アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1. 哲学は おのれの精神のストリップをいとわない。と思う。

2. けれども それは程度問題なんだからと言い むしろ肝心の本心を隠す場合もある。

3. たしかに何が何でも本音をひとさまにさらけだせばよいとはならない。要らないも
のは要らない。

4. よってここから 人呼んで 《縁側の哲学》が起こる。




5. 縁側とは 相手と確かにしっかりと接していて対話をおこなっているのであるが そ
こではなお話の内容として互いにみづからの精神のストリップにまでは到らないでいられる
場所として設けた非武装地帯( DMZ )のことである。

6. その言葉じたいにはわるい響きがあるが 一般に八方美人としての緩衝地帯である。

7. すなわち・したがって人びとは一般に人間関係に角を立たせないようにしようとする
とき この縁側の哲学を持つ。

7-1. この縁側理論が 例の《和を以って貴しと為す》という交通形式とどう同じでどう
違うかという主題も 派生しているかと思われる。あるいは クウキの理論もしくはクウキ
教の世界理論。




8. 知恵をしぼり工夫をして人びとは この自己表現にあたってのおのれの文体に帯びさ
せる縁側を 広い間口で低い敷居につくるかも知れない。相手をこころよく迎え入れたい。

9. また縁側の場所としての幅を広くして 嫌だと思う精神のストリップは回避できるよ
うにと・つまりはその回避をしたまま何とか実のある話し合いが出来るようにと対話のかた
ちを――おのれの文体として――築きあげるよう工夫する。




10. さて ここで問題は 縁側はいいこと尽くしではないと思われることです。
いかに縁側の居心地がよくても それだけでは話が成り立たず どうしても本心を明らかに
しなければ話が始まらないというときだと思われます。

11. 本心のはぐらかし・先送りで 人間と人間との対話は成り立つか? 成り立たない
なら 本心のストリップは 避けられないか?

11-1. これは ウソの問題でもあるかと思います。そのときのヤマシサ反応もしくは
恥ぢの問題であるかと。


12. ぶっきらぼう哲学は こういう主題をとことん議論するクセがあります。

13. ぶっきらぼう理論は ひとを傷つけるものだろうか? それともじんるいの未来を
拓くあかつきか? ぶっきらぼうでごめんなさいと言わねばならないだろうか。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    この補足欄のほうに先にひと言です。
    (夜中をまわり 眠そうな眠くなさそうな状態ゆえです)。
    (お礼欄のほうが スペースが広いゆえ あとで明日の朝もういちどお応えを考えてみます)。

    つまり ほんとにひと言です。

    ぐらす_るーつさんは すでにさとってらっしゃるのでは? です。

    あるいは その自覚がない。だけ?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/21 00:30
  • うーん・・・

    【Q:易怒】のわが回答にお礼をもらいました。

    何て言いましょうか。

    《怒り》の定義のようなものについては あんがいわれわれの定義に賛成してくれて
    いるようです。

    あとは 何だか細かいところにこだわっているような。
    あるいは わたしの分析の仕方が あちらの見方に合わなかったのでしょうか。

    どうしようか 考え中です。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/21 21:02

A 回答 (31件中1~10件)

和の心、は本音を隠す?


難しいですね。
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この回答へのお礼

ですね。

ご回答をありがとうございます。


ですから ゴールに到る過程での一つひとつの段階だと捉える必要がある
でしょうね。

ですから 縁側の論理ですでに互いに和が成ったと思ってしまったときに
は もうそのあとに ほんとうのゴールがあるのを捨ててしまうかも分か
りません。

★ 難しいですね。

お礼日時:2016/04/20 20:47

世界広しと雖も、縁側があるのは日本だけではないか?



