殺人がいけないのは当たり前です。道徳から導かれる当然の答えです。
法律があるからは法律がなかったらいいと言いますが道徳心が心配です。

殺人をひとくくりでいけないと言うのは間違いです。
条件により答えは変わるからです。

戦争はしてもいい殺人と言いますが、単に罰せられないと言うだけです。
殺人をして褒めるのは国だけであり罪のない一般市民を殺すことが
正当化されるわけではありませんし、自分は褒めません。
実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり自殺したりします。

殺人を一言でいけないとしないのは正当防衛など許される殺人があるからです。
しかも自分が心から許す事の出来る殺人になります。
道徳からはいけないとされる殺人を何故心から許せるのかは、
自分を危険にさらしたり悪事を働く者に対しその人を守ろうとする気持ちにならないからです。
死刑も同様の理由で国民が納得する殺人になります。

殺人がいけないのは当たり前ですが、いけない理由が気になると思います。
まず、殺人がいけないのは罪もない人を殺すことに対してです。
逆に、悪に対しては殺してもいい答えが導かれます。
戦隊ヒーローものも、ヒーローが悪を殺して怒る人などいないわけです。

殺したら殺し返されるからと言う理由は、自分中心の考えになります。
道徳とは関係ありません。

道徳でいけない理由は、恐らく命を奪うとはその人の人生を奪うことであり、
他人の人生を脅かしたり狂わせたり奪う権利を持っていない、
それがいけない事だからとなります。

つまり、殺人がいけないのは人の人生を奪う最低な行為だからと言う道徳からくる、
答えではないかと言うことです。

他に納得できる理由があればどうぞ。

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A 回答 (13件中1~10件)

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この回答へのお礼

意味が分からないのでアク禁で通報しときました。

お礼日時:2017/04/18 17:51

「他に納得できる理由があればどうぞ」


⇒書かれていることだけで十分ですよ。

殺人が何故いけない、と聞く人にわざわざ説明してあげる必要はありません。
説明しても分らないからです。
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この回答へのお礼

殺人がいけない事、重い行為だと知らない人はいないと思います。
本当に殺人は自由にしていいと思っているなら、
裁判所に異議を申し立てているはずです。

自分がされるのは嫌だけど他人にはいいなんて考え身勝手にもほどがあります。

お礼日時:2017/04/18 17:48

正当防衛による殺人にとがを感じないのはお前の考え。


ヒーロー戦闘もののTV、映画、物語はTV、映画、物語。これを楽しむ分には構わないが、
現実に当てはめているそこらの馬鹿には怒っている人間はいる。

頭の悪い人間は殺人を犯してはならない。法が代わって罰する。お前も頭が悪い。
当然、頭の悪い人間が裁判官、陪審員になってはいけない。これの現実は私は知らない。
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この回答へのお礼

殺されようとしているのに殺しはよくないからそのまま殺される。
理論だった考えとは言えません。そのまま殺されるが答えのはずありません。

お礼日時:2017/04/18 17:47

#5です。



>この世界にとっての悪とは、
社会秩序を乱し有害な損害を与えるものになります。

たしかにそうですね。
では、お伺いしますが、アメリカの社会秩序を乱し有害な損益を与えているのはイスラム圏勢力であり、イスラム圏の社会秩序を乱し有害な損害を与えているのはアメリカだと思います。(仮の構図として、こうした状況はあるでしょう)
あなたのおっしゃるところの「この世界」とはどちらの世界を指していますか?
つまり、アメリカにとっての悪とイスラム圏勢力にとっての悪とは分けて考えるべきだということになりますか?
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この回答へのお礼

悪い行いが悪になりますから、
イスラムが悪だとすればそこには秩序はないはずです。
アメリカが悪とするからには害となる行いをしていることになります。
敵対する関係であれば争いごとになります。
戦争で決着を付けるのはよくありませんから、何とかしてほしいです。

