1. 究極的・根源的な生の選択を問う問題になると思います。

2. 堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になる
でしょう?
 
3. 過去は消せませんが これをも乗り超え得るさとりは 縁起の究極として どのよう
に思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう? 知恵を明かしていただけるものなら 
おしえてください。

4. わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起共生の関係)によっては 無理
だと思います。経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとお
して 明らかになるもののように考えています。

5. ただし この《信じる》は たとえば《辛いけれど この子――いまは あの子――
がむしろわれを見守ってくれていると信じる》というのは どうなのででしょう? そこへ
お釈迦さんをからませれば ありがたや ありがたやと感謝して済む ということになるの
でしょうか?

6. もしわたしが その去っていった子であったとしたなら おれをアイドルにするな!
わたしを偶像の神にしないで! と言い返すと思いますが どうでしょう・・・。

7. 気分のいい問いではなくて申し訳ないですが どうぞよろしくお願い致します。ゴー
タマ・ブッダとは 日本人にとっていったい何であるかと問うています。

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A 回答 (4件)

~~~~~~~~~~~~



アポロドーロスによれば、ムーサイのひとりカリオペーとオイアグロスの子として、ただし名義上の父親はアポローン神として、オルペウスは生まれたとされる[1]。またオルペウスの父はトラーキア王であったともされ、グレイヴズはオイアグロスをトラーキア王としている[2]。竪琴の技はアポローンより伝授されたともいう。その技は非常に巧みで、彼が竪琴を弾くと、森の動物たちばかりでなく木々や岩までもが彼の周りに集まって耳を傾けたと言われる。

オルペウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB …

~~~~~~~~~~~

概説[編集]
ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3 …

~~~~~~~~~~~



雉も鳴かずば撃たれまい
とはいえこういうのもある。


~~~~~~~~~~

見るなのタブー(みるなのタブー)は、世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つである。何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇(多くは離別)が訪れる、または決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭うという類型パターンを持つ。見るなの禁止とも。民話の類型としては禁室型(きんしつがた)とも言う。
心理学的にはこの様に見てはいけないと言われると余計に見たくなってしまう心理的欲求をカリギュラ効果と呼ぶ。


見るなのタブー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E3%82%8B …

~~~~~~~~~~

認識したものが存在するのだから
認識しなければ存在しない。
そして、仏教は視覚を聴覚よりも重視しているから
音楽的特性のある霊魂だのは軽視される。

ここで耳なし芳一を思い浮かべるわけである。

~~~~~~~~~~


和尚は怨霊の「お経が書かれている身体部分は透明に映り視認できない」という視覚能力の性質を知っていたので、怨霊が芳一を確認できないように法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写した。ただしこのとき耳の部分に写経し忘れたことに気が付かなかった。また音声によって場所を特定されることを防ぐために芳一に怨霊の武士に声をかけられても無視するように堅く言い含めた。



耳なし芳一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E3%81%AA …


~~~~~~~~~~~~

まあ思いついたことをいいかげんに、書いているからあたっているかどうかはわからない。
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オルガン。

楽器。音。


~~~~~~~~~~~~~

特色[編集]
一般的な古代ギリシャ宗教と比較して、オルペウス教の特徴とされる点は以下の通りである。
人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず、輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義。
「悲しみの輪」からの最終的な解脱、そして神々との交感を目的として、秘儀的な通過儀礼(入信儀式)および禁欲的道徳律を定めていた点。
生前に犯した特定の罪に対し、死後の罰則を警告した点。
教義が、神と人類の起源に関する神聖な書物に基づいている点。

オルペウス教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB …


~~~~~~~~~~~~

古代ギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。

ピタゴラス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF …

~~~~~~~~~~~~

ピタゴラス教団〔またはピュタゴラス教団〕(ピタゴラスきょうだん、英:Pythagorean Order)は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社。現在の南イタリアのロクリスに本拠を置き、数学・音楽・哲学の研究を重んじた。前5世紀ごろに盛んであった。

ピタゴラス教団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF …

~~~~~~~~~~~~~



例が二人だけですが、
オルペウスとピタゴラスと
輪廻の思想と音楽は関係があるのでしょうか。

魂と音


一応、音楽なら音楽療法とかいうものがあるようです。