嗚呼、縁側は宇宙の真理への出入り口。
でも、この場合は“孤独”であることが必須。

さて縁側は、向こう三軒両隣の方々をお迎えして、ミクロ的社会を成す。
そして、この方々がここの縁側に寄ったのは暫しの憩いを求める為に。
憩う為だから、そのために多少の犠牲は承知している。

犠牲となるのは「本音」。

とりあえず、ここまで。
疲れたから(ひ弱な頭です)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 世界広しと雖も、縁側があるのは日本だけではないか?
☆ ヴェランダが似ているとか。

★ 憩う為だから
☆ 建物における縁側は 確かにそういう場所なんでしょうね。
よその人たちとのマジハリのための場として。

比喩的に互いの対話における緩衝地帯としてなら まさに緩衝
の役目である。

つまり 本音を交じえた意志疎通を直截におこなうのを一たん
延期するようにして 無難な内容をのみ話に出すかたち。

それですでに実質的な話が互いに出来たのなら 言うこと無し
でしょう。目的を達したのですから。

どちらも 相手の言おうとすることを判じて理解したというこ
とになる。

ということは 縁側の手法も 実際にはホンネを伝えるための
直接話法のひとつであるに過ぎなくなる。

ということは 対話するふたりのあいだでは 互いにやはり精
神のストリップはおこなっている。ことになる。




名探偵ポアロが或る事件で 弁護士に遺書には相続人が誰だと
書かれているかと尋ねると 期日が来るまでおしえるわけには
行かないという答えが返って来た。

ポアロは 殺人事件であり緊急を要するので 是が非でもおし
えて欲しいと食い下がる。

そうすると 弁護士は ちょうど馬の品評会をやっていてその
審査員(ひとりのみ)であったところ 三頭の馬を最終審査に
残しその中から 新参者の馬を一等賞に決める。

そうすると 相続人の候補が三人いたので その中から《新参
者》が遺書に定められた相続人であることがポアロに伝わった
ことになった。

縁側の論理をとおしてながら 本音がずばり伝達され得た。
ということもあるらしい。
《 How does your garden grow ? 》
http://www.imdb.com/title/tt0676153/

お礼日時:2016/04/21 00:13

こんばんは、ぶらじゅろーぬさん。



今、「孤独」についての「回答」(?)の「お礼」を読みました。これもそちらから派生したものかと思いましたので、
「回答」ならぬ「私見」を述べたいと思います。
(「孤独」に関するわたしの意見についてのぶらじゅろーぬさんの感想に基づいています)


作家の堀江敏幸さん(わたしと同世代)は、「何を書きたかったのかは書き終わってみて初めて分かる」と、これは、ご自分のことをそう言っています。先の質問でも、「言葉が通じないとはどういうことか?」という、あまりハッキリしない質問を投じましたが、そこには、自分の中にある漠然とした、まだはっきりと輪郭の掴めていない疑問について、質疑応答を行う過程を通じて「質問」を形作っていければ、という思惑もありました。

今回の「孤独」についてのわたしの回答で、ぶらじゅろーぬさんが感じられた距離感?
これは一つには、上記のように、既になにか自己の中に確固とした「孤独」についての考えがあるわけではなく、自分で書きながら知ってゆく、というプロセスに因っているのかもしれません。

わたしが完全に己をさらけ出すという方法を身に着けていないということもあります。
それを「怖れている」とも言えるでしょう。また、慣れない場ゆえ、先ずは小当たりに当たってみて様子を見る、ということかもしれません。心地よい距離を保っていたい、という気持ちも働いているでしょう。

「縁側の哲学」は面白い発想だと思います。ぶらじゅろーぬさんは、それを「ゴールに至る一地点」として捉えられているのかもしれませんが、わたしには、孤独でない状態とは、正にこの「縁側の団欒」のようなものではないかと思うのです。

つまり「わたしの部屋」でもなく「きみの部屋」でもない「共有の場所」が縁側とよばれるのではないでしょうか?
そしてこれは『孤独はいいものだ、けれども「孤独はいいものだ」と言い合える相手がいるっていうのはもっといいことじゃないか?』
というような、「孤独を持ち寄れる場」とも考えられるのです。

