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昭和の商店街は、活気があった?

2017年よりも1980年の方が豊かで文化的な生活が出来ていたのでしょうか?

となると?

どんどん、日本人は貧しくなっていっているのでは?

IT化などによって生産効率が急上昇してきたのに、何故、街に活気が無くなってしまったのでしょうか?

タックスヘイブンのせい?大企業の内部留保?上級国民のお金吸い上げ?

確かに、昭和の演歌などは何というか、味わい深い感じがするし、生演奏で豪華な感じがします。
演歌はちょっと聴いたくらいですが。

商店街は消えて、デパートやショッピングモールに変わったのですか?



267 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ db2f-kOr2)[] 投稿日:2017/06/09(金) 10:22:14.09 ID:m0e1ly2D0 [1/2]
昭和の商店街は、活気があった
こういうワクワクしたイベントを、不景気になった今ではもうやれなくなってきているだろ
http://kyoto-senbon.or.jp/history/imamukashi/ima …
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A 回答 (7件)

1980年代 確かによかった


若い奴等に夢や希望があった

確かに今 豊かさとか文化とかは進んでいる
しかし今の若者 死んでる
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 19:01

>昭和の商店街は、活気があった?



ご質問の後半でご指摘の通り、スーパーマーケットすら少なかったので、(一部の「御用聞き」を除けば)商店街に出向くしか、日用品を買う手段がなく、また、親の稼業を継ぐ習慣も根強かったので、必然的に活気がありました。今も活気のある商店街はたくさんありますけどね。

>2017年よりも1980年の方が豊かで文化的な生活が出来ていたのでしょうか?
>となると?
>どんどん、日本人は貧しくなっていっているのでは?

何をもって「豊か」「文化的」「貧しく」とするかによるので、一概には言えません。ちなみに、思い出というものは美しくなりがちですが、実際には、1970年代などは大気汚染が激しく、路上も川も汚れていましたし、1980年の段階では全般的に今に比べて不潔でしたし、一方で「緑化」という概念も今に比べて希薄でした。とはいえ、都会の貧しい家にも土の庭がわりとあったので、わざわざ緑化を意識する機会があまりなかったのです。

>IT化などによって生産効率が急上昇してきたのに、何故、街に活気が無くなってしまったのでしょうか?

パソコン上ですべてが済むなら街の活気は要らないので、↑ここは矛盾はしません。

>タックスヘイブンのせい?大企業の内部留保?上級国民のお金吸い上げ?

”桶屋が儲かる”的な遠因とはなっているかもしれません。実店舗は建物代や税金が高いわりに、商売は大規模商業施設に奪われがちです。IT化で、資金のない過疎地の若者が商売できるようになったのはいいことですが、その分、実店舗が品薄になり、客はせっかく出向いても取り寄せに。だったら、ネットでクーポン使って届けてもらったほうが、客にとってはお得で便利。

さらには、ネットを含む各種情報が発達したので、家に居ながらにして、何をどうしたら求めるものが手に入るかがわかってしまう。そして必然的に、商売上手な大手に客が偏る。

また、かつては都市部でも地域で代々暮らすのが一般的だったので、商店街に行けば「お宅んとこは、爺さんがあの性格だし、もうすぐお孫さんが生まれたら、台所のあそこで、こんなものが必要だね」みたいなアドバイスをもらえましたが、核家族化が進み、商店街もバイトだらけの今は、そうはならない。

すると商店の個人事業主の経験や専門知識は減り、商店の付加価値がなくなり、代替わりに伴って廃業する。客にとっては、小規模小売店という選択肢がますますなくなり、大手に偏る。ちなみに、デパートも廃れています。映画館やユニクロが入っていませんしね。

でも今でも、努力を続けて、知識も蓄えている小規模店は生き延びていますので、消費者としても、商店にどんどん質問して、相談して、取り寄せてもらうように私はしています。でないと、いざという時に駆けつけてくれる電気屋さんなどがなくなってしまいますのでね。でもネットやモールは便利なのよねえ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 19:01

回答者の中には「豊かさ」を勘違いされておられる人もいますが、


収入、文化的生活レベルは現在の方が良いに間違いありません。
でも生活の困窮した人、生活保護を受ける人は多くなってますね。
昔は貧乏でも楽しく暮らしていました。
家族は大家族、近所の人も仲良く、学校も先生は尊敬できる人、
会社も上司は部下思いの人、商店は元気の良い店員さんが楽しく
挨拶しお客さんとコミニケーション取って買い物も楽しく・・・
これが豊かな文化です。
今はどこにいってもパワハラ、イジメ、傍観者の貧しい文化世界。
世界で一番豊かな国はどこか知ってますか?
お金じゃ無いですよ。心が豊かでなくちゃ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 18:57

>1980年の方が今より豊かで文化的な生活が出来ていたのでしょうか?