お礼日時:2017/04/18 17:46

道徳とかモラルといったものがあります。


これは、守らなくても罰せられるわけではありません。
これを守るのが常識的であり、法律に触れるまでOKではありません。
法律は、あまりに逸脱した行為を禁止するためのものです。
道徳やモラルなどは状況や時代・国などで変わるものですから、
限定的な範囲でしか正しくはありません。
これに伴って、当然、善悪などの基準も変わります。
また、個人の判断や都合でこれが変るわけでもありません。
過去や未来、他国のできごとを自分の基準では判断できません。

殺人がいけないのは、今の日本の道徳がそのようになっているからです。
正当防衛や緊急避難も同様です。
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この回答へのお礼

殺人がいけないのは、日本の道徳と言うより個人の道徳です。
どの国でも殺人がいけないという共通認識になっています。
しかも、その度合いも一致しています。
人には必ず共通する感覚、考えがあると言う事です。
道徳がそれではないかと言う事です。
相手に対して向けられる道徳は、必ず自分の立場による答えです。
人は皆同じ感情を持っていることの裏付けです。

お礼日時:2017/04/17 22:15

似たような質問に以前投稿したのですが、以前とは違う言い方で再挑戦してみます。





文字で書かれている事が法のすべてではありません。




法とは、二種類あります。
文字で書かれている法と、文字で書かれていない法です。



文字で書かれている法とは、国連憲章や条約の条文、憲法典や国内の法律など。
文字で書かれていない法とは、国際法や憲法など。



例えば、日本の現行憲法の条文は、文字で書かれている法であり、これを憲法典と呼びます。東大憲法学の用語では形式的憲法と呼びます。文字で書かれていない憲法の事を、憲法と呼び(多くの人は憲法典を憲法と思っているがそれは誤り)、東大憲法学の用語では実質的憲法と呼びます。


国際法も、多くは文字で書かれていない法です。


その文字で書かれていない法の中には、キリスト教価値観の自然法なども含まれ、人類の歴史で培われた人類共通の価値観が含まれています。道徳的な意味で「人を殺してはいけない」という価値観も、文字に書かれていない法に勿論、含まれています。



文字で書かれている事が法のすべてという人は心配です。




現在の南スーダンでは、軍が兵士に給与を支払えないので、その報酬として略奪や強姦、虐殺を認めています。つまり、その支配地域の勢力にとっては、それらの行為が合法なのです。

「文字で書かれている事が法のすべて」と思っている者が指導者になるとこのような惨状になります。

文字で書かれている事が法のすべてではありません。特に、国際法は文字で書かれていない事が主です。一部の民族の虐殺行為は、ジュネーブ人道条約が締結される前から20世紀初頭には文字で書かれていない法としてグローバルスタンダードでした。

例え国内の法律では合法であっても、国際法(文字で書かれていない法)で観た上で、違法であれば、それは許されない事なのです。




以前、もしかしたら「人を殺してはいけない」は教育的に正しいが法律では云々という事をいったのですが、文字で書かれていない法で説明した方が正しく伝わったかもと思いました。あなたの言う道徳は、文字で書かれていない法としても捉えれます。自然法とかはそれですね。

ただ、さすがに「殺されそうな時も殺してはいけない」という道徳は、文字に書かれていない法としても活きていません。





「殺されそうな時も殺してはいけない」という道徳は、人を殺さないという道徳的な側面と、理不尽を要求する不道徳が混在しています。100%例外なく人を殺さない社会が道徳的だ。という道徳は実は、重大な不道徳が孕んでいるのです。
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この回答へのお礼