ひとつは「馴れ」の問題。ひとつには、「わたし」と「他者」という、ヤマアラシ同士の、本能的な「快適な距離」の問題。

・・・こんなことを言いながら、わたしにとってもこれは考えさせられる問題で、実は全き承認を欲しているのかもしれないし・・・

ただ、「現時点で」考えているのは、このように提示された「縁側」って、正に「孤独を可能ならしめる友情」の形の一つなのかもしれない。ということです。

よかったら「孤独」のほうも、もう少し開けておいてください。わたしにとっては、このふたつの質問は別個のものではないので。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 作家の堀江敏幸さん / 「何を書きたかったのかは書き終わってみて
初めて分かる」
☆ そうでしょうね。遠藤周作が 作家には二種類ある。初めにすでに
大団円まで描き終え分かった上で書き始める者とそして分からないから
書き始める者とだ。と言っていたのを思い出しました。

もっとも現代小説は たまたま村上春樹を読んだだけで まったく門外
にいてしまっています。ので 無知の勘弁を! 堀江氏は 多治見の人
らしい。



★ 今回の「孤独」についてのわたしの回答で、ぶらじゅろーぬさんが
感じられた距離感?
☆ わたしは ここでは基礎( basis =歩み)において哲学として語っ
ています。

この《距離感》は ぐらすさんがいつも哲学に対してへりくだる姿勢を
断り書きしておられるその《遠慮感》が感じられるということではない
かと思います。(支流として結果的に自己韜晦にもつながってはいます
ね)。


哲学するのは ぶっつけ本番でいいんぢゃないでしょうか。

ただし:
★ わたしが完全に己をさらけ出すという方法を身に着けていないとい
うこともあります。
☆ とおっしゃっていることは 《孤独》論ないしこの縁側の哲学の本
論にかかわるのでしょうね。

同じくただし:
★ わたしには、孤独でない状態とは、正にこの「縁側の団欒」のよう
なものではないかと思うのです。
☆ というときには 《脱(または超)孤独》説を志向するような孤独
論になるのでしょうか。

これは端的に言って 《無一物》どうし・つまり樅の木どうしの語らい
の場と時とである。ということでしょうか。

だとすれば 誰から見ても 《理想》の姿であるかと思われますね。


★ ひとつは「馴れ」の問題。ひとつには、「わたし」と「他者」とい
う、ヤマアラシ同士の、本能的な「快適な距離」の問題。
☆ をもすでに容易に超えている《時》であるように見られます。理論
の延長線上では 容易に超えている。

もっとも理想と言っても むしろユラギを起こしていることのほうが
ふつうで現実的であるようにも捉えられますが。

つづくご回答の《抱擁・包容》の視点に継ぎたいと思います。

お礼日時:2016/04/21 11:32

追記



わたしにとっては、「精神のストリップ」ではなく、「抱擁」は可能か?ですね。
「縁側」は、わたしにとってはある種の、「存在が包容されている」場所。

本音をさらけ出さないことは、わたしにとっては、何か本能的なもののような気がします。

また、「通じ合う」ということは、必ずしも、言語=理知的な領域ではなく、むしろ非言語の領域でこそ成り立つのではないでしょうか?

『やわ肌の 熱き血潮に触れもみで さびしからずや 道を説くきみ』
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この回答へのお礼

孤独論。あるいは孤独と孤独のあいだを取り持つ縁側という人間の知恵。


ここで自由な反論を提起したいと思います。

露悪趣味と見られかねない精神のストリップを何もわざわざ進んでやる
こともないぢゃないか。――ということで 縁側の場を設け互いに共有
する。

そのとき:
★ 「抱擁」は可能か?
★ ある種の、「存在が包容されている」場所〔に成り得るか〕?

☆ 批判は 極論でおこなうと対話がむしろスムースに進むと思うので
すが こうです。:

抱擁・包容の状態にあるのは 成虫にとっての蛹の段階ではないのか?

