この人頭いいなと思ったエピソード

哲学は 世界のあらゆるものごとについて・そしてあるいはこの神のごとく

世界を超えるものについても 認識をほどこし 交通整理役を買って出ます。

神の定義は 既成のものは おそらくふるくなっているでしょう。

可知(既知および未知)でないことは分かっていますが しばしば言われて

いる不可知でないことも 容易に分かるはずです。

人間には知り得ないという不可知だとは 言い切れない。なぜなら 知り得

ると証明し得ないのと同じく 知り得ないとも証明できないからです。

ゆえに 非知だと仮説しますが ほかに定義はありましょうか?

質問者からの補足コメント

  • ★ 明らかにするってどういうこと?
    ☆ この意味が採れなかったかも知れません。

    何を言っていましょうか?

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/26 11:02
  • 特殊絶対性理論(1)

    われが個別に神をいだくとき その神は 人それぞれであり 主観ごとに異
    なるとみられる。つまり 同じだとは言い切れない。

    ところが一般絶対性として どの神も 名が違うだけで普遍神であるとすれ
    ばその限りで 個別の神それぞれも けっきょくは普遍神のことだと捉えら
    れる。そうでないと言う根拠は見当たらない。

    この個別の絶対性においてさらにわれは 神を見たとか神の声を聞いたとい
    った具体的な神体験を語ることがある。神は無いとさとったという体験もあ
    る。

    神は 非知ゆえ この特殊な体験〔としての主観〕についてそれを否定し得
    る根拠は見出せない。

    ただし この場合は そのひとつの主観の内部においてのみ みとめられる。
    そういう意味での特殊絶対性であり得る。

    主観の外に出得たとすれば それは その神を人知で知り得た〔ゆえ その
    認識を外に出した〕ことになる。

      補足日時:2017/06/28 20:11
  • 特殊絶対性理論(2)

    特殊絶対性とは けっきょく 神とわれとのカカハリについて あたかもそ
    れが連続していると想定する場合だとも考えられる。

    非経験の場なる神と経験存在なるわれとは 絶対のへだたりがあるけれど
    この特殊絶対性が成り立つと見るかぎりで――その絶対性のほうからのはた
    らきかけとして―― 直接のカカハリなのだと或る主観が語った場合 それ
    を否定する謂われはなくなる。

    神の声を聞いたという特殊絶対性なる体験が その聞いたという内容におい
    てあたかも摂理を構成するのだと或る主観は 語ることがあり得る。

    つまり 神とわれとのカカハリにかんする連続説とは 特殊絶対性としての
    主観内体験のことだと帰結される。

    ただし・いかんせん この摂理説は 或るわれの主観内部におさまるもので
    ある。

    その特殊絶対性たるヒラメキを 経験合理性にもとづき表現し思想とすれば
    よい。

      補足日時:2017/06/28 20:21

A 回答 (26件中1~10件)

#23です。



1.
>☆ 円周率は 少数点以下のあたいが《限りなく続く》のですが 知ろうと
思えば どこまでも知る(見る)ことができる。のでは?

「円周率」ではなく、「円周率の限り」は知る(見る)ことができない、ということに決まってるでしょうよ。

2.
>ですが これはすでに――分かるか分からないかが分からないナゾだと受け
留めた結果でもあって 要は――《想定》であるということです。

☆’分からないナゾだと受け
留めた結果
とすれば良いだけ。
☆分かるか分からないかが分からないナゾだと受け
留め
る必要はない。

3.
>☆ 話す見るという事例は たとえば《神から直接来ている摂理のチカラが
わが身と心に脈打っていると感じる》といった特殊絶対性をも視野に入れて
います。

そんなことは日常茶飯事、誰にでもある。
特殊なことではないでしょう。
啓二を受けた、突如偶然に閃いた、などなどの 体験をそのように言うだけ。
☆感じる
とは本人しかわからない感覚のことですから、それを四の五の言う筋合いはどこにも誰にも無いわけですから。