法は道徳的な部分の説明はあえてしていないと思います。
道徳で説明される部分が文字で書かれていない法と言う事ですね。

殺されそうな時も殺してはいけないと言う道徳はないはずです。
道徳として許される殺人があると言う事です。

自分が危険な目にさらされてまで相手を守る必要はないです。
この時点で守られるべき命ではなくなっています。

お礼日時:2017/04/17 22:03

殺人の、してはいけない(禁止)。

しないほうがよい(非推奨)。したほうがよい(推奨)。させない(抑止)。してもしようがない(無価値)。しなければならない(強制)。したい(願望)ということの区別が無いっぽいね。殺人がいけないのは道徳だから。と言うのは正しい。でも、間に、人の人生を奪う最低な行為だからを挟むと正しくない。道徳は道徳だから正しい。道徳の正しさに理由は無い。生物、宗教、歴史、習慣、社会の話を切り離すたびに論の中身がなくなっていった。そして質問者の道徳の力もなくなっていった。
無理に何かを付け加えるなら、地理的理由があるかも。水源。土地。過ごしやすいところの確保のための殺人。氾濫する川の両岸でのいづれかの川岸が決壊すれば、反対側が助かる場合とか。ただこれは、殺人しなければならない(強制)に分類されちゃうので筋違いだな。
もしも、人間がものすごく美味しかったりしたらって考えてみるとおもしろいね。自殺でなくて自食が流行したりして。爪と髪しかたべない派とか。日焼け跡の剥けた皮が好物とか。吸血派とか。内閣総自食とか。
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この回答へのお礼

何故その道徳があるのかの理由はあるはずです。
何もない所から答えは生まれませんから理由はあります。
道徳とは相手を思う気持ちだと思います。
自分が困る事をされたら嫌だと言う感覚から、
それを相手に当てはめて相手も困る事をされたら嫌だから、
相手の困る事をするのはいけない事と言う答えになります。
嫌だと言う感覚が負の意味を持つため、いけない事だとわかります。

困る事もいい経験になるとしてあえて困らせる人もいますが、
この困らせるはプラスになるとして行うことです。

道徳として正しいは、必ず自分の得た経験、感覚によって得られるものです。
この答えによって相手に対する道徳にすることが出来ます。

つまり、人の人生を奪う最低な行為と言う考えは、
自分の経験、感覚から得た答えであり、
だから相手も同じだろうと言う考えから来るものになります。

お礼日時:2017/04/17 22:02

殺人をして褒めるのは国だけであり


  ↑
一般市民も英雄として褒め称えていますよ。
命を賭けて祖国を守り、一般国民を守ったのですから
英雄です。



実際兵士は、殺した分傷つきトラウマになり
自殺したりします。
  ↑
PTSDなどが発症するのは20%ぐらいです。
つまり、大部分は傷つかないのです。



殺人がいけないのは人の人生を奪う最低な行為だから
と言う道徳からくる 答えではないかと言うことです。
  ↑
1,刑事法の基底には道徳があります。
 道徳は強制力を持ちません。
 道徳に強制力を持たせたのが刑事法です。
 
2,人生を奪うのが理由なら、御指摘のような正当防衛や
 死刑はどうして正当性を持つのですか。
 その説明が欠落しています。
 
3,道徳からくるのであれば、その道徳はどこから
 来たのですか。
 その考察がほしいです。




他に納得できる理由があればどうぞ。
   ↑
人間は社会的動物です。
社会で育たなかった人間は二足歩行すらできません。

この社会を維持するために道徳があり、法が
あるのです。

つまり、道徳も法も、人間が社会の維持のために
創りだしたルールです。

正当防衛殺人が許されるのは、社会の維持に必要
だからです。
死刑もしかりです。
戦争も同じです。
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この回答へのお礼

攻めてくる兵士を倒したのであれば称えるかも知れませんが、
一般人を巻き添えにしたのなら称えないと思います。

死刑や正当防衛が成立するのは、
人として社会としてその命が否定される行いをしたからになります。

その道徳はどこから来たのかは、
全ての人が生まれながらに持っている感情、考え、答えでしょうか。
つまり、悪にも同じ感覚がある。そのうえで悪事を行う選択をしている。
もし、悪と正義が持つ感覚に一貫性がないとすれば、
悪が、人の困る悪さをしていたのに、
周りから見たら実はその人が喜ぶ良い行いだったとなりかねません。