~~~~~~~~~~~~~

音楽療法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%A5%BD …

~~~~~~~~~~~~~
体調が悪いと騒音にしかならないときもあるでしょうけれど。

微妙なのは、仏教でも読経は必須だろうけれど、
問題があるとすれば、



直指人心 見性成仏
(伝心法要)
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060501.html



「見る」という視覚のほうが仏教としては
重要視されていると思います。


浄土教でも

観想念仏から称名念仏になったとはいえ
まずは観想念仏というものがあったわけですから。

あとはヴィパッサナー瞑想とか。
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birthless :再びは生まれて来ない; 生苦から自由となった




なるほど。ありがとうございます。


プラーナが気になっていたら、

birthlessが
~~~~~~~~~~~~

Weblio英語表現辞典
英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書

birthless
訳語 卑しい;卑しい身分の

http://ejje.weblio.jp/content/birthless

~~~~~~~~~~~~~


そのような意味が出てきたので
ちょっとわけがわからなくなっていました。

それと水子の質問が重なって。

~~~~~~~~~~~~

水子供養商法[編集]
“水子”は本来「すいじ」と読み、元々は死亡した胎児だけでなく乳児期、幼児期に死亡した子供を含む概念に過ぎなかったが、1970年代頃から水子供養の習慣が広まっていき、占い師などが水子の崇りを語って水子供養を売り物にしていった[3]。その背景には、檀家制度が破綻し経営が苦しくなった多くの寺院が経済的利益のために大手墓石業者とタイアップし水子供養を大々的に宣伝し始めたことが大きく影響している[3]。
松浦由美子は、水子供養は新しい現象であり、それが宗教なのか商売なのか、仏教のものであるのか否か、日本の伝統宗教と関係あるのかないのか、中絶した女性に対する癒しなのか恫喝なのか、あるいは中絶問題の解決になり得るのか否か、といった多彩な視点から国内外の研究者たちの注目を集めてきたと述べている[4]。
水子供養が仏教であるかどうかについては意見が分かれている。

水子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%AD%90

~~~~~~~~~~~~

仏教であるかどうかについては意見が分かれている、ようですよ。
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この回答へのお礼

▲ (水子はとても優しい精霊なのですよ) ~~~~~~~~~
常光円満寺
http://www.enmanji.com/mizukoqa.htm
§■ 天国の赤ちゃんにお返しをしましょう
赤ちゃんはいつも天国から私たちを見てくださっているのです。
周りが自然と笑顔になるように努力するお母さん。
困っている人を助けようとする優しいお母さん。
そんなお母さんの姿を見ると、きっと喜んでくれることでしょう。
あらゆる人の支えになってあげることも、赤ちゃんのためになるのです。
くじけそうになった時、赤ちゃんを思い出してください。
きっと「がんばって!」と応援してくれることでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という綿菓子ブッダ豚語のとうときオシへのお話のようです。天国は 
地蔵さんのいるところとして説明されている。

水子の問題は 河童やコケシの問題です。
食糧不足に苦しんだときの間引きの問題。
川に流し捨てたのが ふと見ると生き延びて川の中に動いているかに見えた。
ゆえに 《かはわらはべ》。
コケシは 子を消したので。

その場合にもし お釈迦さんに絡ませたのなら この質問が成り立つ。
日本社会のひとつの問題として一般性を持つと見ます。

ご回答ありがとう。

お礼日時:2016/02/17 13:58

ごちゃごちゃしています。


昨日の質問に投稿したほうがいいような気がしますが

まだ生まれていない自己
卑しい生まれの自己

なのか、話が変わってくる。

どうなっているのだ。

~~~~~~~~~~~~~

プラーナまたはプラナ (サンスクリット語: प्राण (prāṇa, praaNa); 英語: prana) は本来、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。
インド哲学では、同時に人間存在の構成要素の1つである風の元素をも意味している。そして生き物 (すなわち息物) の生命力そのものとされ、やがてその存在はアートマンの根拠にまで高められた。

プラーナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9 …

~~~~~~~~~~~~~~~

今調べていることからするとウィキペディアを使っている場合ではないが
面倒だからとりあえず、プラーナといったら気息だろう、

それが、昨日引用したサイトでは

Verse 4.4.22:

sa vā eṣa mahānaja ātmā yo'yaṃ vijñānamayaḥ prāṇeṣu


22. That great, birthless Self which is identified with the intellect and is in the midst of the organs,


The Brihadaranyaka Upanishad
The Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad (with the Commentary of Śaṅkarācārya)

http://wisdomlib.org/hinduism/book/the-brihadara …



the organsになっている。

organも意味は色々あると思うけれど、


