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明治になって人力車が普及するまで、身分の高い人の乗り物は駕籠だったと理解しています。

駕籠は担ぐ人も大変だし、乗っている人も楽ではなかったと思うのですが、なぜ車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのか、不思議です。

江戸時代でも荷物を運ぶのには大八車などがありましたし、さらに古い時代には貴族は牛車に乗っていた時代もありました。
ですから、車輪を使う技術を当時の日本人が知らなかったわけではなさそうです。
しかし、なぜか、人を乗せる乗り物には車輪の付いたものは現れませんでした。
これは何か、理由があったのでしょうか?

A 回答 (9件)

ついでにですが、何故日本では馬車が発達しなかったか考えてみました。


当初馬の「去勢」が一般的ではなく、操るのに難しいといった理由かな、と思ったのですが、どうもこれも政策的なもので、幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。
その為、こうした規制の無い戦国時代には「荷車」といい、馬が2輪の車をひいて軍事物資を運んでいるようです。
4輪の馬車が使われるようになったのは明治時代からで、実は私も昭和30年頃、家の前を馬が材木を載せた馬車をひいて通るのを見ておりました。
一応政令指定都市のど真中ですが、昭和30年代は馬が都心を通るのも珍しくなかったのですね。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

>どうもこれも政策的なもので、幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。

軍事的なことの他に、こういう事情もあったのですね。なるほどと思いました。

>昭和30年代は馬が都心を通るのも珍しくなかったのですね。

農山村ならともかく、大都市の真ん中で昭和30年頃に馬車が走っていたとは、びっくりしました。

参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:40

乗っている人もかなり大変そうです↓


ここまでして、車輪を使うのもどうかな?
と思いました。

日本のものではありませんけど、
参考までに。

参考URL:http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/conten …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

参考URL拝見しました。
これは一輪車ですね?!
たしかに乗っている人も大変そうですね。
地面の凸凹の衝撃が、もろに来そうです。
運ぶ人も、バランスをとるのが難しそうです。

参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:55

他の人もおっしゃてますが政策的な問題が多分にあります。


関所はもちろん大きな河に橋を作らせなかったり、
技術的に可能だった外洋向き大型船舶の製造禁止等など。
幕府は外様藩に対して警戒をしていましたから仕方ないでしょう。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

やはり技術的な問題ではなく、政策的なものだったのですね。
技術に関して言えば、江戸時代の日本人は、自転車を作るくらいの能力はあったのでは?と私は想像しています。

幕府は自らを守ることにばかり汲々としていて、国を発展させるという意識はなかったんですね。

参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:47

技術的問題ではなく、幕府が軍事的な配慮から車の使用を禁じていたからです。


その為、東海道など主要街道では大八車もありません。
例外的に許されたのが京都でして、物流の関係で昔から使われていたので許可されたようです。
これ以外にも名古屋、静岡、江戸、仙台・・・の町にも許可されたようです。
これらの街には「くるまみち」という地名が残り、当時を伝えております。

参考URL:http://www.aaa.or.jp/kurumamichi/
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

>東海道など主要街道では大八車もありません

そうだったんですか?!
大八車も一部の都市の内部での輸送にしか使われてなかったんですね。
ご紹介くださったサイトも参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:34

牛車や大八車はローカルベースでかなり利用されていたと思われます。

特に戦争で大軍が移動する場合は食料運搬や弾丸運搬に欠かせなかった筈です。

しかし、同じ時代の西欧社会に比べて車の利用が少なく、車の種類も少なかったのは山国日本の道路事情と
江戸時代の藩が幕府の政策で孤立させられ全国規模の陸上運搬システムが発達しなかったことも一因かも知れません。もっとも大きな原因は日本列島が海運や河川運輸に恵まれ過ぎたことでしょう。これは明治以降日本が
加工貿易国として、原材料を輸入して製品化しそれを輸出するようになった時、大きな利点になって国の発展に
寄与しています。

http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/Yasasiku.html

参考URL:http://www.elrosa.com/tisen/82/82021.html
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

ご紹介くださった二つのサイト、興味深く拝見しました。
江戸時代の人命尊重の交通政策を現代と対比して、大いに考えさせられました。
また、「大八車」の名前の由来も初めて知りました。

参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:25

身分の高い人が乗っていたのは「乗り物」であって「駕籠」ではありません。

駕籠は町人でも乗れましたし、なかには罪人を運ぶ駕籠までありました。それと高貴な人が乗るものに輿がありましたね。

やはり道路が車輪に向いていなかったのでしょう。それに日本は沿岸海運や河川水運が発達してましたのであまり必要がなかったのだと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。

>なかには罪人を運ぶ駕籠までありました

時代劇で見たことがあります。
でも、市中引き回しのときは、荷車に乗せられていますよね?

やはり、道路の未整備と水運の発達が原因ということですね。
参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:16

ひとつには物流の中心として運河や海運が発達していたことが揚げられます。


あえて車輪をつかった運輸手段のために道路を整備しなおすことをしなかったのでしょう。

また、移動の自由が制限され、市民は伊勢参りぐらいは自由にいけましたが、それ以外には国をまたいで交通することはありませんでした。
幕府も江戸に攻め込まれることを防ぐため、あえて迅速に移動できるような道路網の整備はしたくなかったでしょう。江戸の町が掘割で螺旋に切られ、江戸城まで一直線に攻め込まれないようにつくられていることは有名です。

こうした政策が車輪をつかった、陸上での交通の近代化ということ自体、望まれなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。ごめんなさい。
水運が発達していたことが一因だったというのは、頷けます。
内陸でも米などの物資を川船で運んでいたようですね。
また、幕府の政策により道路が整備されなかったことも、交通の発達を阻害していたのですね。
参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/22 15:11

正確な理由はわかりませんが、路面の不整備ではないでしょうか?


ゴムやバネの衝撃吸収装置を使わない限り、不整地や砂利道の走行はかなり衝撃を伴います。
20年以上も昔暴走族全盛の頃、バネもショックも外したとんでもない車に乗せてもらったことがありますが、タイヤがあるにもかかわらず、舗装路のほんの少しの段差で驚くほど飛びはね、10分と乗っていられませんでした。
まして木製や鉄製の車輪で未舗装路では恐らく人は乗っていられないと思います。
牛車もありましたが、牛車のスピードは恐ろしく遅いはずですので(人が歩くよりかなり遅いと何かで読んだ気がします)耐えられたのでしょう。

車輪付きの乗り物はゴムタイヤ・バネなどが実用化されてからだと思います。
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この回答へのお礼

衝撃吸収装置ですか。。。
なるほど、自転車がパンクしたときの衝撃を考えると、それは容易に想像できます。
駕籠に乗るのも決して楽ではなさそうですが、衝撃吸収装置のない車よりは楽ということだったのでしょうか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/07/06 16:29

私見です。


やはり乗り心地じゃないでしょうか。
空気を入れるタイヤが発明されたのはつい最近ですからね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
やはり、問題は乗り心地ですか。。。
そう言われれば、たしかにそうかもしれませんね。

お礼日時:2004/07/06 16:19

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