしかありません。
要は、私自身の「意識」というものを今問題にしているのですが、意識の内容は様々に変わります。その変わる要素を排除していくと必然的に「無意識」にたどり着いてしまう。その結果、無意識こそが意識そのものであるということになる。では、意識そのものである「無意識」とはなんだろう。ここで問題になるのは、意識そのものは意識のなかには無いということです。決して意識そのものを意識することはできない。「いかなるものでないもの」を対象化できないという構造がここにもあります。「私」を追求しようとすると、どのような道をたどっても必ずこの難問に突き当たります。有るはずと思っていたものが無い、だから自己の本質は「無」であるというのです。

少し乱暴に例えるならば、仏教の無は映画のスクリーンのようなものです。映画の中の登場人物にとってスクリーンは、なにものでもないものつまり「無」と言って良いでしょう。私にとっての「無」は私の世界が私の意識の中から開けていることそのことと言えばよいような気がします。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ほむほむ。。
究極の一般としての無や、映画のスクリーンの例えはよく分かる気がします。そぎ落として行ったその先には超えられない境界があり、それをなにものでもないもの、や、スクリーンと喩えられたものと理解しました。
私は、「私」については可変のものであり、おっしゃるように日々刻々と変化してゆくものであると思います。記憶の継続性や、意識のおかげで自分は自分だと思えますが、実際には昨日の私と今日の私、明日の私は異なるものでありつつ一貫性があるということになっているのでしょう。この一貫性というものが、どれほど堅固かというと、それはおそらくあまり堅固ではないと思っています。痴呆や精神病に罹って人格が豹変してしまう場合も少なからず見受けられるからです。その場合、「私」の内容物はガラリと変わってしまうのですが、私という箱は、相変わらず有ります。いや、むしろ、変わったのは内容物というよりは、この私というものの形状かもしれません。
一般でありしかも特殊な機能を持っている「私」というもの、意識は、幾何形体のように、普遍的かつ個性的なものなのかもしれないと思いました。

深い回答有り難うございます。

お礼日時:2015/11/22 01:04

思想としては、よく分かりません。



認識としては、無いものを「無い」と知覚できるのが人間です。
認識上の「無い」を持ち得て設定できるので「0」と言う概念ができました。
インドで作られたそうですが、三蔵法師が持ち帰ったのが
インドからですから、思想的影響もあり得ると思います。

人は認識の中に「有」と「無」を同時に持ち続けることができます。
無いものを無いと知覚できるからこそ、有るを創造できるように思えます。

つまり「無い」→有ったら便利かも?→作ってみる
そういう一連の作業に繋がる訳です。

「無い」も「有る」も、認識上においては同等に存在しているので
発見も発明もできるのでは無いかと思います。
また、使い方を誤ると単なる夢想に走ったり、幻覚が見えたりも頷けます。

つまり認識上では無が存在し、その存在は有に多大なる影響を与えている。
予測や期待値なども、無が有ってこそかもしれませんね。

人間が目に見えるもの、つまり「有」だけを信じ続けたら
この発展は存在しなかった可能性があると思われます。

真っ黒は一色で、真っ白は一色です。
対極の真っ黒と真っ白が存在すれば、無限のグレーが存在します。
その存在は、人間の持つ無限の可能性を示唆させるものだと思います。

日本であっても目に見える物しか信じ無い人も居ますが
0と言う物を見え無い物と認識してはいません。

それに良し悪しなどは無いのですが、自らが認識できる物を
知覚して居なければ、可能性としての広がりはどうなるか?

それでも人生が幸せであれば、他の誰が何を言おうと全然OKな訳です。
その人の人生は、その人の物ですから。

ただ知覚できるかどうかが、無限の可能性
つまり無限の選択肢を見いだす元になる訳ですから
人生において、困難や壁を乗り越えて自身の良き未来や
良き社会を目指すのであれば、目の前に無い物を知覚すると言うのは
非常に大切なことであるように思います。
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この回答へのお礼

ふむ。これは良い回答をありがとうございます。
無は創造や発想の源泉であるという見方ですね。グレーの話も興味深いです。
無という概念、認識の必要性がよくわかりました(^o^)
使い方を誤らなければ、素晴らしい効力を発揮してくれそうです。

お礼日時:2015/11/20 23:21

全ての有を除外したもの。

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この回答へのお礼

ふむ。これはシンプルですね。分かりやすいです。
ありがとうございます(^-^)

お礼日時:2015/11/20 23:16

『無』を思想として捉えてみたわけではないので、質問の主旨からずれるかと思いますが、関連させることは出来そうなので、回答?を試みます。



物理的?に捉えてみた考えです。

『無』=『有』従って『有』は『無』ともなる。

その証明するものは『点』或いは位置。

位置としての『点』は厳密には『無』だけれど、その位置を指し示した時点で『有』となる。言い換えれば『無』は『有』に化ける。

物理がこの『点』を基準として使用している事は、この事を証明しているのではないでしょうか。

但しこれらは概念として、と云う事になるかと思います。でも概念としての点だとしても位置として指し示し、そこを基準として使っているのだから『無』は『有』として使われていると云えるし、従って『無』=『有』となるのです。

逆転させて『有』=『無』の説明は考え中。疲れるから替ってほしいくらいです。

時間に付いては動いている船とその乗客と外の景色との関係性で考えてみようとしてますが、こちらは難儀しています。


    独り言 (だだじゃさんの回答を文章にしただけなんだろうか?)
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この回答へのお礼

回答冒頭の、無=有が理解できなかった;^_^A
点に位置を与えたならそこに、線か、平面か、或いは空間、時空などが生じます。
人間が概念を構成する下地のようなもの、と考えることはできるでしょうか?

お礼日時:2015/11/20 23:15

こんばんは あほなさん



そろそろ、鍋が美味しい時期になってきましたね。
ある時、みんなでスキヤキをしました。
とても美味しそうなお肉があったので、「お肉は後から食べた方がより美味しいよね」と考えて、白菜、春菊、ねぎ、しらたき、しいたけ、お豆腐を食べていました。
そして、いよいよお肉を食べよう。
無い、無い、鍋を探せど何処にも無い。あれほど、たくさん有ったお肉が無い。
あんなに有ったのに無い。ガーン、完全な無。

>この概念が活かされた思想
それ以来、美味しい物は最初に食べることにしています。
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この回答へのお礼

こんにちは。
良いものから消費する、これを鉄則にしている家庭もあるようです^_^
さて、私の地方では、すき焼きは、まず肉を甘辛く焼いて、先に食べます。空きっ腹にガツンと半分以上の肉を入れます。その後、肉の味の付いた鍋で野菜や豆腐、こんにゃくなどを、材料自体の水分で煮ます。そして、残った肉なども投入し、同じ味付けで頂きます。肉とご飯を先に食べちゃうので、良いものを先に、どれくらい頂けるかの全ては、鍋奉行の采配にかかっております^_^

あら、すき焼きが食べたくなってきたぞ!?頭の中のある筈の無いすき焼きが、消費を促しています。笑

お礼日時:2015/11/19 19:02

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