プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ジェンダーという言葉の使い方について
「それはジェンダー的考えだ」というのは男女の社会的性役割に固定観念を持っている人へ主に批難する言い方ですよね。

では、「ジェンダーは何でも良い/ジェンダーは自由です」というのはどういう意味でしょうか?

A 回答 (2件)

私は、ジェンダー学を学んだことがありますが、ジェンダーというのは、結局、日本には定着していないのだと思います。

私なりの解釈で説明させていただきます。

だいたい掲示板では、こうした定義を書くと、敬遠されることが多いのですが、あえて書かせていただきます。長文ですから、面倒なら、最後の「アンデルセンのみにくいアヒルの子」のところから読んでください。

>「それはジェンダー的考えだ」というのは男女の社会的性役割に固定観念を持っている人へ主に批難する言い方ですよね。

いいえ。まず、「ジェンダー」というものは何かというところからですが、ジャンルという言葉はご存じですね。物事を分けて整理して、どこに分類するか、という区分けのことです。男も女も、実は、そのようにして分類されるし、されているわけです。

社会学では、「社会的・文化的に作られた性別」と言っていますが、生物学的な男性・女性とは別な、この社会における最も基本的な構成の一つとして存在しているわけです。

WHOでは以下のような定義をしています。
「ジェンダー」とは、既存の社会で、男性・女性に適すると考えられる、社会的に構成された役割、行動様式、活動、属性を示す。
http://www.who.int/gender/whatisgender/en/

ところが、この日本というのは、おそらくは、明治以降だと思いますが、儒教から洋式に替える時に、西欧、特にドイツなどを中心とする男系中心の社会的な構成を作り上げてきたので、男とか女とかいう割り振りよりも、むしろ家父長制を中心として、権利や義務が決められることになってしまったわけです。

男とはこうであるべき、女とはこうあるべき、ということを要求したり求めたりすることを、ジェンダー・オプレッション(ジェンダー抑圧-gender oppression)と呼んだりしています。

英語では、「性」を表現するものに、3つあると言います。
sex,      gender,     sexuality
生物学的性   社会的性   相手を求める性

と、このようにあるのは、個人と社会と恋愛、それぞれが分離・独立している社会だからこそあるのに、日本等では、生物学的性・社会的性・相手を求める性は、同一であろうという推測のもとに成り立っているわけです。日本等では、こうした個人と社会や国家との完全な分離が出来上がっていないからです。

>「ジェンダーは何でも良い/ジェンダーは自由です」
もし、そのような表現があるなら、それは誤解しているか、一部の思想だと思うのです。

特にラディカル・フェミニズムの人たちは、場合によって、そういう言い方をしてきたかもしれませんが、「ジェンダー」そのものは、単に、男性・女性の割り振りだと思います。空港のイミグレーションで、内国人と外国人に分けるようなものだと思います。それ自体に意味はありません。

昔、「ジェンダー・フリー」という言葉が流行りました。1995年第4回世界女性会議に出席した在米の日本人女性学者が、日本の講演の時に大変に怒っていたことを思い出します。
「一体、誰がジェンダー・フリーなどと言ったのだ」と。少なくとも、アメリカの社会では、そのような考え方はないはずです。(その理由は、この文章の最後に出てきます。)

一時期、Wikipediaでも、間違った情報を意図的に書いていた人物がいたようです。少なくとも、英語でジェンダー・フリーなどいう言葉は、私たちが通常聞いているような意味では通じません。
多くは、きちんと、Gender Bias Free (ジェンダーの偏見をなくす)というように使います。

「ジェンダーフリー」というのは、フェミニズムを由来したもので、学校教育を中心に展開され、「男女平等(gender equality)」から、その後、「男女共同参画」という政府の方針にも結びつきました。しかし、一向にうまくいっているようには思えません。英語の得意な方なら、お気づきのように、「平等(Equality)」ということを取り違えているからなのです。男女はバランスではないからです。本来、ジェンダーとは、社会的性役割の固定概念などではありません。そうした性別の上に人や社会が作り出すもの概念的なものです。

女らしさからの解放というのは、主にフェミニズムが作り出した概念であって、それを守り続けてきたのは、男性ではなく、女性自身であるわけです。そして、伝統的文化を維持してきた結果なのだと思います。

・最後に。
アンデルセンの「みにくいアヒルの子」は、とても良い例を挙げています。
自分で白鳥だと決めたわけではありません。他から言われて初めて、自分は今のアヒルの子たちとは違うことに気がつくわけです。私は、この白鳥とかアヒルという分類こそが、「ジェンダー」であるし、そこに多くの人は、安心と安住を得るものであって、決して、それが拘束的、圧力的・従属的なものがあるわけではないと考えています。悪いのは、そこに現実にはない理想論や期待値があるからであって、実際の男と女の差異を本質的に認めないことだと思うのです。

みにくいアヒルの子は、アヒルのままでは幸せにはなれなかったはずで、「僕は、アヒルの子ではない、美しい白鳥だ」と主張したことはないのです。

ジェンダーの概念自体を受け入れない人やジェンダーという概念を理解しない人たちに対して、ジェンダーという言葉を使って非難しても始まりません。

そして「ジェンダーはなんでも良い(ジェンダー・フリー)」という意味の根ざす所は、私は、男女区別のない共産主義社会を手本としているものだと考えています。それは、今の私たちの現在の社会構成とは違った種類の社会だと思います。

果たして、それが良いのか悪いのかは、私には答えが出ませんが、私自身は、常にニュートラルな位置でありたいと思っています。
    • good
    • 5

ジェンダーにとらわれない、もしくはジェンダーとして、どちらでも良いと言う事ではないですか?


意味合いとしては、個人の主義としての発言、もしくは後段は、ジェンダー自体が不要との考えのような気がします。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!