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次のような思い違いが 目立ちます。なぜか。

A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
――宗教とは 一般に教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力そして
その成果としての思想を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。

人間またはその思考の産物を 神としている。思想は 信じるのではなく
考えるものである。

C. 同じくそのうち特に 教義を信じるという間違い。
――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的
な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間信仰
となってしまう。

自分でこしらえたものを 神としている。神は 人間が出現したという歴
史を超えている。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい
る間違い。
――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の
能力》信仰となる。

自分を神としているに過ぎない。



E. ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いではないか。
 
思想や理性が 偶像となっている。
偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしへ》を取ってみても 
それは それとても神についての仮りの表現としての偶像であるのだから 
その偶像は偶像として―― 扱えばよい。のだけれど しかるに偶像その
ものを 後生大事にする片向きがあるのではないか?

F. 人間には 神本体は 分からない。
神は何ではないか? が分かるだけである。もし 神が何であるかが直截
に分かったなら それはおのれが神だと言っているにひとしい。
いつまでこんなバカげた神論をつづけるのか?

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    あなたが:
    ★ 発信能力
    ☆ があると思っているメディアなどは――全面否定するものではあり
    ませんが―― 一般にけっきょくはそこに醸し出されるクウキによって
    人びとを説得しようとしているに過ぎない。(という側面が 色濃い)。

    クウキは 集団的な心理として(うわべの心として)何となくその気に
    させられたというに過ぎない。

    だから 一人ひとりと直接に対話をおこなうことが ひとつの考え方と
    して いちばんよいのです。

    はやくさとれ!

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/07/10 14:19

A 回答 (23件中21~23件)

>いつまでこんなバカげた神論をつづけるのか?



バカがいるかぎり、としかいいようがないですね。
でも、見方によっては趣味の同好会と言えなくもないですね。
「UFOクラブ」とか、「タイムトラベル研究会」みたいな。
だったら彼らの好きなようにさせておけばいいし。
他人に迷惑を及ぼさなければいいわけだし。

「イワシの頭も信心から」

宗教の本質をついてますね。
心の中に「神」という精神的なより所を持たないと精神崩壊してしまう人もいるでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ バカがいるかぎり、としかいいようがないですね。
☆ それは そのバカに見切りをつけるまでの話です。

人間としてのあたう限りの説明をしてやり その相手が 
そのようなこちらの意志と心とを踏みにじるまでに対話
を閉ざす行為が もう匙を投げてじゅうぶんによいとい
うところまで来たなら 放っておくのがよいはずです。

つまり すでに相手をするということが そのこちら側
の間違いであることをあかしています。

それとも こちら側も バカであり その≪バカがいる
かぎり≫つづくのだというご見解でしょうか?


★ 見方によっては趣味の同好会と言えなくもない
☆ これは 老人ホームの問題として捉えて もう放っ
ておくのがよろしいのでは?





ただし その≪他人に迷惑を及ぼさなければ 彼らの好
きなようにさせておけばいい≫と言う側が 次のような
神観をお持ちでは まだまだ先が思いやられます。

★ ~~~~~~~~~~~~
「イワシの頭も信心から」

宗教の本質をついてますね。
心の中に「神」という精神的なより所を持たないと精神
崩壊してしまう人もいるでしょうね。
~~~~~~~~~~~
☆ このご議論は ≪神≫の問題とまったく何の関係もあ
りません。神とは何かについて 何も考えていません。
強いて言えば 神の信仰とは何の関係もないシュウキョ
ウの問題です。


シュウキョウは 個人の信仰という蝉の抜け殻です。


このように信仰の自殺行為から出たシュウキョウという
ものを持ち出して それが神についての哲学であると言
い ≪バカの同好会を好きにさせる≫と言うんぢゃ いっ
たいどんな人間性を示す思惟の跡がそこにあるのか?



☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~
A. 神は 精神であるという勘違い。
――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神で
あることになる。
~~~~~~~~~~~~
☆ と言ってるぢゃないですか? ≪精神的な拠り所≫は
神ではない。それぢゃ 勝手に神をつくっている。

シュウキョウの悪質性についても趣旨説明しているぢゃな
いですか?