いえ、そんなことはまったくありません。「豊かさ」でいえば、今のほうが全然うえです。

1980年代を考える時には、その前を見ないといけません。
1980年代は70年代のオイルショックを技術で克服し、その技術が日本の経済を押し上げた時代になります。ジャパンアズナンバーワンと言われて、バブルが起き、1990年代初頭に弾けるまで、一直線に経済状況がよくなった時代だったのです。

問題は「豊かさ」の指標です。
 日本は、戦後何もない所から復興を余儀なくされています。この復興活動がとりあえず「飯の心配がなくなる」程度になったのが1950年代中盤の朝鮮戦争による特需(神武景気)です。次がテレビなどの三種の神器と呼ばれた家電化とマイカー所有で、大体1970年代初頭までにこれが達成されました。

で、このまま「豊かになる」と思っていた日本人をどん底に陥れたのがオイルショックです。
このオイルショックを克服し、どんどん「モノが豊かになる」という経験をしたのが1980年代のことになります。

この時代までの消費者の気持ちで重要なのは「欲しいものがいっぱいある」ということでした。テレビも車もありとあらゆるものが、どんどん進化して良くなっていった時代で、最新型をもっている、というのはそれだけで自慢でした。

これを「豊かさの指標」とするなら、現代は「ほしいものがない」時代ですから昭和のほうが豊かであったといえるでしょう。
実際に、ご提示いただいた写真もほとんどが「物欲をあおるイベント」であるわけです。
たとえば当時のくじ引きの特賞とされたのは
・カラーテレビ
・海外旅行
などでしょう。どれも庶民が憧れ「欲しい」と思っていたものばかりです。

現在では40型の液晶テレビが5万円で買えます。海外旅行も安ければ5万円程度で行けます。LCCを使えば海外でも往復2万円を切ることもできます。
 確実に「物欲」は安い金額で手に入れることができるようになったのです。

そして、80年代の人が「欲しい」と思っていたものは、今の人はほとんど持っています。ご存知ない方も多いと思いますが、エアコンだって80年代は電車にさえない車両も多く、学校なんて冷房は夢のまた夢だったのです。車だって80年代初頭の車はエアコンがないものもまだありましたね。

今は全車冷房・学校も空調付きで快適です。家庭だって、各部屋にエアコンがついていても不思議はないでしょう。

たしかにここ最近、賃金が伸びず、物価は上がっているので購買力が落ちてきているのは確かですが、それでも80年代に欲しかったものは「全部買える」のです。それは値段が安くなったからです。

ですから、物欲を刺激するものがないので「豊かさ」を実感できないのです。でも確実に80年代よりも今のほうがゆたかです。

その証拠に「物欲を刺激する何か」があればものが売れます。たとえばカールの生産中止や、その前のポテトチップス品薄でカールやポテチが飛ぶように売れました。一説によると、10万円の値がついたものですら売れたそうです。

80年代は「モノに対する飢餓感」があったから活気があったのです。今は「飢餓感」を刺激すればカールのように売れますが、ほとんどのものはあふれているので、活気が無いようにみえるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 18:55

なんでもネットで事が足りるようになったからね。


通信販売なんて、ほんの一部の商売だったし。
不便の中に快適さを求めてたから。
スーパーマリオブラザーズの開発秘話なんて面白いよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 18:55

同じような思いをする人は世界的にも居て、彼らはその理由を都市デザインに応用しています。

最近の都市デザインのトレンドとしてもてはやされているのが”歩きやすい都市”というやつです。

20世紀の都市デザインは、住居区・商業区・工業区に分けて、それぞれを幹線道路などの大動脈で繋ぐというものです。これにより人々は住居区から商業区や工業区に働きに行ったり買い物に行ったりしなければならず、トラフィックの増大を招いたわけです。

