痔になりやすい生活習慣とは?

法相宗の有・空・中とは何ですか?

A 回答 (6件)

慈蘊『法相髄脳』の復原と解釈



東洋大学大学院仏教学専攻博士後期課程二年 師 茂樹
一 はじめに

一 『法相髄脳』

上代日本の唯識学派、所謂法相宗については、鎮護国家を担う国家仏教のひとつとして歴史的な側面からの研究が多く、その思想については、中国からの輸入仏教に留まるものとして不当に軽視されてきたように思う。著作が多く残っている善珠や護命、あるいは最澄との論争で有名な徳一等を除いては、文献単位での思想的な研究が疎かになっていると言わざるを得ない。

本論でとりあげる『法相髄脳』(以下『髄脳』)は、そのタイトルからも「法相宗の核心の問題について記したもの1」として注目されるのであるが、奥書からも、その重要性が推測される。

以上文。延暦廿二年付遣唐学生霊船闍梨渡於大唐 本書ハ六枚半書。本文許今私略。後引文可書。 保元元年秋九月日雇同法学生令写了。同月六日巳刻許以愚眼一交了。 興福寺五師大法師蔵俊 沙門覚憲伝之 (鈴木学術財団版『大日本仏教全書』巻三一・古宗部二・一三頁上~中)

まず最初の一行目にある「遣唐学生霊船闍梨に付して大唐に渡す」という一文から、佐伯良謙氏が指摘するとおり「平安初期より中期にかけて、各種の唐決なるものがあって、何れも不審の解決を彼土に求めらるゝに徴するに、本書亦その類であらう2」ことが推測され、当時の法相宗が抱えていた問題点を知る上で重要な意味を持っていると考えられる。また、二行目以降の蔵俊・覚憲によるコメントからもわかるように、もともとは六枚半あったという『髄脳』本文が、現存するものでは大幅に省略されている。この省略の理由を、富貴原章信氏は「後世写伝の便宜のため1」とされ、佐伯良謙氏は「南都古徳の間に相伝の秘書とせられた2」ためと考えられているが、法相宗が密教化していく中世以降において、本書が奥義や秘伝に類するものとして伝承され、重視され続けたことは間違いないだろうと思う。したがって、日本法相宗思想史上の本書の意義は、これまでの評価に比して非常に高いのではないだろうか3。

二 作者について

本書の作者慈蘊についてはほとんどわかっていないが、本書の署名に「興福寺沙門慈蘊撮略」とあることから、慈蘊が興福寺に所属していたことが、また、先に引用した奥書に「延暦廿二年〔=八〇三年〕」とあることから、それ以前に慈蘊が本書を著したことわかる。そのほかにも、最澄『顕戒論縁起』巻上所収の「賜向唐求法訳語僧義真公験一首」(延暦二十四年〔=八〇五年〕九月十六日付)に「又就興福寺伝灯住位僧慈蘊。学法相」(伝教大師全集巻一・二八九頁)とあることから、義真が得度した延暦二十一年〔=八〇二年〕頃にはすでに「興福寺伝灯住位」として活躍していたことがわかるし、また仁忠『叡山大師伝』には、「詔道証。守尊。修円。勤操。慈蘊。慈完等法師。於野寺天台院。令受学披閲新写天台法門矣」(伝教大師全集巻五附録・二一頁)とあるが、これは「賜向唐求法最澄伝法公験一首」(延暦二十四年〔=八〇五年〕九月十六日付)に「即詔有司。令写法華維摩等経疏七通。選三論法相学生聡悟者六人。更相講論」(伝教大師全集巻一・二八五頁)とあることから考えると、慈蘊が法相宗を代表する「聡悟者」として、天台法門を学ぶよう命じられていたことがわかる。

これ以上の史料を管見では発見できなかったため、生没年等はわからないが、右の考察のとおり、少なくとも八〇二年から八〇五年のあいだに活躍していたことは間違いないだろうから、八世紀後半から九世紀前半の人であったことが推測される。

二 引用文の復原

現存する『髄脳』の本文は、前述の通り、中略された引用文より構成されている。ここではまず、『髄脳』本文(鈴木学術財団版『大日本仏教全書』巻三一・古宗部二・一三頁上)をあげて①~⑩とし、それに続けて、省略されているであろう引用箇所をあげることで復原とする。引用①、②は共に二箇所からの引用であるため、便宜上それぞれをa、bとした。