蛹が 繭の中にあるのは やはりゴールではない。
繭のない蛹状態にしても 羽根を閉じた状態なのだから なおそこから
脱皮して成虫としての蝶に成る。

というタトヘは あまりにも図式的なのか? なんですが。


《道を説く》ことと《熱き血潮に触れもみる》こととは ヒトとしての
わが自然本性にとって 同じ現実・同じ生活世界であると思うんですが
ねぇ。


★ 言語=理知的な領域〔と〕非言語の領域
☆ とを分けたくないですねぇ。

お礼日時:2016/04/21 11:59

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。



>つまり ほんとにひと言です。

>ぐらす_るーつさんは すでにさとってらっしゃるのでは? です。

とんでもない。何についてそうおっしゃっているのかわかりませんが、

「悟り」とは縁のない人間です。

以前何かの映画のラスト(?)で、お釈迦様があちらへうろうろこちらへうろうろしているシーンがあって、

ああ、これだな。と思いましたよ。

人間の価値って、悩み、迷い、葛藤し、逡巡し、悲しみ・・・そんなところにあると思っています。

また後で。
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この回答へのお礼

《文体》です。その構造です。

表向きは みなさんに向けて 友情を問い求めつつ その向きを変えてみ
れば 樹木の茂り池がめぐらされた庭をながめる縁側にみなさんをまねい
ている。

といった《からくり》がすでに出来上がっているように感じたものですか
ら。

すでにデビューの時が満ちて来ているのだけれど なお引っ込み思案なの
かどうなのか はにかみ屋を通していらっしゃる。

さとりというのは:
★ 悩み、迷い、葛藤し、逡巡し、悲しみ・・・
☆ を内にふくみ包みおさめているということだと思います。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/21 14:25

本音は、両刃の剣の様であり、またむき出しの肌の様でもあります。


他者を傷つけるかも知れず、自身が傷つくかも知れないからです。
効用も期待できますが。

縁側は効用が得られる本音の交流の場、ではないでしょうか。
傷つけたり、傷ついたりする本音は自制し合って臨む所。
☆「和」も本音であると受け止めて見ました。

そう考えるとポアロの件は、縁側での出来事ではないと思います。
この真剣さは剣を抜いてますね。
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この回答へのお礼

★ そう考えるとポアロの件は、縁側での出来事ではないと思います。
この真剣さは剣を抜いてますね。
☆ だから 傷つくことがない。わけなのです。

ですから・つまり むしろ着物の下に鎧を着ているというかたちでホ
ンネが持たれていることのほうが あぶない。かもです。


《和》と言い《縁側の場》と言い 執り成しとしての仲介をもうける
と かえって思いと心とがあいまいに成ってしまい 取り違えや食い
違いが生じて来るのではないでしょうか? 
――と思ったりしますね。


★ 「和」も本音であると受け止めて見ました。
☆ それは そうでしょうね。
《和》そのことは つねに・誰にとっても ホンネでしょうね。

ただし和のために仲介の者や場がそれとして出て来ると しばしば互
いの表現において曖昧さが出て来がちになる。のではないかと。


ちょっと片寄った見方かもですが。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/21 14:37

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。



最初のお礼のコメントより。

>この《距離感》は ぐらすさんがいつも哲学に対してへりくだる姿勢を断り書きしておられるその《遠慮感》が感じられるということではないかと思います。(支流として結果的に自己韜晦にもつながってはいますね)。

ここは一応「哲学」という「学問」のカテゴリーで、みなさん、それを「前提として」お話しされているのだと思います。

>☆ わたしは ここでは基礎( basis =歩み)において哲学として語っています。

と、仰るように。

であれば、わたしのもっているのはあくまでも一般化し得ない、普遍的ではない、「個人的な意見」でしかありませんので、
哲学的なアプローチで発信することもできないし、またその話法での受信も難しい、ということを予めお断りしています。

『遠慮感』は、「謙遜」ではなく、わたしの話していることは「哲学」ではありません、という前置きのようなものです。
もっとも、何を以て「哲学」と呼ぶのか、という問題もあるでしょう。「個人の意見」が「哲学ではない」とは言い切れないのかもしれない。これはもう受け取る側がどう判断するか次第だと思います。

(嘗ての?)瀬里香さんのように、「哲学かどうかわからないけれど、Grass Rootsの話は興味深い」と思ってくれなければ、成り立たない会話のようなものです。

哲学を、或る理論体系であるとするならば、わたしのは、ほぼ「文学」です。(笑)