~~~~~~~~~~~~~




研究社 新英和中辞典
研究社研究社
organ
音節or・gan 発音記号/ˈɔɚg(ə)n|ˈɔː‐/音声を聞く
【名詞】【可算名詞】
1a器官,臓器.
用例
internal organs 内臓.
b《戯言》 男根,ペニス.
2(活動の)機関.
用例
an intelligence organ 情報機関.
3(報道の)機関; 機関紙[誌].
用例
organs of public opinion 世論の機関 《新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど》.
4オルガン:
aパイプオルガン.
bリードオルガン.
c手回しオルガン.


http://ejje.weblio.jp/content/organ
~~~~~~~~~~~~~~


臓器だとすると、

気息と臓器で全然違うというか意味が反対というか、
とにかくその英訳は大丈夫なのだろうか、という疑問が出てきて、


Max Mullerを調べたらそのまま、the Prānasだった。
困った。


~~~~~~~~~~~~~~

Ⅳ ADHYAYA, 4 BRAHANA, 22. 179ページ

22.‘And he is that great unborn Self, who consists of
knowledge, is surrounded by the Prānas,
the ether within the heart.

PDFです。注意。

The Upanishads - includes Brihadaranyaka Max Muller (Translator), The Sacred Books of the East - Volume 15, Oxford University Press
https://ia800307.us.archive.org/22/items/SacredB …


~~~~~~~~~~~~~~

THE
BṚHADĀRAṆYAKA UPANIṢAD

WITH THE COMMENTRY OF

ŚAṄKARĀCĀRYA

TRANSLATED BY

SWĀMI MĀDHAVĀNANDA

WITH AN INTRODUCTION BY MAHĀMAHOPĀDHYĀYA

PROF. S. KUPPUSWĀMĪ ŚĀSTRĪ, M.A., I.E.S.
VIDYĀ-VĀCASPATI, DARŚANA-KALĀNIDHI, KULAPATI

http://wisdomlib.org/hinduism/book/the-brihadara …


~~~~~~~~~~~~~~

上のサイトと、このサイトが同じ訳のようです。

http://www.celextel.org/upanishads/shukla_yajur_ …


~~~~~~~~~~~~~~

さらに

Max Mullerは、
mahānajaをgreat unborn Selfと訳しているのに

SWĀMI MĀDHAVĀNANDA
WITH AN INTRODUCTION BY MAHĀMAHOPĀDHYĀYA
PROF. S. KUPPUSWĀMĪ ŚĀSTRĪ, M.A., I.E.S.
VIDYĀ-VĀCASPATI, DARŚANA-KALĀNIDHI, KULAPATI


great, birthless Selfと訳していて、


birthlessが


~~~~~~~~~~~

Weblio英語表現辞典
英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書英和辞典・和英辞典 - Weblio辞書

birthless
訳語 卑しい;卑しい身分の

http://ejje.weblio.jp/content/birthless

~~~~~~~~~~~~~

No exact match found for “birthless” in British & World English
http://www.oxforddictionaries.com/spellcheck/eng …


~~~~~~~~~~~~~~

よくわからないけど
Oxford Dictionaries で見つかりませんでした。



どうにも昨日利用したサイトの翻訳が、
まだはっきりはわかりませんが、原文をそのまま訳すというよりも
特定の立場からの思想を反映させた翻訳かもしれません。
おそらくは唯物的?

利用には注意が必要だと思いました。
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この回答へのお礼

○ birthless :再びは生まれて来ない; 生苦から自由となった

かと。

お礼日時:2016/02/17 11:56

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Q《罪》とは何なのか? 《赦される》とはいったい どういうことか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分
の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

39: イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、

    「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
    どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」

  と思った。
40: そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」
と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41: イエスはお話しになった。

    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百
    デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:   二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳
    消しにしてやった。
     二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

43: シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
   イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44: そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

    「この人を見ないか。
    わたしがあなたの家に入ったとき、
    あなたは足を洗う水もくれなかったが、
    この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45:  あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
    この人はわたしが入って来てから、
    わたしの足に接吻してやまなかった。
46:  あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
    この人は足に香油を塗ってくれた。
47:  だから、言っておく。
     この人が多くの罪を赦されたことは、
     わたしに示した愛の大きさで分かる。
     赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

48: そして、イエスは女に、

     「あなたの罪は赦された」

   と言われた。
49: 同席の人たちは、

     「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」

   と考え始めた。
50: イエスは女に、

     「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

   と言われた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これでひとつの完結した話だと思われます。
さて 問いです。

1. ここで何が起こったのでしょう?