>もしこれについて互いにみとめあうことが ふつうすでに《そうなっている》
と言うのであれば 《神を見たよ》とか《神なんてあるわけない》とかの主
観を その主観の範囲内でみとめるということです。上の(1)などの物言
いは矛盾しています。

認めていない、ということですか?
《神を見たよ》という人が逮捕されるわけじゃないでしょう。
ただ、他者に対する優位を示す意図で、そのようにノタマウ方がたまにおられますので、その場合は、単純に認めるという形になるのは難しくなると思います。

4.
>★ 「人知のおよばない何か」という《知の対象》だ、と申し上げている。
☆ 《言葉≒概念としては神は 人知として扱われているが 神じたいは 
人知を超えている》というこちらの言い分をみとめないところから この
やり取りが始まっています。

曲解ですね。
☆ 説明のしようがなくなりますが 《言葉≒概念として神を認識し人知として
捉えた》としても 《人知を超えた神》は その人知〔なる観念〕とは 別です。
という箇所をおっしゃっているのでしょう。
この件は認めていますよ。
ただ、
☆《人知を超えた神》は その人知〔なる観念〕とは 別
という箇所を捉えて非知と言うから、それは違うだろ、と申し上げている。
☆《言葉≒概念として神を認識し人知として捉えた》
のだから、すでに非知とは呼べない。
ということ。

5.
>☆ 《無限》は 人間のこしらえたものですか? と問い続けています。

無限そのものは当然違いますよね。
しかし、そうした概念があるからこそ、そうした言葉が生まれた(言葉を人間がこしらえた)わけでしょう。

6.
>★ 現に、
☆☆ 非知なる神
★ と神に対して形容しているじゃありませんか。
☆☆ 人間の思考や想像の産物
★ ですよね?
☆ ぢゃあ そうしましょう。

同意する、という意味ですか?
それとも見解の相違と判断する、という意味ですか?
はっきりしてください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.

★ 「円周率」ではなく、「円周率の限り」は知る(見る)ことができない、
ということに決まってるでしょうよ。
☆ そういう問題ではありません。見ることができる場合にも 無限(可能無
限)であり得る。見ることが出来ても 非知としての無限――つまり 見たと
いう主観とそんなことはあり得んぞと唱える別の主観との両立において――が
成り立ち得るという問題です。

2.

☆’分からないナゾだと受け留めた結果
★ とすれば良いだけ。
☆ ではありません。経験事象の中で《分からないナゾ》と見なす場合もある
からです。


3.
>☆ 話す見るという事例は たとえば《神から直接来ている摂理のチカラが
わが身と心に脈打っていると感じる》といった特殊絶対性をも視野に入れて
います。

★ そんなことは日常茶飯事、誰にでもある。 / 特殊なことではないでしょう。
☆ この場合の《特殊》というのは 個人ごとに異なった体験があり得るとい
う場合の 個別に特殊なその神体験という意味です。




>もしこれについて互いにみとめあうことが ふつうすでに《そうなっている》
と言うのであれば 《神を見たよ》とか《神なんてあるわけない》とかの主
観を その主観の範囲内でみとめるということです。上の(1)などの物言
いは矛盾しています。

★ 認めていない、ということですか?
☆ 論じている主題が別のものに成ってしまっています。先ほどもそうです。



4.

☆☆ 《言葉≒概念として神を認識し人知として捉えた》
★ のだから、すでに非知とは呼べない。
☆ 非知と呼んだものでも 言葉≒概念でそれをシルシとして表わしているので
その言葉≒概念としてなら 《人知》というかたちを採っている。

5.
>☆ 《無限》は 人間のこしらえたものですか? と問い続けています。

★ 無限そのものは当然違いますよね。 / しかし、そうした概念があるからこそ、
そうした言葉が生まれた(言葉を人間がこしらえた)わけでしょう。
☆ 無視します。

6.

