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我々はこの世に生まれるとまず周りを見渡す。
五感を駆使して周りを見渡すのである。
そして周りを見渡した結果、何故そのよーな様なのか考えるよーになる。
そして考えた結果、その理由について自分なりの解釈を与える。
それから再び周りを見渡す。
再び周りを見渡した結果、何故そのよーな様でなければならないのか再び考える。
再び考えた結果、その理由について再び自分なりの解釈を与える。
・・・・・・・
・・・・・・・
これを繰り返す
・・・・・・・
・・・・・・・

つまり精神活動はまず外延的に始まり、次にこれを内包し、再び外延し内包する、このプロセスを繰り返す。
しかし中には外延だけに終始し、全く内包が無い者もいる。
逆に外延を行わず、内包のみに明け暮れる者もいる。
普通このよーな両極端は健全な精神活動であるとはみなされないようである。
健全な精神活動とは外延と内包を適当にバランスし、ブレンドするものではないでしょうか。

A 回答 (4件)

お久しぶりです。



おっしゃりたいのは、「まず外延を認識し、次に内包に眼を向け認識する」でしょうか?

そうであれば、精神における認識活動は
外延と内包に向ける眼を、バランス良く持つことと
表記した方が分かりやすいかと思います。
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この回答へのお礼

内包する対象がなければ内包は出来ません。
ではその内包する対象はどこからやって来るのか。
それは外延によって手に入れるのです。
従って内包の前にまず外延がなければなりません。
しかしながら外延ばかりで内包がなければこれはただのゴミの山のようなものがあるのみです。
従って外延と内包はバランスしていなければなりませぬ。

お礼日時:2015/12/11 23:23

おじさんです。


書かれている通りです。
・ものごとはすべてプラン・ドゥー・シーの繰り返し
・すべてのものは諸行無常
ということでしょう。
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この回答へのお礼

無限に外延を繰り返せば次第に内包に近いづいてゆく。
そして最終的には、

外延の極限=内包

これが成立するのではないでしょうか。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9129188.html

よろしく。

お礼日時:2015/12/11 23:48

言葉は基本的に共通認識として設定してありますが


別の意味を与えるなら、話しは通じなくなります。

集合の記法の部分を読めば、意味が分かりやすいかと思います。

外延には常に内包が、同時にセットで存在しています。
外延と内包と言う言葉をセットで使う場合は
特定のものを指しています。

創作しないことですよ。


>無限に外延を繰り返せば次第に内包に近いづいてゆく。

ありえません。

善の行為を行っても、善意が内包されているとは言えないでしょう。
人に認めてもらうことが第一義の善行なら、認めてくれない人に
罵声や侮蔑を与えるぐらいの外延だけに止まりますから。

近づくのではなく、近づけ重ねていく意志が必要です。
外延に内包を「=」にするには、人間には意志です。
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