>★ わたしが完全に己をさらけ出すという方法を身に着けていないということもあります。
>☆ とおっしゃっていることは 《孤独》論ないしこの縁側の哲学の本論にかかわるのでしょうね。

そうですね。孤独論よりも、縁側哲学に近いかもしれません。
つまり「裸形」を怖れる、という気持ちが強いのでしょう。

相撲のように、裸形で四つに組むというのは、イメージとしても暑苦しく(苦笑)
そのような「面」的な関係ではなく、「ツボ」を押さえることが出来れば、お互い「点」の交流ができるのではないか。
そういう関係を好ましく感じているようです。


>★ わたしには、孤独でない状態とは、正にこの「縁側の団欒」のようなものではないかと思うのです。
☆ というときには 《脱(または超)孤独》説を志向するような孤独論になるのでしょうか。

「孤独」はわたしの中では、「わたしがまさにわたしであるゆえに」陥る状態だと思います。
ですから、これは否定すべきものではありませんが、わたしは「ひとり」では生きてゆけないので、
「繋がり」あるいは「味方」を必要とします。味方を得た時に「孤独」の(良い意味での)完成があるのかな?と考えています。
ですからそれを、「離脱」或いは「超越」というよりは、「完成」と呼ぶ方が近いのかな、という感じです。

>これは端的に言って 《無一物》どうし・つまり樅の木どうしの語らいの場と時とである。ということでしょうか。

「モミの木」がなにをイメージしているのかがわかりませんのが、「無一物同士の語らい」はいいですね。

『さびしさに 堪えたる人の またもあれな、庵ならべん 秋の山里』 - 西行

これも先のバルザックの言葉同様、孤独なもの同士が肩寄せ合うという絵ではないでしょうか?
「同居」ではなく、「庵」を「並べよう」、という距離感が快適なのでしょう。

◆◇

次の「回答」へのお礼のコメントについて

>縁側の場を設け互いに共有する。

そのとき

>★ 「抱擁」は可能か?
★ ある種の、「存在が包容されている」場所〔に成り得るか〕?

☆ 批判は 極論でおこなうと対話がむしろスムースに進むと思うのですが こうです。:

>抱擁・包容の状態にあるのは 成虫にとっての蛹の段階ではないのか?

>蛹が 繭の中にあるのは やはりゴールではない。
>繭のない蛹状態にしても 羽根を閉じた状態なのだから なおそこから脱皮して成虫としての蝶に成る。

この場合の「さなぎ」「成虫」「羽根をのばし切った」状態を、現実の人間の状態に当てはめると、どういう形なのかがわかりません。

なにを「ゴール」とするか?によって、その後の見方の相違が分かるのだと思います。

また「蛹」や「幼虫」という状態を、いずれは超えられなければならない「一つの通過点」ととらえるか、「幼虫もさなぎも」それ自体として、完結した存在と捉えるかによっても異なると思います。

>《道を説く》ことと《熱き血潮に触れもみる》こととは ヒトとしてのわが自然本性にとって 同じ現実・同じ生活世界であると思うんですがねぇ。

勿論両者はともに人間を作っている「理」と「情」の点で同等です。だから一方に偏らないようにしたいと思うのです。

>★ 言語=理知的な領域〔と〕非言語の領域
☆ とを分けたくないですねぇ。

これを「分ける」必要はないでしょう。ただ、このような「場」=インターネットのディスプレイ越しのやり取りだと、
どうしても、テクスチャーが不足していると感じてしまうのです。言葉の氾濫に対する生理的な反発、手触りへの渇望のようなものでしょうか。

「孤独論」にせよ「縁側論」にせよ、それをネット上の文字上で「論」として喋々するにとどまらず、
お互いに「身体」と「情」をともなった生身の人間として、実践できないものかと考えています。
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この回答へのお礼

ぐらすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

今回は特にたじたじですが 張り切ってお応えしてまいります。

★★ 孤独でない状態とは、正にこの「縁側の団欒」のようなものではないか
☆☆ とおっしゃっていることは 《脱(または超)孤独》説を志向するよう
な孤独論になるのでしょうか。
★ 「離脱」或いは「超越」というよりは、「完成」と呼ぶ方が近いのかな、
という感じです。
☆ これは ストライクで じゅうぶん納得できました。