復原した引用文においては、適宜改行を施し、『髄脳』に現れている部分を傍線で示した。また、引用には「」を付し、文献名に対しては『』を付した。

① 今文者。如解深密経第一巻○非諸諍論安定処所 以上 又云。勝義生等。信解修学遍計所執在○今言非空非有中道教者。第三時也。
a.述今文者。如『解深密経』第一巻・『瑜伽』決択第七十六。世尊広為勝義生菩薩。依遍計所執体相無故。説相無自性性。依依他起上無遍計所執自然生故。説生無自性性。及即依此説無遍計所執一分勝義無自性性。依円成実上無遍計所執故。又説一分勝義無自性性。説三種無性皆依遍計所執性已。勝義生菩薩深生領解。広説世間毘湿縛薬・雑采画地・熟酥・虚空諸譬喩已。世尊讃歎善解所説「勝義生菩薩復白仏言。世尊初於一時。在婆羅泥斯仙人堕処施鹿林中。唯為発趣声聞乗者。以四諦相転正法輪。雖是甚奇甚為希有。一切世間諸天人等。先無有能如法転者。而於彼時所転法輪。有上有容是未了義。是諸諍論安足処所。世尊在昔第二時中。唯為発趣修大乗者。依一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃。以隠密相転正法輪。雖更甚奇甚為希有。而於彼時所転法輪。亦是有上有所容受。猶未了義。是諸諍論安足処所。世尊於今第三時中。普為発趣一切乗者。依一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性。以顕了相転正法輪。第一甚奇最為希有。于今。世尊所転法輪。無上無容是真了義。非諸諍論安足処所」。
(今文を述さば、『解深密経』第一巻・『瑜伽』決択第七十六の如し。世尊広く勝義生菩薩の為に、遍計所執の体相の無なるが故に、相無自性性を説き、依他起性の上に遍計所執の自然に生ずること無きに依るが故に、生無自性性を説き、及び即ち此の説に依りて遍計所執無き一分の勝義無自性性を説き、円成実の上に遍計所執無きに依るが故に、又一分の勝義無自性性を説く。三種の無性が皆遍計所執性に依ることを説き已る。勝義生菩薩深く領解を生じ、広く世間の毘湿縛薬・雑采画地・熟酥・虚空の諸の譬喩を説き已る。世尊は善解所説を讃歎す。勝義生菩薩復た仏に白して言う。世尊は初め一時に於て、婆羅泥斯仙人堕処施鹿林中に在りて、唯だ声聞乗を発趣する者の為、四諦相を以て正法輪を転ず。是れ甚奇にして甚だ希有なりと為し、一切世間諸天人等の先に能く如法に転ずる者有ること無しと雖も、而も彼の時の所転法輪に於て、上有り容有り是れ未だ了義ならず、是れ諸の諍論の安足する処所なり。世尊は昔第二時中に在りて、唯だ大乗を修せんと発趣する者の為に、一切法が皆自性無く生ずること無く滅すること無く本来寂静にして自性涅槃なるに依りて、隠密相を以て正法輪を転ず。更に甚奇にして甚だ希有なりと為し、而も彼の時の所転法輪に於て、亦是れ上有り容受する所有り、猶お未了義にして、是れ諸の諍論の安足する処所なり。世尊今第三時中に於て。普く一切乗を発趣する者の為に、一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性に依りて、顕了相を以て正法輪を転ず。第一に甚奇にして最も希有なりと為す。今、世尊の転ずる所の法輪は、上無く容無く是れ真の了義にして、諸の諍論の安足する処所に非ず。)
基『大乗法苑義林章』巻一・総料簡章(大正四五、二四八b~c)

前半は『解深密経』巻二(「第一巻」というのは誤り)無自性相品及び『瑜伽師地論』巻七六・摂決択分中菩薩地之五の要約。「」内は同じく『解深密経』巻二(大正十六・六九七a~b)及び『瑜伽師地論』巻七六(大正三〇・七二二c~七二三a)に相当。

b.勝義生等信解修学。遍計所執無。知法我倶遣。依他円成有。照真俗双存。無無所無所以言無。有有所有所以言有。言有而有亦可言無。遍計所執真俗無故。言無而無亦可言有。当情我法二種現故。令除所執我法成無。離執寄詮真俗称有。妄詮我法非無非不無。当情似有。拠体無故。妄詮真俗非有非不有。非称妄情。体非無故。我法無故倶是執皆遣。真俗有故諸離執皆存。由此応言。迷情四句四句皆非。悟情四句四句皆是。説境我法空破初執有。説心真俗有破次執空。諸偏見者初聞説有。便即快心於空起謗。後聞説空亦復協意便謗於有。今言非空非有中道教者第三時也。
(勝義生等信解し修学し、遍計所執は無なれば、法我倶に遣ることを知り、依他円成は有なれば、真俗双存すと照らす。無は無する所無く、所以に無と言い、有は有する所有あり、所以に有と言う。有と言いても有は亦無と言うべし、遍計所執は真俗において無なるが故に。無と言いても無は亦有と言うべし、情に当りては我法の二種が現ずる故に。所執の我法を除かしむれば無を成じ、執を離れ詮に寄れば真俗は有と称す。妄詮の我法は無に非ず無ならざるに非ず、情に当れば有に似て、体に拠れば無なるが故に。妄詮の真俗は有に非ず有ならざるに非ず、妄情に称うに非ず、体は無に非ざるが故なり。我法は無なるが故に倶に是れ執なれば皆遣る。真俗は有なるが故に諸の執を離れたるは皆存す。此に由りて応に言うべし、迷情の四句は四句皆非にして、悟情の四句は四句皆是なりと。境の我法は空なりと説きて初に有に執するを破し、心の真俗は有なりと説きて次に空に執するを破す。諸の偏見の者は初に有を説くを聞きて、便即ち心を快くして空に於て謗を起こす。後に空を説くを聞きて亦復意に協いて便ち有を謗る。今非空非有中道教と言うは第三時なり。)

