1. 《非思考の庭》にあってすでにわれは いのる相手である神とカカハリを持ち あい
向き合っている。ならば 神が神であり普遍神であるなら神にその祈りの中身を何も知られ
ていないと思うほうがおかしい。

2. よって 望み願うことは――むろん控えよとかやめよというべくもなく おこなって
構わないわけだが―― じつは必要はない。願う前に神は 知っているのだから。

3. ただ われここにありと自覚するために 願い祈るのだ。

4. わたしがわたしであるその自然本性の姿に立ち還り その姿をチカラとする。

5. 《信じる(非思考の庭)》を差し置いて 願い祈るのは 賽銭だけで願いを叶えて欲
しいという虫の良い料簡である。――しかもこの取り引きが 実を結ぶことがありうるんだ
から・・・。どうなっているのやら。


ご見解をどうぞ。

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A 回答 (3件)

~~~~~~~~~~



Ein Gespenst geht um in Europa – das Gespenst des Kommunismus. Alle Mächte des alten Europa haben sich zu einer heiligen Hetzjagd gegen dies Gespenst verbündet, der Papst und der Czar, Metternich und Guizot, französische Radikale und deutsche Polizisten.

Manifest der Kommunistischen Partei (1848)
https://de.wikisource.org/wiki/Manifest_der_Komm …(1848)?uselang=ja

~~~~~~~~~~~

『宣言』冒頭の有名な一文「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」は、ローレンツ・フォン・シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)中のフランス共産主義に関する文章に酷似している。マルクスはこの著作を大変な熱意で読んでいるが、マルクス自身がここから直接にヒントを受けて「共産主義=幽霊」としたと断言しているわけではない。しかし『宣言』にはシュタインの著作に影響を受けた共産主義者同盟幹部の職人革命家たちの政治的な意識や見地が反映されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/共産党宣言

~~~~~~~~~~~


マルクスとかは単に宗教批判として読んだことがあっただけだから
どうして唯物論なのに、幽霊なのか不思議だった。というか今も不思議だと思っている。

それで幽霊は幽霊でも悪霊なのだろう。


聖書の悪霊を追い出した話などは、共産主義との戦いの話にもなるのだが
それは文学と時代の問題であり、今はどうでもいいけれど。


~~~~~~~~~~~~~~

概要[編集]
アティーシャの『菩提道灯論』に範をとって主著『菩提道次第論』を著し、仏教のあらゆる教説は行者が凡夫から悟りへと至る修行の道程として統合されるとする「ラムリム」(修行の道程)の思想によってチベット仏教教学を大成した。また、『秘密道次第』を筆頭に密教的著作も数多く残している。
思想的には中観帰謬派(プラーサンギカ)の立場をとり、顕教においては特にチャンドラキールティの説を奉じた。また、それと呼応して密教教義の解釈にも中観派的な視点からの捉え直しを行い、なかでも性瑜伽などを観想上のものと規定することで、左道密教的な実践を廃し、修行者に持戒を求めたことは、綱紀の粛正の面で大きな役割を果たした。

ツォンカパ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ツォンカパ

~~~~~~~~~~~~~

なぜか戒律が問題になっているようだけれど、
反社会的要素が多かった後期密教をファンタジーにすることで
なるべくまともなものにしているチベット密教とかいうものがあるのだから
いちいち私に因縁をつけなくてもいいのにと思うのだが。

この場合、幻想にするために、空の思想が必須ということになって
結果的に仏教を学べということになるのだろうけれど。
つまり、密教の学習には顕教の学習が必須ということに。

ああ、たぶん呪術を擁護したから
密教の問題を押し付けられている状態なのか。
ばかばかしい。

なるべく合理化すれば反動がきて、反動を擁護すれば
今度は因習を咎められる。

だから瑩山紹瑾なんか面倒なんだ。

また関係ない回答を投稿したことで、ブロックされてしまうか。
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Definitions for aṅgīrasa

Concise Pali English Dictionary
aṅgīrasa
m. the resplendent one; the Buddha.

Pali Proper Names
Aṅgīrasa

One of the ten ancient seers who conducted great sacrifices and were versed in Vedic lore. The others being Aṭṭhaka, Vāmaka, Vāmadeva, Vessāmitta, Yamataggi, Bhāradvāja, Vāseṭṭha, Kassapa and Bhagu. The list occurs in several places. Vin.i.245AN.iii.224MN.ii.169MN.ii.200

The same ten are also mentioned as being composers and reciters of the Vedas. DN.i.238


https://suttacentral.net/define/aṅgīrasa


~~~~~~~~~~~

“Cando yathā vigatavalāhake nabhe,
Virocati vigatamalova bhāṇumā;
Evampi aṅgīrasa tvaṃ mahāmuni,
Atirocasi yasasā sabbalokan”ti.