歩きやすい都市というのは、上記の区画が入り混じった都市です。歩いて行ける範囲に働くところも買い物をするところもあるってやつです。
昭和の商店街ってキーワードも、この歩いて買い物に行く都市というところにあたるのではないでしょうか。

実は東京は、20世紀に開発が進まなかったところがあって、結構このようなごちゃごちゃしたところが残っている都市だと私は思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2017/06/27 18:55

私見ですが。



今現在、私が生活している社会は、インターネットやライフラインを始め、とても便利になったと言えるでしょう。電話をすれば宅配してもらい、様々な食物が食べられ、何か足らないと思ったら近くの行き、簡単に手に入ります。
その為、近所同士で助け合う必要がなくなってしまいました。

昭和の時代は、24時間営業は珍しく、何か足らない貰いに行き、余り物がでたら近所におすそ分けをして、とても密な関係を構築していたわけでです。
そういった密な関係を築く必要がない現代では、活気というよりはいかに便利か求めます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
つまり、昔は不便だが活気があり、今は便利だが活気はないと

お礼日時:2017/06/10 10:49

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これですね。
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20170525k0000m010021000c.html

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Q日本で奴隷制が発達しなかったのはなぜですか?

欧米の歴史を見ると、古代から中世はスラブ人やアラブ人、近代は黒人を奴隷として大規模に酷使していました。

一方、日本の歴史を見たら、人身売買は皆無でなかったもののいずれも小規模なものに留まり、また他民族・他人種を奴隷にするという発想もなかったようですが、それは何故でしょうか?

Aベストアンサー

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

奴隷制の始まりは「異民族を支配すること」に端を発します。ユーラシア大陸は様々な民族が隣り合って住んで居るのが普通で、その間で戦争が起こり、一方が勝つと最初の頃は負けた民族を皆殺し、にしていたようです。しかし、時代が下って農業生産力が上がって養える人口に余裕が生まれたこと、鉄器などの生産などに労働力が必要になった事、などから、次第に負けた民族を「奴隷」として使うようになります。
 また、様々な民族を横断して必要なものを流通させた商人たちは、戦勝民族から敗戦側の人々を買い取り、その他の必要とする民族や都市などに売るようになりました。

たとえば、ある民族が負けると、王様と王妃は殺されるのが普通でしたが、政府の官僚や軍人、学者などは知識があるので、他の地域で高く売れたので儲かったのです。
ユーラシア大陸における「奴隷」は基本的に、その体を誰かの所有にする、ということであり、現代でもISISなどが行っている奴隷売買はほとんど同じ形を取っています。

日本は、たしかに魏志倭人伝の時代などは大陸との交易のために、奴隷を送っていました。この時代の奴隷は大陸一般の奴隷制度とほとんど同じだったといえるでしょう。なぜなら、魏志倭人伝の時代の日本は、大陸同様、豪族が別の豪族と戦って、負けたほうを皆殺しにするような時代だったからです。なぜ皆殺しにするかというと、土地の生産性が低く、負けた側の人口を養う余裕がなかったからです。

これが変わったのが大宝律令以後になります。律令は、すべての人民に口分田を与えて、国民として処遇したからです。もっとも律令制には奴婢制度と呼ばれる奴隷制度がありましたが、持統天皇が一度禁止したりして、だんだんに大陸型の奴隷制度からは乖離していきます。

この奴婢制度が完全に崩壊したのが、平安中期で私田制度による律令制の崩壊とともに奴婢制度は廃止されます。

鎌倉時代になると、人身売買は再度禁止されます。奴婢制度はすでにないはずなのですが、借金などで奴隷状態になっているものは常に居たため、それを売買することが何度となく禁止されたのです。

ただ、この時に注意が必要のは、日本の人身売買は「借金」の問題であって、人種とか敗戦民族などではなく、すべて日本国民だった、ということです。この「日本国内での日本人による日本人の売買」というのが、その後の性格を決定します。なぜそうなったかというと、日本が外国とほとんど交流をしなかったからです。逆に室町期など外国と交流が増えると、大陸式の人身売買も増えていきました。

次の転機は戦国時代になります。
豊臣秀吉が南蛮貿易での人身売買に怒ったのは有名ですが、なぜ怒ったかというと、商習慣が違ってトラブルになったからです。
なにがちがったかというと、値段と条件です。大陸の奴隷制度は「買った人の所有物」であり、家畜と同等です。たとえば農夫レベルを20歳ぐらいで購入したとすると、後20年ぐらいは使役できるわけですから、値段もその金額で計算されます。
学者や職人など付加価値があれば、それを得てもたらされる利益も上乗せされるのが普通でした。