2. 罪とは 何でしょう。

3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のこと
だ解かれています。
△ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3

4. 《姦淫》とは どういうマチガヒでしょう?

5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・
何を赦したのでしょう?

6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言も
しゃべらなかったようなのだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいに
したりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。
――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか? と ふと思う。

7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが
心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実と
なった。のだろうか。

8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう
行為の中身がそうなのか?
それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・
その主観の内ですべてが起こっているようにも見える。すべては 自作自演の物語なの
であろうかとさえ。知らず知らずのうちの自作自演・・・そう見てよいのか?

10. ひとは ほかの人とカカハリを持っているのか いないのか。マジハリなどは 
ないのか? この罪にしろ何にしろすべては 主観の内にあってあたかも自己完結する
ことに終わる夢物語であるのか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらそ...続きを読む

Aベストアンサー

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦されたのは、自分の従うべき道=キリストを発見したからであり、あつく香油を塗りたくったのもキリストという存在がこの世にあることに感謝したのである。ただしこの女も完全に罪を許されたわけではない。自己が人間でありかぎり罪深いものであり、金貸しに多大な借金を作っていることに変わりないのである。
 この場合、自己への無知=道を知らぬこと=罪であると解釈するのがもっとも適当だろう。
 ただし、この女は聡明である。罪を多く背負うというのは、つまりは自己への無知をよりつよく意識しているということだからである。この世には、肉欲だけを心得て暴利をむさぼる豚のようなものも多い。彼らは罪を意識しない。自分がなぜ生まれてきたのか考えもしない。ゆえに、罪を感じることはない。
 一方、キリストという名の道を見つけて、自己の借金を帳消しにした(された)女は、自己の借財を事前に理解していたと解釈することができる。これはえらいことだ。あなたは他者とのかかわりを云々されているが、それは二の次である。自己だけで道を発見できればそれでもいい、他者が必要であるのならばそれでもいい、どちらにせよ、信仰という生活を見つけだし、おのれの生きる道を見つけ出したこの女は、偉大である。ゆえに赦されているのである。ただ赦されているという安心感は慢心を呼び起こすのだが。無限否定。

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦...続きを読む

Q《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

 3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。

 4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?
 《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?

 5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。
 受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。

 6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?




  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。
 教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。


 ご見解をどうぞ。

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

 3...続きを読む

Aベストアンサー

相対と絶対は言葉ではセットになっているが、相対でも絶対でもないものというのはあり得る。
それが何かと問われれば答えるのは難しいが、おそらく無数にあり得る。例えばカオスの内容物が計り知れず得体もしれないように、謎の何物かというのは、善悪はおろか、一切が謎であるのであるから、その性質を想定する主観を持った人間に、どのようなものであるかという想定は、一意に預けられる。
ここに、その主観の好き放題に謎の何者かを設定できる隙がある。

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。

 【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。

 【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。


 1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。

 2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本人は昔から、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきたのではないでしょうか。・・・
 沖縄に行きますとニライカナイという海上のかなたに存在する理想の国土が信じられております。

 その太陽がまた翌日になると、東から昇るわけであります。それは人生が必ずよみがえる、季節も繰り返しよみがえってくるという再生の考え方とも結びついている。それを象徴するのが落日ですよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. 《 ♪ 山のお寺の 鐘がなる》

 ▲ “山のお寺の鐘が鳴る” その山のお寺が朝昼晩 鐘を鳴らす。鐘の響きを聞いて人々は起床し、食事を取り、労働をし、1日のリズムがそれで決められていく。
 ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。

 4. 《 ♪ お手てつないで みなかえろ》

 ▲ しかしこれは大人に対するメッセージでもあると私は解釈しています。「帰るべきところに帰れよ。」 そういうメッセージですね。

 5. 《 ♪ からすといっしょに かえりましょう》

 ▲ 「共生」、動物たちや小鳥たちや自然といっしょに生きていこうという考え方は、もうこの『夕焼け小焼け』の歌の中にきちんと歌い込まれていたんです。

 6. 木下順二の『夕鶴』

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。
  最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。
 特に【β】については こうです。

  【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。

  【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。

  【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。

 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう?
 
 * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?