どうして素通りするのですか? ようく目を明けて考えて
みてください。

日本をよくして行きましょう。

お礼日時:2016/07/10 11:17

~~~~~~~~~~~~~~


否定神学(ひていしんがく、ギリシア語 apophatike theologia)とは、キリスト教神学において、神を論ずる際に使われた方法論の一つ。ラテン語では via negativa 否定の道 とも呼ぶ。
概要[編集]
神は人間に思惟しうるいかなる概念にも当てはまらない、すなわち一切の述語を超えたものであるとして、「神は~でない」と否定表現でのみ神を語ろうと試みる。肯定神学とともに、キリスト教神学における二潮流を形作る。神秘主義との関連が強く、またドイツ語圏を中心に哲学へも影響を与えた。
歴史[編集]

エックハルトでは、放下(Gelassenheit)によって「名前無き無」としての神との合一がとかれ、これはドイツ神秘主義に影響を与えた。
ドイツ神秘主義の影響の下にあるクザーヌスにおいては、神は万物の原理であるために、かえって神に作られた万物は原理としての神を完全に理解できないとされ、神の人間に対する本質は「知解されえない」ことにおかれる。この人間の本質的な無知を自覚することが、人間にとって最上の知、「知ある無知」である。


否定神学
https://ja.wikipedia.org/wiki/否定神学
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13世紀・14世紀の重要な哲学者としてはニケフォロス・ブレンミュデスやテオドロス・メトキテスがいる。また、グレゴリオス・パラマスはヘシュカズムとして知られる神秘主義運動を発展させた。ヘシュカズムは神の像の幻視ともいわれるタボスの光の像を達成するための思索的なイイススの祈りを伴う[2]。ヘシュカズム運動こそが、東方キリスト教圏において哲学的な教養を備えた人々を西方へ移動させることになったリフを起こした。この移住が西方におけるルネサンスの出現に決定的な役割を果たした。特に、ヘシュカズムに反対したカラブリアのバルラアムは西方のローマカトリック神学の形成に寄与した。さらに、皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスの周辺でラテン語の文献が体系的にギリシア語に翻訳された[4]。彼の友人であったデメトリオス・キュドネスは外交官として働くためにラテン語を学んだ際にトマス・アクィナスの『対異教徒大全』に出会い、トマス主義に染まることとなった。彼はカンタクゼノスの支持を受けてトマス・アクィナスの『対異教徒大全』および『神学大全』、それにアンセルムスやヒッポのアウグスティヌスの著作をギリシア語に翻訳した[5]。キュドネスは他にも小論文『死を恐れないこと』を著し、キリスト教に全く言及せずにプラトンの術語のみを使って不死性を論じた[6]。こういった「ラティノフロニー」(ラテンびいき)の潮流はパラマスの思想に反対する人々が主な担い手となったが、ネイロス・カバシラスやヨセフォス・ブリュエンニオスのように、パラマス派神学者でトマス主義との調和を模索する者もいた[7]。ビザンティン帝国最後の偉大な哲学者はゲオルギオス・ゲミストス・プレトンで、彼はプラトニズムを復興することで落日期にあった東ローマ帝国を立て直せると考えていた。彼は、古代哲学が西方に伝播する上で重要な人物であった[2]。

ビザンティン哲学
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビザンティン哲学
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イイススの祈りは、繰り返し唱えて用いられる。修道生活の中心にあるともされるが、一般の正教徒にも唱える事が奨められている。イイススの祈りの短縮版である「主、憐れめよ」(ギリシャ語ではキリエ・エレイソン)は、連祷をはじめとして公祈祷・私祈祷の別無く最も用いられる祈りとなっている。イエススの祈りを唱える際に、ある種の呼吸法や体位法といった心身技法が行われるようになり、14世紀のアトスの修道者たちの中で発生した心身技法を伴うイエススの祈りと、それを通して神の光を見ることができるという主張と普及、これを基礎づけるグレゴリオス・パラマスらの文献はヘシュカズム(英語版)(静寂主義[1])と呼ばれる[2]。心身技法は、徹底的内的静寂の実現のために行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イイススの祈り

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修道士は、修道誓願を行い、禁欲的な修道生活を送る人々のことである。西方教会ではさらに修道会に所属し、その規則にしたがうことが求められる。東方教会でも多く修道院に籍をおき、長老や院長・掌院の指導に従う。
起源は3世紀のエジプトにさかのぼる。当時のエジプトでは熱心な男性キリスト教徒たちが世俗を離れて砂漠で孤独な生活を送る習慣が生まれた。彼らは隠遁者などと呼ばれたが、これが修道士の原型となった。聖アントニウスがしばしばこの生活の創始者であるとされる。個人で生活していた隠遁者たちだが、徐々に信心業を集まっておこなうようになっていった。その中からさらに信心業だけでなく全生活を共におこなうようになるグループが生まれていった。ここから修道院の原型ともいうべきものが生まれた。この生活はローマ帝国の東方に広まっていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/修道士


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引用が長い。

そういえばクザーヌスを以前からブラジュロンヌさんは引用していたし、

私もエックハルトは鈴木大拙が言及していたから説教集を読んだことがあったのだった。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ エックハルトでは、放下(Gelassenheit)によって「名前無き無」
としての神との合一がとかれ
☆ くだらないと申さねばなりません。

≪放下によって≫というのは その中身がどうであれ 人間の思惟と行
動によるということです。

人間の何らかの意志行為によって 神が規定されたり神に人間が近づ
いたり・つまりは≪神との合一≫が成ると言われた日にゃあ おてんと
さまは 西から上がらあと言わねばなりません。



≪名前無き無≫などという概念規定が どうして神の説明になるのか?
阿呆かと言わねばなりません。

そんな概念操作で神が分かるというんぢゃあ そこらじゅうにこれが
おれの神論だという命題がうようよ泳いでいることになります。




神論ないし神学〔を考える哲学〕としては このような愚考からきれ
いさっぱり卒業せねばなりません。

どうしてこれらの過去の亡霊に取り憑かれたままでいるのですか?

自分の考えはないのですか?

お礼日時:2016/07/10 10:56

なぜ勘違いし続けるのか?



あなたに発信能力がないからです。本を書くとかテレビに出るとか。
それが出来ないということは説得力の問題では?

あなたが賢く皆が愚かであるなら、あなたは愚かな人達のレベルに合わせて伝える方法を考えるべきです。

馬鹿げた神論を続けたくなければ、ここで質問しなければ良い。
順序が違う。
そう思いませんか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そう思いません。

お礼日時:2016/07/10 10:43

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