しかし、日本は何度となく奴隷が禁止されていましたので、事実上「借金の負債分の拘束」でしかなかったのです。そのため、売買金額は背負っている借金と同額でしたので、基本的には欧米の奴隷書価格の半分から1/3という値段であったと言われています。

貿易で来た奴隷商人は、当然ですが日本でも奴隷を買おうとします。日本の奴隷商人は大陸の奴隷制度を知りませんから、日本の取引価格で提示します。多少上乗せしたとしても、一般的な価格よりも大幅に安かったのです。

そのため、戦国時代はものすごい数の奴隷が海外に売られていったとされています。同時に、売春婦や傭兵なども商人と一緒に答案アジアまで行き、日本人街ができる都市もあったようです。

さて、豊臣が政権を担っていた時期に、奴隷で売られた日本人が戻ってきます。そして秀吉に「約束が違う」と訴えるわけです。本人としてみれば「借金の方」に売られたはずなのに、実際に現地についてみれば「他人の所有物」として一生を拘束されていたわけです。

実際天正十年(1582年)にローマに派遣された少年使節団も
『実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』
と書かれています。世界的に見て非常に安値で買われたのは、制度そのものが違ったからです。


これを知った秀吉は、キリスト教宣教師にこう詰問します。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」

なぜ秀吉が「すべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ」と言えたのか、というとすでに当時の日本では原則的には奴隷制度が存在せず、拘束し使役を強制できるのは「借金の分だけ」とされていたからです。ですから、借金分を返し終えた日本人はすべて帰国できるのが、日本の制度として正しい、わけで、だからこそ、秀吉は「予はそれに費やした銀子を支払うであろう」と言っているのです。

秀吉が愛国者であり、日本人が売られるのが我慢できなかった、とか宣教師が好き勝手やって怒った、という説がたくさんありますが、実際には「日本の人身売買制度を誤用して、安い値段で買いたたいて、だまして外国に連れていった」という日本の法規を危うくする状態だったから、これを正そうとしたのです。

これが江戸時代になって、年季奉公が許されるひとつの法理になっていきます。江戸時代は、人身を他人の所有物とする奴隷は禁止でありましたが、借金の返済のために自由を拘束されるのは合法だったからです。

現代でも日本が「人身売買が行われている国」に指定されるのは、このような「借金のカタ」という考え方が生きているからです。

で、ここから先は推測なのですが、
どうも古来から、日本人は騎馬民族の文化を忌避する傾向が強いように思います。
律令制度を取り入れた時も結局「宦官」は受け入れませんでした。宦官は自分の一物を切り落として官僚になる方法で、中国では一般的でしたし、古代のエジプトなどからアジアには普遍的な制度でありました。

この宦官は、馬の去勢からヒントを得ているもので(牡馬を去勢しないと荒っぽすぎて人間が制御できない)、人間を家畜として扱う奴隷制度も、非常によく似た側面を持ちます。ローマ時代の農業経営指南書には「牛・馬に投資すべきか、奴隷に費用を使うほうが採算性が高いか」ということが論じられているぐらいです。

このような「人間を家畜」として扱う奴隷制度は、少なくとも日本という国号になってからは存在が消えていくのです(奴隷を禁止した持統天皇の在位期間と日本という国号を使用した史実の時期は一致します)

どうも、農業文化を主体とする日本人は騎馬民族の血なまぐさい生き物の扱い方を嫌ったように思います。そして、日本の土地が個人所有になるにつれて、個人を他人の所有物とする法理は成り立たなくなっていくわけです。

逆に、外国との接点もほとんどありませんから、外国の奴隷を受け入れることもないし、日本の制度から言えば「いや、あなたの所有物ですよ」と言われても処遇に困るでしょう。

良くも悪くもいったん律令で人民が一律に国民として権利が与えられた後は、比較的フラットな階層構造であった日本では「公家も武士も農民も元はみな同じ」という考えが根付いていて、外国との戦争を経験していませんから、大陸式の奴隷制度を知ることも無かったのだと思います。