宗教などの理屈をつけて行う行動はだいたい正当化が目的です。
自分たちの組織を拡大させるために自分達の立場で並べた言葉であり、
道徳と呼べるものではありません。

お礼日時:2017/04/17 22:00

「殺人はいけない」


1.
瑣末的理由と本源的理由があるような気がしますね。
まず本源的理由を端的に申し上げるなら、

【 人という生物種の可能性を否定してしまう行為だから (ア)】

ということになるのではないか、と思います。
むろん、このように規定した場合、「人という生物種の可能性を否定してしまう行為」でなければ殺人は容認されて然るべきである、ということになるのは当然のことです。
では、「人という生物種の可能性を否定してしまわない殺人」とはどういったものか、ということになるわけですが、実は、このように分類できるような殺人というものはありません。以下に、その根拠を述べます。
まず根本に、

『彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )』

という真理的命題があるはずではなかろうか、と私は思います(これには、人間が想像力を付与された生き物であるという事実も関連してくるわけですが)。
他人を殺すという行為は、自らも含めた人間という生物が、殺される可能性を常に持つ個体であることを改めて(無意識的にせよ)認識させることにならざるを得ない、ということ。
ここで大事なのは、この認識において「理由の如何を問わず」という論理が成立している点です。
我々は言ってみれば無の状態から、生きるべく(あるいは、生かされるべく)してこの世に生を受けたわけですが、上のような認識を余儀なくされることから、殺人というのは、その生への可能性を否定する行為になってしまうことは明らか。
この意味で、「人という生物種の可能性を否定してしまわない殺人」というものは存在し得ない。
よって、「人という生物種の可能性を否定してしまう行為だから」というのは、「殺人はいけない」本源的理由として証明されることになると思います。

2.
とはいっても、こうした宇宙の摂理に基づく真理的命題だけで、感情を併せ持つ人間が常に納得できるわけでないことも、また事実と言えます。
そこで登場するのが法律。
法律の本旨は「理由なく人を殺せば罰を与えるよ」です。
つまり法律は、人間は自分が不利に(損に)なるようなことをするはずがない、と考える人たちによって作られた。また、ある側面で、それは正しい認識でしょう。
理由なく殺されるのは誰もいやですから、こうした社会契約としての法律が受け入れられる。そして、罰を与えられるのは悪いことをしたからに決まってるのであり、悪いことはしてはいけないのだから殺人もいけない、といった単純な共通認識が醸成される。
この場合、社会契約としての法律によって「殺人はいけない」という論理が成立しているわけなので、「なぜ、殺人はいけない(と私達は規制されている)の?」という質問に対しては、

【法律があるから(法的制裁を受けるから)(イ)】

と答えざるを得ない。
これが、「殺人はいけない」の瑣末的理由です。この理由の場合、法律に反しなければ殺人は(ある程度)容認される行為であるという論理が成立し、それは、死刑や戦争などでも証明されているでしょう。

3.
さて、この問題を考える場合、もうひとつ留意したいのは、
「殺してはいけないという感覚が芽生えるのは、なぜか?」
という点についての考察ではないか、と思います。
おっしゃるような兵士の戦場トラウマ、あるいは死刑執行のためのボタンが3個必要な理由などを考えれば、そうした感覚が人間に備わっていることは明らかでしょう。
この生来的感覚に反してまで行なわれるのが殺人ですから、それを肯定するにせよ否定するにせよ、この感覚が付与されている理由について考えることは無駄ではない、と思います。
これは、少し前にあるスレで回答した内容でもあるのですが、「殺してはいけないという感覚が芽生える」のは、「自分が殺されたら嫌だろうな」という想像力が働くからで、つまり、相手のことを自分のことに置き換えて想像する能力があるから、ではないかと思います。
哺乳類⇒鳥類⇒魚類などの順で、こうした想像力が減衰するのは容易に想像がつくでしょう。人間に身近な関係(関連)性を持つ生き物には想像力が働きやすいので殺すことに抵抗を覚える確率が高くなる。
遺伝子一本の違いしかないと言われる猿を殺すとなれば、平気で蚊やミミズを殺せるような人でも躊躇せざるを得ない。これすべて想像力のなせる業と言えると思います。
つまり、人間は、「殺したくない」という感覚を本来備えた生き物であるわけです。
しかし、こうした想像力を押さえつけてまで殺人を肯定する理由が正当化されることがあるのはご存知のとおり。
その理由に本当に正当性が、あるいは普遍性があるのだろうか・・・といった点について、我々は改めて考えてみる必要がありそうな気がします。
ひとつ申し上げるなら、たとえばおっしゃるところの、
>逆に、悪に対しては殺してもいい答えが導かれます。