☆☆ ぢゃあ そうしましょう。
☆ 取り上げるに足りない議論ですよという意味です。

お礼日時:2017/06/29 23:32

二で割っても三で割っても元のままの無限であるような無限について考えました。

そして、神を感じることは無かったです。

無限は割ることができるの?
 無限を割ることができて、
  二で割ることができるの?
   二で割ることができて、
    割り切れるの?
  三で割ることができるの?
   三で割ることができて、
    割り切れるの?
     割り切れるとして、
      商は整数なの?
       二で割り切れるなら、無限は二の倍数です。
       三で割り切れるなら、無限は三の倍数です。
       二でも三でも割り切れるなら無限は六の倍数です。
     割り切れないとして
      余りはどうなるの?
       二で割って、余り一、三で割って余り一
       二で割り切れて、  三で割って余り二
       二で割って、余り一、三で割り切れる
       二で割り切れて、  三で割って余り一
       二で割って、余り一、三で割って余り二
       二で割っても、三で割っても余りが小数
       の6パターンあります。
最上位の桁に二がいくつあるか、または、三がいくつあるかを考えましたが最上位の桁の数が分かりません。割り算が完了しないです。

No.25の直感として、質問者が回答者をごまかそうとしているように感じています。
どういう風にごまかそうとしているかというと、無限は三で割っても元のままの無限であることの妥当性を、数、割り算、計算、数学の妥当性と同等であるとすり替えています。さらに、その妥当性を質問者の神の妥当性と同等であると不当に主張しています。
質問者は数、割り算、計算、数学を権威として使い、無限を仲介して質問者の神の妥当性を不当に主張しています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

無限についての加減乗除は 決まっています。


神が この無限という概念(?)をとおして説明され得ますよと言って
います。

★ 不当に
☆ について説明を願います。

お礼日時:2017/06/29 21:06

#23からの続きです。



3.
>☆☆ その人知〔なる観念〕とは 別
★ といった評価自体が、すでに知の対象となっているのですから、「知に
非ず」とは言えないでしょう?
☆ では 神は 《知の対象》であるのですか? つまり 人知のおよぶ何
かなのですか?

まったく理解していただいてないようです。
「人知のおよばない何か」という《知の対象》だ、と申し上げている。
《知の対象》であるから人知が及ぶはずだ、というのは、bragelloneさんらしからぬ短絡さですね。

4.
>☆ 《非知なる神は 人知のおよぶ何かでなく 人間の思考や想像の産物で
はない》と捉えてください。

☆人知のおよぶ何かでなく
はわかります。
☆人間の思考や想像の産物ではない
はわかりません。
現に、
☆非知なる神
と神に対して形容しているじゃありませんか。
☆人間の思考や想像の産物
ですよね?
その中身が理解できているかいないか、といった問題とは関係ありませんよ。

5.
>つまり すでに初めに共通の了解事項だったものが ふたたび疑われて来て
いるので 戸惑っているのです。

申し訳ないですが、ちょっと意味がとれませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

3.

★ 「人知のおよばない何か」という《知の対象》だ、と申し上げている。
☆ 《言葉≒概念としては神は 人知として扱われているが 神じたいは 
人知を超えている》というこちらの言い分をみとめないところから この
やり取りが始まっています。


4.

☆☆ 〔神は〕人間の思考や想像の産物ではない
★ はわかりません。
☆ 《無限》は 人間のこしらえたものですか? と問い続けています。


★ 現に、
☆☆ 非知なる神
★ と神に対して形容しているじゃありませんか。
☆☆ 人間の思考や想像の産物
★ ですよね?
☆ ぢゃあ そうしましょう。

お礼日時:2017/06/29 19:39

#22です。



1.
>[ 無限は ] 見ることが出来ないのではなく 視覚や認識力なる人知を超えているという
のが 答えであるはず。

☆見ることが出来ない
から「限りが無い」と表現するのだと思いますが。
つまり、まず最初に対象があってこその「無限」でしょう。
☆見ることが出来ない
という不可能性(不可知性)が存在してないのに、
☆視覚や認識力なる人知を超えている
という認識が生まれようはないのではないでしょうか。
順序が逆だという気がしますね。

>それに 《摂理》として《神とわれとの関係》は 直接につながっている。
のではなかったのですか?