そしてその団欒の姿は 次のご説明によると 必ずしも《抱擁または包容》で
もないかも知れない。

★ 孤独なもの同士が肩寄せ合うという絵 ・・・「同居」ではなく、「庵」
を「並べよう」、という距離感が快適なのでしょう。
☆ まづ単純に感じとしてわたしは 《山里》ではなく 都会のど真ん中は 
どうでしょうと思います。家もそしてコミュニティーセンターなども。


《抱擁・包容》説についてですが:
★ 「幼虫もさなぎも」それ自体として、完結した存在と捉えるか
☆ 《完結した状態と捉える》場合というのは わたしの感覚では 《存在が
包容されている場所》が 《超越的な何ものか》のもとにあるという場合しか
ないのではないか? それなら《ゴール》になると思います。幼虫やさなぎで
もよいと思いますが。

けっきょくおっしゃっていることは 最初の主題で取り上げた《縁側の団欒》
が《孤独でなくなるような孤独のよき完成状態》であるという命題と合わせて
いまの《完結したさなぎ状態》がみちびかれる。のでしょうか。

成虫なら さしづめ《互いに対等に関係しあっているさま》が推し出されると
思うのですが それと同じ状態に成り得るのだ。

やや微妙ですね。


★ 「孤独論」にせよ「縁側論」にせよ、それをネット上の文字上で「論」と
して喋々するにとどまらず、 お互いに「身体」と「情」をともなった生身の
人間として、実践できないものかと考えています。
☆ この点は わいわいえいと氏が いつもわたしに対して言っていて 耳に
タコが出来るほどなんですが このバーチャルな空間であっても けっきょく
実際に対面している場合とほとんど同じであって 《耳タコ》現象という身や
情感の問題につながっていると わたしは 思うんですがねぇ。

お礼日時:2016/04/21 19:56

質問に戻って。



縁側の哲学に於ける“縁側”を緩衝地帯とすると、それは様子見、だね。
初対面ならどんな相手か知ろうと言う。顔見知りなら今日の機嫌は?と言った。
此処を通過してみてから、本心のストリップをするかどうかが決められるんだと思う。
ボクシングならジャブの様なもの。

きっと本題はその後から、の様に思う。

☆ 本題はリングに上がってから可能と成る、のではないでしょうか。
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この回答へのお礼

あぁ そうしますと ぐらす_るーつさんの持論と捉え合わせて考えるに
★ 本題
☆ というものが ふたつに分かれると見るべきでしょうか。

すなわち 
( a ) ふつうに対話の主題について述べる発言であって ただし特に本
心にかかわるような内容の発言を 本題とする場合。

( b ) 議論の問題というよりは そもそも人間の存在のあり方として孤
独が問題となるとき 互いに開かれたよき孤独でいられるその状態を 本
題とする場合。


ぐらすさんの持論としては 《われがわれである孤独の状態にあって互い
に互いのあいだの縁側という場に身をすすめて行き その孤独をなお開か
れたよき状態へと完成する》という本題。

精神のストリップは必ずしも必要ではないという見方であるようです。


でも ( a )の場合には 自己の見解を述べるという問題に関する限りで
縁側は:
★ ボクシングならジャブの様なもの
☆ となりますか? まだ序の口なのでしょうか。


人間の存在とその互いの関係という主題は 互いにおのれの見解を明らか
にするという自由な開かれた対話なる主題とは 分かれて来るでしょうか?


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/21 20:21

つづきです(笑)



>文体》です。その構造です。

>表向きは みなさんに向けて 友情を問い求めつつ その向きを変えてみれば 樹木の茂り池がめぐらされた庭をながめる縁側にみなさんをまねいている。

>といった《からくり》がすでに出来上がっているように感じたものですから。

わたしは「樹々の茂り、池のめぐらされた」というイメージに心地よいものを感じますが、
ぶらじゅろーぬさんはそれになにか違和感を感じられているのでしょうか?