ということに関して、果たして「悪」とは何でしょうか?
アメリカにとっての悪は I S にとっての正義であり、I S にとっての悪はアメリカにとっての正義でしょう。
あるひとつの事柄について、それぞれの立場によって「悪」の概念・中身が変わってしまう。こうした曖昧性を放置したまま、「殺してもいい」と規定することが果たして妥当であろうか・・・といった懸念も生じるように思いますね。

4.
人間には(あくまで本来的にはですが)、「殺したくない」という生来的感覚が備わっているはずですから、これに忠実であることが、結局は安寧につながるように思うわけです。
それでも殺人を正当化したくなったら、1でお示ししたところの、
『彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )』
という命題が真理であることを思い起こしてみていただきたい。
これを単なるきれいごとではなく、あくまで真理として受け止めることができれば、殺人に対する認識が若干なりとも変わるような気がします。
なぜ真理と言えるのか、という根拠についても以下に付言させていただき投稿を終えます。
いずれにせよ、なかなか難しい問題ですが、下記でお示しするところの [ 人類の一員としての我 ] と [ 自我としてのこの我 ] とのせめぎあいが、人類の宿命だからなのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより誕生したのかもしれない。
しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠に不可知だろうと思います。
むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦(超弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦は何からできているのか、ということになるでしょう。
つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。よって、

「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。この場合、

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

よって、

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
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この回答へのお礼

悪に対しては有益な可能性を否定できると思います。
有害であることによって不利益をもたらすため、
その命を否定できます。

法律が抑止力に成っている事はあると思いますが、
したら損するよと言う事であり、
してはいけないに対する回答ではありません。
いけない事だから罰を与えるのであって、
いけない理由があると言う事です。

自分が殺されたら嫌だと言う理由は、
したら損するかもであり、
してはいけないの理由ではありません。
損しない状況を作りその心配をなくしたとしても、
してはいけないと言う感覚は残ります。

この世界にとっての悪とは、
社会秩序を乱し有害な損害を与えるものになります。
何とかは偉大なり正義なりなんてのは普通は言いません。
心にないことだからこそあえて主張するわけです。
宗教も同じで、これが人の心理と言うものです。

誰が誰であったとしても、悪は許されないものであり
悪事は許されないとなります。
悪をとるか正義をとるかと言われれば正義をとります。
つまり、犠牲になるのは悪です。
つまらない理由で悪を野放しにすれば結果それ以上の損をします。

お礼日時:2017/04/17 21:59

宗教どうとく は切り離せない物


仏教でも道徳の語を借用して正法を道とし、それを保持するのを徳とする(悟りの本質)。中世末期のヨーロッパに栄えた教訓的宗教劇を道徳劇ともいう。作者は聖職者が多い。
生きていく上の正しい導き
要するに宗教が道徳を作り上げた物です。
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この回答へのお礼

宗教的理屈なしに人は生まれながらに道徳を持っています。
基本的な道徳は誰でも持っています。
これをしたら相手は困るだろうな、
これをしたら相手は喜ぶだろうな、
これをしたら相手は怒るだろうな、
これをしたら相手は悲しむだろうな。
宗教なしに持つ感覚です。

この中でしてはいけないのは、
困る、怒る、悲しむです。
していいのは喜ぶです。

お礼日時:2017/04/17 21:56

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