話したり見たりできるように繋がっているとは言ってなかったと思いますが。
《間接的ではあるが途切れてない程度に》という意味での《直接》だったはずでしょう、記憶違いでなければ。

2.
>これらの神体験についてそれぞれ互いにみとめあうことが 個別絶対性に立
つふつうに自然でかつ社会的な人間存在です。という仮説を問うています。

相手の領域を侵さない限りは、つまり、相手に強要しない限りは、今でもそうなっているのではないですか、よくは知りませんが。

一旦きります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.

☆☆ 見ることが出来ない
★ から「限りが無い」と表現するのだと思いますが。
☆ 円周率は 少数点以下のあたいが《限りなく続く》のですが 知ろうと
思えば どこまでも知る(見る)ことができる。のでは?


★ つまり、まず最初に対象があってこその「無限」でしょう。
☆ 《対象がある》と言うのなら 人知の及ぶ範囲です。


☆☆ 見ることが出来ない
★ という不可能性(不可知性)が存在してないのに、
☆☆ 視覚や認識力なる人知を超えている
★ という認識が生まれようはないのではないでしょうか。 / 順序が逆だと
いう気がしますね。
☆ 《超えている》というのは ふつうの経験事象について言う認識ではあ
りません。

苦肉の策としてのようにわれわれ人間は 《無限》といったような概念(?)
をめぐって 何とかして経験合理性にもとづく理解を得ようとして定義を決
めます。

ですが これはすでに――分かるか分からないかが分からないナゾだと受け
留めた結果でもあって 要は――《想定》であるということです。



☆☆ 《摂理》として《神とわれとの関係》は 
★ 話したり見たりできるように繋がっているとは言ってなかったと思いま
すが。
★ 《間接的ではあるが途切れてない程度に》という意味での《直接》だっ
たはずでしょう、記憶違いでなければ。
☆ 話す見るという事例は たとえば《神から直接来ている摂理のチカラが
わが身と心に脈打っていると感じる》といった特殊絶対性をも視野に入れて
います。



2.
☆☆ これらの神体験についてそれぞれ互いにみとめあうことが 個別絶対
性に立つふつうに自然でかつ社会的な人間存在です。という仮説

★ 相手の領域を侵さない限りは、つまり、相手に強要しない限りは、今で
もそうなっているのではないですか、よくは知りませんが。
☆ ここでの問題は 《神体験》です。そこに焦点を当てての命題であり問
いです。

もしこれについて互いにみとめあうことが ふつうすでに《そうなっている》
と言うのであれば 《神と見たよ》とか《神なんてあるわけない》とかの主
観を その主観の範囲内でみとめるということです。上の(1)などの物言
いは矛盾しています。


★ 一旦きります。
☆ はい。

お礼日時:2017/06/29 19:31

#20です。



1.
>★ その方の意味する神と私の意味する神が異なる
☆ かどうかは分からない。となります。(《意味する》よりは 《言う》のほ
うが ここではふさわしいはずですが)。

いえいえ、
☆分からない
ことはありません。
わたしの場合、神とは見たり話したりすることができない対象ですので。

>言いかえると A が神と呼ぶものを B がそれは わが神と同じであるとも言い切
ることはできない。根拠を示せない。

これは詭弁でしょう。
同じであると言い切るとは誰も言ってないのですから。
少なくとも同じではない、と言ってるだけ。

>互いの神は 互いに――個別の・および体験については特殊の絶対性として――
みとめあう。ことになります。
信教・良心の自由です。

そりゃそうでしょう。
そのことについて、誰が否定しましたか?