saṃyutta nikāya 8
1. vaṅgīsavagga
11. Gaggarāsutta

https://suttacentral.net/pi/sn8.11

~~~~~~~~~~

aṅgīrasa
https://suttacentral.net/search?query=aṅgīrasa&lang=en%2Cpi&define=1&details=1


~~~~~~~~~~

buddhaの神格化
 初期の経典においても、仏陀あるいは釈迦を「ヤッカ」と呼んでいることがある。これは後の「夜叉」であるが、その当時は、なにかしら神聖なもの、超自然的なものであって、崇拝さるべき霊的存在を意味していたらしい。原始仏教聖典をみても、ヤッカは崇拝の対象とされていた。仏教聖典の最古層におけるヤッカの観念は、ジャイナ教とも共通で、ジャッカ(jakkha=ヤッカ)は龍(naaga)や霊(bhuuta)とならべて考えられている。
 また原始仏教聖典の古い詩句の中では、「ゴータマよ」と呼びかける代わりに「アンギラス族の人よ」(aNgirasa)と呼びかけていることがある。これはバラモンのうちの特殊なひとつの家系である「アンギラス族」という名をゴータマの呼称としているのである。これは『リグ・ヴェーダ』的観念の名残りであり、非常に古いと考えられる。aNgiras(男性名詞)とは、神々と人間との間の存在であって、両者の仲介者、天の子息、人間の先祖、神々の恵みを人間にわかち授ける者として登場する。

http://www.wikidharma.org/jp/index.php/ぶっだ

~~~~~~~~~~~

やはりというかアンギラスの知名度がなくてオリジナルだと思われているようなので、
補足をしました。
ブラジュロンヌさんには説明の必要がないとは思ったのですが
ここの投稿を見た皆さんが疑問に思われたようです。
そんなわけで質問とは関係ありませんが、再度、失礼しました。
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~~~~~~~~~~~~~



不信仰な批判の基本は「人間が宗教をつくり、宗教は人間たちをつくらない」ということだ。もっと言うと宗教とは、まだ自分自身を手に入れていないか、あるいはまたもや自分を失ってしまった人間の自己意識と自己感情である。しかし、人間、それは世界の外で屈み込んでいる抽象的な本質ではない。人間、それは人間の世界であり、国家であり、社会性である。この国家、この社会性が宗教、すなわちひっくり返った世界意識を生み出すのは、それらがひっくり返った世界だからである。宗教はこのひっくり返った世界の一般的な理論であり、その百科的概説書であり、一般向けの形式におけるその論理であり、その精神主義者の名誉に関わる点であり、その熱狂であり、その道徳的な是認であり、その壮麗な補いであり、その一般的な慰安と正当化の根元である。それが人間的な本質の空想的実現であるのは、人間的な本質が本当の現実を何も有していないからである。ゆえに宗教に対する闘争は間接的に、精神的な香りが宗教である先のひっくり返った世界に対する闘争である。
 宗教的な惨状は、現実的な惨状の表現に、そして現実的な惨状に対する抗議に存在する。宗教は窮迫した生き物のうめき声であり、それは精神なき状態の精神であるように、無情な世界の心情である。それは国民の阿片である。
 国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである。ゆえに宗教の批判は萌芽では、神聖な光が宗教である涙の谷の批判である。
 批判が鎖から想像上の花々を引き裂いたのは、人間が空想なき、慰安なき鎖を身にまとうためではなく、鎖を投げ捨て、生き生きした花を摘むためであった。宗教の批判が人間たちを失望させるのは、理性に戻った人間のように人間が考え、行動し、失望し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身の周りを回るため、そして自分の現実的な太陽の周りを回るためである。宗教は、人間が自分自身の周りを回らない限り、人間の周りを回る、単なる幻覚の太陽に過ぎない。
 ゆえに真実の向こう側が消えた後に、こちら側の真実を確立することが歴史の使命である。人間的自己疎外の神聖な形態を暴露した後に、自己疎外をその非神聖な形態において暴露することが、さしあたり、歴史の役に立っている哲学の使命である。これによって、天の批判は地上の批判に、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判に変わる。


ヘーゲル法哲学批判
https://ja.wikisource.org/wiki/ヘーゲル法哲学批判

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Die Kritik des Himmels verwandelt sich damit in die Kritik der Erde, die Kritik der Religion in die Kritik des Rechts, die Kritik der Theologie in die Kritik der Politik.


Zur Kritik der Hegel’schen Rechts-Philosophie
von Karl Marx.