実は日本に大陸型の奴隷制がなかったであろう、証左はもうひとつあります。それは明治時代の四民平等です。
封建的な制度を廃止したものですが、それ以後日本では不思議なぐらい階級差がなくなっていきます。アメリカなんてあれだけ新しい国なのにいまだに人種問題や奴隷問題に苦しんでいるのに、日本ではそういうことがないのです。

これはすなわち「奴隷のような断絶を生む階級制度がそもそもなかった」ということだと思います。

ということで、日本には大陸型の奴隷制度はなかったのです。

奴隷制についてはかなり研究しました。日本で諸外国のような奴隷制が発展しなかった理由は主に4つあります。

・日本が島国で異民族との戦争・侵入をほとんど経験していないから
・日本は大宝律令の時代にほぼ現代に匹敵する統一国家を作り上げたから
・律令時代を結果的に終わらせた墾田永年私財法によって、土地所有権がすべての個人に認められたから
・日本は近代まで騎馬民族の文化などを拒否したから

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Q原爆投下後、何故黒い雨が降ったのでしょうか?

原爆投下後、何故黒い雨が降ったのでしょうか?

Aベストアンサー

雨になるために、大気から雲が生成される過程で
水蒸気から水滴に凝結するとき、
核になるものを「凝結核」と言います。
通常ならば、大気中ある凝結核となるもの(エアロゾル)には
波の飛沫や海面にある気泡の破裂などによる海塩粒子や
火山ガスに含まれる硫化水素や二酸化硫黄などとともに、
風によって地上にあるものが舞い上がったものがあります。
つまり、ほこりと水分が多いほど凝結することで
雨が降りやすくなります。
これを応用して、ドライアイスやヨウ化銀を散布して
人工降雨を起こすなどの研究がされていました。
北京五輪の時、中国が開会式当日にヨウ化銀を含む
ロケットを打ち上げて強制的に晴れさせたのも
この応用だそうです。



原子爆弾の投下によって、大量の粉塵が舞い上がり、
高温によって水分が気化して大量の水蒸気が発生します。
このことで、大量の凝結核と水分という条件が整い、
雨が降りやすくなります。
特にこの場合の凝結核は粒子が大きいものが多いため、
比較的短時間で雨が降りやすくなります。
雨が黒いのも、凝結核が大きいためです。


ちなみに、このような現象は通常爆撃や大規模な山火事
火山活動でも起こることがあります。
この時にできる雲を火災積雲といいます。
大空襲があった直後はよく黒い雨が降ったそうで、
映画「火垂るの墓」で空襲直後に雨が降って、
節子の左目に入ってから目が痛いといったのは
凝結核の物質によるものと考えられます。



原子爆弾の場合、舞い上がった粉塵には大量の放射性物質が
含まれているので、黒い雨による被ばくが問題視されました。
また、原子爆弾の強烈な衝撃で巻き上げられた水蒸気は
高高度まで達したため、冷却が進んでいたので、
冷たい雨になったそうです。

雨になるために、大気から雲が生成される過程で
水蒸気から水滴に凝結するとき、
核になるものを「凝結核」と言います。
通常ならば、大気中ある凝結核となるもの(エアロゾル)には
波の飛沫や海面にある気泡の破裂などによる海塩粒子や
火山ガスに含まれる硫化水素や二酸化硫黄などとともに、
風によって地上にあるものが舞い上がったものがあります。
つまり、ほこりと水分が多いほど凝結することで
雨が降りやすくなります。
これを応用して、ドライアイスやヨウ化銀を散布して
人工降雨を起こすなどの研究が...続きを読む

Qなぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も

なぜ昔の都?が置かれた場所に、港町が少ないのでしょうか? 京都も奈良も、九州の大宰府も安芸国の西条も、海と接していません 貿易や輸送の観点からいくと海辺が有利で発展しやすいと思うのですが… 古代の日本人はなぜあえて山の中に中心部を置いたのでしょうか??