2.
>☆ 説明のしようがなくなりますが 《言葉≒概念として神を認識し人知として
捉えた》としても 《人知を超えた神》は その人知〔なる観念〕とは 別です。

☆その人知〔なる観念〕とは 別
といった評価自体が、すでに知の対象となっているのですから、「知に非ず」とは言えないでしょう?
と申し上げている。
いくら「別」と言ったって、「別」と評価してしまった時点で、すでに知の対象になっていますよね。

3.
>★ 「非知なる神」は、
☆☆ 人間の思考や想像の産物
★ じゃないんですか?
☆ 《無限》――つまり非知なる神のひとつの説明概念です――について どう
捉えるか? どうぞお考えください。

反論できなくなったので、論点をすり替えようというわけでしょうか?
上から目線は勘弁してくださいよ。
あなたが講義する場所じゃないんですから。
☆ どう捉えるか? 
☆どうぞお考えください。
ではなく、このように捉えてください、といって解説を施すのが質問者としてのマナーじゃないんですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.

★ わたしの場合、神とは見たり話したりすることができない対象ですので。
☆ ですから あなたは《無限》を見たか? 経験したか? という問いに
答えることが出来たなら その見解は真としてみとめられます。

見ることが出来ないのではなく 視覚や認識力なる人知を超えているという
のが 答えであるはず。

それに 《摂理》として《神とわれとの関係》は 直接につながっている。
のではなかったのですか?



特殊絶対性としては その主観の内面におさまるとする限りで 何でも起き
得ます。

神の霊のちからをわが身に得たとか。つまり わが身は 神の摂理のごとく
秩序を保ち何ごとをもバランスさせるチカラが動いているとか。

そして そんな体験はナンセンスだと見るのも その人の主観としての特殊
絶対性です。

これらの神体験についてそれぞれ互いにみとめあうことが 個別絶対性に立
つふつうに自然でかつ社会的な人間存在です。という仮説を問うています。



2.

☆☆ その人知〔なる観念〕とは 別
★ といった評価自体が、すでに知の対象となっているのですから、「知に
非ず」とは言えないでしょう?
☆ では 神は 《知の対象》であるのですか? つまり 人知のおよぶ何
かなのですか?


3.

☆☆ どう捉えるか? どうぞお考えください。
★ ではなく、このように捉えてください、といって解説を施すのが質問者
としてのマナーじゃないんですか?
☆ 《非知なる神は 人知のおよぶ何かでなく 人間の思考や想像の産物で
はない》と捉えてください。

つまり すでに初めに共通の了解事項だったものが ふたたび疑われて来て
いるので 戸惑っているのです。

お礼日時:2017/06/29 18:40

どの《無限》ですか?

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この回答へのお礼

無限を二で割ったら 答えは いくらになりますか?
三で割ったら どうなりますか?

答えは 半分 ではない。三分の一でもない。元の無限のままです。

の無限です。


ご回答をありがとうございます。


つまり 無限は 非知なる神の説明になります。

無限は 人間の思考や想像の産物か? と問うています。

人間が発見したのでしょうが つくったものではないと。神も同じ
であると。

お礼日時:2017/06/29 07:14

#19です。



1.
>★ 《知り得るかも知れない》場合、あるいは《見た》と言う場合、その時
点で、それは神とは呼べない。
☆ なぜでしょう? 本人は 《神を見た;神と話をした;神からヒラメキ
を得た等々》と言っているわけです。

その方が、
☆《神を見た;神と話をした;神からヒラメキを得た等々》
と言うこと自体は別に自由だ(否定はしない)と申し上げたはずです。
ただ、(私にとって)それは神とは呼べないので、その方の意味する神と私の意味する神が異なるということ。
一方が山について、もう一方が川について言っているのですから、噛み合うはずがありません。

2.
>つまり 神は 人間が これこれの条件のもとになら その神の存在を(あ
るいは非存在を)みとめますよといったふうにして あるものではないから
です。
人間がみとめようが認めまいが 神は 非知なる絶対として想定され 想定
にもとづくかぎりで 人間なるわれにカカハリを持つと考えられます。

無茶苦茶ですね。
おっしゃる内容について、
☆非知なる
なのか、
★不可知な
なのか?
を論じているんじゃなかったんですか?
それ以外の部分を否定しているわけではないのですから、しっかりしてください。

>★ 大事なのは、それが何かを指定することはできない、という点。
☆ というふうに人間が規定する(つまり 限定する)ものではあり得ませ
ん。
規定するのは 人間の自由ですが その人為や人知を もともと神は超えて
います。

いやいや、それはおかしいでしょう。
「神」という言葉は天から降ってきたのですか?