やはり「友情」の成立する要件は「縁側」という「空間」だけでなく、相互の信頼を得るために使われた「時間」の蓄積だと思うのです。縁側という快適な空間が提示されたといっても、やはりそこで過ごす「時間」の長さを抜きにしては、「孤独」はやはり「孤独」のまま。そして縁側で過ごした長い時間の蓄積の後に、はじめて奥へ進むのではないでしょうか?

>すでにデビューの時が満ちて来ているのだけれど なお引っ込み思案なのかどうなのか はにかみ屋を通していらっしゃる。

なんの「デビュー」かわからないのですが、わかる人にだけわかってもらえればいいや、という思いが強いですね。(苦笑)

>さとりというのは:
★ 悩み、迷い、葛藤し、逡巡し、悲しみ・・・
☆ を内にふくみ包みおさめているということだと思います。

そうですか。なにか「迷いのない状態」を「悟る」というのかと思っていましたけれど。

いつまでも「未完」「途上」でいいのかなと思っています。(苦笑)
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この回答へのお礼

《からくり》という言葉は マイナスのイメージでしたね。

じつは わたしも わたし自身がみなさんをわが庭にまねくというカラクリを
むしろ押しつけ気味に けっきょくはつくっているのではないかと思ったとこ
ろから つい使ってしまいました。

ぐらすさんは 意図せずにそういった庭としての懐を見せるかたちで 気軽で
自由なお話へといざなっている恰好ではないかと ぶしつけにも捉えてみまし
た。

でも 孤独と孤独との対話は そういう《いざない》を意識せずともおこなっ
ているのではないか。とも考えます。

議論の主題について何をのべるかとは別にだと思います。


★ ~~~~~~~~~~~~~~
 >さとりというのは:
 ★ 悩み、迷い、葛藤し、逡巡し、悲しみ・・・
 ☆ を内にふくみ包みおさめているということだと思います。

そうですか。なにか「迷いのない状態」を「悟る」というのかと思っていまし
たけれど。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 《悩みや苦しみをおさめている》ということは 首から上をその泥池の中
から突き出しているのでしょうか。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/21 20:42

こんばんは。


今日はビジネスホテルに宿泊中なのでPCが使えません。携帯電話をポチポチしています。短いです。

【一匹狼の会】なんてのは、いつでもどこでも、自然に勝手に出来上がるものであり、常時そこらかしこに存在します。【一匹狼の会】のドアをノックするという2秒で済む動作をする人としない人がいて微々たる違いです。ドングリの背比べです。


甘えることを充分にしてこそ自立できるというのは本当で、もし甘えそびれたのであれば、今からこれからいつでも誰にでも満足できるまで納得できるま甘えたらよいのだと思います。わたしはいつでも裸で甘えますが何か?なぜならそうしないとわたしが生きていられないのですが何か?


ビジネスホテルはわりと快適です。今日は息子の授業参観に行ってきました。彼は普段は、わたしにうるせえウザいと言って わたしから離れようとしていますが、今日は学校の廊下でバックハグをしてくれたのでした。嬉しかったなあ。明日は中3の娘の授業参観に行ってきます。彼女は現在、閉ざしがちですが、彼女がひらくのを、わたしはいつでも待っています。



シャワーしてメシ喰って寝ます。では。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

★ 【一匹狼の会】なんてのは、いつでもどこでも、自然に勝手に出来
上がるものであり、常時そこらかしこに存在します。
☆ 検索してしらべましたが けっきょくそういうジョークなのでしょ
うか?

群れない者が群れる。という。


★ 甘えることを充分にしてこそ自立できるというのは本当で、もし甘
えそびれたのであれば、今からこれからいつでも誰にでも満足できるま
で納得できるま甘えたらよいのだと思います。
☆ これは まったくその通りだと思っています。

子どものときに甘えることができなかったなら 今からでも甘えてみれ
ばよいのだと思います。

これは 重要なことであり 大きな効果があるのだと思っています。

《孤独》の問題にも関係していますよね。

感覚的議論でしたが。

お礼日時:2016/04/21 20:57
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