Aベストアンサー

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑は、つまり、高所にある水源から、低地にある畑にむけて水路を作れば、勝手に流れていくわけですが、
排水は、低地の畑から水をくみ上げないといけません。
また、灌漑は、1ヶ所にある水源から、多数にある畑に水を配るものですが、
排水は、多数の畑から余分な水を集めてきて、1ヶ所にまとめて捨てなければいけません。
いずれにせよ、排水は灌漑に比べて大変です。

歴史上、大規模な灌漑システムは古代文明の時代からありますが、
大規模な排水システムができたのは、16世紀くらいのオランダ(風車を利用したシステム)が最初です。それまで、大規模な排水システムというのは、世界中どこにもありませんでした。

四大文明(エジプト、メソポタミア、中国、インダス)は、みな、
基本的には乾燥している(排水の心配をする必要がない)土地で、水の供給(灌漑)のみを考えればよい、という土地で発展しています。

日本でも同様で、例えば、各地の府中と呼ばれる町の多くは、排水の心配をあまりしなくてよい、川の中流域の扇状地が多いです。
また、耕作が大変そうな山奥に棚田があったりするのも、棚田であれば排水が簡単(弁を開ければ余分な水は勝手に流れていく)だからです。

治水や排水の能力がない時代には、川の下流域は沼地として放置されていたか、そうでなくても、たびたび洪水になって多数の人が住んだり大規模に耕作するのにむいていないからです。
排水能力がなければ、ひとたび洪水になれば、自然に水がひくまで待つことしかできませんから、多人数が定住するような「都」は作れないです。

耕作したり人が住んだりするには、水を供給する(灌漑)と、多すぎる水を排出する(排水)、の2つがセットで必要です。
このうち、排水は灌漑に比べて技術的に圧倒的に難しいです。
灌漑...続きを読む

Q外国でも伊能忠敬のように歩いて地図を作ったのですか?

江戸時代に日本中を歩き回って測量し、精確な日本地図を作ったのが伊能忠敬です。同じように外国の地図も各国の測量士が世界中を歩き回って作ったのですか?

Aベストアンサー

>伊能忠敬って別にすごい人じゃないんですね。

いや、すごい人ですよ。
鎖国してるなかで、英国の主要三角測量と、ほぼ同時期に作成してますから。

ちなみに、同時期には富山藩の石黒信由、毛利藩の有馬喜惣太なども、伊能と同等な、緻密な地図を作成していますよ。
ただ、基本的に藩内だけなのでネームバリューがないのです。

伊能が富山に行った時には、石黒信由と情報の交換なんかもやってますよ。

Q日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは? まず日本書記の作者が朝鮮半

日本書紀は日本の最古の歴史を語る本ですが作られたのは意外に最近なのでは?

まず日本書記の作者が朝鮮半島の陰陽の陰陽の概念を日本書記の文中に取り入れているので朝鮮半島に儒教が存在している時代に書かれていると思われる。

日本書記の作者は朝鮮人だったのでは?

あと書かれた時代の日本最古の時代に作られた歴史書じゃないと思う。

あと天照大神はなぜ色んな言い方があるのですか?

日本書記は天照大神のことを大日めの貴と言っていますよね?他の書も天照大神のことを別に名前で呼んでたりします。なぜ色々な名前があるのですか?

Aベストアンサー

日本書紀の編纂責任者は天武天皇の息子舎人親王(676-735)ゆえ朝鮮人ではない。 編纂メンバーに朝鮮人が加わっていた可能性は排除できないが。 我が国の正史(国の定めた正式な歴史書)という意味では、「日本書紀」(720)が確実に最古だけど、単に歴史を書いた書という意味では、「古事記」(712)の方が古い。 ただし、古事記以前に「帝紀」や「旧辞」と言った歴史書が存在していた記録はあるが、今は散逸して存在していない。

Q元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

元号と西暦は同日でもどうして一月程の差があるのですか?

また過去に元号の日付で起こった出来事(例えば戦争や天災)は

今の現実には西暦の日付に起こったと言う事でしょうか?

また明治時代近辺で、調整されてる様ですが、何がきっかけで

そうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
暦法とは、いつを1年の始まりにして、月をどうして、といったことを決めているものです。地球の文明のすべての暦に”月”があるのは、ある意味不思議でもありますが、”年”より”月”のほうが身近だったようで”月”から決められることも多かったです。太陰暦と呼ばれます。すぐに”年”の周期にも気づきますので、月ベースで年を決めるのが太陰太陽暦、年ベースに月を割り振るのが太陽暦です。
太陽暦も古くエジプトで紀元前何年だったか忘れましたが採用されている例があったと思います。今の西暦と呼ばれるものも太陽暦ですね。ローマの暦が元になっていますが謎な部分も多いです、カエサルなんかも確か大改革をやってたりします、調べてみるのも面白いと思います。
太陰太陽暦は中国で長らく使われており、これが日本にも入ってきて江戸時代まで使われていました。1年の春分・夏至・秋分・冬至を基準に24分割して、冬至と春分の丁度真ん中を年の替わりとしますが(実際は冬至を11月として1月を決めてたらしい)、月の満ち欠けベースで日にちをカウントするので、1月1日はいつも新月です。中国では国としては西暦を使っていますが、人々は昔から長らく使われてきた太陰太陽暦を元に新年を祝ったりします。これは西暦が人為的に決めたものに対して、太陰太陽暦が月や太陽の運行といった自然を元に決められているものであることも、その理由にあると思います。