>ですが はっきりとノーです。なぜなら 《非知》と言うなら この非知と
いう言葉≒概念で規定したその内容は それとして人知になりますが 《非
知》は人知を超えていると 初めから条件づけている(定義している)ので
すから。

すり替えは見苦しいですね。
☆概念で規定したその内容
とは神のことですよね。?
そして、その内容は、
☆それとして人知に
なるのでしょ?
☆《非知》は人知を超えていると 初めから条件づけている(定義している)
こと自体を否定しているわけじゃないことぐらい理解できませんかねえ。
つまり、
☆初めから条件づけて
いようが定義していようが、そんなことは何の関係も無い。

3.
>☆ 人間の思考や想像の産物としての――観念としての――神なら そのよ
うに言えます。

それなくしての神という概念が理解できませんので、見解の相違と言わざるを得ませんね。
「非知なる神」は、
☆人間の思考や想像の産物
じゃないんですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.

★ ただ、(私にとって)それは神とは呼べない
☆ とは微妙に違って――非知であるならば―― 《 A にとって神と呼ぶもの》
は B は自分にとって 《神であるかどうかは分からない》と受け留めます。

★ その方の意味する神と私の意味する神が異なる
☆ かどうかは分からない。となります。(《意味する》よりは 《言う》のほ
うが ここではふさわしいはずですが)。

言いかえると A が神と呼ぶものを B がそれは わが神と同じであるとも言い切
ることはできない。根拠を示せない。

互いの神は 互いに――個別の・および体験については特殊の絶対性として――
みとめあう。ことになります。

信教・良心の自由です。


2.

神は:
☆☆ 非知なる
☆ にすでに決まっています。

★ 「神」という言葉は天から降ってきたのですか?
☆ 言葉は人間が見つけたとしても 神を――非知なる神を――発明したわけで
はありません。ましてや人間が存在させたとは まったく言えません。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 >ですが はっきりとノーです。なぜなら 《非知》と言うなら この非知と
 いう言葉≒概念で規定したその内容は それとして人知になりますが 《非知》
 は人知を超えていると 初めから条件づけている(定義している)のですから。

すり替えは見苦しいですね。
☆概念で規定したその内容
とは神のことですよね。?
そして、その内容は、
☆それとして人知に
なるのでしょ?
☆《非知》は人知を超えていると 初めから条件づけている(定義している)
こと自体を否定しているわけじゃないことぐらい理解できませんかねえ。
つまり、
☆初めから条件づけて
いようが定義していようが、そんなことは何の関係も無い。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 説明のしようがなくなりますが 《言葉≒概念として神を認識し人知として
捉えた》としても 《人知を超えた神》は その人知〔なる観念〕とは 別です。

3.

★ 「非知なる神」は、
☆☆ 人間の思考や想像の産物
★ じゃないんですか?
☆ 《無限》――つまり非知なる神のひとつの説明概念です――について どう
捉えるか? どうぞお考えください。

お礼日時:2017/06/28 22:31

#14です。



(い) 《知り得るかも知れないし 知り得ないかも知れない(両方の場合
が 同時に成り立つかたち)》

>つまり こちらの言い分としては (い)をそのまま全体として捉えて欲し
い。のですが?
>すなわち 《神拒否》なる神論と《神見た》神論とは 両立し併存している。
というのが 非知です。

《知り得るかも知れない》場合、あるいは《見た》と言う場合、その時点で、それは神とは呼べない。
こういう立場ですので、
☆(い)をそのまま全体として捉え
るのは無理でしょうね。