《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か



 ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観――
  http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html
 ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。

  ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一)
  ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二)
  ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰

  ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつ...続きを読む

Aベストアンサー

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意味する。
or
・西洋にも落日の光景の芸術がてんこ盛り。なお、落日=終焉の意味の芸術は除外する。
の部分を爆撃するしかないです。そこをつぶさない限り、山折さんの論理はダメージを受けないのだけど、
bragelonneさんはそれと関係ない、どうでもいいところばかり攻撃しています。

>【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。
科学では証明できないという意味では錯覚である。
ただし、「再生」を否定する思想系(たとえばキリスト教)も科学では証明できない。
つまり、思想の客観性からは、引き分け。つまり、言っても意味ない。
※ここでいう客観性とは、科学における証明のことであり、観測事実(=賛成派・反対派で意見が一致する事項)から片方だけ矛盾が生じるゆえに間違い、という論理が成立することを言う。

>――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。
>これが 日本人の信条ではなかったか。
当時の時代背景を無視した発言です。
聖徳太子が憲法1条に、「和を以~」と書いたのは、曽我氏と物部氏の戦争が終わった直後。
モロに、和を乱した状態の直後。
あと、「和を以~」は、悪用されていて、議論すべからず、という意味に使われています。
議論の時は、何を言ってもいいけど、決議後は決議に従うのが世界標準。「和を以~」??アホか~。
その意味で、「和を以~」は、単に「私は議論下手です」と言っているだけ。

> 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。
>どうでしょう?
どうでしょうって...思想は各人の自由だから、
「私は山折哲雄および木下順二の思想に同意できない」以上の意味を見出せません。
全否定しようが部分否定であろうが、知ったこっちゃないです。ご自由にとしか言いようがありません。


>β‐1
>β‐2
人間のあさましさ・その欲望の深さに絶望したことを、「飛び去った」と表現しただけ。
比喩なので、字句どおりにとる必要はありません。

>夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
比喩なのでいちゃもんをつけるのはどうかと思うが。
自然科学でも一応は説明可能。
「羽根がなくなった」わけではないため。
羽の一部を使っただけであり、羽根を全部むしったのではないため、当然、飛べます。
※《つう》は、自分で自分の羽を抜いています。他人により羽根をむしられたわけではありません。

> ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。
現代科学と重要な相違点があります。このため、鐘は人為的でなく自然現象と解釈せざるを得ません。

・なぜ、夕方(=日の入り)に鐘が鳴るのか?
  夏や冬には、現代なら鐘が鳴らない。午後6時に鳴る。

旧暦では、現代の時刻の定義と異なり、日の出・日の入りが六つ時と定義されます。
要するに、昼・夜で、1時間の長さが違った。
現代時刻なら、春分の日近辺・秋分の日付近しか、日の入り時刻に鐘が鳴らないところ、
年間を通じて、日の入り時刻に鐘が鳴ります。現代時刻のほうが、明らかに人為的です。

>【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。
日本人の宗教は、「仏教+神道」であり、輪廻を否定していないので
一神教系(=輪廻を否定)よりは日本人のこころに近いのは明らか。

なお、山折さんの論法は、
日本:落日とは再生を意味する。  ※西洋では、終焉を意味する。
日本:落日の光景の芸術がある。
西洋:落日の光景の芸術が少ない。
よって、日本のほうが夕陽の信仰が大きい。
という、客観判定可能な事項を基にした論法なので、
真っ向から否定するなら、
・落日とは再生を意...続きを読む

Q《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム。

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム。
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?

0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき...続きを読む

Aベストアンサー

>恐ろしい信念の持ち主でおられる

これはお互い様でしょう。

>人間を解放へと向かう宗教は論理的には成り立たない

ということは、当然あなたの主張する「非知たる神論」から導き出される結論ですから、
私がそこに切り込んでゆかなければ、平行線のつまらない議論で終わることでしょう。

あなたの「神論」はいわゆる「神」を「非知」として、そこから組み上げた理論であろう
と思っています。
一方、私は大乗仏教の生命観を学んでいるものです(お判りでしょうが)。この二者がどう
かみ合うのか?いや、かみ合わせることができるのか?ここが、極めて面白いと思ってい
ます。
だから、なかなか時間が取れないながらも、対話を続けようとしています。

「人間とは何か?」が分かればいいのだと思います。そう考えれば、「哲学」「宗教」は
「人間学」とも言えると思います。


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