紀年法は暦法とよく混同されますが、今年が何年というのをどこを基準に数えているかというのを決めているものです。西暦はキリストの誕生年であることが有名ですね(算出を間違えていることでも有名ですが)。上記のローマの暦は、もちろんキリスト誕生前、つまり紀元前から使われています。当時はローマ暦で、基準は知らないですが、執政官か何かを基準に〇〇何年みたいな感じで、しかも干支のように何年かで元に戻るので研究者では記録が1周期前か後かで論争になってたりもするようですが、それはともかく、暦法で書いたローマの暦と紀年法としてのローマ暦を混同しないでください。暦法としてのローマの暦はずっと使い続けられ、10世紀ころからキリスト誕生年基準の西暦という紀年法が広まって今の西暦となっています。

昔の日付については、当時その場所(国)で使われていた月日に、西暦に直した年で記述するのが一般的です。例えば元旦の出来事を西暦の月日に直すと、2月の何でもない日の出来事になってしまって訳が分からなくなることもあるためです。


ざっとさわりですが。
あと日本に西暦が導入されたときの混乱の話とか、たぶん他の人が面白く書いてくれると思うので任せます(あるいは自分で調べてみてください)。

もう少し、暦全般について調べたほうが良さそうですよ。興味があるなら、なおさら色々と知れて面白いと思います。

基本的に暦には、暦法と紀年法があります。
暦法とは、いつを1年の始まりにして、月をどうして、といったことを決めているものです。地球の文明のすべての暦に”月”があるのは、ある意味不思議でもありますが、”年”より”月”のほうが身近だったようで”月”から決められることも多かったです。太陰暦と呼ばれます。すぐに”年”の周期にも気づきますので、月ベースで年を決めるのが太陰太陽暦、年ベース...続きを読む

Q戦後、社会主義国家が世界中に成立したのは何故でしょうか?

ソ連の崩壊を以て、社会主義は資本主義に負けたと言われますが、第二次世界大戦の後に、世界中で社会主義国家が成立し、完全な資本主義国と言えるのはアメリカと西欧と日本だけになりました。

70年前にソ連の周辺国を始めとして世界のあらゆる場所で社会主義国が成立し、中国やベトナム、キューバでは資本主義が社会主義に敗退する結果になったのは何故なのでしょうか。

Aベストアンサー

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る人を優先する「資本主義社会」への変革を推進したからです。

資本主義社会は階級にかかわらず「資本を持っていれば自由に経済活動ができる」ことを要求し、その結果として富の再分配システムでもある政治システムが民主主義(多数決主義)に変わることを推し進めたからです。

しかし、主に19世紀の資本主義への変革は農民を労働者に変えただけで、君主による搾取よりもひどく、再分配システムはうまく機能していませんでした。また民主主義社会への転換は革命によるものでしたので「革命的手法による民衆の幸福の追求」は権利とされていて、そこにマルクス=レーニン主義が入って、1917年のソビエト革命につながっていくわけです。
これにより、ロシアとその周辺地域は社会主義的な体制になっていきます。

重要なのは、20世紀の初頭、第2次世界大戦までは意外に共産主義がうまく機能したことです。理由は様々ですが、現代ほどには自由経済ではなかったし、農民を労働者に変化させる工業化も各国で中途半端だったために「モノを作って生活を成り立たせる」ということが資本主義でも共産主義でもあまり違いが出なかった、からでしょう。
生産性に違いが無いなら、共産主義的な労働のありかたも一定の評価を受けていたのです。

ですから第2次大戦前の共産主義国は非常に強大な経済力も、人民動員力もあり、近代国家としてかなりの力をもっていたのです。そのため、ソ連は多くの国へ共産主義を広げる機会を狙っており、中国でも毛沢東の人民解放軍はソ連から軍事的援助をもらっていました。