ただし、この世界に非知の対象となるような何らかのものがあるだろうことは認めます。
大事なのは、それが何かを指定することはできない、という点。
たとえば、「神は非知」のように「神」と指定してしまった時点で、それはすでに知の対象となっているわけで、知る能わず と言うことはできても、知に非ず とは言えないだろう、ということです。
何らかの概念がまず先に兆した後にひとつの言葉は生まれるわけですから、概念として生じたものについて、知に非ず と言うならそれは論理破綻でしょう、ということでもある。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(い) 《知り得るかも知れないし 知り得ないかも知れない(両方の場合
が 同時に成り立つかたち)》

★ 《知り得るかも知れない》場合、あるいは《見た》と言う場合、その時
点で、それは神とは呼べない。
☆ なぜでしょう? 本人は 《神を見た;神と話をした;神からヒラメキ
を得た等々》と言っているわけです。



★ ただし、この世界に非知の対象となるような何らかのものがあるだろう
ことは認めます。
☆ いいえ。その見方は 神の問題から ほど遠いと考えます。

つまり 神は 人間が これこれの条件のもとになら その神の存在を(あ
るいは非存在を)みとめますよといったふうにして あるものではないから
です。

人間がみとめようが認めまいが 神は 非知なる絶対として想定され 想定
にもとづくかぎりで 人間なるわれにカカハリを持つと考えられます。



ですから:
★ 大事なのは、それが何かを指定することはできない、という点。
☆ というふうに人間が規定する(つまり 限定する)ものではあり得ませ
ん。

規定するのは 人間の自由ですが その人為や人知を もともと神は超えて
います。


★ たとえば、「神は非知」のように「神」と指定してしまった時点で、そ
れはすでに知の対象となっているわけで、知る能わず と言うことはできて
も、知に非ず とは言えないだろう、ということです。
☆ イエス&ノー。

《非知》は 言葉ですから 概念として扱われ得ます。だから そのぶん先
ほどのように《規定し・限定し・むしろ人間が制作している》ことになるの
ではないかと 或る程度は あやぶまれます。だから この限りで イエス
です。

ですが はっきりとノーです。なぜなら 《非知》と言うなら この非知と
いう言葉≒概念で規定したその内容は それとして人知になりますが 《非
知》は人知を超えていると 初めから条件づけている(定義している)ので
すから。


★ 何らかの概念がまず先に兆した後にひとつの言葉は生まれるわけですか
ら、概念として生じたものについて、知に非ず と言うならそれは論理破綻
でしょう、ということでもある。
☆ 人間の思考や想像の産物としての――観念としての――神なら そのよ
うに言えます。

《無限》の事例で考えてください。

お礼日時:2017/06/28 18:28

しかし宇宙の終焉は、人間の仮説で、人間が出来るような事では無いと、思いませんか?

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この回答へのお礼

ううーん。

まづは ご回答をありがとうございます。

ふつうで無難な応答は:

それは 出来ることと出来ないこととがある。

となりましょうね。


ということは:
★ 人間の仮説
☆ でしょうから この仮説についてつねに探究しつづけることに
なるのでしょうね。



ううーん。しゃれた応えができなくて。・・・

さらにお考えを問い求めて行ってくださいませ。(よかったら そ
のときには お知らせください)。

お礼日時:2017/06/28 11:24

なぜ非智か、思いこみですが宇宙は、ビッグクランクか、ビッグリップで終わるか、どちらかに別れています。

全能なる神で、あれば、宇宙の終焉は、無く交通整理を上手くするのでは?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ううーん。

たぶんですが もし:
★ 全能なる神で、あれば
☆ 宇宙やこの世界のことはすべて すでにわれわれ人間にまかせている。
のではないですか?

つまり いまはもうすでにわれわれが:
★ 交通整理
☆ をする番であると。

非知には そういう自由を持たせているといったイメージがあります。ど
うでしょう?

お礼日時:2017/06/28 11:02

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