プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

誰にでも訪れる生老病死の四苦。老いや病気で死んでいく人はどう思って死んでいくのだろうか

もっと何か出来たかもと残念や無念を思って死ぬのだろうか?

やっと娑婆から解放されると清々しながら死ぬのだろうか?

生きたかった、死にたくはなかったと 生きてる人に思いを託して死ぬのだろうか?

カントはは何と言って死んだのだろうか「これでよし」か「もうたくさんだ」か

死ぬ人の無念を我々は晴らさなければならないのではないだろうか?

現実はどうだろうか?戦争だけはしちゃ行かんと言ってた年配者が死んでいった

現実はどうだろうか? もっと努力できたのではないだろうか?

A 回答 (8件)

生命の因果律によって生き来たように死んでいくのが必定です。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

死ぬのは進化するため 死なないと生物は進化できない

聖書にも命を捨てるものはそれを得る 永遠の命を得ると書いてあります。

何時までも若いといいですねえ。 DNAの死ぬプログラムはエントロピーの法則とは違うんですよね。

お礼日時:2017/02/07 20:18

60前、えっ?もう死ぬの?


60から90、こんなもんかいのう!
90すぎ、もう充分じゃ!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

昔は「人生五十年」とか言ってたんじゃないでしょうか。

体も頭も若いままなら死にたくないと思いますよ きっと。

お礼日時:2017/02/07 20:19

私は、「無駄なことは、考える必要が無い。

」と思います。

「死ぬとき、何を思うか?」と考えたところで、
導き出した答えが、正しいかどうか、死なないと解りません。

「きっとこう考えるに違いない。」と思ったところで、
実際は、全く違うかも知れません。

検証出来ない事を、考えるのは、時間の無駄だし、ただの妄想です。

それよりも、取りあえず、サボろうが、集中しようが、
一生懸命、生きたらいい、と思います。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

いや 死んでいく人が何と言って死んでいくのかあまり知らないので

どんな辞世の言葉があるのだろうと思ったのです。

その言葉を我々は覚えておくことが必要なのではないでしょうか?

その人の生きた証の一つとして。

お礼日時:2017/02/07 21:34

まったく残念な回答で申し訳ないのですが、


本当に死にかけなら、あれやこれやと
考えることすらできないと思いますよ?



私事ではありますがこの間、抗がん剤やらなんやらを
体にぶち込んできましてちょっとばかり死にかけたんですが、
思考がまったくまとまらない状態でした。
生きた人間の五感を刺激する何事かが起これば、
思考は少なからず影響を受けるのです。


まして死の間際ともなれば、心臓がとまるにせよ、出血にせよ、
死の原因となる何事かが存在しているはずです。
まともな思考は、まず奪われるでしょうね。


そして古代ギリシャの犬儒学派が指摘したように、
人は自分の死を知覚することはできません。
人は、生きているときにのみ、自己を知覚できるのです。


その上で。
まだ生きている我々にできることは、
死を正しく理解することであって、
そこに政治的(あるいは宗教的)な意味を与えてはならないのです。


死後を夢想するのは、あくまで生者のみ。
他人によって代弁され、死に与えられた意味があったとすれば、
それはただ残された者自身の、おぞましい願望の投影に過ぎないのです。
それは死に対する、あるいはかつて生きた生に対する、
まったくの冒涜であると私は思います。


現実で努力をすべし、と説くのであれば、
反論できない死者の口に語らせるのではなく、
自らが生きているうちに行動すれば良いのではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

いや あなたが死にかけて、どう思ったか、何を思っているかが知りたのです。

もし死んでいたら自分の人生として何が言いたかったのか?

それが聞きたいのです。自分のエゴを失うときに エゴ抜きでどう思ったかでもいいですよ。

死にかけて今どう思うかが聞きたいのです。

お礼日時:2017/02/08 14:43

最近は無駄に長生きするので、認知症になって


死ぬ人が多いです。
そういう人は、そんな哲理的なことなど考えません。

また、近年は老人の研究が進みまして
高齢者の精神状態の科学的研究が行われるように
なり、色々なことが判ってきました。

例えば超越的老年です。
90歳、100歳を超えた人は例え寝たきりでも
非常に豊かな精神生活に浸っている人が多い
ことが判りました。

これには研究者もびっくりです。

こんなに長生きさせてもらってありがたい。

そう思いながら死ぬ人が多いのです。


観念的に色々と想像するよりも、実証研究の
方が重要ではないですかね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

Thank you

観念的に研究してる訳ではありません 人間は結局何を願って死んでいくのか

それを知りたいのです。

感謝の気持ちで死ぬのですかねえ そりゃ天寿を全うした人はそう思うかもしれませんね

しかし大概の人は何らかの病死です。

悔いが残ったり、やりたかた事が出来なかったと思う人もいるのではないでしょうか?