基『大乗法苑義林章』巻一・総料簡章(大正四五・二四九a~b)
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ありがとうございます

唯識はまだ勉強してません

お礼日時:2017/06/09 20:16

駐車場有り・空室・中部屋

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お礼日時:2017/06/09 20:15

すまん。

順番が分からんようになったわ
( ゚Д゚)y─┛~~スパーッ!
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ありがとうございます

お礼日時:2017/06/09 20:15

③ 二十唯識疏上巻云。

依清辨等破有為空。○故今所説於理無違。
依清辨等。破有為空。「真性有為空。縁生故。如幻」。彼似比量。非真比量。若我真性。離心言故。有為非空。若汝真性。非極成有。唯是空故。故今所説。於理無違。
(清辨等に依りて、有為の空を破す。「真性に有為は空なり、縁生なるが故に、幻の如し」。彼は似比量にして、真の比量に非ず。若し我の真性ならば、心言を離るるが故に、有為は非空なり。若し汝の真性ならば、有を極成するには非ず、唯だ是れ空なるが故に。故に今の所説は、理に於て違すること無し。)
基『唯識二十論述記』巻上(大正四三・九八三c)

引用「」内は、清辨『大乗掌珍論』巻上冒頭の比量(大正三〇・二六八b)の取意。
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唯識なんだ

お礼日時:2017/06/09 20:15

b.彰宗旨。

略有二説。
一依清辨朋輔龍猛。『般若経』意説諸法空。雖一切法皆不可言。由性空無。故不可説為空為有。且如有為・無為二法。依世俗諦差別体有。依勝義諦性相皆空。故説頌言「真性有為空。如幻縁生故。無為無有実。不起似空花」。此真性言自勝義諦。依勝義諦諸法空故。彼宗世俗皆性非空。故龍猛等説世俗有。経説唯識三性等者。皆依世俗非勝義門。世俗諦中識心最勝。故言唯識非無境等。如言王来非無臣佐。此師宗意真俗空有。如眼有翳見有空華。眼翳若除空華遂滅。真空俗有其理定然。雖大乗宗然非此意。
二天親等輔大慈尊。『深密』等経説宗意者。依真俗諦説一切法有空不空。世俗諦理遍計所執空。有為無為有故。勝義諦中雖一切法体或有無。由言不及非空非有。非由体空名不可説。『成唯識』言「依勝義諦心言絶故」。非空非有。又引慈氏所説頌言「虚妄分別有。於此二都無。此中唯有空。於彼亦有此。故説一切法。非空非不空。有無及有故。是即契中道」。此中応説雖依勝義一切法体性不可言。而寄言詮説為空有。非勝義諦唯一真如。真諦四重論所説故。由斯唯識三性理成。我法境空。真俗識有。非空非有中道義立。良以所明説一切法非空非有中道之義。以為宗也。
(宗旨を彰すに、略して二説有り。
一には清辨にして龍猛に朋輔するに依る。『般若経』の意に諸法の空を説き、一切法は皆不可言なりと雖も、性の空無なるに由るが故に空と為すとも有と為すとも説くべからず。且つ有為・無為二法は、世俗諦に依らば差別の体有り、勝義諦に依らば性相皆空なるが如し。故に頌を説きて言わく「真性に有為は空なり、幻の如く縁生なるが故に。無為は実有ること無し、起らざるがゆえに空花に似たり」。此の真性とは勝義諦に自ることなり。勝義諦に依らば諸法は空なるが故に。彼の宗の世俗は皆性空に非ざるが故に龍猛等は世俗の有を説く。経に唯識三性等を説くは、皆世俗に依りて勝義門には非ず。王来たりても臣の佐けを無くすに非ずと言うが如く、此の師の宗の意は真と俗とにおいて空と有となり。眼に翳ありて空華有りと見るが如し。眼翳若し除かば空華遂に滅す。真は空にして俗は有なりという其の理は定んで然り。大乗宗なりと雖も然るに此意に非ず。
二には天親等にして大慈尊に輔す。『深密』等経に説く宗意とは、真俗諦に依りて一切法空不空有りと説き、世俗諦の理には遍計所執は空なり。有為無為は有なるが故に。勝義諦中には一切法の体は或は有無なりと雖も、言の及ばざるに由りて非空非有なり。体の空なるに由りて不可説と名づくるには非ず。『成唯識』に言わく「勝義諦中には心言絶するが故に」、非空非有なり。又慈氏所説の頌に言わく「虚妄分別は有なり。此に於て二は都べて無なり。此の中唯だ空のみ有り。彼に於て亦此有り。故に一切法は、非空非不空なりと説く。有と無と及び有との故に、是れ即ち中道に契う」と。此れ即ち三性唯識を建立す。我法の境は空にして、真俗の識は有なり。空に非ず有に非ざる中道義立す。即ち明かす所の一切法非空非有なりと説く中道之義を以て、以て宗と為すなり。)
基『大乗阿毘達磨雑集論述記』巻一(卍続七四・六一〇a~b)