第2次世界大戦の結果は誰でもご存知だと思いますが、ここで問題なのは「西側諸国の荒廃」と「日本の敗戦」です。
日本が敗戦したことにより、ソ連は朝鮮半島に容易に進出し、中国も人民解放軍が優勢になって手本主義側である国民党軍を大陸から追い出すことに成功しています。

つまり日本が抑えていたアジア大陸の共産化に歯止めが効かなくなり、結果としてアメリカは朝鮮戦争・ベトナム戦争とアジアの共産化に対応することに迫られることになるわけです。

同様に、それまで植民地支配していたヨーロッパ各国も戦争で荒廃したため、植民地統治能力を失い、各地で植民地が独立していきます。イギリスはインドを失いますが、この地域はソ連から見ても中国から見ても中央アジア山脈が邪魔をしているので、共産化には至りませんでしたが、中国大陸と接していたベトナム、ラオス、カンボジアは日本撤退とフランス再統治に反対してインドシナ戦争を行い、その結果フランスが撤退すると、今度は民主主義国か共産主義国かで独立のための指導権争いを行い、激しい内戦に突入していきます。

同様に、ヨーロッパでも第一大戦の結果ドイツの敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が弱体化し、事実上この地域がヨーロッパを共産主義から守ってきた地域だったため、この辺りの国はドイツとソ連で分割されるか、独立時に共産主義政府が樹立されることが多くなり、ナチスドイツの侵攻の結果一時的に王国に戻ったり、明主義勢力がもりかえしたものの、ナチスドイツの敗戦とともに多くの国がソ連の永世国家になっていきます。このように衛星国になったヨーロッパの国を東欧というわけです。


第二次大戦後、なぜ社会主義国が生まれたかというと、その地域を支配していた日本や西洋国という植民地支配国家が撤退し、権力の空白、無政府状態が現れたからです。日本やドイツは占領されなすすべがありませんでしたし、ドイツはソ連に分割統治までされています。

日本国土は、ドイツ分割を反省したアメリカのおかげで分割されることはありませんでしたが、その代り日本が撤退して権力の空白ができた朝鮮半島にソ連がすかさず入って、傀儡国家である北朝鮮を作ってしまいました。

東欧にしてもアジアにしても、日本と戦った地域の西洋国はその後の独立機運を抑えるほどの国力をすでに持っていなかったので、各地が独立し、結果としてソ連から多大な支援を受けた共産勢力が優勢な状態であったといえます。
もっともカンボジアなどはタイが共産国を嫌ったこと(王国なので危機感を持った)、イギリスやアメリカなども積極的に民主勢力を支援したことなどから、逆に激しい内戦を呼んでしまいます。

ベトナムに至っては、大戦中ホー・チ・ミンはアメリカからも援助をもらっており、戦後の独立処理で共産主義の対立の時にアメリカがあまりにも主権を侵しすぎたので、ベトナム戦争になっていくのです。結果アメリカは負け、ホー・チ・ミンですら共産主義をえらんだわけです。

結局第2次世界大戦でアメリカを除いた資本主義国が疲弊し、植民地の支配ができなくなり独立機運の高まりに共産国が援助したことが大きな理由であり、当時のソ連はアメリカと宇宙開発競争ができるぐらい、経済に余裕のある国であったわけです。またソ連は地上を移動するだけでの軍事援助など各国に影響を及ぼすことができますが、アメリカは本国から船で移動しないと影響力を行使できず、それが結局朝鮮戦争での苦難・ベトナム戦争の敗北につながっていくのです。

第2次世界大戦前は、西洋と米ソ、そして日本しか独立国はありませんでしたから、戦争終結で起きた権力の空白が当時強大だったソ連の台頭を許すことになったのです。

理由は「植民地支配から独立する時に左翼主義者を共産国が応援したから」です。

フランス革命とアメリカ独立はどちらも18世紀後半のことですが、この後ヨーロッパは20世紀初頭にかけて、民主主義革命が相次ぎます。もっともこれには立憲君主制も含みますが、今までの絶対君主制が崩壊していくわけです。
 
これがヨーロッパで進んだ背景にはイギリスの産業革命の影響もあります。産業革命は農本主義とイコールだった絶対君主制に風穴をあけ「資本を投下する自由」ということで、階級社会よりも資本を持って居る...続きを読む


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