~~~~~~~~~~~~~~~

これを引用するようになるとは思わなかった。
べつに私は「地上の批判」はしませんけれどね。

むしろ「地下」の問題もあるような気がするが
言葉遊びに過ぎないだろうか。

しなくてもいい投稿をしました。
またブロックしてください。

ゴータマ・ブッダもアンギラスと呼ばれたことがあるのですから
呪術というかヴェーダに詳しくてもいいような気がするのですが、
呪術を肯定すると今度は疑似科学批判の人が騒ぎそうだから
どうでもいいです。

いつも重なりあった状態の話をしているので
シュレーディンガーの猫かよという気がしてきた。
もはや存在は確率になってしまうのだろうか。

瑩山紹瑾は面倒です。なぜこんなのを研究している学者に粘着されなければらないのか
正直どうでもよくなってきているので、介護しているような気分です。
自分で考えることを辞めないで下さいね。それでは。
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Q《神》は 補助線である。その神という言葉が かんなび山や磐座と同じく《依り代》である。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。

5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので
あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。

6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその
中でも 創造者としての神を立てている。

7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無
神論である。

8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分から
ないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。

9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによっ
て(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。

10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言
葉で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。

11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面にお
いて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合う
ことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態
としてあり得て―― 信仰とよばれる。

11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ
の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の
庭》として ひとの自然本性の内にあると想定される。

11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン
(霊我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼
びならわしている。

12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と
して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対立
していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん 
無神論となる。

12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内
容とする信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》
と証明しなければならない。

13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ
理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなもの
である。

14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心なる
《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足
りている。(と推測される)。

ご教授ください。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であ...続きを読む

Aベストアンサー

今回の印象を簡単に言ってみます。

源泉と大海。
湧き水は澄んできれいですが、大海に行着く迄の道中で様々なモノを身に付けてしまいます。
大海に着けば着いたで漠とし過ぎていて、そこから逃れる、の一手は気化、蒸して天に帰るしかありません。

この問いは気化現象の様に思いました。

Q《霊あるいは神》は 《非知》だと言っているのに まだ納得しないのだろうか

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづれでもないものが 想定される。
言いかえると 認識し得るかし得ないかが 認識し得ないものである。

これは とうぜん 経験世界を超えている。と想定される。
つまり 《非経験の場》である。
《特異点》が それに近い。ただし まったくの別である。後者は 経験事象だ。

そして 認識し得るかし得ないかが認識し得ないというのは 《非知》である。

これが 神であり霊である。



そんな想定などは要らないのではないか? 
と言っても すでに人間は・そしてどの民族も人類は 《かみ》という言葉を持
ってしまっている。これについて哲学は 何であるかを定義するつとめがある。
非知だと定義したまでである。

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづ...続きを読む

Aベストアンサー

>宗教関連によるテロは無用になりましょう

すごいですね!
言ってることはよく理解できないですけどいくつかの使われている言葉から推測するに
世の中には色々な宗教があるけれど、神は神なのだから
神を宗教ごとに区別することないって考え方なのだと見受けました

そしてその考え方の根拠としていずれの宗教の神も非知であるということを挙げていますね
私にはここが論理的におかしいと感じるのですが
というのも例えばバルタン星人もプレデターも宇宙から来たのだから宇宙人だと言うことはできても
だからバルタン星人もプレデターも等しいとは言えないじゃないですか
同様に神は非知だからといってキリスト教の神と仏教の神が同じとは言えないんじゃないですか?

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q神をめぐる《非思考の庭》というべき信仰は すべて梵我一如の類型である

○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭についての説明です。:

 ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~

  信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観
  ---------------------- 
  考える:《思考の緑野》:理性←→オシヘとしての宗教
  感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ


 ☆ (う) この《非思考の庭》における内実が 次のように捉えられる。:

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ


 ☆(え) 無神論( B や一般の無神論)と有神論(前項以外)とは いづれも信仰なのであって 自由に人がえらべばよく 互いに対等かつ同等である。
 
 (お) 樅の木に喩えられる信仰に 差はいっさいない。カザリをつけたクリスマスツリーとしての・つまりうオシへとしての宗教には 互いに差がある。というよりは オシへは 信仰という蝉の抜け殻として成り立ったものである。《信じる⇒ヒラメキ→思考によるオシへ・神学→宗教》。
 この考えるの対象となったオシへを 信じなさいと言うなら そこには百害あって一利なしである。ひとの自由意志を踏みにじるおそれさえある。

 (か) 有神論にあって神の名が互いに違っていても やはり問題にはならない。信仰類型が完全に同じである。
 それは 自然本性としての人間の条件(天与)として 半ば証明抜きでみとめられるのではないか? 言いかえると 普遍神の問題である。それとわれとの関係には 差は出て来ない。