引用は同右。
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お礼日時:2017/06/09 20:15

② 又列自宗中。

復分為二。初列辺主。○中道之義以為宗也。対法抄第一云。彰宗旨。略有二説。一依清辨朋輔龍猛。○中道之義以為宗也。
a.列自宗中復分為二。初列辺主後列中主。 列辺主者。謂清辨等朋輔龍猛。『般若経』意説諸法空。雖一切法皆不可言。由性空無。故不可説為空為有。乃至有為・無為二法。約勝義諦体雖是空。世俗可有。故説頌言「真性有為空。如幻縁生故。無為無有実。不起似空花」。乃至不立三性唯識。此由所説勝義諦中皆唯空故。名為辺主。
列中主者。謂天親等輔従慈氏。『深密』等経。依真俗諦説一切法有空不空。世俗諦理遍計所執情有理無。有為無為理有情無。勝義諦中雖一切法体或有或無。由言不及非空非有。非由体空名不可説。『成唯識』説「勝義諦中心言絶故」。非空非有。寄言詮者故引慈氏所説頌言「虚妄分別有。於此二都無。此中唯有空。於彼亦有此。故説一切法。非空非不空。有無及有故。是即契中道」。此即建立三性唯識。我法境空。真俗識有。非空非有中道義立。即以所明説一切法非空非有中道之義。以為宗也。
(自宗を列する中、復分って二と為す。初に辺主を列し後に中主を列す。
辺主を列せば、謂く清辨等にして龍猛に朋輔す。『般若経』の意に諸法の空を説き、一切法は皆不可言なりと雖も、性の空無なるに由るが故に空と為すとも有と為すとも説くべからず。乃至有為・無為の二法は、勝義諦に約せば体是れ空なりと雖も、世俗には有なるべし。故に頌を説きて言わく「真性に有為は空なり、幻の如く縁生なるが故に。無為は実有ること無し、起らざるがゆえに空花に似たり」と。乃至三性唯識を立てず。此れ所説の勝義諦中には皆唯空なりというに由るが故に、名づけて辺主と為す。
中主を列せば、謂く天親等にして慈氏に輔従す。『深密』等経に、真俗諦に依りて一切法空不空有りと説く。世俗諦の理には遍計所執は情には有にして理には無、有為無為は理には有にして情には無なり。勝義諦中には一切法の体は或は有或は無なりと雖も、言の及ばざるに由りて非空非有なり。体の空なるに由りて不可説と名づくるには非ず。『成唯識』に説く「勝義諦中には心言絶するが故に」、非空非有なり。言詮に寄るとは、故に慈氏所説の頌を引いて言わく「虚妄分別は有なり。此に於て二は都べて無なり。此の中唯だ空のみ有り。彼に於て亦此有り。故に一切法は、非空非不空なりと説く。有と無と及び有との故に、是れ即ち中道に契う」と。此れ即ち三性唯識を建立す。我法の境は空にして、真俗の識は有なり。空に非ず有に非ざる中道義立す。即ち明かす所の一切法非空非有なりと説く中道之義を以て、以て宗と為すなり。)
基『大乗法苑義林章』巻一・総料簡章(大正四五・二五〇c~二五一a)

最初の引用(「真性有為空…」)は、清辨『大乗掌珍論』巻上冒頭の比量(大正三〇・二六八b)。次の引用(「勝義諦中…」)は『成唯識論』巻七(新導本・三一四頁、大正三一・三八c)。最後の引用(「虚妄分別有…」)は、『辯中辺論頌』辯相品第一(大正三一・四七七c、引用④参照)。
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お礼日時:2017/06/09 20:16

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