お礼日時:2017/02/08 14:50

マラリアで意識不明になって病院にかつぎ


込まれた事があるけど、激しい頭痛で先の
事など考えられなかった。
死んだ方がマシだとしか思えなかった。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

死んだ方がましだと思いましたか。私も時々思います。

病状が悪いのです。そういう人は沢山います。

その時死んでたら今の活動もないわけですから

先生は無念に思ったのではないでしょうか?

理解者はなかなか増えませんから お互いに残念ですねえ^^

お礼日時:2017/02/08 14:54

スパルタ教育の恩師が、がんで闘病中だとは思いませんでした。


トップクラスできつかったから完全に無視していました。
今後も無視すると思います。

病気のがんはともかく

PETの小型化とか低価格化とか
免疫の研究とか

一応、哲学カテで話題にしたりもしたのですけれど
現実的にはまだまだ。


生老病死 四苦八苦


ああ、ブッダよ。


話は変わるけれど
というか質問に戻るけれど



~~~~~~~~~~~~~~~~
チベット死者の書
曖昧さ回避 この項目では、チベット仏教の経典について説明しています。古代エジプトの副葬品については「死者の書 (古代エジプト)」を、その他の用法については「死者の書」をご覧ください。
チベット死者の書(チベットししゃのしょ)は、チベット仏教ニンマ派の経典。
パドマサンバヴァが著し弟子が山中に埋めて隠したものを後代にテルトン・カルマ・リンパが発掘した埋蔵教法(テルマ)『サプチュウ・シト・ゴンパ・ランドル(寂静・憤怒百尊を瞑想することによる自ずからの解脱)(Tibetan:ཟབ་ཆོས་ཞི་ཁྲོ་དགོངས་པ་རང་གྲོལ)』に含まれている「バルド・トェ・ドル・チェンモ(中有において聴聞することによる解脱)(Tibetan:བར་དོ་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ་)」という詞章を指す。ウォルター・エヴァンス=ヴェンツ(en:Walter Evans-Wentz)により”Tibetan Book of the Dead” というタイトルで英訳され世界的なベストセラーとなり、日本でも一般的に『チベット死者の書』として知られている[1]。『サプチュウ・シト・ゴンパ・ランドル』はニンマ派ではマハーヨーガと分類される無上ヨーガタントラの生起次第の修行法体系であるが、この「バルド・トエ・ドル・チェンモ」と呼ばれる部分は、臨終に際してラマによって「枕経」として読まれる実用的な経典でもある。
この他、中有のプロセスを解説したゲルク派の論書『クスムナムシャ』が『ゲルク派版死者の書』として翻訳・出版されている[2]

https://ja.wikipedia.org/wiki/チベット死者の書

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

チベットでもエジプトでもいいけれど、いやよくないけれど
そのうちチベット仏教の勉強とかもするのだろうか。

どうもチベットはいまいち。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

逝ける者よ、逝ける者よ、全く彼岸に逝ける者よ 悟りよ幸あれ!

悟ってから死にたいですねえ。

存在主義をよろしく。

存在する事が目的であり、存在する事が価値であり、存在が意味であり意義であり

みんなで存在する事が正義であり、愛の目的も存在を実現することです。

存在性によって存在は実現します。存在するものの世界だから 存在主義です。

存在を追求してゆけば全てが分かります。

お礼日時:2017/02/08 22:52

これは、私にとっても想像するしかない難しい問題ですが、そもそも、


死んだ後のことがさっぱり分からないとか、考えないということは人間
にとって極めて不自然なことだと考えています。
ですから、人類の英知を集めて解決の方向へ向かうべきです。

知り合いで、癌で亡くなった人の話ですが、痛みも弱気なことも一切表
さず、毅然とした感じで亡くなっていったのです。彼の奥さんが言って
いたことなので間違いないことでしょう。侍を思わせるある意味美談だ
と思います。

ホスピスに長年勤務していた人の書いた本を読んだことがありますが、
美談とはかけ離れたケースが多いようでもあります。

それまでの生き方もあるでしょう。考え方もあるでしょう。

しかし、死のその時にとても厳粛な瞬間があるのかも知れないとも思い
ます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

死ぬ時には気弱になって宗教に頼ったり取り乱したりする人も多いようですが

私も実際には侍の様な死に方は出来ないでしょう。

死ぬ気力がなくなる前に 知己と話して自殺するでしょう

自分は役立たずの人生だったので 人に負担を与えるだけになる前に逝きたいです

厳粛か滑稽かはわかりませんが 存在主義を遺言に書いて死にたいです。

存在として生まれ 人間存在として生き 存在しなくなって死す 存在居士 嗚呼。

お礼日時:2017/02/10 13:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す