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日本語学習者です。

教科書には次の文章が書いてあります。
「江戸時代は藩がありました。藩に大名がいました。大名は自分の藩と江戸に家がありました。そして、藩に一年、江戸に一年、住まなければなりませんでした。」
もし、大名と藩、江戸を現在の言葉に書き換えるのなら
大名ーーー市長
藩ーーー市
江戸ーーー県
に当たるのでしょうか。

よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    もしかしたら、
    大名ーーー県長
    藩ーーー県
    江戸ーーー首都(東京)

      補足日時:2017/04/03 15:57

A 回答 (5件)

まったく違う時代の制度を、現代に当てはめると、理解が進むどころか、誤解を助長するのでやめましょう。



まず、大名とは領地を持っている武士のこと。江戸時代なら一万石以上が大名になりますね。現代と比較しても意味がありません。今は、国>県>市など、法律による行政区が先にあって、それぞれの首長が選挙などで任命され、働く公務員も一般から公募されて誰でもなれますね。ところが、大名は、任命されたわけでなく、大名や周辺の家臣が争って、領地をうばいあったり、他の大名を滅ぼしたりして戦っていた戦国時代ののち、徳川家の勝利により、その時の領地がほぼ、固定化したということなのです。もちろん、次ぐものがいなくてなくなること、合併すること、さまざまな事情で、落下傘のように大名の領地を入れ替えることもありましたが。

藩は、そのときの領地のこと。300ぐらいあるので、今の中から大規模の市ぐらいが平均でしょうか。また、各藩の統治機構そのものも藩と呼ばれることもあり、すこし概念的ですから、市でもなければ、県でもありません。領地の所有権の概念も現代と違うので、対比は、規模の想像としてぐらいしか、意味がありません。

江戸はたんなる地名です。今で言えば東京の中心。他の大名の一歩上に立った統治の仕組みとして、幕府を置いた場所が江戸ということです。江戸が県なわけではありません。首都という考えも、あながち間違えではありませんが、そもそも国をおさめる中央政府という考えもなく、大名の争いに勝利した徳川家が、一歩上に立ち統治ルールを確立し、他の大名を収めた・・・ということなので、やはり首都とは違いますね。

参勤交代は、他の大名が反乱を起こさせないように、人質をとり、財政力を削ぐための、統治上のルールだったわけです。首都に行ったというより、徳川に定められたルールにより、江戸と自分の国を行き来したということです。
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この回答へのお礼

ありがとう

詳しくご回答いただき、ありがとうございます。とても勉強になりました。

お礼日時:2017/04/10 15:58

>もし、大名と藩、江戸を現在の言葉に書き換えるのなら


大名ーーー市長
藩ーーー市
江戸ーーー県
に当たるのでしょうか。

当りません。なぜなら、制度がまったくちがうからです。

江戸時代は武士の時代です。封建主義で藩というのは、領主の土地をいいました。各領主の上にいるのが幕府で、幕府は藩を支配していました。

江戸は幕府がある場所、今の東京ですが、ここに幕府の城「江戸城」があり、日本の各藩を支配していたのです。
各藩はそれぞれ領主がいますので、領主と家来は江戸城の近くに1年間、翌年は自分の領地(自分の藩)に帰って1年間、毎年交互に江戸と領地を行き来していたのです。これを「参勤交代」と呼びます。

この参勤交代には莫大な費用がかかったため、各藩の領主は軍資金をためることが難しくなり、結果として350年江戸時代が続くことになりました。


>もしかしたら、
大名ーーー県長
藩ーーー県
江戸ーーー首都(東京)

江戸は首都で、今の東京ですから合っています。藩を県と解釈するのは間違いではないですが、近代政府(明治政府以降の政府)とは違います。また大名は封建領主で県長(県知事が正しい)は選挙で選ばれるので、同じものではありません。

理解するのに言い換えることもありますが、本質が見えなくなるのでお勧めしません。
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「江戸時代は藩がありました。

藩に大名がいました。大名は自分の藩と江戸に家がありました。そして、藩に一年、江戸に一年、住まなければなりませんでした。」をもう少し正確にいうと、

「江戸時代には、各地に勢力のある大名という領主がおり、それぞれの領地(藩とも言う)を治めることを幕府から認められていました。ただし領地内から収穫される(とみなされる)お米が一万石未満だと大名とは呼ばれません。領地内の政治については、幕府も直接に介入することが出来なかったので、西洋の封建制と似た政治制度でした。その領地内の立法から政治・司法・軍事まで大きな権限と責任を持ちますので、今の市長よりもずっと権限がありましたが、領地内で失政などがあると幕府から領地を取り上げられたり(改易)、領地を替えられることもありました。大名は幕府に反乱を起こすことがないよう、定期的に江戸に出仕(勤務)しなければならなかったので、江戸には幕府から与えられた上屋敷と、自分で建てた下屋敷とがありました。このように江戸時代は戦争が起こらないように、徹底した政策が採られていたため、江戸時代には二百年以上に渡って大きな戦争が起こりませんでした。そのため、1853年にアメリカ海軍東インド艦隊の祝砲が江戸湾に鳴り響いたときの幕府及び江戸市民の驚きは想像を絶するでしょう」
 なお、江戸という地名は江戸時代の初めには今の千代田区とその周辺だけでしたが、後に人口が増え、その範囲が広がりましたが、幕府自身の考えでは東は中川(現在の江戸川・墨田・江東区の境界を流れる旧中川)まで、西は神田上水まで、南は目黒川あたりまで、北は荒川と石神井川下流まで・・・でした。今の東京の大部分は明治後に武蔵や相模から編入されたものです。
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大名ーーー県長


藩ーーー県
江戸ーーー首都(東京)

で良いと思いますが、藩という物は有りませんでした。
日本が明治になって、県と言う行政区が出来ました。
その県と対比する為に明治政府が過去の行政区に藩と言う名前を付けました。

大名ーーー県長(例えば今川さん)
藩という物は無く、今川さん(今川家)の領地、の様な言い方。
江戸ーーー東京の事を昔は江戸と言いました。
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「藩」は市や県よりも独立性が強いので、江戸時代の日本はアメリカのような合衆国だったと


考えた方が良いかも知れません。
つまり「大名→州知事、藩→州、江戸→合衆国首都」といった具合です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうありがとうございます。
とてもわかり易くて為になりました。

お礼日時:2017/04/03 16:23

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