 盛りだくさんですが 自由なご批判をたまわりたく。・・・
 この信仰論をとおして ひとつの道として世界の人びとのあいだの和をめざします。

○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭について...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
信仰者が信仰に至る選択を行う事は、信仰者の内的要因によるならば、理性(理論)による認識は不可能と言えますが、それについても、部分の伝達が可能であるとすれば、信仰者が理性が演繹できる経験的事項で語る必要があると言えます。
これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
そこに何らかの類型が見られるのであれば、信仰に至る選択の比喩が一致する事が予想されます。(比喩は部分なので、部分の集合となる可能性もあります)
予想される反論としては、強知性が扱う言語が、理性の取り扱う言語との同一性を持つ事が保証されない事です。
それは、比喩と言う形で、理性の理解出来る言葉に翻訳される事が保証されなければいけません。
実は、言語自体に限界がある事は、哲学的に議論され尽くされていると言えます。
信仰者が認識する、信仰の対象としての非知=神は、信仰者の内的要因により選択されます。
この行為に対する言説は、その強知性から、理性が認識出来る言語では説明不能となります。(理性にとっては、依然二律背反の状態になります)
それは、比喩という翻訳によって、理性が認識できる言語に部分的に変換されます。
宗教哲学では、それを避ける為に、社会的要因や、宗教構造が、自然に信仰を要請すると分析する方法も取られました。
宗教が信仰を公準として要請する構造を持つと解体するわけです。(この理論は、宗教がその内的構造としての知解性を持つ事は保証しますが、これは同時に強知性を持つ為に、外的な理性の関与を拒絶してしまいます)
信仰が真に、信仰者に内在している場合は、これを他は認識出来ません。(強知性が、共通の言語を拒絶する部分を持つからです)
他者は、信仰者がいると認識するだけです。
信仰者が、他が理解できる言語に翻訳(これを比喩と考えます)した場合に部分的に認識されるだけです。
哲学者によっては、宗教の持つ知解性自体も幻想であると考える場合があります。
宗教の内部構造としての知解性は保証されず、信者は個として信仰しているにすぎないという考えです。
ここで理性が受け入れられる共通言語は、信仰者は、信仰対象を信じると言う事だけです。
信仰者にとっての信仰→信仰対象を信じる→信じる事を選択した要因→多様性を持ち理性の言語では表現出来ない。
命題:比喩としての、信仰要因が理性の理解できる言語として類型を持つ
上記が成り立つ条件を考察しなければなりません。

お礼ありがとうございます。
信仰者が信仰に至る選択を行う事は、信仰者の内的要因によるならば、理性(理論)による認識は不可能と言えますが、それについても、部分の伝達が可能であるとすれば、信仰者が理性が演繹できる経験的事項で語る必要があると言えます。
これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
そこに何らかの類型が見られるのであれば、信仰に至る選択の比喩が一致する事が予想されます。(比喩は部分なので、部分の集合となる可能性もあります)
予想される反論とし...続きを読む

Q法螺吹きの効用について――心のゴミをきれいに処理する《アース役》とは?――

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みをも負っています。

 5. 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いたのではないでしょうか。

 6. この悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 覆われ包まれ癒されてくるようにもなります。

 7. いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)役》となってのように 引き受けたのではないか。すでに癒されていたからでしょう。

 8. ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。色をつけて言っても ごみ清浄化再活性化工場なので この世の屑だとも言われています。

 9. この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。

 11. じつにすでにすべての解放と自由とは成っています。心配は要りません。

 12. たしかになお かつての悩み癖が消えないかのごとく 思い思いの心配をすることはあります。たとえば 心にシミ・ソバカス・ホクロなどの母斑が残っているのではないかというたぐいの心配です。

 13. ですが やがて この悩みにかんしても しかるべきものはしかるべく消えて行くでしょう。

 14. 社会の三分の一の人たちが 連帯して ゴミ処理工場を引き受ける情況がやって来たときです。つぎの三分の一がそれに加わらないけれど 共感し のこりの三分の一が ゴミの――人間の恨みや蔑みといった心のゴミの――排泄専門の・一般におえらい方がたです。三つ目のは アース役に対するに ガミガミ役です。
 
 15. そうなったときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――という法螺を吹きたくなりますね。どうでしょう?

1. ひとは 人の――おのれの――自然本性を見よ。
 
 2. ひとは 《全ての悩みからの解放が成った存在》として しかも同時に 《全ての悩みを背負い得る存在》として 生まれて来る。

 3. あなたの悩みは すべて 過去の人びとや現在における周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになった そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 4. 自分もウソをついたなら 自分の悩みを...続きを読む

Aベストアンサー

私も一つ、法螺を・・・

『日本は今や世界に冠たるアース役を買って出ているのだ!』

         (☆ 天才バガボンに替って。)


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